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第一章 地球の勇者
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やさぐれ女神とピアニッシモ
夜11時過ぎ。コンビニの自動ドアが開くと同時に、体にまとわりつくような初夏の湿気が、中村勇太(なかむら ゆうた、20歳)を包み込んだ。
「はぁ……最悪だ……」
肺の底から絞り出したのは、今日何度目か分からないため息だった。
医学部の解剖実習で神経をすり減らした後だというのに、バイト仲間の「急な腹痛(という名のサボり)」のせいで、ラストまでシフトに拘束されたのだ。時給が発生するとはいえ、本来なら道場の昇級試合後に仲間とファミレスで談笑していたはずの貴重な土曜の夜が、レジ打ちと廃棄弁当の処理で消えた。
(師範代、呆れてたかな……。僕って、本当についてない)
背負ったリュックが、鉛のように肩に食い込む。
中身は医学部の分厚い専門書だけではない。簡易応急セット、常備薬、ハーモニカ、そしてボーイスカウト時代の名残と“あの事件”以来の警戒心から手放せないサバイバルグッズ一式。
彼の「日常」と「万が一への備え」が詰まったその鞄は、今の勇太にはあまりに重すぎた。
「まあ、仕方ない。これも……ポイント稼ぎの予行演習だと思えば」
無理やり自分を納得させ、慣れた帰路を歩く。交差点の信号機が、チカチカと無機質な青を点滅させ、やがて赤へと変わった。
足を止めた、その時だ。
視界の端、アスファルトの黒い海に、白い小さな影が浮かんだ。
車道の真ん中でうずくまる、一匹の子猫。街灯に照らされたその背中は、震えるほどに小さく、頼りない。
「おい、危ないぞ! そんなところにいたら……!」
勇太の声に、子猫がビクッと体を強張らせる。恐怖で足がすくんでいるのだ。
直後、鼓膜をつんざくクラクションが夜を切り裂いた。
大型トラックのヘッドライトが、猛烈な光量で交差点を白く染め上げる。減速する気配はない。
(――間に合わない)
脳がそう判断するより早く、勇太の体は弾かれたように動いていた。
薙刀で培った踏み込み。独学で体に叩き込んだ危機回避の動作。そして何より、「あの時の無力感」を二度と味わいたくないという、魂の叫び。
彼はアスファルトを蹴り、子猫を庇うようにして車道へ飛び込んだ。
ドンッ!!
衝撃という言葉では生温い。世界が破砕する音がした。
熱い痛みが全身を駆け巡ったのは一瞬。視界が激しく揺れ、抱きしめた子猫の柔らかな温もりだけを鮮明に残して、勇太の意識は急速に冷たい闇へと引きずり込まれていった。
「――ぅーっす、おーい。起きたかー?」
粘りつくような死の暗闇の中で聞こえたのは、どこか投げやりで、少ししゃがれた女の声だった。
そして、微かに漂う匂い。これは……メンソールのタバコの煙と、安っぽいアルコールの臭い?
勇太は、重いまぶたをこじ開けた。
そこに広がっていたのは、上下左右の感覚すら曖昧な、純白の空間。
そして目の前には、一人の女があぐらをかいて座っていた。
年齢は、中年といったところか。着古して毛玉の浮いたグレーのジャージ上下に、足元は健康サンダル。ボサボサの髪を適当に後ろで束ねている。
彼女は片手にストロング系の缶チューハイを、もう片方の手には細いタバコ――ピアニッシモを挟んでいた。
「……え?」
女は勇太が目を覚ましたのを確認すると、フーッと細く煙を吐き出し、面倒くさそうに言った。
「あー、どうも。私がルチアナ。一応、慈愛の女神ってことになってる。よろしくー」
女神――ルチアナは、缶チューハイをあおると、「プハァ」と親父くさい声を上げた。その姿は、いま勇太が味わったはずの「死」の重さとはあまりに不釣り合いな、場末の生活感に満ちていた。
「え? だ、誰……? 女神? ここは……?」
「だからルチアナだって。あー、神様ね、神様。とりあえず拝んどく?」
ルチアナはサンダル履きの足をボリボリと掻きながら、気のない返事をする。勇太は混乱する脳を必死に回そうとしたが、状況が全く飲み込めない。
「な、何だこの人……」
「えーっと、あんたが中村勇太くん、だっけ?」
ルチアナは足元に散らばっていた書類の一枚を拾い上げ、目を細めて確認する。
「あんたの最期、見てたわよ。自分の命捨てて猫助けるとかさ、今どき珍しい熱血漢だねぇ。おばさん、ちょっと感心しちゃった」
「え? 最期? ……僕、死んだの?」
「そ。トラックにドーンとね。結構派手にいったわよ。トマトみたいにグシャッと」
ルチアナは、昨日の晩御飯の話でもするように、残酷な事実を告げた。そしてピアニッシモの灰を、携帯灰皿にトントンと落とす。
「う、嘘だ……。だって僕、まだ医者にもなってないし……あの銃撃戦のトラウマだって克服できてないし、彼女だって……。結局、何も成し遂げられないまま、こんな……」
絶望が膝を折らせる。
だが、その沈痛な空気を読む気配もなく、ルチアナは空になった缶を握りつぶした。
「はいはい、しんみりしない。あの猫助けた根性に免じてさ、このルチアナさんが、特別にご褒美あげようって話」
「……ご褒美?」
「そ。あんたを剣と魔法の異世界、『アナスタシア世界』にご招待。よかったねぇ、パチパチ」
ルチアナはタバコを持った手で、やる気なさそうに手を叩いた。
「い、異世界転生……?」
ネット小説やアニメで見た単語が、乾いた唇から漏れた。
「そうそう、それそれ。若くして死んだあんたへの、セカンドライフのプレゼント。ま、手ぶらじゃアレだからさ。ほら、まずは基本の『言語理解』。これで言葉は通じるっしょ。それと~、あんたポイント高かったから、特別にコレも付けとくわ」
ルチアナが煙を吐きながら指を鳴らすと、光の粒子が勇太の胸に吸い込まれた。同時に、脳内に奇妙な情報の奔流が駆け巡る。
「『地球ショッピング』。その名の通り、こっちの世界の商品をポイントで取り寄せできるスキルね。これがありゃ、向こうでも食いっぱぐれないっしょ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! ポイントって何だ!? どうやって補充するんだ!?」
医学生らしい理詰めの一面が出た勇太が食い下がるが、ルチアナは新しい缶チューハイのプルタブをプシュッと開けた。
「あー、もう送る時間だわ。私さ、これから見たいドラマの録画あるのよ。詳しいことは向こうで『ステータスオープン』って唱えれば分かるから。たぶん」
「たぶんって! 命に関わることだぞ! そんな無責任な!」
「大丈夫だって。猫助けたそのガッツがありゃ、なんとかなるっしょ。んじゃ、頑張ってきてー」
ルチアナがサンダル履きの足で床を軽く踏むと、勇太の足元に魔法陣が展開される。
抗う間もなく体が浮き上がり、内臓がひっくり返るような浮遊感に襲われた。
「嘘だろぉぉぉぉぉ―――っ!!」
中村勇太、享年20歳。
彼の魂の叫びは、タバコと酒の臭いが漂う白い空間に虚しく響き渡り――。
次の瞬間、彼は剣と魔法、そして未知なる闘気が支配する異世界「アナスタシア世界」の空の下へと、文字通り放り出されたのだった。
夜11時過ぎ。コンビニの自動ドアが開くと同時に、体にまとわりつくような初夏の湿気が、中村勇太(なかむら ゆうた、20歳)を包み込んだ。
「はぁ……最悪だ……」
肺の底から絞り出したのは、今日何度目か分からないため息だった。
医学部の解剖実習で神経をすり減らした後だというのに、バイト仲間の「急な腹痛(という名のサボり)」のせいで、ラストまでシフトに拘束されたのだ。時給が発生するとはいえ、本来なら道場の昇級試合後に仲間とファミレスで談笑していたはずの貴重な土曜の夜が、レジ打ちと廃棄弁当の処理で消えた。
(師範代、呆れてたかな……。僕って、本当についてない)
背負ったリュックが、鉛のように肩に食い込む。
中身は医学部の分厚い専門書だけではない。簡易応急セット、常備薬、ハーモニカ、そしてボーイスカウト時代の名残と“あの事件”以来の警戒心から手放せないサバイバルグッズ一式。
彼の「日常」と「万が一への備え」が詰まったその鞄は、今の勇太にはあまりに重すぎた。
「まあ、仕方ない。これも……ポイント稼ぎの予行演習だと思えば」
無理やり自分を納得させ、慣れた帰路を歩く。交差点の信号機が、チカチカと無機質な青を点滅させ、やがて赤へと変わった。
足を止めた、その時だ。
視界の端、アスファルトの黒い海に、白い小さな影が浮かんだ。
車道の真ん中でうずくまる、一匹の子猫。街灯に照らされたその背中は、震えるほどに小さく、頼りない。
「おい、危ないぞ! そんなところにいたら……!」
勇太の声に、子猫がビクッと体を強張らせる。恐怖で足がすくんでいるのだ。
直後、鼓膜をつんざくクラクションが夜を切り裂いた。
大型トラックのヘッドライトが、猛烈な光量で交差点を白く染め上げる。減速する気配はない。
(――間に合わない)
脳がそう判断するより早く、勇太の体は弾かれたように動いていた。
薙刀で培った踏み込み。独学で体に叩き込んだ危機回避の動作。そして何より、「あの時の無力感」を二度と味わいたくないという、魂の叫び。
彼はアスファルトを蹴り、子猫を庇うようにして車道へ飛び込んだ。
ドンッ!!
衝撃という言葉では生温い。世界が破砕する音がした。
熱い痛みが全身を駆け巡ったのは一瞬。視界が激しく揺れ、抱きしめた子猫の柔らかな温もりだけを鮮明に残して、勇太の意識は急速に冷たい闇へと引きずり込まれていった。
「――ぅーっす、おーい。起きたかー?」
粘りつくような死の暗闇の中で聞こえたのは、どこか投げやりで、少ししゃがれた女の声だった。
そして、微かに漂う匂い。これは……メンソールのタバコの煙と、安っぽいアルコールの臭い?
勇太は、重いまぶたをこじ開けた。
そこに広がっていたのは、上下左右の感覚すら曖昧な、純白の空間。
そして目の前には、一人の女があぐらをかいて座っていた。
年齢は、中年といったところか。着古して毛玉の浮いたグレーのジャージ上下に、足元は健康サンダル。ボサボサの髪を適当に後ろで束ねている。
彼女は片手にストロング系の缶チューハイを、もう片方の手には細いタバコ――ピアニッシモを挟んでいた。
「……え?」
女は勇太が目を覚ましたのを確認すると、フーッと細く煙を吐き出し、面倒くさそうに言った。
「あー、どうも。私がルチアナ。一応、慈愛の女神ってことになってる。よろしくー」
女神――ルチアナは、缶チューハイをあおると、「プハァ」と親父くさい声を上げた。その姿は、いま勇太が味わったはずの「死」の重さとはあまりに不釣り合いな、場末の生活感に満ちていた。
「え? だ、誰……? 女神? ここは……?」
「だからルチアナだって。あー、神様ね、神様。とりあえず拝んどく?」
ルチアナはサンダル履きの足をボリボリと掻きながら、気のない返事をする。勇太は混乱する脳を必死に回そうとしたが、状況が全く飲み込めない。
「な、何だこの人……」
「えーっと、あんたが中村勇太くん、だっけ?」
ルチアナは足元に散らばっていた書類の一枚を拾い上げ、目を細めて確認する。
「あんたの最期、見てたわよ。自分の命捨てて猫助けるとかさ、今どき珍しい熱血漢だねぇ。おばさん、ちょっと感心しちゃった」
「え? 最期? ……僕、死んだの?」
「そ。トラックにドーンとね。結構派手にいったわよ。トマトみたいにグシャッと」
ルチアナは、昨日の晩御飯の話でもするように、残酷な事実を告げた。そしてピアニッシモの灰を、携帯灰皿にトントンと落とす。
「う、嘘だ……。だって僕、まだ医者にもなってないし……あの銃撃戦のトラウマだって克服できてないし、彼女だって……。結局、何も成し遂げられないまま、こんな……」
絶望が膝を折らせる。
だが、その沈痛な空気を読む気配もなく、ルチアナは空になった缶を握りつぶした。
「はいはい、しんみりしない。あの猫助けた根性に免じてさ、このルチアナさんが、特別にご褒美あげようって話」
「……ご褒美?」
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ルチアナはタバコを持った手で、やる気なさそうに手を叩いた。
「い、異世界転生……?」
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ルチアナが煙を吐きながら指を鳴らすと、光の粒子が勇太の胸に吸い込まれた。同時に、脳内に奇妙な情報の奔流が駆け巡る。
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医学生らしい理詰めの一面が出た勇太が食い下がるが、ルチアナは新しい缶チューハイのプルタブをプシュッと開けた。
「あー、もう送る時間だわ。私さ、これから見たいドラマの録画あるのよ。詳しいことは向こうで『ステータスオープン』って唱えれば分かるから。たぶん」
「たぶんって! 命に関わることだぞ! そんな無責任な!」
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ルチアナがサンダル履きの足で床を軽く踏むと、勇太の足元に魔法陣が展開される。
抗う間もなく体が浮き上がり、内臓がひっくり返るような浮遊感に襲われた。
「嘘だろぉぉぉぉぉ―――っ!!」
中村勇太、享年20歳。
彼の魂の叫びは、タバコと酒の臭いが漂う白い空間に虚しく響き渡り――。
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