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第10話 親ばか

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 ……。



 ……。



 ……。



 キャー! キャー! キャー!



 浅い眠りは、黄色い歓声で強制的に覚醒へと導かれた。



「まあ、これ、まさか、ヴァレリーが描いたのね!? すごいわ! 私にそっくりだわ! 天才! 天才よ!」



 母が帽子と共に抱きしめるてくる。



「ばぶぅー」



 俺は親指を立てて肯定のサインを返した。



「これはみんなに知らせなくちゃいけないわ! あなたはきっと世界に名を残す偉大な芸術家になる運命なのよ!」



 母はパチンと手を叩き、独りでに何度も頷く。



「ばー?」



 俺が想定していたよりも三倍くらい過剰な反応に、若干戸惑った。



 母は興奮そのままに、麦わら帽子を被せた俺を抱き上げて、屋敷の広間へと運んだ。



 そのまま備え付けの揺り籠に放り込まれた俺は、軽く脳を揺さぶられながら、家族が食事するのを見守る。



 二つくっつけられた長テーブルに、家族が勢ぞろい。



 給仕のメイドもいるが、基本的にはセルフサービスである。



 ――とはいえ、それは、一家団欒とは程遠い光景だった。



 料理は、蒸ふかした芋と、肉と野菜のスープの二品のみ。



 誰一人喋ることなく、それぞれが黙々と食事を進めていく。



 食事中に喋るのは下品だという作法なのだろうか?



 それとも、戦場においては食事を素早く取ることもスキルの内ということなのだろうか?



(これは耐えられないな。酒も飯も、楽しく呑んで食わなけりゃ、腹に入った気がしない)



 俺が飯を食える年齢になったら、何かしら対策を考えなければ。



 険悪ではないが、どこか修行じみた栄養の摂取が終わる。



「……では、一日の報告を」



 やがて、全員が食事を終えたタイミングを見計らって、父が厳かにそう切り出した。



 それぞれが、今日一日の目標と、それの達成具合、反省と、明日の目標を、セットで淡々と述べていく。



(リーマンじゃないんだから、勘弁してくれ)



 幼児の時分から、PDCAサイクルを回している家庭に、俺は馴染めるだろうか。



 もちろん、ホスト時代の俺も試行錯誤はしていたし、他の多くの同僚も同じく努力はしていただろうが、夜の男の野望は胸に秘めるものであり、成果は札束で証明するものであった。こういう儀式じみたルーティンは、性に合わない。



「カチュアです! 今日は、目標にしていた繕い物を全て終えました。反省としては、もう少し使う布地が少なくできたかもしれないと思っています。明日からはその点に気を付けて、お洋服を作ります――それで、これ、見てください! ヴァレリーが描いたんです! それも一人で!」



 母が早口で言って、麦わら帽子を掲げる。



「おおー、すげー! むっちゃ上手いな!」



 デレクが無邪気な歓声を上げた。



「……それを、本当にそやつ一人で?」



 ハンカチで上品に口を拭ってから、静かにそう呟いたのは、第一夫人のザラ。



 釣り目で怜悧な印象の彼女は、ポーカーフェイスで真意は読みにくい。



 嫌味のようにも聞こえるし、純粋な疑問ともとれる。



 しかし、俺の経験上、その声音に悪意はないように思えた。



「そういや、母ちゃん、昔もおいらのこさえた泥団子に勝手に彫刻して、女神像を作ったって騒ぎ立てたことがあったべ」



 マタイが困ったように首を傾げた。



「あれは、ちょっとやりすぎたわ! でも、今回は本当に何もしてないのよ! 私が寝ている内にこの子が勝手にやったの!」



 母はそう力説するが、周囲の反応は芳しくない。



 どうやら皆、出来が良すぎて、俺が独力で作ったとはにわかに信じられないようだ。



 ふと思い出すのは、前世での、白夜との何気ない会話。



『ガキの頃、夏休みの自由研究ってあったじゃないですか。僕むっちゃ頑張って、色んなとこでアイスの棒集めて、でっかい城を作ったんすよ。そんで、休み明けうきうきで提出したら、親が作ったんじゃないかって疑われて、クソセンコーに怒られたんです。もしかしたら、そういうのが嫌でホストになったのかも』



たとえ事実が小説より奇なりなものだとしても、人というのは、よりもっともらしい理屈に安心する生き物なのだ。



「……どのみち、それが真実とて、絵で敵は殺せまい。地図や敵陣の写しの類は、風魔法師が作るものであるし……。旗や印章を描く役には立つかもしれないが――」



 父が言葉を探るように呟く。



 その真剣な表情に、なるべく母を信じたいという、根の善良さがにじみ出ていたが、何分思考が軍事に偏っているので、絵の才能への評価は的確とは言い難い。



「うう……、もう結構です!」



 母は自ら話を打ち切り、悔しそうにうつむいた。



 やがて、全員の報告が終わり、俺は母に抱かれて、再び部屋に引き返す。



「うああああああああああ! ごめんなさい。ヴァレリー! あなたの才能を上手く伝えられないふがいない母を許して!」



扉を閉めるなり、母は俺の涎かけに、うるんだ瞳を押し付けた。



(たかが絵一つでこれほど大騒ぎとは――なるほど。愛が重いとはこういうことか)



 俺は初めて理解した。



 ホストにとっては、恋の駆け引きは日常であり、飯の種。



 心を病んだ女も、すぐに手が出るタイプの女も、散々相手にしてきたが、それでもなお、無償の愛というものは知らなかった。



 俺は女を喜ばせるための技術を磨いてきたが、それは、女が店にいる間だけ、瞬間最大風速的に満足させるための力であった。



 もちろん、再び店に来てもらうための営業努力などもホストの業務には付随するが、いずれにしろ、金のためにやっていたということに変わりはない。



 一方、母の愛というものは、一切の対価を求めない。



だからこそ、世界一、エゴイスティックで、感情的になり得るものなのだ。



(それとも、この母がそうなだけか?)



 サンプル一つから得た感想を、全ての母に当てはめるのは適切ではないかもしれない。

だとしても、俺の母は今、この涎かけを涙でびしょびしょにしている女であることは絶対的な事実だ。



 泣いている女は、笑わせなければならないだろう。



 それは、ホストとしての本能であり、子どもとしての義務である。



「だあ」



 俺は自分の持っている麦わらを母に被せると、出し抜けにその頬を舐めた。



「うふふふふ! うふふふふふ! もう、やめなさい! いつもは聞き分けいいのに、一体どうしたのかしら、この子ったら! ふふふ、くすぐったいわ! ああ、いい子ね! ヴァレリーは本当にいい子ね!」



 お返しとばかりに、俺の頬に口づけしてくる母。



 打算も矜持もなく、赤子よりも気まぐれなな彼女にただ身を委ねる、気怠く心地よい感覚。



 この感情の名前を、俺はまだ知らない。
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