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第一章
夢屋②
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翌朝、獣医は目を覚ますとなんだか寂しそうな顔をしていた。起きたばかりというのに疲れきった様子である。一晩で何歳も年を重ねたように疲れた様相でベッドサイドに腰を掛けている。
夢の中に住み着いている送り犬は主人と同じ景色を見ながらその心の深い悲しみに触れていた。獏にあんなことを言われたからだろうか、主人の心の色が今までよりもずっと鮮明に見える。
もともと素直な性格の子犬であった送り犬は、主人の悲しみに寄り添ってみることにした。
主人は、鈍色の悲しみを抱えていた。
「昨夜もまたリクを探す夢を見たよ」
寝室のベットに腰かけたまま、鏡台に向って身支度を整える妻に話しかけている。リク、というのは、送り犬が生きていたころの名だ。
「もっと、早く見つけられていたら……。いや、僕がきちんと繋いで入れば……」
夫の言葉に、妻は目に涙をためながら首を横に振った。
「誰のせいでもないわ……誰のせいでもない。もちろんあなたのせいじゃない。でも、リクには可哀想なことをしたわね」
夫婦は寄り添い、今にも一緒に悲しみの海に沈んでしまおうとしている。送り犬には主人たちの後悔の念が痛いほどに伝わってきた、寄り添う心の熱が、心の中に出来てしまった怨みの棘を、溶かしていく。
『そうだ、あれはそもそも俺のせいだ……』
送り犬は生前、とても元気な子犬だった。主人たちに可愛がられ、やんちゃなまま、のびのびと生活していた。
ただちょっと、ほんのちょっと好奇心が強かったのだ、いや、子犬というものは総じて好奇心の塊のようなものだろう。
あの日、主人が繋いでいたはずのリードが、何かの拍子に外れたのだろう。送り犬は好奇心の赴くまま、一人で外に飛び出した。坂の町を走り抜け、竜王山に迷い込んだ子犬は、目を輝かせた。初めて見る世界――
広い山を駆け回り、飛び交う蝶を追いかけ、小鳥にじゃれ付いた。そうして山で遊ぶうちに、飛び込んだ草むらで足に激痛が走った。猟師の仕掛けた罠にかかってしまったのだ。
最近、猟師たちの間で竜王山で珍しい金色の狐か鳥のようなものが現れる、などと言った噂が広まっていたのだ。その真偽は定かではない。雨上がりにでも光を浴びた狐の毛が金色に輝いただけなのだろう。だが、物好きな猟師たちが禁猟区であるにもかかわらず罠を仕掛けはじめた。
送り犬のかかった罠もその一つ。子犬はもがき、もがき、命の限り逃げようとして、先に命の方が燃え尽き、痛みの分だけ、寂しさの分だけ、未練が募ってあやかしとなった。
『山には近づくなって、さんざんいわれていたのに……それを破った俺のせいだ。ごめん、ご主人、奥さん、ごめんよ……』
送り犬の目から、ぽろぽろと涙がこぼれて、主人の心の中に降り注いだ。涙は鈍色の悲しみを溶かし空色の美しい色に染めていく。
『今夜も主人が寝付けば、夢の中に獏は来るだろう』
送り犬はそう思った。ならば、夢ごと自分を主人から引き離してくれるはずだ。怨みを溶かし切った今、もう、主人に憑りつく必要もない。だが、離れるとなると寂しさが募ってしまう。離れてしまえば、今度こそ二人の傍にはいられない、離れ離れになってしまう。離れがたいと思ってしまう。
次に獏が来れば、無条件に自分を主人から引き離していくのだろう。獏にはそれができる。ならば。
『獏のやつに夢ごと奪われる前に俺が主人の心を救ってやりたい』
だが、肝心の方法がわからなかった。あやかしとなってから、送り犬の心はずっと淀んでいた。あんなに大好きだった主人のことさえ恨んでいたのだ。今更、どうしたら良いのか思い悩んでしまった。
自分が出ていくことが一番なのだとわかってはいる。でも、それでも、最期にもう一度、主人の笑顔を見てから消えたかった。
『獏のやつに、追い出されたりしないからな』
送り犬はそうつぶやく。
その夜、獏は再び保守の森を抜けて、竜王山を下り、獣医のもとへ急いだ。保守の森の門番には今日も顔見知りの白虎が就いており、今夜も人界へ出向く獏を労ねぎらってから快く送り出してくれた。
獣医が眠りについたのを見計らって、獏は夢の中に入り込む。そして、夢の中を探して、獏は送り犬を見つけた。ほほう、何か考えることがあったようだ、と獏は送り犬を見て思った。今夜の送り犬からは、昨夜のような刺々しさは伝わってこない。だが。
『待て』
獏が何か言葉を口にする前に、送り犬はそういった。
『取引をしよう。俺は主人の笑顔が見たい。だが、どうしたらいいのかわからない。おまえが俺の願いを手助けするというのなら、俺もおまえの夢の採取に協力する。濁った夢よりも、綺麗な夢の方がたぶん高く売れるのだろう?』
『良く知っているな、あやかしの世になど、足を踏み入れたこともないだろうに。おまえのいう通り、私も得られるのならば高価なものを仕入れたい』
送り犬の提示した取引に、獏は会得したように頷いた。ただでは出ていかないとは、なかなか図々しいあやかしだと獏は心の中で笑ったが、予想通りの反応である。むしろ、獏の方から提案しようと思っていたことであった。獏は口角を上げる。
『安心しろ、私にはそれができる。おまえに、夢をやろうと思って持ってきた』
獏は懐から、三粒の雛色の飴を取り出した。柔らかな光を放つ飴玉。
『これは、【幸福】が込められた夢玉だ、おまえの持つ幸せな記憶を呼び起しれくれるだろう。きっとおまえの役に立つ、私は四日目の夜に再び来る。その時、獣医の夢を仕入れるつもりだ、それまで、良い夢を見ろ』
そういい残して、獏は帰って行った。送り犬はその雛色の飴を一粒取り出す。透明な飴の中には、きらきらとした金色の砂のようなものが浮いていた。
ころんと一粒、口に含むと、送り犬は主人の夢の中で眠りに就いた。
突然、夢の中に眩しい光が差し込む。送り犬がその光に顔を歪めて目を開けると、見慣れた景色が人がっていた。
「あぁ、リク、目が覚めたのかい? ちょうど午前の診察が終わったところなんだ、今から散歩に行こうか」
優しい主人の顔が、見つめてくる。送り犬、いや、リクは尻尾を振ると、主人について散歩を始めた。
大好きな公園、お気に入りの花屋、ちょっと気になる猫がいる家の前……いつもの散歩道を心行くまで歩いて帰ると、奥さんがおやつを用意して待っていてくれる。
「おかえりなさい」
優しい奥さんの笑顔。幸せな毎日が続いていくと信じていたころの夢。幸せだった、ご主人と奥さんと、ずっと一緒に暮らしていきたかった。二人の笑顔を見ていたかった。
ぽろぽろと、リクの目から涙が零れ落ちる。涙は夢の中に広がって、夢を空色に染め上げていく。
翌朝、獣医は爽やかな朝を迎えた。いつになく清々しい顔をしていた。
「おはよう、あなた、なんだか、嬉しそうね。良い夢が見られた?」
「あぁ、リクと過ごした夢を見た、懐かしいなぁ」
嬉しそうに、獣医は笑った。送り犬はその光景を主人の中から見ていた。主人の笑う顔に、送り犬の心にもだんだんと明るい色が灯る。もう、主人に対する未練などはない。
『もう、俺にはこれで十分だ』
リクは獏から受け取った飴玉二つを仕舞い込む。獏に返すつもりでいた。
その後の二夜、リクは主人の見る美しい夢の中で幸せに過ごした。そして、獏との約束の夜。
獏は獣医が眠りに就くと、夢の中に入り込む。今夜は約束の夜だ、果たして、送り犬は主人の夢から抜け出すことに承諾するだろうか。獏は長い睫毛を伏せてふぅっと笑う。どうやら勝算があるらしい。
『よう』
と、清々しい顔をした送り犬が迎えてくれた。もう数日前の禍々しさはすっかり消え失せている。黒い靄など、どこにもなかった。
『心は、決まったか』
『あぁ、世話になったな。これは返しておく』
送り犬は晴れやかな顔をして頷くと、獏に雛色の夢玉を二つ返した。
『一つで良かったのか?』
『いい、俺には過ぎたものだ』
『やけに物わかりがいい。私が夢を採取する前に夢から逃げろ。そうすれば、おまえは夢に囚われることはない、無事に成仏できる』
『お節介なやつだな、女狐に礼をいっておいてくれ』
送り犬は夢から抜け出す前に、そんなことを言った。
『自分でいえ、あやかしの世に立ち寄れば会えるだろう?』
『狐と犬は仲が悪いんだ』
送り犬の答えに、獏は呆れたような顔で少し笑った。
『都合の良い関係だ。承ろう、伝える』
『ありがとう、じゃぁな』
そういい残して、からからと笑うと送り犬は消えた。
獏は送り犬の気配が消えたのを確認してから両手を合わせる。瞳を閉じて、念を込めると、夢の世界が溶けて獏の手の中にどんどん吸い込まれていった。
辺り一面は透明な無の世界となり、ころんと、美しい空色の飴が一粒、獏の手のひらに転がった。
玉藻前と約束の日、獏はいつもよりも少しだけ早く店を開けた。なんとなく玉藻前は開店前に店を訪れる予感がしたのだ。その勘は当たる。
「ごめんください、少し早いのですが、待ちきれずに来てしまいました。開いていますか?」
『商い中』の札がかかっているのを見て、扉を開けたのだろう。シャランシャランという鈴の音のあとで、美しい女が姿を現した、玉藻前だ。
「えぇ、お約束のもの、用意できました」
獏は玉藻前に空色の飴玉を見せた。抜けるような空の色は、清々しさを感じさせる。
「ありがとうございます、お代を……」
「おかげさまで他にも良質な夢を手に入れることが出来ました。約束していた半値で結構です」
獏は獣医の夢の他に、妻の方の夢も抜き取っていた。美しい桜色の飴玉が棚に並んでいる瓶の中におさまっている。
「礼を伝えてくれといわれました」
獏は、誰が、とかいわなかった。だが、玉藻前は会得したように、淡い色の長い睫毛を伏せて。
「こちらこそ、と、お伝えください」
そう、微笑む。
まったく、犬と狐は仲が悪いらしい、本当に都合の良い間柄だ。獏は口の端で笑って「機会があれば」と返す。
玉藻前は和紙に丁寧に包まれた空色の飴玉を鞄にしまうと、代わりに大きな蒼い紙幣を四枚取り出し、獏に支払いを終えると優雅な足取りで店を出ていこうとする。
「あ、そうでした、私は藍宵通りで『香堂』という店を開いております。香が必要になりましたら、いつでもお越しください。お礼に力になりますよ」
美しい狐のあやかしは、そう言い残すと「では」と優雅な足取りで去っていった。ふわりと、長い髪が揺れる。
「香か──生憎、私に妻はいない。贈るような相手もな」
獏は長い睫毛を伏せため息をつくと、重たい扉が閉まるまで玉藻前の姿を見送った。そして店には再び静寂が訪れる。ゆったりとした時間の中を、一匹の蝶がふわふわと彷徨うように飛んでいる。
それからほどなくして、あの獣医の夫婦は子犬のように元気な男の子を授かったようだ。名前を『海』と名付けたようである。
忙しい獣医の病院には、可愛らしい子供の声が響くようになった。看護師の女性は、新米母という新しい本業を得て、しばし看護師業は休業のようである。
海の成長を見守りたい。新たな目的が生まれたリクは、生まれ変わるための成仏はせず、あやかしの国の住人となる道を選んだ。獏の口利きで白虎の手形を手に入れ、ときどき保守の森を通り、人間の世界に遊びに行っては、子供を見守っているようだ。おかげで海もすくすくと成長していることだろう。
獏の店には実に様々な客が夢を買いに来る。ある者は大切なものへの贈り物に、ある者は失った幸せを思い出すため、そしてまたある者は……。
客の求める夢を仕入れるために、獏は人間の世界に赴き、人の見る夢を抜く。人が夢の内容を覚えていないのには、こんな裏があるからなのかもしれない。きっと、その夢を、獏が抜いているのだ。美しい色の、飴玉の姿にして。
夢の中に住み着いている送り犬は主人と同じ景色を見ながらその心の深い悲しみに触れていた。獏にあんなことを言われたからだろうか、主人の心の色が今までよりもずっと鮮明に見える。
もともと素直な性格の子犬であった送り犬は、主人の悲しみに寄り添ってみることにした。
主人は、鈍色の悲しみを抱えていた。
「昨夜もまたリクを探す夢を見たよ」
寝室のベットに腰かけたまま、鏡台に向って身支度を整える妻に話しかけている。リク、というのは、送り犬が生きていたころの名だ。
「もっと、早く見つけられていたら……。いや、僕がきちんと繋いで入れば……」
夫の言葉に、妻は目に涙をためながら首を横に振った。
「誰のせいでもないわ……誰のせいでもない。もちろんあなたのせいじゃない。でも、リクには可哀想なことをしたわね」
夫婦は寄り添い、今にも一緒に悲しみの海に沈んでしまおうとしている。送り犬には主人たちの後悔の念が痛いほどに伝わってきた、寄り添う心の熱が、心の中に出来てしまった怨みの棘を、溶かしていく。
『そうだ、あれはそもそも俺のせいだ……』
送り犬は生前、とても元気な子犬だった。主人たちに可愛がられ、やんちゃなまま、のびのびと生活していた。
ただちょっと、ほんのちょっと好奇心が強かったのだ、いや、子犬というものは総じて好奇心の塊のようなものだろう。
あの日、主人が繋いでいたはずのリードが、何かの拍子に外れたのだろう。送り犬は好奇心の赴くまま、一人で外に飛び出した。坂の町を走り抜け、竜王山に迷い込んだ子犬は、目を輝かせた。初めて見る世界――
広い山を駆け回り、飛び交う蝶を追いかけ、小鳥にじゃれ付いた。そうして山で遊ぶうちに、飛び込んだ草むらで足に激痛が走った。猟師の仕掛けた罠にかかってしまったのだ。
最近、猟師たちの間で竜王山で珍しい金色の狐か鳥のようなものが現れる、などと言った噂が広まっていたのだ。その真偽は定かではない。雨上がりにでも光を浴びた狐の毛が金色に輝いただけなのだろう。だが、物好きな猟師たちが禁猟区であるにもかかわらず罠を仕掛けはじめた。
送り犬のかかった罠もその一つ。子犬はもがき、もがき、命の限り逃げようとして、先に命の方が燃え尽き、痛みの分だけ、寂しさの分だけ、未練が募ってあやかしとなった。
『山には近づくなって、さんざんいわれていたのに……それを破った俺のせいだ。ごめん、ご主人、奥さん、ごめんよ……』
送り犬の目から、ぽろぽろと涙がこぼれて、主人の心の中に降り注いだ。涙は鈍色の悲しみを溶かし空色の美しい色に染めていく。
『今夜も主人が寝付けば、夢の中に獏は来るだろう』
送り犬はそう思った。ならば、夢ごと自分を主人から引き離してくれるはずだ。怨みを溶かし切った今、もう、主人に憑りつく必要もない。だが、離れるとなると寂しさが募ってしまう。離れてしまえば、今度こそ二人の傍にはいられない、離れ離れになってしまう。離れがたいと思ってしまう。
次に獏が来れば、無条件に自分を主人から引き離していくのだろう。獏にはそれができる。ならば。
『獏のやつに夢ごと奪われる前に俺が主人の心を救ってやりたい』
だが、肝心の方法がわからなかった。あやかしとなってから、送り犬の心はずっと淀んでいた。あんなに大好きだった主人のことさえ恨んでいたのだ。今更、どうしたら良いのか思い悩んでしまった。
自分が出ていくことが一番なのだとわかってはいる。でも、それでも、最期にもう一度、主人の笑顔を見てから消えたかった。
『獏のやつに、追い出されたりしないからな』
送り犬はそうつぶやく。
その夜、獏は再び保守の森を抜けて、竜王山を下り、獣医のもとへ急いだ。保守の森の門番には今日も顔見知りの白虎が就いており、今夜も人界へ出向く獏を労ねぎらってから快く送り出してくれた。
獣医が眠りについたのを見計らって、獏は夢の中に入り込む。そして、夢の中を探して、獏は送り犬を見つけた。ほほう、何か考えることがあったようだ、と獏は送り犬を見て思った。今夜の送り犬からは、昨夜のような刺々しさは伝わってこない。だが。
『待て』
獏が何か言葉を口にする前に、送り犬はそういった。
『取引をしよう。俺は主人の笑顔が見たい。だが、どうしたらいいのかわからない。おまえが俺の願いを手助けするというのなら、俺もおまえの夢の採取に協力する。濁った夢よりも、綺麗な夢の方がたぶん高く売れるのだろう?』
『良く知っているな、あやかしの世になど、足を踏み入れたこともないだろうに。おまえのいう通り、私も得られるのならば高価なものを仕入れたい』
送り犬の提示した取引に、獏は会得したように頷いた。ただでは出ていかないとは、なかなか図々しいあやかしだと獏は心の中で笑ったが、予想通りの反応である。むしろ、獏の方から提案しようと思っていたことであった。獏は口角を上げる。
『安心しろ、私にはそれができる。おまえに、夢をやろうと思って持ってきた』
獏は懐から、三粒の雛色の飴を取り出した。柔らかな光を放つ飴玉。
『これは、【幸福】が込められた夢玉だ、おまえの持つ幸せな記憶を呼び起しれくれるだろう。きっとおまえの役に立つ、私は四日目の夜に再び来る。その時、獣医の夢を仕入れるつもりだ、それまで、良い夢を見ろ』
そういい残して、獏は帰って行った。送り犬はその雛色の飴を一粒取り出す。透明な飴の中には、きらきらとした金色の砂のようなものが浮いていた。
ころんと一粒、口に含むと、送り犬は主人の夢の中で眠りに就いた。
突然、夢の中に眩しい光が差し込む。送り犬がその光に顔を歪めて目を開けると、見慣れた景色が人がっていた。
「あぁ、リク、目が覚めたのかい? ちょうど午前の診察が終わったところなんだ、今から散歩に行こうか」
優しい主人の顔が、見つめてくる。送り犬、いや、リクは尻尾を振ると、主人について散歩を始めた。
大好きな公園、お気に入りの花屋、ちょっと気になる猫がいる家の前……いつもの散歩道を心行くまで歩いて帰ると、奥さんがおやつを用意して待っていてくれる。
「おかえりなさい」
優しい奥さんの笑顔。幸せな毎日が続いていくと信じていたころの夢。幸せだった、ご主人と奥さんと、ずっと一緒に暮らしていきたかった。二人の笑顔を見ていたかった。
ぽろぽろと、リクの目から涙が零れ落ちる。涙は夢の中に広がって、夢を空色に染め上げていく。
翌朝、獣医は爽やかな朝を迎えた。いつになく清々しい顔をしていた。
「おはよう、あなた、なんだか、嬉しそうね。良い夢が見られた?」
「あぁ、リクと過ごした夢を見た、懐かしいなぁ」
嬉しそうに、獣医は笑った。送り犬はその光景を主人の中から見ていた。主人の笑う顔に、送り犬の心にもだんだんと明るい色が灯る。もう、主人に対する未練などはない。
『もう、俺にはこれで十分だ』
リクは獏から受け取った飴玉二つを仕舞い込む。獏に返すつもりでいた。
その後の二夜、リクは主人の見る美しい夢の中で幸せに過ごした。そして、獏との約束の夜。
獏は獣医が眠りに就くと、夢の中に入り込む。今夜は約束の夜だ、果たして、送り犬は主人の夢から抜け出すことに承諾するだろうか。獏は長い睫毛を伏せてふぅっと笑う。どうやら勝算があるらしい。
『よう』
と、清々しい顔をした送り犬が迎えてくれた。もう数日前の禍々しさはすっかり消え失せている。黒い靄など、どこにもなかった。
『心は、決まったか』
『あぁ、世話になったな。これは返しておく』
送り犬は晴れやかな顔をして頷くと、獏に雛色の夢玉を二つ返した。
『一つで良かったのか?』
『いい、俺には過ぎたものだ』
『やけに物わかりがいい。私が夢を採取する前に夢から逃げろ。そうすれば、おまえは夢に囚われることはない、無事に成仏できる』
『お節介なやつだな、女狐に礼をいっておいてくれ』
送り犬は夢から抜け出す前に、そんなことを言った。
『自分でいえ、あやかしの世に立ち寄れば会えるだろう?』
『狐と犬は仲が悪いんだ』
送り犬の答えに、獏は呆れたような顔で少し笑った。
『都合の良い関係だ。承ろう、伝える』
『ありがとう、じゃぁな』
そういい残して、からからと笑うと送り犬は消えた。
獏は送り犬の気配が消えたのを確認してから両手を合わせる。瞳を閉じて、念を込めると、夢の世界が溶けて獏の手の中にどんどん吸い込まれていった。
辺り一面は透明な無の世界となり、ころんと、美しい空色の飴が一粒、獏の手のひらに転がった。
玉藻前と約束の日、獏はいつもよりも少しだけ早く店を開けた。なんとなく玉藻前は開店前に店を訪れる予感がしたのだ。その勘は当たる。
「ごめんください、少し早いのですが、待ちきれずに来てしまいました。開いていますか?」
『商い中』の札がかかっているのを見て、扉を開けたのだろう。シャランシャランという鈴の音のあとで、美しい女が姿を現した、玉藻前だ。
「えぇ、お約束のもの、用意できました」
獏は玉藻前に空色の飴玉を見せた。抜けるような空の色は、清々しさを感じさせる。
「ありがとうございます、お代を……」
「おかげさまで他にも良質な夢を手に入れることが出来ました。約束していた半値で結構です」
獏は獣医の夢の他に、妻の方の夢も抜き取っていた。美しい桜色の飴玉が棚に並んでいる瓶の中におさまっている。
「礼を伝えてくれといわれました」
獏は、誰が、とかいわなかった。だが、玉藻前は会得したように、淡い色の長い睫毛を伏せて。
「こちらこそ、と、お伝えください」
そう、微笑む。
まったく、犬と狐は仲が悪いらしい、本当に都合の良い間柄だ。獏は口の端で笑って「機会があれば」と返す。
玉藻前は和紙に丁寧に包まれた空色の飴玉を鞄にしまうと、代わりに大きな蒼い紙幣を四枚取り出し、獏に支払いを終えると優雅な足取りで店を出ていこうとする。
「あ、そうでした、私は藍宵通りで『香堂』という店を開いております。香が必要になりましたら、いつでもお越しください。お礼に力になりますよ」
美しい狐のあやかしは、そう言い残すと「では」と優雅な足取りで去っていった。ふわりと、長い髪が揺れる。
「香か──生憎、私に妻はいない。贈るような相手もな」
獏は長い睫毛を伏せため息をつくと、重たい扉が閉まるまで玉藻前の姿を見送った。そして店には再び静寂が訪れる。ゆったりとした時間の中を、一匹の蝶がふわふわと彷徨うように飛んでいる。
それからほどなくして、あの獣医の夫婦は子犬のように元気な男の子を授かったようだ。名前を『海』と名付けたようである。
忙しい獣医の病院には、可愛らしい子供の声が響くようになった。看護師の女性は、新米母という新しい本業を得て、しばし看護師業は休業のようである。
海の成長を見守りたい。新たな目的が生まれたリクは、生まれ変わるための成仏はせず、あやかしの国の住人となる道を選んだ。獏の口利きで白虎の手形を手に入れ、ときどき保守の森を通り、人間の世界に遊びに行っては、子供を見守っているようだ。おかげで海もすくすくと成長していることだろう。
獏の店には実に様々な客が夢を買いに来る。ある者は大切なものへの贈り物に、ある者は失った幸せを思い出すため、そしてまたある者は……。
客の求める夢を仕入れるために、獏は人間の世界に赴き、人の見る夢を抜く。人が夢の内容を覚えていないのには、こんな裏があるからなのかもしれない。きっと、その夢を、獏が抜いているのだ。美しい色の、飴玉の姿にして。
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