雨が乾くまで

日々曖昧

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大の甘党

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「ここ」
 河内がそういって立ち止まったのは、何度か目にしたことのある喫茶店だった。もちろん入ったことはなかったが、外からでも落ち着いた雰囲気のある店だということは窺えた。
「ほら、楓ちゃんも入って」
「あ……はい」
 河内はここの顔馴染みらしく、店員は彼の顔を見ると何も言わずに私達を店の右隅の席へ案内した。彼が壁際の席を空けて座ったので、私は必然的に奥の席に腰掛ける。
「そっちで良かった?」
「はい。こっちの方が好きです」
「よかった。何か飲もっか」
 私の返事も待たずに、河内は呼び鈴を鳴らして店員を呼んだ。ちらほらと人がいる店内を女性のウエイトレスが歩いてくる。こういう所で働く女性が総じて綺麗なのは、ビジュアル審査みたいな採用項目があるからなのかとくだらないことを勘ぐってしまう。

「僕はアイスコーヒーで」
「じゃあ私はオレンジジュースを」
 私はメニューも開かないまま、河内に続いて注文をした。
「アイスコーヒーとオレンジジュースですね。かしこまりました」
 ウエイトレスの彼女は復唱しながら手元のメモに注文を書き加える。河内が頼んだコーヒーの横には砂糖・ミルク多めと追記されていた。どうやら彼はかなりの常連らしい。
「大の甘党でさ」
 私がウエイトレスのメモを覗いていた事に気づいたのか、河内は少し照れくさそうに私にそう言った。私はそれに苦笑いで返す。

「ところでさ、楓ちゃん。肝心の話なんだけど」
「……はい」
 正直、こんな事になるとは思っていなかった。ただのシフト変更であればいつも一言二言の会話で終わるはずだからだ。わざわざこんな場を設けてまでしなくてはならない話とは一体なんなのだろう。いつもならどこか脳天気なオーラを纏っている河内は、いつになく真剣な顔をしていた。彼は端麗に整えられた眉を細めて、数秒溜めてから喋り出した。
「楓ちゃん、今男の子と一緒に暮らしてる? ……それも中学生くらいの」
 私は河内の言葉を前に固まってしまった。突然心臓をナイフで引き裂かれたような感覚が胸を襲って、鋭い痛みが走った。冷汗が額に線を引いていくのが分かる。

「お待たせしました。アイスコーヒーとオレンジジュースです」
 目の前に大きな氷の浮かんだオレンジジュースが置かれる。私はそのグラスの中で揺れる液体に視線を逃がして、河内の問いへの返答に思考を巡らせた。
 そしてその沈黙は、言葉よりも確かな肯定だった。
「やっぱりそうか」
 まだ私は何も発していなかったが、もう既に目の前の彼は納得したような表情でアイスコーヒーのストローに口をつけた。透明な管にミルクで黒が割られた茶色い液体が通る。そんな光景さえ、尋問の一部のように思えてしまう。
「あの子は、親戚の……」
「一緒に住んでるのって、この子であってるかな?」
 咄嗟の言い訳すらも遮られた。河内がこちらに向けたスマートフォンの画面に写っているのは、私が今朝写真に収めた例のポスターだった。
「この子、今行方不明らしいね。何でも、こないだの一家全焼事故の容疑者だとか」
「私は……知りません」

 心のどこかで無意味だとは分かっていながらも、私はそう言わざるを得ない。河内も私がとぼけているのをきっと見透かしている。半分程残ったアイスコーヒーを一気に飲み干してから、彼は鉛を吐くように重々しい空気で話し始めた。
「一昨日、楓ちゃんがこの子にそっくりな男の子に手を引かれていたのを見たんだ。確か夕方の四時位だったかな。身に覚えあるよね?」
「……はい」
 間違いなく、それは私達だった。実際に現場を見られてはもはや何を言おうが言い訳にもならない。私はやっとオレンジジュースに手をつけた。もう氷がかなり溶けて薄まってしまっていたが、緊張で乾き切った喉を潤すには充分だった。

 全てが終わったような気分だった。私たちの全てはほんの一瞬のうちにして崩壊してしまったのだと心の底から落胆した。
「……聞きたいことがいくつかあるんだけど、答えてもらってもいいかな」
 全てを失った私に対して、彼は休む暇も与えずにそう言った。私はこの際何を言おうが構いはしないだろうと、半ば自暴自棄になってそれを受け入れた。
「なんでこの子と一緒に暮らすようになったの?」
「偶然、公園で彼が一人だったのを見て話しかけたんです。その日は大雨だったのに、何で一人でこんな所にいるんだろうって……」

 細々と語る私の話を、河内は相槌を打ちながら聞いている。私も出来る限り鮮明に記憶を遡って、慎重に言葉を選びながら話を続ける。
「私が話しかけたら、彼はすごく怯えていました。私にじゃなくて……自分に」
「自分に?」
 吉浦が疑問を呈した。
「私あの子に、あなたを殺してしまうかも知れないって言われました。……そしてそのまま彼、その場で倒れたんです。発熱がすごくて、足は裸足のままで血塗れでした。私はひとまず彼を家に連れて帰りました。ただ一晩雨宿りさせてあげるくらいの気持ちで、理由だけ聞いたら家に返そうと思ってました。ですが……」
「帰るべき家は全焼して、彼は死亡したことになっていた」
 河内が口を挟む。私が言いづらそうにしているのを察してのことだろう。
「……はい。それと、あの子には事件の前の記憶がほとんど無かったんです。気づいた時には母親が目の前で倒れていて、右手には母の血に塗れた包丁を握っていたと……」
 私が話を進めるにつれ、河内の表情はどんどんと曇っていった。いつもの彼の面影はもうどこにも無かった。
 彼は何とか、言葉を振り絞るように質問を続ける。
「……父親は?」
「え?」
「立木雪くんの父親は?」
「……聞いたことありません」
 勝手に雪の父親はいないと思い込んでいた。雪の口からも父親の存在を匂わすような言葉は聞いたことがなかったから。そういえば私の家族のことも、まだ雪にはまともに話していない。

「楓ちゃんはその子と何日一緒に暮らしてるの?」
「……今日で、六日目です」
「六日も一緒に暮らしていてお互いの家族構成も知らないんだ……」
 言われてみれば、私と雪が話すのは当たり障りのない事ばかりだ。私は雪の過去についての話は無意識に避けていた。もしそれを雪が覚えていなかったら、彼を傷つけてしまうのではないかと恐れていたのだ。
「楓ちゃんは、今自分が置かれてる状況を理解してる?」
「……殺人の容疑者を擁護している頭のおかしなフリーター……ですかね」
「そういう事じゃなくて。普通に考えておかしいよ。自分の命をどれだけ軽く見ていたとしても、人殺しかもしれない人間と同居するなんて馬鹿げてる。君はリスクを理解してないんだ」
 彼の言葉は何もかも正しかった。きっと誰が聞いたって納得するであろう正論だった。しかし、頭ではそれが何も間違っていないことは分かっていながらも、私の中にはふつふつと怒りが込み上げてきていた。
 みんな分かったような顔をして、雪の何を知ってるんだ。
 あの優しさを。あの笑顔を。
 知らない癖に、雪を語るな。
「あの子はそんな事しませんよ」
 私は心の中で思うよりも先に口に出していた。自分でも想定していないほどのボリュームで。きっと店中に聞こえていたに違いない。痴話喧嘩とでも思われているのだろうか、私達を見てひそひそと話す声がどこかしらから聞こえ始めた。

 少し時間をおいてから、河内が静まってしまった店内の空気をゆっくりと破った。
「……俺はニュースだとか新聞だとか、ああいったものは信用してない。自分で見聞きしたものしか本当に信用する価値は無いからね。そうやって生きてきたつもりなんだ」
 彼はそう言い終わると、私に向かって頭を下げた。あとほんの数ミリで机とぶつかってしまうのではないかと思うくらい、深々と。
「さっきまでの俺は偏見の塊だった。自分ではそうはならないようにしているつもりでも、どうもこうやって人を前にすると俺という人間の本質が出るらしい。一方的な決めつけで不快な思いをさせて申し訳なかった」
 暗いオレンジ色の照明に当てられた机の上には、濃い彼の影が写っていた。予想外の展開に私は困惑しつつも、まずは彼の謝罪を受け入れた。

「私こそ、大声を出して申し訳ありません」
「そこでなんだけど楓ちゃん。もし良かったら、俺を立木雪くんに会わせてほしい。俺はこの目で、その子がどんな子なのかを見てみたいんだ」
 そんなことをした所で何の意味があるのだろう。河内がこの事を警察に話した瞬間に、私と雪のこの生活は終わるというのに。今更雪の事を知ったところで、私も河内も、もう二度と雪と会うことなんて無いだろう。
「俺は自分の目で見たものしか信じない。実際に会って、本当に楓ちゃんの言うような子ならこの事は絶対に他言しないと約束するよ」
「それって……吉浦さんに何かメリットはあるんですか?」
 不気味な程好条件な持ちかけに、どうしても裏に潜む真意を疑わざるを得なかった。とてもこんなことを言える立場では無いのだけれど。今すぐにでも縋りたい糸を前に、私はそう尋ねた。
「もし本当に立木雪くんが危険な人物では無かったら、僕は貴重な仕事仲間を失わずに済む」
 河内は大真面目な顔をしてそんなことを言った。しかし私はここまでのやり取りと、今までの河内の言動から察する。この人はきっと本気だ。

「本当になんて言うか……抜かりないですよね」
「そうかな? 自分でも馬鹿な事をしてると思ってるよ」
「そんな風には見えないですけど」
「見せてないだけだよ」
 自慢げに腕を組んで、彼は言った。子供のようなその姿を眺める私の胸の中には、不安と安心の両端がそれぞれせめぎ合っていた。
 「まだ知られたのが河内で良かった」と断定してしまうにはまだ早い。彼が雪を無害だと捉えるかどうか、それは今の私には分からないことだった。
 脳内会議は滞りを見せていたが、その採決を待つこと無く河内は席を立った。
「それじゃあ、行こうか」
 私は彼の言葉に頷き、残り僅かな薄いオレンジジュースを飲み干した。

 店を出ると、空はもうすっかり夜になろうとしていた。困窮する頭の中に反して、頬を撫でる冷たい風が心地良かった。
 河内はスマートフォンで誰かにメッセージを送りながら、私の歩みを待っているようだった。彼に限って、私との会話を誰かに話すようなことはしないだろうが、自分の神経が過敏に反応しているのが分かる。
「すみません。どうしても少し寄りたい所があるんですが、いいですか?」
 本来ならばこんなことを尋ねられる立場では無いのは百も承知だった。しかしながら今日のところだけはどうしても譲れない。もしも今日、私達二人の日常が崩壊するとするならば余計に。
「ああ、別にいいけど。どこに?」
 河内はそう承諾しつつも、行先を案じていた。今の私の状況から考えれば彼が慎重になるのも無理はない。彼にとって目の前にいるのが殺人の容疑者をかくまっている人間だ。彼が偏見を持つかどうかは別として、その事実は何一つ変わっていない。
 私は少しでも彼が納得できるように、ありのままを話すことに決めた。
「今日あの子の誕生日なんです」
 河内はそれを聞くとスマートフォンに向けていた視線を上げ、不意をつかれたような表情をした。
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