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箱入り娘

〈箱入り娘〉其の参

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 遅くに出来た子供故か、両親は私の事をそれはそれは大層可愛がって下さいました。
 私には、望む物等対して御座いません。
 欲が無いとは言い切れやしませんが、「あれが欲しい」やら「これが欲しい」やらと、誰しもが持ち合わせているであろう欲望は、私の心の中においてあまり重要な事柄ではありませんでした。
 何故ならば、私が望む前に父か或いは母が、あらゆる物を捧げてくれたからです。
 生まれた時から今日迄、ほんの少し足りとも傷付かぬ様に、他所様から見れば多少過剰に、けれども私からすれば至って平凡な愛情を、常々日頃から両親は私に注いでくれたので御座います。

 その様な親の元に生まれ落ちたのならば、些か我儘に。或いは少々、傲慢に。育ち切ってしまいそうなものですが、私はどうにも世間知らずな様でして、知らないからこそ知らない者には成り得なかったので御座います。

 私の事を、ほんの少しばかりでも知った人々は、口を揃えて皆、同じ言葉を申されます。
 目に入れても痛くない程に可愛い愛しいと、まるで此の世の宝であるかの様に育てられた娘。

 正にお前は【箱入り娘】なのだ、と。










「つまりはお嬢ちゃんのその嫌味な迄のお上品さは、取って付けた様な代物じゃあ決して無く。正真正銘のお家柄故にって訳か?」
「えぇっと·····」

 仏頂面の乙桐おとぎりが、奥の部屋から出て来てすぐに眉間に皺を寄せたのは、とよ子の隣に鎮座した女を視界に入れたからだった。
 嫌悪と言うよりかは、さも面倒極まりない様で。
 その乙桐の様子を見た女は、やはり当然の如く悪態を悪びれもなく吐いた。
 
「ちょいとアンタ、随分と待たせた割には大層な物言いじゃあないかい。え?」
「お前さん達が勝手に押し掛けて来て、お前さん達が勝手に待っていやがったんだろうがよ」
「それでもな話だよ!これだから野暮な男はいけ好かないんだ。ちぃっとばかしの気さえ使えやしないんだから全く!」

 よく知らない者が見れば二人は恐ろしく仲が悪く、鉢合わせれば口喧嘩をしてしまう関係の様に思えてしまうかもしれない。
 ところがどっこいその割には、女は愉快そうに眉根を上げて、片や乙桐は知っている者には分かる程度の笑みを浮かべている。

 つまりは、

「アタシが知らないだけで、アンタはそれ程お偉いさんだったのかねぇ。乙桐大先生とでも呼べば満足かい?先生先生、乙桐大先生?」
「あの天下の月下の芙蓉様様に、そう言われるのは畏れ多いったらありゃあしねぇわな」
「おやまぁ分かりにくいかい?アタシは優しいからねぇ、それはそれは優しいから教えてあげるよ特別に」
「おん」
「い・や・み、さね!」
「おおこれはこれは奇遇だな、此方も嫌味だ」
「よくよぉく知っているよ、馬鹿垂れが」

 お互いに楽しみながら、罵り合っているに過ぎないのだ。
 親しいからこそ、軽口を叩き合っては遊ぶ。
 それは挨拶と大して変わりがないやり取りなのだが、但しその空気感が、ぽっと出の新参者にもきちんと読めるかと言えば答えは否やになってしまう。

 現にとんとん拍子で始まった罵り合いに、この場での唯一の新参者ーーつまりはとよ子は、ひたすらに呆気に取られた顔をしてしまっていた。

 大して知りもしない人と、その人よりも更に知る筈がない人が、突然口喧嘩を始めたとなれば萎縮してしまうのも仕様がない話ではあって。
 しかも自分に話し掛けて来た女の方はまだ良いとして、とよ子からすれば、乙桐の仏頂面は大層野蛮に見えてもしまっていた。

 その様子をぼけ~っと見ていた赤眼は、特に表情を変える事もなく乙桐に話し掛ける。

「せんせ、お客人さ置いてけぼりだぁ」
「おっとこいつぁ、すまねぇなお嬢ちゃん」
「あ、いいえ」

 多少申し訳なさそうにとよ子に向かって謝った乙桐を、女は珍しい物でも見た様な反応をした。

「あら嫌だ。先生アンタ、一丁前に謝る事も出来たのかい」
「お前さんには必要がねぇから謝らねぇだけだ」
「嗚呼そうかい」

 女ことるいは、少々不可思議な立ち位置に居る者だ。
 商い人と言ってしまえば確かに泪は商いをしてはいるのだが、売り物は己自身。

 吉原遊廓、泪はそこの一端の女郎であった。

 通常吉原は、年季明けーーつまりはその身に課せられた借金を払い切るか、身請けーー馴染みの客に妾として借金を肩代わりしてもらうか。
 そのどちらかでなければ、容易に娑婆に出る事は叶わない。
 年季明けも身請けもなく大門の外に簡単に出るとしたら、残りの手段はたったの一つ。

 桶に入る事ーー即ち、死ぬしかないのである。

 そんな普通よりも厳しい世界に身を置いているにも関わらず、ところが泪は頻繁に娑婆の乙桐の所に迄、顔を出していた。

「お前さんは難儀な"野郎"だよ、本当に」
「アタシが難儀な物かい。難儀な野郎はアンタの事さね」
「ほぉう。男の身で在りながら、あの天下の吉原で意気揚々と花代巻き上げている奴のどこが、難儀じゃあ無いんで?」
「男っっ?!え、吉原ですかっっ?!」

 乙桐と泪のやり取りに、一番反応をしたのはとよ子だった。
 とよ子は目を真ん丸くさせて泪を見てから、やがてすぐに右手で口元を抑える。
 その慌てふためいたとよ子の様子に、乙桐も泪も何だか悪戯が成功して喜ぶ子供みたいな顔をした。

「なんでい、泪。お前さん言ってなかったんで?」
「アタシも驚いているよ。お嬢さん、まさかまさか気付いていなかったのかい?」
「てっきりどこかのお内儀さんとばかりに⋯⋯」
「こいつがお内儀さんとは笑わせる。尻に敷かれるどころの騒ぎじゃあねぇな」

 吉原遊廓の一角に"弁天楼"と言う見世があって、そこには"月下の芙蓉"と呼ばれる、それはそれは大層美しい女郎が居た。
 お職でも引っ込みでもましてや太夫でも無ければ、道中すらただの一度もした事が無い。
 それなのにやたらと通り文句ばかりが方々に広まるので、一目でも彼女に会いたいと足繁く通う客が後を絶たないのだ。
 「何故、彼女は一端の女郎でしか無くて、花魁に上がらないのか?」「見世の顔と言っても間違いでは無いだろうに」、人々が口々に噂するその疑問符の答えは、大して難しい話でも無い。
 全ての解いに、ただこう返してやればいいだけなのだ。

「月下の芙蓉は男だからである」と。

「良いかい、お嬢ちゃん。そいつぁ陰間じゃあなくわざわざ周囲の者に箝口令を敷いて迄、性別を偽って女郎として吉原に君臨していやがる。とんだ変わり者なんでい」
「生憎とこれっぽっちも男色の気が無かったものでねぇ」
「やってる事は陰間と対して変わらぬだろうに」

 泪が男である事実はそう大っぴらに言える事でも無いので、極々一部の者しか知らないのだが、そも彼は"女"郎では無いから。
 だから娑婆に出たければ、元の姿に戻って出て行けばそれで良い話。
 床の間でも決して着物を脱がない彼の、足の首の筋が妙に角張っている事なんて、いち門番風情が知るはずも無い。
 ましてや用が終わればきちんと帰って来るし、その都度楼主に許可取り迄する徹底ぶりなので、足抜けの心配すら無い。逃げられたところで困るかと言われれば、それも答えは否や。

 故に泪は女郎としては規格外の、やりたい放題大門を行ったり来たりする。正に破天荒な女郎と言う訳なのだ。

 人の数だけ趣味趣向が在って、それら全てを受け入れろと言われれば、それは大変に難しい事柄である。
 ましてや親の愛を一身に受けて育ったお嬢さんからすれば、あからさまに驚くのは平と凡だ。
 けれどもとよ子はただ勝手に話されて、たまたま聞いてしまっただけのその事実を、最終的には申し訳ないと言う様で返した。
 貶す事も嫌悪する事もしなければ、それを態度にも出さないとよ子を、泪は目元を細めながら眺める。

「根は良い子なんだろうねぇ⋯⋯」
「はい?」
「いいや、此方の話さね」

 面白くは有るが同時に面倒でもある事柄に、おいそれと首なんざ本当は突っ込みたくも無い。
 けれども少しばかりでも縁が在ると思ってしまえば、手を貸さざるを得なくなる。
 故に泪はこうして、よく案内人めいた事をするのだ。昔から。

 流れに流されてしまったが戻すと、町中で見掛けたとよ子は、泪の目から見れば困っている様にも見えて、だからきっと乙桐の目にも泪と同じ物が見える筈だと確信していた。

「まぁ泪の野郎の事なんざどうでもいいんでい。それよりもあー⋯⋯お嬢ちゃん?」
「あ!申し遅れました。私はとよ子と申します」
「とよ子か、俺は乙桐だ。細々と絵描きを生業にしている。尤も名はあんまり売れちゃあいないがね」
「絵師の先生で有る事は存じ上げております。その、道すがら泪さんにもお聞きしましたので」
「そうかい。それならばそのしがないただの絵師風情に、一体全体どんな野暮用が有るんで?」

 とよ子は困った様に眉を顰めた。
 ここに来てからずっと、彼女は狼狽えたり萎縮したりと忙しない。それはとよ子の様な良い所の娘さんが出会うには、あまりにも自由奔放な輩ばかりだからなのだが。

 普通であれば見ず知らずの他人になんざ、その身に降り掛かった悩み事等相談する気も起きなかった。
 けれどもとよ子は切羽詰まっていて、最早己ではどう仕様も出来ない段階に迄陥ってしまっていた。
 藁をも掴むとは言い難いが、敢えて言うのならばそうなってしまうのだろう。
 この突飛出た話を、いったいどこから話せば良いのやら。口に出そうにも多少怖気付いてしまっているとよ子を見て、乙桐は一つだけ息を吐いた。

「その左腕に巻き付いたモノの事だろう。違うか?」
「っっ?!あ⋯⋯え、見えて⋯⋯いるのですか?」
「ゆっくりでいいから話してみろ」
「ですが、あまりに⋯⋯あまりに突飛出ておりまして。私ですら、とてもまこととは思えない話なんです」
「お嬢ちゃんの話がただの方便なのか、そうじゃあないのかは聞いてから考えるさ。頭ごなしに聞いてもいない事を、真っ向から否定なんざしねぇから安心しろ」

 暫く間が空いてから、とよ子は意を決した様に話し始めた。
 その間にも彼女の左腕に巻き付いた、何だかよく分からない黒い靄はぐねぐねと動き続けている。

 それこそこの長屋にとよ子が訪れた、初めから。
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