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EP 2
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優柔不断な貴公子、笑う
外は記録的な大雪だ。
昭和11年2月26日、帝都・東京。
荻窪にある近衛家の別邸『荻外荘(てきがいそう)』の空気は、凍りつくように冷たかった。
「コーヒーだと言っているのが聞こえんのか」
ドカッ、と。
幸隆——いや、近衛文麿の体に入った男は、アンティークのソファに深く腰を下ろし、長い脚を組んだ。
その態度があまりにも堂に入りすぎていて、パニックを起こしていた若き秘書官は、一瞬言葉を失った。
「か、閣下……? コーヒー、でございますか? この非常時に……?」
「ああ。俺の頭を回すためのガソリンだ。それと、もしあればタバコ……いや、この時代なら『チェリー』か『恩賜の煙草』でもいい、持ってこい」
秘書官は信じられないものを見るような目つきになった。
普段の近衛公爵であれば、血なまぐさい事態を極端に嫌い、今頃は「私は政治には向かない」と頭を抱えて寝室に逃げ込んでいるはずなのだ。
しかし、目の前にいる主は違う。
瞳の奥に、猛禽類のようなギラギラとした光を宿している。まるで、国政選挙という「戦(いくさ)」の火蓋が切られた瞬間の、血に飢えた将軍のように。
(なるほどな。状況は完全に理解した)
淹れさせたたっぷりのブラックコーヒーを一口すすり、幸隆は口角を吊り上げた。
苦味が足りないが、まあ悪くない。
現在、陸軍の急進派(皇道派)が約1500名の兵を率いて反乱を起こしている。
大蔵大臣の高橋是清や、内大臣の斎藤実が暗殺され、岡田啓介首相も生死不明(史実では生存しているが、この時点では情報は錯綜している)。
日本の中枢機能は完全に麻痺していた。
この直後、ただ一人残された元老・西園寺公望(さいおんじ きんもち)から、「この大混乱を収められるのは、国民的人気のある近衛公爵しかいない」と、次期総理大臣の指名——大命降下(たいめいこうか)が下るはずだ。
史実の近衛文麿は、軍部への恐怖と重圧からパニックになり、「健康上の理由」でこれをあっさり辞退する。
その結果、軍部の発言力が決定的に強まり、日本は泥沼の戦争へと突き進んでいくのだ。
「閣下……西園寺公望公から、使いの者が向かっているとの情報が入りました。おそらく、次期内閣総理大臣の打診……大命降下かと……!」
秘書官が震える声で報告する。
「お断りするべきです! 今、火中の栗を拾えば、閣下まで反乱軍の凶弾に倒れることになります! 『体調不良』を理由に、どうかご辞退を……!」
必死にすがりつく秘書官。
だが、幸隆はふっと鼻で笑い、カップをソーサーに叩きつけるように置いた。
カチャリ、と硬質な音が部屋に響く。
「辞退だと?」
「ひっ……」
幸隆から放たれた、文字通り「人を殺せるような」凄まじい威圧感に、秘書官は腰を抜かしかけた。
防衛大臣時代、気に食わない官僚やタカ派の将校たちを黙らせてきた、百戦錬磨の政治家の覇気。
「逃げてどうする。政治家(オレたち)が逃げたら、誰がこの国を動かすんだ」
幸隆は立ち上がり、雪の降る窓の外——燃え上がる帝都の空を冷徹に見つめた。
「大命降下、謹んでお受けする。……俺が総理になり、あのイキり立った軍部のガキ共を、法律と権力で完膚なきまでに『粛清』してやる」
その顔は、優柔不断な貴公子のそれではなかった。
国を牛耳り、政敵を喰らい尽くしてきた「最強の幹事長」の、極悪非道な笑みだった。
外は記録的な大雪だ。
昭和11年2月26日、帝都・東京。
荻窪にある近衛家の別邸『荻外荘(てきがいそう)』の空気は、凍りつくように冷たかった。
「コーヒーだと言っているのが聞こえんのか」
ドカッ、と。
幸隆——いや、近衛文麿の体に入った男は、アンティークのソファに深く腰を下ろし、長い脚を組んだ。
その態度があまりにも堂に入りすぎていて、パニックを起こしていた若き秘書官は、一瞬言葉を失った。
「か、閣下……? コーヒー、でございますか? この非常時に……?」
「ああ。俺の頭を回すためのガソリンだ。それと、もしあればタバコ……いや、この時代なら『チェリー』か『恩賜の煙草』でもいい、持ってこい」
秘書官は信じられないものを見るような目つきになった。
普段の近衛公爵であれば、血なまぐさい事態を極端に嫌い、今頃は「私は政治には向かない」と頭を抱えて寝室に逃げ込んでいるはずなのだ。
しかし、目の前にいる主は違う。
瞳の奥に、猛禽類のようなギラギラとした光を宿している。まるで、国政選挙という「戦(いくさ)」の火蓋が切られた瞬間の、血に飢えた将軍のように。
(なるほどな。状況は完全に理解した)
淹れさせたたっぷりのブラックコーヒーを一口すすり、幸隆は口角を吊り上げた。
苦味が足りないが、まあ悪くない。
現在、陸軍の急進派(皇道派)が約1500名の兵を率いて反乱を起こしている。
大蔵大臣の高橋是清や、内大臣の斎藤実が暗殺され、岡田啓介首相も生死不明(史実では生存しているが、この時点では情報は錯綜している)。
日本の中枢機能は完全に麻痺していた。
この直後、ただ一人残された元老・西園寺公望(さいおんじ きんもち)から、「この大混乱を収められるのは、国民的人気のある近衛公爵しかいない」と、次期総理大臣の指名——大命降下(たいめいこうか)が下るはずだ。
史実の近衛文麿は、軍部への恐怖と重圧からパニックになり、「健康上の理由」でこれをあっさり辞退する。
その結果、軍部の発言力が決定的に強まり、日本は泥沼の戦争へと突き進んでいくのだ。
「閣下……西園寺公望公から、使いの者が向かっているとの情報が入りました。おそらく、次期内閣総理大臣の打診……大命降下かと……!」
秘書官が震える声で報告する。
「お断りするべきです! 今、火中の栗を拾えば、閣下まで反乱軍の凶弾に倒れることになります! 『体調不良』を理由に、どうかご辞退を……!」
必死にすがりつく秘書官。
だが、幸隆はふっと鼻で笑い、カップをソーサーに叩きつけるように置いた。
カチャリ、と硬質な音が部屋に響く。
「辞退だと?」
「ひっ……」
幸隆から放たれた、文字通り「人を殺せるような」凄まじい威圧感に、秘書官は腰を抜かしかけた。
防衛大臣時代、気に食わない官僚やタカ派の将校たちを黙らせてきた、百戦錬磨の政治家の覇気。
「逃げてどうする。政治家(オレたち)が逃げたら、誰がこの国を動かすんだ」
幸隆は立ち上がり、雪の降る窓の外——燃え上がる帝都の空を冷徹に見つめた。
「大命降下、謹んでお受けする。……俺が総理になり、あのイキり立った軍部のガキ共を、法律と権力で完膚なきまでに『粛清』してやる」
その顔は、優柔不断な貴公子のそれではなかった。
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