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一、序曲
1 灰街の狂犬
しおりを挟む「この街は燃えている」
読んでいた小説に、そんな記述があった。その小説とは、あの大災害に関するノンフィクション小説だった。災害によって戦火が放たれている街のことを、そういう風に書いたのであろう。そして、人々の狂乱する様も「こんなに大変なんだ」という啓発の意味を込めてそんな表現をしているのだと思う。
住宅の屋根に座っていた私はそれを、嘲笑するかのようにその場へ放り捨てた。物質としての本は、青く燻る魂の中へ溶けていった。たちまち黒い煤となり、終いには跡形もなくその魂の新たな栄養になったに違いない。
「はっ……。それじゃあここはどうなんだよ」
今度こそ声を出して笑った。あの人気小説家なら、この街をどう表現してくれることやら。きっと街の門を開けただけで、顔を青くして卒倒するだろうな。真っ当に生きてこれた人間は、こんな街と縁もゆかりも無いのだから。
物心ついた時から戦ってしかこなかった教養のない私の、拙い拙ーい語彙力では、見たまましか表せない。この街は──
──灰すら燃える、レーヴェルマキナだ。
『隊長、直前になって申し訳ないですが、現在地付近に間もなく雨雲が発生する予報です。近接戦闘に切り替えますか?』
右耳に付けたイヤーカフから陽太の声が聞こえた。私より五つも年下の可愛い僕ちゃん。本日の作戦の援護をしてもらっている。空を見上げると、曇ってはいるが雲は濃くない。これがこの街の通常の天気だ。しかし陽太が言うのなら間違いない。
「そだねー、私の愛しのカタナンを使っちゃうかー」
私がそう言うと、短く『了解』という声を最後に通信は切れた。律儀だなぁとのんびり思う。
目を瞑り、息を大きく吸い込む。
「レーヴェルマキナ行政特区、A-10。天候、曇りのち雨。気温23℃、湿度73%。対象を確認、作戦17を遂行する」
独り言だ。しかし大きな作戦を始める時のルーティーンとしている。特に意味ないけど、同期の親友がしていてカッコよかったから勝手に拝借している。ちなみにポイントはわざと「レーヴェルマキナ行政特区」と正式名称を言うこと。カッコよさが増して良し。
屋根から飛び降り、本作戦において対象である男の前に登場する。参上、と言いたくなったのは置いといて。
「誰だ、お前!」
つるっパゲの大柄で、全身が分厚い筋肉で覆われているが、その容姿に似つかわしくない驚きようだ。あまりに滑稽で思わず笑ってしまうところだった。ぐっと笑いを噛み殺し、しかし笑顔だけは残して男を見上げた。女の中では高い方の身長も、この大男を前にすると意味を成さない。
「ハロー、私は〈黒犬〉。今から君を殺しちゃうよ~。仲間は呼んでも良いけど、全員殺すからさぁ、やめといた方がいいと思う。死ぬ前に何か言っておきたいこととかある?」
私が〈黒犬〉と名乗った時点で、もう男は生気を完全に無くした虚ろな目に変わっていた。その方がこちらとしても有難いし、作戦も円滑に進む。虚ろな目の男は、ゆっくりと唇を開けた。
「俺は、幼女を犯したこと、後悔してるんだ……。みんな泣いてたんだ。青いリボンが特徴のあの子も、もう毛が生えてるあの子も、みんなみんな……。俺はぁ! ……みんなの名前を呼んでやれなかった。名前、聞いとけば良かったなぁ……。名前を呼んだら、俺のこと愛してくれたかなぁ? お肉を引き裂いて、グッチャグチャの心臓にアソコぶっ挿して、血の代わりに〈規制〉してやっても、あの子たちは赦してくれたかなぁ……?」
男がしようとしているのは、贖罪でもなんでもない。ただ死の淵に追いやられて、罪の独白をして赦しを乞うているのだ。男は泣いていた。泣きながら自慰をしていた。今度は私が生気を無くし、ボーッとそれを見ていた。白濁液が私の膝の辺りにかかる。
慣れ、というものは不思議かつ嫌なもんで、この街にずっといると感覚も鈍ってくる。過去にもっとイカレている奴らを見てきたから、別に〈規制〉されたくらいで我を忘れて狂うということはない。一般人で言うところの、「カレーうどんが飛んじゃったよー」という感じ。
汚ったね、と小さく呟き、私は背中に携えていた小銃を乱射した。男に向けて──ではない。
私と男を取り囲んでいた、屋根に隠れていた敵の援軍に向けて撃ったのだ。
男もそこまで馬鹿ではない。薬漬けの性犯罪者ではあるが、一応これでも〈灰虫〉の上級幹部なのだ。丸腰でいるわけでもないだろう。罪の独白は時間潰し、援軍はズボンを下げた隙にでも呼んだのだろう。しっかしそのついでで反芻と自慰だなんて。私も随分なめられたもんだなぁ。
しかし、屋根に乗った彼のお仲間たちは全員血を噴いて死んだ。流石の彼も顔を引き攣らせる。
男はいよいよ、自ら拳銃を取り出した。私は即座にライフルを捨てて、腰の鞘に手をかけた。勢いよく抜刀、灰積もる地を蹴る。一気に間合いを詰めて男の背後を取り、刀の峰を男の太い首に当てる。男は力なく倒れ、地に伏す。
「強盗18件、未成年少女の誘拐・売春・強姦及び殺害は数え切れないほど。さーて、ちょっとじっとしててねー……」
動けずに呻き声をあげながら涎を垂らしている。汚いなぁ。
これは仕事の任務でもなんでもなく、ただただ一人の女として精液をかけられたことに対して蹴りを一発入れてやった。常人よりもちょびっとだけ力の強い私の蹴りは見事に鳩尾に入ったらしく、胃酸混じりの吐瀉物を吐いた。反射的に蹲った男を、足を器用に使って仰向けにさせた。少しばかりの集中。雑念を排除して、男の心臓と肋骨の位置関係を見抜く。
よし、ここだ。
私の愛刀・カタナンの切先が、男の肋骨の合間を縫って心臓を貫いた。人間という生き物は非常に厄介な生体構造をしているため、ドラマなどで見る「心臓を一突き」はそう簡単には再現できない。肋骨が邪魔をしているからである。確実に再現したいのであれば、触って確かめるか、何回も刺して肋骨を砕いてしまうかだ。しかし前者は吐瀉物塗れのこいつに触れたくないし、後者は面倒くさいしなので異能を使うことにしたのだ。
ぎゃあぎゃあ喚きながら暴れる男だったが、カタナンの切先は地面すらも貫通しているため、どう暴れようが固定されているので問題はない。そろそろ喧しいので、カタナンをぐいっと回した。完全に心臓が潰れる音がして、男は動かなくなった。
『隊長、作戦の完了報告を』
我を忘れていた時に、イヤーカフから骨伝導で陽太の声が聞こえた。陽太は、この街の上空の見えないところから私をずっと見てくれている。私は一切疲れなどしていないのに、その場にわざとらしくドカっと座り込んだ。
「作戦17を現時刻を以って終了する。……お疲れー、陽太。今日もありがと」
『はい、隊長もお疲れさまです。家で待ってますね』
プツリと通信が切れる。ポツリと雨が降り出した。
死体からカタナンを抜くと、雨がカタナンに付着した赤黒い血を流してくれた。死体の左胸にはぽっかりと風穴が開いている。風穴というものは本来なら銃を使う時に出てくる表現なので、刀では風穴とは言わないのかもしれない。どちらにせよ私には分からないし、別に何でも構わない。
その穴に雨が流れ込み、薄汚れた赤のスープが出来あがる。
私は特に人肉愛好家ではないから、それに食欲はそそらないどころか、潰れた臓器とペトリコールが混ざった臭いに噎せ返った。それを好んで食す狂人をこれまでに見てきたことがあったが、よくもまあそんな非人道的なことができるもんだ、と思った。〈灰虫〉の中に人道的な奴などいないのだが。
陽太ともう少し話しておけば良かった、と後悔する。他人と話すことは私の心を落ち着かせる。これまで孤独に生きてきた分、孤独には慣れていると自惚れていたが、一度人の温かさに触れてしまうとそうはいかないらしい。実は昔から、孤独が嫌いだったのかもしれない。何人も何十人も、もしかすると何百人も殺してきた私だが、こればっかしは一向に慣れない。しかしそれが、自分自身が狂っていないことを証明する証拠だ。罪の意識があるうちは、まだ私は正常だ。
遺体はそのまま放置しておくことにした。ここは〈灰虫〉のアジト付近の裏路地なので、善良な一般市民の目に触れることはまずない。どうせ別の幹部が回収に来るだろう。その時のための、ある意味の宣戦布告だ。
〈灰虫〉と、〈黒犬〉の全面戦争。そうなろうが、私はただ噛み殺すだけだ。
イヤーカフに三回、軽く触れてラジオを流す。私が所属している〈黒犬〉は正式名称がちゃんとあって、「防国府神使課第二特殊部隊」という。組織の総本山は「セロッド」という、帝国政府直属の国防組織なのだ。その本部から支給された初期設定のイヤーカフには、もちろんワイヤレス骨伝導イヤホンとしての性能などなかった。秘密で陽太に色んな設定を追加してもらったというわけ。そんな重大な作戦にスマホを持ち込むのはあまりにも油断し過ぎだけど、ラジオのアプリを繋げている。
『続いてリクエストを頂いたのは、Only starsの「Lost your sign」です』
番組DJが次の曲を流す。私は特別ファンだというわけではないが、音楽アプリのプレイリストには何曲か入っている。日本国民ならば知らない人はいない程有名なアイドルバンドの一曲だった。同期の親友が熱狂的なファンなのだが、どうやらあの大災害で死んでしまったみたいだ。
家に戻るまでの道が、気持ち長く感じられたのは気のせいか。
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