雨が乾くまで

日々曖昧

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逃避

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 私はその場から逃げるように玄関から外に出た。すぐに河内がその後を追って来る。私と彼の足の速さでは大して逃げられるわけもなく、アパートから少し離れた所で、私は彼に追いつかれた。
「楓ちゃん、俺今日は帰るよ。雪君の事は誰にも言わない」
「……すみません、今日はありがとうございました」
「俺は何もしてないよ」
 彼の気遣いが、なんだかひどく気に障った。
「河内さんが居なかったら、私にはどうにも出来ませんでした。……結局私はあの子を助けてるような顔をして、あの子に頼られる事に依存していただけだって、改めて気づきました」
 口から次々と弱音が零れ落ちていく。河内に対してこんなことを言うのはただの八つ当たりのようなものだった。私はすっかり、建前と本音の境界線があやふやになっていた。

「それが本当かどうかは俺には分からないけど、依存してるのは楓ちゃんだけじゃない。少し見ただけで、今の雪君にとって楓ちゃんの存在が全てだと分かったよ。あの子はきっと、楓ちゃんの言葉しか信じない」
 それは私も分かっていた。しかし微妙に違う。雪は私の言葉しか信じないというよりも、私の言葉を疑わないようにしている。彼には、私以外の選択肢がないだけだ。
「……どうして他言しないんですか? さっきの雪の様子、あれは明らかに」
「きっと雪君は、楓ちゃんにだけはそう言われたくないと思うよ」
 言い終わってしまう前に、河内はそう言って私の言葉を殺した。彼の声は、今までに聞いたことが無いトーンで、まるで諭すようだった。
「あんなのは、証拠にはならない。疑いをかけた身の俺が言えた事じゃないけれど、彼は母親を殺すような子じゃないよ。命をかけたっていい。あの子は人を殺していない」

 彼が言っているのは、奇麗ごとだ。そしてそれは、私が今まで首から下げていた考えそのものだった。多分、彼も分かって言っているのだろう。
 だからこそ、今の私には何よりも刺々しい言葉だ。
「それこそ無根拠な盲信じゃないですか」
「その盲信を続けてきたのは楓ちゃんだよ」
 この水掛け論は、誰に向けてのものなのだろう。私は私が信じ続けていたものを前に何を論じているのだろうか。言葉を口にする度に、だんだんと馬鹿らしくなってきた。
「私だって、信じたいですよ」
 先程のあれが雪の記憶の一片であることは明らかだ。私は自分が信じたくないことから逃げているだけなのだ。
 今までだってそうだった。あの日公園で包丁を手にした時も私は、手を伝う死を目の当たりにして逃げたのだ。
 私は雪と向き合っているつもりで、雪の過去とは何一つ向き合ってこなかった。何も起きない日々の中で、二人で明日だけを語っていたかったのだ。
 縋っていたのは、紛れもなく私の方だった。

「信じたいなら、信じられなくなるまでは信じていなよ。一つ決めた事をやり切らないのは気持ちが悪いでしょ?」
「……河内さん。大学の専攻は心理学ですか?」
 私は少し嫌味を含めてそう訊いた。
「ああ、そうだよ。でも心理学は相手が全く考えてもいない事を信じ込ませるような学問じゃない」
 河内はそう言うと、今までにないほど真剣な顔をして続けた。
「心理学ついでに言わせてもらうと、楓ちゃんは自分に向けられている好意に無頓着過ぎるよ。それは、すごく残酷なくらいに」
 私は以前にも、似たような事を言われた覚えがあった。それがいつ、誰になのかは思い出せなかったが、私はその時と同じ答えを返した。

「私、分からないんです。人を好きになるってどういうことなのか」
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