Absolute Zero

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六章

六章

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「・・・遥、元気でな」

 サイドミラーに映る娘の姿を名残惜しく見つめながら、私は呟いた。おそらく、もう顔を合わせることは叶わないだろう。もっとゆっくり話したかった。涼にも、会いたかった。・・・だが私には、やらなければならないことが残されている。

 神田川から東京ドームの方向へ、車を走らせる。私が待っていろと指定した交差点の、横断歩道のすぐ近くに植えられた街路樹の真下に、ぽつんと座っている少女がいる。
「・・・待たせたな。乗って」
 私が車から呼びかけると、少女は小さく頷いて立ち上がり、車に近寄ってきた。私が助手席の扉を開けると、彼女はそのまま黙って車に乗り込み、私の顔をじっと見つめている。
「近くに停めるから。そうしたら裏口から中に入るぞ」
 少女は首だけ横に向けて、私のことをまだ見つめている。私は運転のために前を見ているから、彼女のことを見てあげられないが、片手で彼女の手を握り声だけかけてやる。
「大丈夫だ。何も心配しなくていいから」
 それを聞いた彼女は、それでも何も言わずに私の手を両手でそっと握り返した。

 車を降り、歩いて東京ドームの外周まで来た。当然ゲートは全て閉まっていて勝手に中に入ることはできないので、裏口の扉の前で少女に声をかける。
「頼む。開けられるか」
 少女は私の顔をちらっと見上げて一度だけ頷き、扉をじっと睨んだ。すると少女の立っている周りに冷気が立ち込み、ほんの少しだけ少女が顔を顰めてから、扉に向かって片手を伸ばした。次の瞬間、少女から発せられた衝撃によって鉄の扉は大きくひしゃげて、奥へと吹き飛ばされた。
「派手にやったな・・・」
 私が苦笑いしながら周りに見られていないか確かめているのを、少女は何か問題でもあるのと言いたげな顔で見つめている。
「まあいい。さっさと中に入ろう」
 少女の手を引いて、ドームの中心まで歩く。選手でもなければここに立つ経験など普通はないだろうが、想像以上に広く感じる場所だ。これなら大丈夫そうだ・・・と思いたい。
「・・・宮尾?」
 やっと少女が、とても小さな声で言葉を発した。
「なんだ」
「本当にいいの?」
「・・・二人で決めたことだろう」
 私がそう返すと、彼女は困ったように俯いてしまって何も言わなくなった。
「座って」
 私がそう言って芝生の上に腰を下ろすと、彼女も同じように私の前に体育座りで座った。
「私は小さい頃からヒーローに憧れていた」
 突然語り始めた私の顔を彼女は驚いたように見ていたが、私はそのまま続けた。
「映画で観るスーパーヒーロー、漫画で読む熱血主人公。創作の世界だとは当然わかっていても、この世の中でも大勢の人を救える手段は必ずあるはずだと信じていた。だが私には空を飛ぶ能力もなければ、強大な敵を打ち倒す力もなかった。だから私は勉強したんだ。勉強して、科学者になった。製薬会社に入って、何万人という人を救える薬を作ろうと努力した。だが、実際はどうだ。私の属する会社は、裏でほとんど真逆のことをしているような組織だった。最悪だよ。・・・でも逆に、チャンスでもあるんだ。偶然かもしれないが、他の誰にも止めることができない被害を、私だけが止めることができるのなら、まさしくヒーローじゃないか」
 少女は、目を逸らすこともなく真っ直ぐと私の瞳を貫く。
「セツナ。一番の被害者は、間違いなく君だ。当たり前に生きて、当たり前の幸せを、当たり前に受けられたなら、どれほど良かっただろうか。でも現実はそうじゃないんだ。・・・自分を怪物にしたと復讐することもできる。好きなだけ大暴れして、人類そのものを敵にすることもできる。でも最期に、人らしく在りたいなら、一緒にそうしよう。独りじゃないから、怖くないだろう?」
「・・・わからない。宮尾は怖くないの?」
「私には大切な家族がいる。叶えたかった夢もある。だから、どちらかと言ったら悔しいけど・・・この役割は、もしかすると世界を救うかもしれないんだ」
「宮尾がしたいなら、私もそうする。私には元から・・・何もないから」
 感情という言葉が世界で一番似合わないような少女の顔に、初めて哀しいという言葉が浮かんだ。この子はきっと、優しい子に育ったはずだったのだろう。

「じゃあ、力を抜いて」
 彼女を仰向けに寝かせて、その上に私は跨った。両手を彼女の首に添える。
「すぐに、終わらせるから・・・」
 彼女はゆっくりと一回瞬きをしてから、顎を少しだけ上下に動かした。私は、両手に力を込める。すぐに、私たちの周りの芝生が次々と凍りつき始めた。少女が苦しそうに身体を捩らせて、足をばたつかせる。私はそれを力で押さえつけながら、更に首を絞める力を強めた。少女が目を見開いて、酸素を求めようと口を開く。少女が完全に力を失いそうになる、まさに直前、私は少女の目が物語っている感情を見てしまった。・・・生きたい、と。

ーーー正義とは、何か。

ーーー目の前の少女ひとり救えないで、何がヒーローか。

 頭の中に声が鳴り響く。どこでも聞いたことがあるような、ありふれた台詞だ。それでも、私は迷ってしまった。目の前でもがき苦しむ少女の息の根を止めることが、私の憧れていた存在か? 力を込めていた両手を、彼女の首から一瞬、離した。
 直後、彼女の光を失いかけていた瞳は光を取り戻し、口から大きく酸素を吸い込んだ。彼女を中心に、冷気の波動が高速でドームに広がる。そして、目の前の私を含めたその場の全てを、一切合切、氷へと変えた。
 私が最期に見たのは、私の名前を必死に叫ぶ少女の口の動きと、一度だって見たことがなかった彼女の、涙だった。

 多数の見知らぬ人間を犠牲にして、自分や大切な人間を救うこと。
 自分や大切な人間を犠牲にして、多数の見知らぬ人間を救うこと。

 誰がその罪を問えるだろうか。
 誰がその行動を讃えられるだろうか。

 結局、誰しも独善的なら、大切な何かを護ろうとすることを誰が咎められるだろうか。

 大切な何かを護ろうとすることの、何が罪だろうか。



 セツナ、それが私のことを指している言葉だということは知っている。でも、それがどういう字で書き表されているのかは知らない。
「セツナ。明日の検査は、いつもより少し大変になるかもしれない。だけど、明日頑張れたら、セツナの好きなリンゴをこっそり買ってきてあげるから。しかも、高級なやつだ」
 この人は、私のことをずっと昔から世話してくれている。そう指示されてやっているのかもしれないし、演技かもしれないけど、他の白衣の人間よりは私に優しくて、たぶん好きな人間だ。でも、リンゴの好きと結婚したい好きの違いが何なのかは知らない。
「ほら、もうすぐ22時だから、今日はもうおやすみ」
 そう言って、彼は私のベッドから腰を上げて、私の額にキスをする。立ち去る前に私の髪を少し撫でて、部屋のドアに手をかけた。
「・・・小川(おがわ)」
「ん、どうした?」
 部屋の電気を消して、ドアを半開きにした状態で彼がにこやかに振り返る。
「おやすみ」
 私がそう呟いたのを聞いて、彼は笑顔で頷く。
「ああ、おやすみ。セツナ」
 ドアが閉められて、部屋の中はオレンジ色の小さな電球の明かりだけになる。私の手首に嵌められた機械の輪っかが、数秒に一度白っぽい水色に点滅する。それを何回か見つめた後、ベッドの上で横向きに寝転がり布団を首までかける。

 それが、私があの研究施設で最後に過ごした夜だった。

 翌日。
「・・・照射する熱量を50%増加しろ」
「いきなりそんなに増やして大丈夫ですか?」
「いいから、早くしろ」
「かしこまりました」
 いつもの検査。たぶん本当は実験という言葉のほうが当てはまっていると思うけど、彼らは私に検査と言っている。何をしているのかも、何のためにしているのかも、私にはほとんど説明してくれない。ただ、必要なことだと、幾度となく検査されているうちに、私も説明を求めることをやめた。
 強化ガラスの向こう側で、白衣の人間たちが何やら言い合いながら機械を操作している。すると、私のいる真っ白な部屋の中に置かれた大きな機械のアームが動き出し、私の身体に向かって熱を照射する。いつものことだ。身体の表面が熱く感じる。
「うっ・・・っく・・・」
 小川が昨日、いつもより大変になると言っていた。確かに熱量が普段より多い気がする。手首に嵌められた機械が、ほとんど見ることのない黄色に点滅する。
「これ以上は・・・」
「そのまま続けろ」
「しかし・・・」
「続けろと言っているだろう!!」
「・・・はい」
 さっきよりも更に強くなったように感じる熱は、私のことを熱し続ける。目をきつく瞑り、息を細かく漏らしながらその苦痛に耐える。ふと見ると、手首の機械は黄色からオレンジ色に変わっている。私はガラスの向こうの、指示を出しているであろう人間の目を睨む。その近くで、小川が心配そうに私のことを見つめているのが目に入った。
「さあ、放出してみろ。怒りでも何でもいい。できるはずだ・・・!」
 ガラス越しの目が、嫌な笑い方をしている。たぶんこれは、嫌いという気持ちだ。
「過去の実験の分まで蓄積されている可能性がありますので・・・」
「そうであれば、それを含めた規模も確かめるまでだ」
「流石に危険です!」
「なに、せいぜいガラスが破られる程度だろう」
「前例がないので、慎重になるべきです!」
「・・・おい、いい加減にしろ。お前はもう下がっていろ」
 何やら激しい口論をした結果、小川がガラスの向こうの部屋から出ていった。嫌いな目だけが、私を捉え続けている。私は、ガラスに向かって片手を伸ばした。その目を睨んで力を強く込めると、目には見えない衝撃が私を中心に迸った。対物ライフルでも傷がつかないようなガラスに、大きくヒビが入る。オレンジ色に光っていた手首の機械は、また黄色に戻っていた。
「・・・はは、ははは! 素晴らしいじゃないか。もっと、見せてくれ」
 再び機械が操作され、照射されていた熱が一気にさっきよりも強くなる。
「ああっ・・・!!」
 今までに感じたことのない苦痛にうめき声が漏れる。手首の機械がすぐに再びオレンジ色になり、どんどん真っ赤に変わっていく。
 その時、真っ白な部屋の反対側の入口のロックが解除された音がして、ハッチが開いた。小川が私に向かって片手を伸ばして立っている。
「セツナ! もう十分だ。終わりにしよう!」
「小川ァ!! 何を勝手にやっている!!」
 私は咄嗟に、その嫌いな目の方に向き直り再び手を掲げた。私にはその時、どうなるかなんてことはわからなかったのだ。
 私が見たのは、部屋を取り囲む強化ガラスが全て吹き飛ぶのと、その先の部屋であの嫌いな顔が崩落する天井によって潰される様子までだった。背中側にいた小川のことは見られなかったが、おそらく・・・。



 真っ暗な中で、手首の機械だけが数秒に一度、白っぽい水色に点滅している。いつものベッドの上かと一瞬考えたが、オレンジ色の小さな電球の明かりがないので、それも違う。まだ頭がしっかりと働かない中、なんとか立ち上がる。
「小川・・・?」
 返事を期待できないのはわかっていながらも、彼の名前を呼ぶ。ふらふらと足を前に出したら、すぐに硬い瓦礫に頭をぶつけて、よろけてしまう。どうやら、私を取り囲むように瓦礫が落ちてきたようだ。それらをどうにかして掻き分けて身体を外に出すと、真っ白だった部屋は電灯が全て消え、代わりに非常時を告げる真っ赤な非常灯が点滅しているのが見えた。機械を操作していた部屋の方は、完全に天井が崩落して埋もれてしまっているように見える。私は、小川が開けたハッチの方へと歩いていき、積み重なっている瓦礫に向かってまた声をかけた。
「小川・・・」
 すると、微かにひゅーひゅーと息をする音が聞こえた。注意して聞かなければ気のせいかと通り過ぎてしまいそうなくらい小さな音を頼りに、私は瓦礫を退かしていく。
「小川!」
 瓦礫の山の中に、下半身が一際大きな瓦礫の下敷きになっている小川が倒れていた。
「今、退かすから」
「セツナ、無理だよ。セツナ・・・無理だって・・・セツナ!!」
 私がちっとも動かすことができない大きな瓦礫を懸命に退かそうとしているのを、小川は声を振り絞って静止した。
「セツナ、よく聞いて・・・。この施設は緊急事態が起きた場合、自爆装置によって施設ごと証拠隠滅するように設計されている。もうそんなに時間はないはずだ・・・。非常時にも職員が避難できるように、普段は使われないエレベーターが用意されている。それを使えば、地上に上がれるはずだよ」
「小川も、一緒に行こう」
「はっ・・・はは・・・無理だよ。もう下半身が潰されてる」
 私は何も言えずに、首を嫌々と横に振ることしかできない。
「そんな、泣きそうな顔もできたんだね。・・・セツナ、そこの端末を取ってくれないか」
 小川が指さした、近くに落ちている携帯端末を手渡す。
「ここで行われていたこと、全部、ある人に伝えるよ。とても真っ直ぐで、信頼できる人だ。ねえ、セツナ。僕は君のことを苦しめてきた人間の中の一人だ。何も変わらない。だけど、こんなことは間違っているのだと、気付かないふりを続けていたんだ。君に優しくすることで、君を愛することで、自分の罪を軽くできるつもりでいた。セツナ、もし君が少しでも僕に心を開いてくれていたのなら、僕にとってそれは成功していたんだろうけど・・・君にとっては、間違っていることなんだ」
 小川が涙を流しながら、首を横に向けて私を見る。
「許してくれ・・・セツナ。君にしたこと全てと、君に、愛を与えたことを。・・・ここを出たら、宮尾さんを頼るんだ。あの人は、本当の意味で君を助けてくれるはずだよ」
 辺りに、聞きなれない警告音が鳴り響く。小川が自分のIDを私に向かって押し付けた。
「行って、セツナ。・・・行ってくれ!!」
 私は顔をしわくちゃにして、目から水滴を何度も零しながら立ち上がった。首を何度も横に振りながら、小川のことを見つめて後ずさる。しかし、警告音がついにカウントダウンを始めたとき、私はとうとう走り出すしかなかった。
「セツナ・・・ごめん、ごめんよ・・・」
 残された実験室の中には、鳴り響く警告音と、ひとりの男の嗚咽が響いた。



「あら、あなたどうしたの?」
 翌日。会社のビルの一階で、スーツを着た受付の女性が私に声をかける。煤や埃にまみれた私の姿に怪訝な顔をしながら、私の返事を待っている。
「宮尾を、探してる」
「宮尾? って・・・社内の宮尾さん?」
 受付の女性は怪訝な顔をしたまま、私が手に握り締めている社員IDに目を向けた。
「それって、社員証? 誰かのお子さんかしら」
 少し見せて、と言って私からIDを受け取ってまじまじと眺めている。
「うーん、知らない方ね・・・あなたのお父さん?」
「違う。小川は、ひとりだけ・・・愛をくれた人」
「・・・愛?」
 受付の女性が顎を突き出して、聞き返してくる。
「私も、本当はよくわからない」
「えっと・・・どういうことかしら。とにかく、宮尾さんを探しているのね。その、小川さんは開発みたいだから・・・ちょっと待ってね」
 女性が受話器を取って誰かと話し始めた。私はぼーっと、周りを眺める。今まで施設から出たことがないので、全てが物珍しく見える。エレベーターで脱出した先は、この会社の表向きの研究施設に繋がっていたようで、小川のIDでとりあえずロックを解除しながら地上に上がってきた。どうやら私が起こした衝撃は地上にも影響を及ぼしたらしく、この会社も復旧に勤しんでいるようだ。
「・・・はい、ええ、はい。そうですね・・・えっ?」
 誰かと話している受付の女性が私の手首をちらっと見て、その後に私の目を見た。その目は、明らかに最初に私を見たときとは違う色を宿していた。
「あっ、ちょっと!!」
 私は、咄嗟に走り出していた。本能的な危険を感じたというか、そこにいてはまずいと思い、ビルの入口から勢いよく外に飛び出した。初めて見る、外の世界。文字通り、右も左もわからない。それでも、とにかくその場を離れようと足を動かした瞬間だった。
 機械が嵌められた手首とは反対の手首を、誰かに掴まれた。ぱっと振り返ると、背の高い大人の男性が私のことをじっと見下ろしていた。
「君が、セツナだね?」
 私が何も言わないでいると、彼は無言で私の手に握られた小川のIDを見てから、同じようなものを自分の懐から取り出して私に見せた。
「私は、宮尾だ。小川くんに全部聞いている。とりあえず、ここを離れよう」
 私の手を引いて彼が歩き出すとき、ビルの中からさっきの受付の女性が慌てて手を伸ばしているのが見えた。

 私は首を横に向けて、車窓から流れる景色を眺めていた。私が何も言わないと、宮尾も何も言わない。窓に映った私と目が合って、更にその奥にいる宮尾に目を向ける。
「宮尾は、誰なの?」
「・・・ざっくりしてるな」
「ざっくり?」
「君のことを助けるように、小川くんに頼まれたんだ。君のことを苦しめた人たちと同じ会社の人間だけど、今は敵みたいなものだな」
「・・・小川の敵ってこと?」
 私が聞き返すと、宮尾はしばらく返答に詰まって、一言だけこう言った。
「君の、味方ってことだ」
 私は窓にいる宮尾ではなくて、本物の宮尾の顔を見た。私が首を向けたとわかって、宮尾もちらっと私を見る。その時に彼が作り出した笑顔が、毎晩小川が私に見せてくれた笑顔にそっくりだった。
「その手首の、痛くないのか」
「痛くない」
「それが能力の暴発を抑えるんだろう?」
「よくわからない」
「・・・そうか」
「・・・」
「今、何歳なんだ?」
「何歳って?」
「生まれてから何年経ってるかってことだよ」
「一年って、何日?」
「365日だ」
「それなら、19歳くらい」
「・・・そうか。私には君と同い年の息子がいるよ」
「宮尾の息子?」
「そうだ。涼って言うんだ」
「・・・」
 その後は、二人ともしばらく黙っていた。それから1時間ほど移動した後、何日かそこに滞在すると言われて、私たちはビジネスホテルに入った。当然、私にとってそのようなものは初めてだったが、部屋の中は私が暮らしていた施設の部屋になんとなく似ていて、少し安心感のようなものを覚えた。

「変な質問かもしれないが・・・今までの暮らしは辛かったのか?」
 二人でそれぞれのベッドに腰掛けながら、同じテレビの方向を見て会話をする。
「わからない。私にとってはそれが普通」
「外の世界に憧れたりとかは?」
「それもわからない。外のことを教えてもらえなかったから」
「逃げ出したいと思わなかったか?」
 宮尾が見ているわけでもないテレビから目を離して、私の方を向いた。
「私は赤ん坊の頃から、あそこで育った。何回受けたかわからない検査が、時々痛かっただけ。・・・後は、何もわからない」
 私も宮尾の目を見てそう答えると、少しの間を置いて宮尾は質問を続けた。
「・・・好きなものはあるのか?」
「リンゴ」
「・・・リンゴ?」
 何か文句でもあるの、と私が目で訴えたら、宮尾は首を振ってまたテレビの方を向いた。
「それだったら、明日買ってくるよ」
「宮尾は?」
「私もリンゴは好きだよ」
「宮尾の、好きなもの」
 私が宮尾を見たままそう言うと、もう一度彼も私の方を向いて、少し微笑んだ。

 それから、宮尾の好きなものをたくさん教えてもらった。知らない言葉もたくさんあった。どのようなものだろうかと、彼の話からたくさん想像もした。でも、一番想像できなかったのは、家族と過ごす時間、だった。



 その後、何日かは宮尾は調べることがあると言って、日中はどこかへ出かけていた。私もついて行こうとしたが、危険だからと言われて、連れて行ってもらえなかった。代わりに、お金というよくわからない紙切れを渡されて、あまり遠くに行かなければ好きに街を歩いていいと言われた。
 最初に、リンゴを買った。外を歩いている人間にリンゴが欲しいと言ったら、置いてある場所を教えてくれた。そこにリンゴのジュースも売っていた。門番のような人間に紙切れを渡すと、何枚かの違う色の紙切れを返されて、丸い金属も一緒に返された。別の場所で、違う味のジュースが欲しいと言って、返されたお金を全部渡したら「そんなにいらない」と言われて、大半が返された。
 全てが楽しかった。全てが新鮮だった。夜になれば、ホテルに戻ってきた宮尾にその日の出来事を全部話した。宮尾は笑いながら、全部聞いてくれた。だけど、段々と、宮尾の笑顔は無理をしているような、嘘くさいものに変わっていっているような気がして、私は宮尾にもっと笑って欲しくて、余計にたくさん話をした。

「セツナ・・・その手首の機械、もうすぐ消えるんだろう」
「よく知らない」
「・・・そうか。今まで施設ではどうしてたんだ」
「小川が何日かに一回弄ってた。充電とか言って」
「つまり、もう充電をしていないから、もうすぐ止まるはずだ」
「止まると、ダメなの?」
「能力が暴発するとしたら、周りの人間を傷付けるだろう」
「宮尾のことも?」
「・・・もしかしたらな」
「私、”好き”は傷付けたくない」
 私がそう言ったら宮尾はしばらく黙って、それから腕を大きく広げて、私のことをぎゅっと抱きしめた。
「宮尾、泣いてるの?」
 宮尾は大きいから、抱擁されている位置から顔を覗き込んでも、よく見えなかった。
「セツナ。人を傷付けるのと、自分が傷付くのと、どちらが辛い?」
「嫌いは、傷付けたっていい。でも、好きを傷付けるのは、自分よりも辛い」
 今感じている、宮尾の温もり。それから、小川の笑顔。頭に浮かんで離れない。
「・・・セツナがたくさんの人を傷付けることが、”好き”にとっても辛かったら?」
「わからない。だけどたぶん、それも辛い」
「・・・」
「宮尾、どうして、そんなに悲しそうなの?」
「・・・ひとつだけ、方法があるとしたら、知りたいか?」



 宮尾と、「方法」について語り合って、それを実行することに決めた。私は端から命に執着していない。どうせ、検査されるだけの日々だった。白衣の人間たちが、私のことを手放したなら、私は誰かの迷惑になるより消えたほうがいい。だけど、私のために、小川も宮尾もいなくなってしまうなんて、何かおかしいと思う。よくわからないけど、それを考えると胸がズキズキって、痛くなる。
「セツナ。一番の被害者は、間違いなく君だ。当たり前に生きて、当たり前の幸せを、当たり前に受けられたなら、どれほど良かっただろうか。でも現実はそうじゃないんだ。・・・自分を怪物にしたと復讐することもできる。好きなだけ大暴れして、人類そのものを敵にすることもできる。でも最期に、人らしく在りたいなら、一緒にそうしよう。独りじゃないから、怖くないだろう?」
「・・・わからない。宮尾は怖くないの?」
「私には大切な家族がいる。叶えたかった夢もある。だから、どちらかと言ったら悔しいけど・・・この役割は、もしかすると世界を救うかもしれないんだ」
「宮尾がしたいなら、私もそうする。私には元から・・・何もないから」
 私はたぶん、直接宮尾を能力で傷付けることはないような気がする。確証はないけど、直感でそう思うんだ。だけど、私が命を失くす瞬間まで周りの全てを凍らせ続けたら、どっちにしろ宮尾は死んでしまう。窒素も液体になるくらいの温度になるんだから・・・。

「じゃあ、力を抜いて」
 私は仰向けに寝転がって、その上に宮尾が跨った。彼の両手が、私の首に触れる。
「すぐに、終わらせるから・・・」
 私はゆっくりと一回瞬きをしてから、顎を少しだけ上下に動かした。宮尾が、両手に力を込める。すぐに、私たちの周りの芝生が次々と凍りつき始めた。私が苦しみに身体を捩らせて、足をばたつかせても、宮尾はそれを力で押さえつけながら、更に首を絞める力を強めた。私は目を見開いて、酸素を求めようと口を開く。苦しい、苦しい、息が・・・。たぶん、これで終わりなんだ。最期に、宮尾の目を見た。宮尾、私、私・・・。

 生きたい・・・。

 消えかけていたはずの視界が、光を取り戻した。身体中に、酸素が行き渡る感覚がする。どうして? 私は一気に苦しみから解き放たれて、そして、周りの全てを何もかも、氷に変えてしまった。目の前にいた、好き、の存在も。

「宮尾・・・?」
 私は何度も首を小刻みに振る。氷となった宮尾は、私の目を見ているようだった。
「宮尾、宮尾!!」
 嫌だ嫌だと、何度も叫ぶ。大粒の涙が溢れて止まらない。小川だけじゃなくて、宮尾も。私の好きは、傷付いて欲しくないのに。どうして、どうして、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 ずるいよ・・・。一緒にって言ったのに。私のことだけ助けようなんて、結局自分のためだよ、そんなの。ずるいよ・・・。ヒーローになるんだったら、私を殺してよ・・・。

「ぅぁぁあああああああ!!!!!」
 氷だけの東京ドームの中心で、ひとりの少女の咆哮が響いた。
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