アナステシアの影宰相〜冤罪で死んだ元議員秘書、【黒革の手帖】で異世界を裏から異世界を支配する〜

月神世一

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EP 1

秘書の最期と、やさぐれ女神の密約
​重厚な鉄の扉が、背後で鈍い音を立てて閉ざされた。
刑務所の外気は、想像していたよりも冷たく、そして乾いていた。
​「……終わったか」
​若林幸隆(わかばやし ゆきたか)、35歳。
かつては政権与党の大物議員、その第一秘書を務めていた男だ。
だが今の俺は、ただの「前科者」に過ぎない。
​ボスである議員の汚職疑惑。検察の捜査が本丸に迫った時、俺は全ての罪を一人で被った。
『先生』を守るため。それが秘書の仕事だと、自分に言い聞かせて。
​「とりあえず……ビールだ。キンキンに冷えたやつを飲みたい」
​迎えの車はない。家族も友人も、逮捕された時点で離れていった。
俺にあるのは、ポケットに入った小銭と、理不尽な忠誠心で磨り減った精神だけ。
​国道沿いの道を歩き出す。
ガードレール越しに見えるコンビニの明かりが、今の俺にはどんな宝石よりも輝いて見えた。
​その時だった。
​キキィィィィィッ!
​耳をつんざくようなブレーキ音。
振り返った視界いっぱいに、コントロールを失った大型トラックのヘッドライトが飛び込んできた。
​(ああ……そうか)
​走馬灯なんて流れない。
ただ、最後に思ったのは、あまりにも虚しい感想だった。
​(刑務所を出てわずか30分。俺の人生、とことん「貧乏くじ」だな……)
​激しい衝撃と共に、俺の意識はブラックアウトした。
​***
​「あー、また爆死。マジでクソ運営だわ。詫び石よこせっての」
​目を開けると、そこは白い部屋だった。
天国にしては生活感がありすぎる。
床には脱ぎ捨てられたジャージ、読みかけの漫画雑誌、そして空になった缶チューハイの山。
​部屋の中央にある事務机には、一人の女性が足を投げ出して座っていた。
ボサボサの黒髪に、黒縁メガネ。高校時代のものと思われる緑色のジャージを着込み、サンダル履きの足で貧乏ゆすりをしている。
その手にはスマホがあり、どうやらソーシャルゲームのガチャでハズレを引いたらしい。
​「……あの、失礼ですが」
​長年の職業病だろうか。
こんな状況でも、俺は反射的に腰を低くして声をかけていた。
​「ん? ああ、来たの。若林幸隆くん」
​女性はスマホを投げ出すと、面倒くさそうにこちらを向いた。
その顔立ちは、整っているというレベルを超越していた。
ジャージ姿でなければ、美術館の彫刻か宗教画の聖女と見紛うほどの美貌。
だが、口にくわえた細いタバコ――『ピアニッシモ・メンソール』の紫煙が、その神聖さを台無しにしている。
​「私は女神ルチアナ。まあ、この世界の管理人みたいなもんよ。座れば?」
​ルチアナと名乗ったその女性は、顎でパイプ椅子を指した。
​「はあ……どうも」
「単刀直入に言うけど、君、死んだわよ。トラックに轢かれて即死」
「……でしょうね。あのタイミングでは避けようがありません」
「で、君の人生のログを見せてもらったんだけどさ」
​ルチアナは手元のタブレット端末を指で弾いた。
​「国会議員秘書歴12年。汚れ仕事、裏工作、根回し、隠蔽工作……。ボスを守るために泥を被って逮捕、服役。……見事な社畜根性ね。いや、『忠犬』と言うべきかしら」
「それが私の仕事でしたから」
「つまんない答え。でも、その『泥を被る才能』と『調整能力』、私の世界でなら輝くかもよ」
​ルチアナはニヤリと笑った。聖女の顔が一瞬で、悪戯好きな子供の顔に変わる。
​「君を異世界『アナステシア』に転生させてあげる。剣と魔法と魔物がいる、よくあるファンタジー世界よ」
「お断りします」
「は?」
「やっと『先生』の呪縛から解放されたんです。静かに眠らせてください。また誰かのために働くのは御免です」
​俺が即答すると、ルチアナは不満げに頬を膨らませた。
​「あのねぇ、これはチャンスなのよ? 君、35歳で童貞捨ててないでしょ? 向こうに行けば、獣耳の美少女とか、エルフのお姉さんとか選び放題かもしれないわよ?」
「……興味ありませんね。それに、私はもう疲れました」
「あーもう! 頑固ねぇ! 分かったわよ、条件を変えましょ」
​ルチアナは机の引き出しを乱暴に開けると、一冊の黒い手帖を取り出し、放り投げてきた。
それは俺の胸元に吸い込まれるように収まった。
​「それは?」
「私の特製アイテム、ユニークスキル【黒革の手帖】よ」
「……政治家の裏帳簿ですか?」
「似たようなもんね。機能は二つ。一つは、私との『ホットライン』。君が欲しい地球の物資――酒でもタバコでも、何なら最新家電でも――手帖に書けば、私が取り寄せて送ってあげる。もちろん、対価はもらうけどね」
​ルチアナは空になったタバコの箱を振り、悔しそうに顔をしかめた。
​「こっちの世界じゃ、日本のタバコも酒も手に入らなくて困ってたのよ。君が現地で稼いで、私に貢いでくれればWin-Winでしょ?」
​(……なるほど。この女神、自分のパシリを探しているだけか)
​だが、悪い話ではない。異世界で日本のビールが飲めるなら、それだけで生きる価値はある。
​「もう一つの機能は?」
「『スキャンダル・サーチ』。君が出会った相手の名前を手帖に書けば、その人物のステータスじゃなくて……『弱み』が表示されるわ」
​「弱み?」
​「隠し資産、愛人の有無、過去の犯罪歴、誰にも言えない性癖……。そういう『人間臭い情報』よ」
​俺は息を呑んだ。
魔法でドラゴンを倒す力ではない。
だが、人間社会において、これほど凶悪な武器はないことを、俺は骨の髄まで知っている。
​「……なぜ、私にそんな力を?」
「アナステシア世界は今、人間と獣人と魔族が三すくみで膠着状態なの。私が作ったシステムなんだけど……正直、飽きたのよね」
​ルチアナは新しいタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。
​「だから、君みたいな『イレギュラー』が、裏から世界をひっかき回すのが見たいの。力でねじ伏せるんじゃなくて、君の得意な話術と謀略で、偉そうにしてる王様や将軍を土下座させてみなさいよ。……最高のエンタメだと思わない?」
​俺は手元の手帖を撫でた。
本革の冷たく滑らかな感触。
前世で、俺が散々苦しめられ、そして使いこなしてきた「情報」という名の武器。
​もし、この武器を自分のためだけに使えたら。
誰かの罪を被るのではなく、自分の意志で世界を動かせたら。
​俺の中で、死んだはずの野心が、小さく火を灯した。
​「……分かりました。その話、乗りましょう」
「契約成立ね! さすが話が早くて助かるわ」
​ルチアナはパチンと指を鳴らした。
俺の足元が光り輝き、視界が白く染まっていく。
​「あ、転送先は『ポポロ村』ってとこの近くにしといたから。とりあえず、そこで地盤を固めなさい。期待してるわよ、私の『影の代理人(フィクサー)』さん!」
​意識が遠のく中、俺は最後に一つだけ確認した。
​「ルチアナ様、その手帖の対価(コスト)は?」
「ん? ああ、君が稼いだ金か、もしくは……面白い『展開』かな!」
​女神の無責任な笑い声を最後に、俺は異世界へと墜ちていった。
​***
​目を開けると、そこは荒涼とした大地だった。
空には見たこともない二つの月が浮かんでいる。
​「……本当に、来ちまったか」
​俺は身につけていたスーツの土埃を払った。
ネクタイを緩め、懐から【黒革の手帖】を取り出す。
一見すると、どこにでも売っているシステム手帳だ。
​試しに、ページを開き、付属のペンで文字を書き込んでみる。
​『缶ビール 350ml』
​すると、文字が淡く光り、手帖の上に冷気を纏った銀色の缶が"出現"した。
キリンラガービール。俺が死ぬ前に飲みたかったやつだ。
​「……マジかよ」
​プシュッ、という小気味良い音と共にプルタブを開ける。
喉に流し込むと、強烈な炭酸と苦味が、乾ききった身体に染み渡った。
生温い風が吹く異世界で、この一杯は涙が出るほど美味かった。
​「さて……」
​俺は飲み干した空き缶を握りつぶし、遠くに見える灯り――おそらくポポロ村――を見据えた。
​金も地位も名誉もない。
あるのは、この手帖と、35年かけて培った「薄汚い処世術」だけ。
​「やってやるか。第二の人生、今度は俺が『先生』だ」
​元議員秘書・若林幸隆の、異世界暗躍譚が幕を開けた。
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