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一章 ユリア公爵令嬢

一 ひとりの私室

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 すばらしい舞踏会でしたわ! とみんなが口にした。

 お楽しみが終わったあとは気分が良くなるものだろう。

 さて、私室にて、項垂れてうがいを繰り返す女子がいる。

「うーー……」

 口の端から水をこぼし、くりかえし擦ってしまった口元は肌の粉もにじんでしまっているので、万が一にも人に見られてはいけないからと、うずくまる。しかしまた、中腰になりうがいをして口の中をきれいにしたい。人の気配などない。しかし、いつでも誰かに見られているのかもしれないと警戒を無くせない、せめて、私室にいる間はそのおそろしさを薄くしたいと、ユリアは使用人を拒んでいた。

 ようやくすこしは落ち着いて、ひと息ついた。ふわふわのタオルなのに肌に痛い。頑丈な体に生まれているから明日になればまた美しい肌に戻るだろうが、なんだか罪悪感がある。
 どうしてこうも上手にできないのだろう。

 ”綺羅星ユリア公爵令嬢にとって舞踏会は楽しいものではなく、体から追い出したい類のものである。たくさんの嘘を吐いた口をすすぎたい。その行動は五日ごとに繰り返される”。

 そんなことを認めてしまうわけにはいかない。

「”酸っぱいブドウジュースだった。傷んでいたのかも。後で叱っておくものよね……”」

 と、いうことにすり替えた。
 後日叱られることになる会場業務人は不憫なものである。これによりまた傲慢な公爵令嬢として広められるユリアもまた、実は不憫と言えるだろうが、そんな背景があろうがなかろうが、周囲が求めるキャラクター像が新聞や広報誌に載っていくだけのことだ。今はそんなことを考えたくもない。

 ユリアの中に誤解が刷り込まれた。
 立ち上がり、洗面所を出て、歩く。
 つらさはいずれ終わる。なくなる。代わりにユリアは人形のようになってゆくとしても。
 つらさも痛みもなくなればいい。それだけを願うほど、ユリアが生きる世界には問題が満ちていた。

 それをどうにかできると夢見るほども、ユリアは万能の天才ではない。
 それをどうにかできる人が現れてくれるとするならば──。

(王子殿下……。……)

 会わなくなって随分と経つ。会えなくされて随分と経つ。
 婚約者の彼に抱いていた淡い恋心を見失ってしまうほどには、ユリアは疲れていた。

 歩くユリアを映し出すもの。
 鏡、鏡、鏡。部屋は鏡だらけだ。そのどれもが宝飾品のように豪華絢爛に作られているため、価値があるものを用途以外に使うわけにはいかないと、ユリアの私室に置かざるを得なかった。これらはユリアのためにと貴族たちがこぞって贈ったプレゼントだ。まず、一人のプレゼントに幼いユリアが「ありがとう」と言ってしまった。それが大きな意味を持つ言葉だとは知らずに。そこからプレゼントが競うように贈られて、またそれに対してユリアが学習をしたことから、望みの言葉がもらえなかった貴族は「ユリア公爵令嬢はご自分の姿をみるのがお好きなのだ」と皮肉を広めて、結果として、ユリアへのプレゼントといえば鏡になってしまった。

 どうしてこうも上手にできないのだろう。
 ユリアは自分の能力不足を深く責めた。

 教えてくれる人はいなかった。
 母は亡くなり、父は国外だ。

 そんなことを思い出してしまったのは、鏡に映ったからだろうか。ユリアは体をかがめてスクワットをするように、あるいは忍者のように、忍び足で動いた。執務用の机につくまでがまるで障害の多い冒険のようだ。

(こんな姿、絶対に見られてはいけないわ)

 貴族社会は”姿”に厳しい目を向ける。
 ドレスをワインで汚すのが非常に重い罪であるように。
 かなり豪奢なドレスを椅子に収めるようにして、ユリアは腰掛けた。

 一人で脱ぐこともできないこのドレスの紐を解いてもらうのは明日の朝だ。体は疲れるが、ドレスを脱ぐことまで夜のうちにしていたら、使用人の主人らしく振る舞うことでもっとくたくたになってしまう。

 昼のうちに準備を言いつけてあった紙袋から、重い冊子を取り出して、ぱらりとめくった。

「王立学園の入学は近い……。少しわくわくと……。ううん、気を引き締めなくては……。……勉強しておかなくては。こうしてみると家庭教師が私に教えてくれたこととずいぶん違うんだもの。信じられない。美しいものごしとか音楽とか裁縫というのは、学園で必要な勉学ではなかったんだわ。これくらいができれば将来安泰だなんて信じなければよかった。……ああ、勉強……分からない」

 ユリアには学問の基礎がない。いきなり高校相当の学びから始めようとしても不可能というわけだ。天才だったら見ただけでピンとくるのかもしれないが、あいにくそうではないらしい。イライラしつつ、まずは目を通すだけでもとページをめくっていく。ほとんどのことは横滑りして頭を素通りしていくが、引っかかる単語もあった。とっかかりを見つけて、そこから見識を広げていくのがいいだろう。

(……ん?)ふと、首を傾げる。

(さっき想像した単語って、なんなのかしら? コウコウソウトウってどういうもの?)

 そんなものを聞いた覚えも教えられた覚えもないし、想像がつかない。そんなこと、あるはずないのに。

(……いや、例外があるんだった)

 人の記憶は知っていることだけで構成されているものだが、特別な啓示をもらうケースが存在するそうだ。

 神様からのお伝え。
 そのようなものがあると、聖書をたずさえた教皇がユリアに説いたことがある。
 ユリアはそれを話半分に聞いていたことを悔いた。だって、神様ときたら、加護をいただきやすいという公爵家の血筋にいるユリアにはその恩恵をくれなかったから、教皇の話を聞いているだけでも、嫉妬の渦に呑まれそうになるときがあり、怒らないためにも、真剣に聞かないようにしていた。ユリアなりの努力だった。

 双子の兄たちは、かしこい頭のや注目力を高める加護をもらっている。そんな力量差があるのに綺羅星公爵家のしきたりで長女が後継になると決まっているから、ユリアが舞踏会の中心にいてしまい、気まずさから疎遠になるという状態。神様の采配というやつは、ろくなことがないと思いもするだろう。

 しかしもっと集中して学習しておくべきであった。

(何が将来のためになるかわからないものだわ。今度は……気にかけよう……つらいけど……)

 数学、心理学、国語、古代語、歴史学、神聖学……。ユリアの目にぎっしりとした文字が映る。砂時計が一時間を刻んだ。書類の文面を読むことには慣れているユリアだが、さすがに読み疲れてしまい、教科書を閉じた。

 くん、と鼻を動かす。真新しい教科書たちは刷られたばかりのインクの匂いがする。印刷技術は最近商業化されてから華々しい広がりを見せてはればれと王城の門を叩いたのだ。そして王族主導のもと新しい教科書が作られた。殿様商売をしていた嫌味な旧業者たちが叩き出されたことを想像して、ユリアはちょっと愉快な気持ちになる。あのがめつい家系は蛇みたいにすれ違った人を睨むので、あまり好きではない。

 教科書の表紙を眺めると、新入学生の興味をそそるような、最先端の塗料で古典柄が描かれているコンビネーションだ。この組み合わせだから貴族院にも受け入れさせられたに違いない。そのデザインをした偉大な人は、奥付に名前のある王子殿下である。ほんとうになんでもできる人だな、とユリアは感心してしまう。

 きれいな憧れと、自分と比べてしまった悲しい気持ちが、頭を疲れさせた。とどめの一撃だった。

「今日は悪夢を見ない……。今日は悪夢を見ない……」

 お祈りを繰り返しながら、ユリアはドレスのスカートを持ち上げるようにして、ベッドに倒れ込んだ。布団をかぶることなんてできないので、たたまれていたやわらかい布を掴み、もぐるようにして眠った。ぶわりと広がった花束のようなスカートと、丸くなった布団と、はみ出た髪だけが滑稽に並んでいた。

 幼少期から、疲れているときには悪夢を見た。
 それがどんなものかは覚えていなくて、でも起きたあとには泣かされてしまっていた。はらはらとしばらく涙が止まらなくなるのだ。覚えてもいないようなことで。

 今日だけはだめだ。だって明日は王子殿下と会うという予定もあるのだし、それに……。

「誕生日だもの」と呟く。誰も祝ってくれなかったとしても、本人はこれだけは覚えているものだ。

「きっと悪夢も見逃してくれるわ。そうしてね。頼んだからね。16歳おめでとう、私……」

 慈しみたくなるような一日を生きる夢が見たいな、とユリアは想像しようとした。
 けれど、想像することもできなかった。


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