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EP 2
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東條の仮面
官邸の外で繰り返される「万歳!」の怒声が、畳を微かに震わせる。
それは勝利の歓声であり、同時に、この国を破滅へと導く熱狂の序曲でもあった。
(落ち着け、坂上真一。お前は「いずも」の艦長だ。状況を把握しろ。パニックは死を招く)
彼は鏡の中の男——東條英機——を睨みつけた。貧相な体躯、神経質そうな口髭。だが、その丸眼鏡の奥で、45歳の1等海佐の瞳が冷たく光っている。
(俺の「艦」は今、日本帝国。乗員1億。そして俺は、最も無能な艦長(東條)に成り代わった)
彼は、この絶望的な状況下で、ただ一つの「合理的な解」を探し始めた。
「来い!」
坂上は、東條の甲高い声で叫んだ。先ほど退室させた秘書官(赤松貞雄大佐)と、数名の将校が慌てて部屋に戻ってくる。彼らは、先ほどの熱狂から一転、氷のように冷たい空気を放つ「総理」の姿に戸惑っていた。
「赤松君」
「はっ」
「先ほどの私の取り乱した姿、忘れてもらおう。大勝利の報に、一瞬、皇恩のあまりの広大さに我を忘れた」
これは完璧な「嘘」であり、完璧な「建前」だった。坂上は、自分がこれから演じなければならない人物像を瞬時に構築していた。
「しかし、」坂上(東條)は続けた。「勝利は、次の戦いの始まりに過ぎん。浮かれている暇はない。これより、戦争指導を第二段階に移す」
将校たちの顔が引き締まる。これこそ彼らが知る、カミソリ東條の姿だったからだ。
「赤松大佐。貴官は私の専属秘書官として、これより24時間、私の側を離れるな。まず、以下のものを揃えろ」
坂上は、この数分間で組み立てた「情報収集(インテリジェンス)」プランを実行に移す。
「第一。東條英機の、過去半年分の公務・私的日記、およびメモのすべて」
「はっ…総理の、ですか?」
「そうだ。開戦に至る経緯を、今一度、私自身が精査する。一言一句違わずだ」
(まずは敵を知る。今の「敵」は東條英機自身だ。彼が何を考え、誰を信頼し、誰を憎んでいるかを知らねば、明日にも暗殺される)
「第二。陸海軍の、現在発動中、および『計画中』の作戦要綱のすべて。特に、海軍の『Z作戦(真珠湾攻撃)』に続く、第二段、第三段作戦の草案。極秘資料も許可する。私がすべて目を通す」
(ミッドウェーだ。山本五十六が次に狙うのは、あの悪夢の海戦だ。計画の芽を、陸軍大臣(俺)の権限で徹底的に叩き潰す)
「第三。現在の我が国の備蓄資源(石油、鉄、ボーキサイト)、および輸送船(タンカー含む)の総トン数と稼働率。これを、南方資源地帯からの想定輸送スケジュールと照合した、詳細な兵站レポート。今すぐだ」
「へ、兵站、でありますか?」赤松が意外そうな顔をした。「今はまず、緒戦の勝利を…」
「兵站こそが戦争だ!」
坂上は、東條の甲高い声で、今度は「真実」を叫んだ。
「いずも」の司令官として、彼が最も重視してきたものだ。
「いくら前線で勝利しても、兵糧と弾丸と油が無ければ、兵は餓死し、艦(フネ)は鉄クズだ! 『大東亜共栄圏』は、絵に描いた餅ではならんのだ! 3日以内に正確な数字を出せ。出せねば、担当者の首を飛ばす!」
その凄まじい気迫に、赤松は「は、ははっ!」と短く応え、部屋を飛び出していった。
数時間後、官邸の総理執務室。
坂上は、山と積まれた資料に没頭していた。彼は「東條英機」という人間を急速にインストールしていく。几帳面なメモ、陸軍内の派閥、海軍への根深い不信感…。
(なるほど。使える)
坂上は、東條の「海軍嫌い」を最大限に利用することを決めた。
21世紀の海上自衛官である坂上にとって、陸海軍のセクショナリズムは愚の骨頂だが、今はこの愚かさこそが武器になる。
(ミッドウェーは海軍の作戦だ。陸軍大臣(俺)が、『陸軍の戦力を、海軍の博打のために割くことはできん』と突っぱねればいい)
彼は東條の日記にあった、ある人物の名前に丸をつけた。
海軍軍令部総長、永野修身。
そして、連合艦隊司令長官、山本五十六。
(まずは山本だ。彼がミッドウェーを強行する。彼を抑え込まねばならない)
だが、どうやって?
真珠湾を成功させた今、山本は海軍の英雄であり、国民の神だ。彼を正面から否定すれば、坂上(東條)が失脚する。
(合理的ではない…)
坂上が思考を巡らせていると、不意に、自室の「いずも」が恋しくなった。
キンキンに冷えた司令官室。機能的なモニター。そして、思考をクリアにする、あの苦いコーヒーと、コーヒーキャンディが…。
彼は執務室の呼び鈴を鳴らした。
入ってきた秘書官に、彼は(この時代には奇妙な)命令を下した。
「至急、コーヒー豆と、西洋の『キャンディ』なる菓子を。苦い、コーヒー味のものを探してこい」
「か、珈琲…でありますか?」
「そうだ。頭が冴える。今後の戦争指導に必要だ」
秘書官が怪訝な顔で退室する。
坂上は一人、窓の外の暗闇に目を向けた。
これから始まる、狂った戦争。
彼はポケットを探る癖が出たが、そこには「いずも」の官給品であるコーヒーキャンディは、もちろん入っていなかった。
(B-29と核兵器。マリアナ決戦…)
彼は、故郷・広島が焦土と化す未来を知っている。
祖父が特攻で死ぬ未来を知っている。
(絶対に、させん)
彼は東條英機の顔で、冷たく呟いた。
この瞬間、日本の歴史は、誰にも知られず、その軌道を変え始めた。
彼の武器は「未来の知識」と、彼が最も嫌悪していた男「東條英機」の絶大な権力だけだった。
官邸の外で繰り返される「万歳!」の怒声が、畳を微かに震わせる。
それは勝利の歓声であり、同時に、この国を破滅へと導く熱狂の序曲でもあった。
(落ち着け、坂上真一。お前は「いずも」の艦長だ。状況を把握しろ。パニックは死を招く)
彼は鏡の中の男——東條英機——を睨みつけた。貧相な体躯、神経質そうな口髭。だが、その丸眼鏡の奥で、45歳の1等海佐の瞳が冷たく光っている。
(俺の「艦」は今、日本帝国。乗員1億。そして俺は、最も無能な艦長(東條)に成り代わった)
彼は、この絶望的な状況下で、ただ一つの「合理的な解」を探し始めた。
「来い!」
坂上は、東條の甲高い声で叫んだ。先ほど退室させた秘書官(赤松貞雄大佐)と、数名の将校が慌てて部屋に戻ってくる。彼らは、先ほどの熱狂から一転、氷のように冷たい空気を放つ「総理」の姿に戸惑っていた。
「赤松君」
「はっ」
「先ほどの私の取り乱した姿、忘れてもらおう。大勝利の報に、一瞬、皇恩のあまりの広大さに我を忘れた」
これは完璧な「嘘」であり、完璧な「建前」だった。坂上は、自分がこれから演じなければならない人物像を瞬時に構築していた。
「しかし、」坂上(東條)は続けた。「勝利は、次の戦いの始まりに過ぎん。浮かれている暇はない。これより、戦争指導を第二段階に移す」
将校たちの顔が引き締まる。これこそ彼らが知る、カミソリ東條の姿だったからだ。
「赤松大佐。貴官は私の専属秘書官として、これより24時間、私の側を離れるな。まず、以下のものを揃えろ」
坂上は、この数分間で組み立てた「情報収集(インテリジェンス)」プランを実行に移す。
「第一。東條英機の、過去半年分の公務・私的日記、およびメモのすべて」
「はっ…総理の、ですか?」
「そうだ。開戦に至る経緯を、今一度、私自身が精査する。一言一句違わずだ」
(まずは敵を知る。今の「敵」は東條英機自身だ。彼が何を考え、誰を信頼し、誰を憎んでいるかを知らねば、明日にも暗殺される)
「第二。陸海軍の、現在発動中、および『計画中』の作戦要綱のすべて。特に、海軍の『Z作戦(真珠湾攻撃)』に続く、第二段、第三段作戦の草案。極秘資料も許可する。私がすべて目を通す」
(ミッドウェーだ。山本五十六が次に狙うのは、あの悪夢の海戦だ。計画の芽を、陸軍大臣(俺)の権限で徹底的に叩き潰す)
「第三。現在の我が国の備蓄資源(石油、鉄、ボーキサイト)、および輸送船(タンカー含む)の総トン数と稼働率。これを、南方資源地帯からの想定輸送スケジュールと照合した、詳細な兵站レポート。今すぐだ」
「へ、兵站、でありますか?」赤松が意外そうな顔をした。「今はまず、緒戦の勝利を…」
「兵站こそが戦争だ!」
坂上は、東條の甲高い声で、今度は「真実」を叫んだ。
「いずも」の司令官として、彼が最も重視してきたものだ。
「いくら前線で勝利しても、兵糧と弾丸と油が無ければ、兵は餓死し、艦(フネ)は鉄クズだ! 『大東亜共栄圏』は、絵に描いた餅ではならんのだ! 3日以内に正確な数字を出せ。出せねば、担当者の首を飛ばす!」
その凄まじい気迫に、赤松は「は、ははっ!」と短く応え、部屋を飛び出していった。
数時間後、官邸の総理執務室。
坂上は、山と積まれた資料に没頭していた。彼は「東條英機」という人間を急速にインストールしていく。几帳面なメモ、陸軍内の派閥、海軍への根深い不信感…。
(なるほど。使える)
坂上は、東條の「海軍嫌い」を最大限に利用することを決めた。
21世紀の海上自衛官である坂上にとって、陸海軍のセクショナリズムは愚の骨頂だが、今はこの愚かさこそが武器になる。
(ミッドウェーは海軍の作戦だ。陸軍大臣(俺)が、『陸軍の戦力を、海軍の博打のために割くことはできん』と突っぱねればいい)
彼は東條の日記にあった、ある人物の名前に丸をつけた。
海軍軍令部総長、永野修身。
そして、連合艦隊司令長官、山本五十六。
(まずは山本だ。彼がミッドウェーを強行する。彼を抑え込まねばならない)
だが、どうやって?
真珠湾を成功させた今、山本は海軍の英雄であり、国民の神だ。彼を正面から否定すれば、坂上(東條)が失脚する。
(合理的ではない…)
坂上が思考を巡らせていると、不意に、自室の「いずも」が恋しくなった。
キンキンに冷えた司令官室。機能的なモニター。そして、思考をクリアにする、あの苦いコーヒーと、コーヒーキャンディが…。
彼は執務室の呼び鈴を鳴らした。
入ってきた秘書官に、彼は(この時代には奇妙な)命令を下した。
「至急、コーヒー豆と、西洋の『キャンディ』なる菓子を。苦い、コーヒー味のものを探してこい」
「か、珈琲…でありますか?」
「そうだ。頭が冴える。今後の戦争指導に必要だ」
秘書官が怪訝な顔で退室する。
坂上は一人、窓の外の暗闇に目を向けた。
これから始まる、狂った戦争。
彼はポケットを探る癖が出たが、そこには「いずも」の官給品であるコーヒーキャンディは、もちろん入っていなかった。
(B-29と核兵器。マリアナ決戦…)
彼は、故郷・広島が焦土と化す未来を知っている。
祖父が特攻で死ぬ未来を知っている。
(絶対に、させん)
彼は東條英機の顔で、冷たく呟いた。
この瞬間、日本の歴史は、誰にも知られず、その軌道を変え始めた。
彼の武器は「未来の知識」と、彼が最も嫌悪していた男「東條英機」の絶大な権力だけだった。
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