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一章 ユリア公爵令嬢

八 果たされない約束

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 少女たちの甲高い声。

 大広間から合流したのは男性グループのようで、神学者の挨拶を口にしていた。特権階級相手に舞い上がった彼女たちは、ユリア公爵令嬢がやってくるのでハンカチを渡してあげるつもりなのだと言ってしまった。
 なんと、私通の返信封筒を得意げに見せびらかしている。このような行いは下品なもので、しかし下品なほど人の関心を誘うものだ。

 彼女たちは、この話題で後ほど改めて会いましょう、と約束すらとりつけていた。こういう人ほど繋がりをつくるのが上手く、飛び抜けた才能や会話術を持たず潔癖の傾向があるユリアはそういうものは苦手である。コンプレックスを刺激されつつも、こうはなりたくないという気持ちを抱いた。

 そして男性たちは離れていったが──
(つまり、私が現れないとなれば悪評が広まる可能性が高くなった。親切な少女たちを公爵令嬢は無視したのだと! 行かないわけには行かなくなったわ。しょうがない、一瞬登場して、そのハンカチは違うようだと告げて、すみやかに帰ろう……)

 偽物だとあらかじめ知っているのだから、しげしげと確認する必要もない。素早く済ませられるだろう。

 喉が苦しい。ユリアは自分で気づいていなかったが、ほとんど呼吸をしていなかった。緊張した浅い吐息、それでは思考を鈍くさせてしまい失敗を招きやすい。これまではそんなことに気づいてくれる存在は近くにいなかったが、

「風邪(・・)だ」

 ダンがおかしなことを口にしたかと思えば、メアリがユリアのおでこに手を当てて、ジニーが腕でバツを作った。
 ユリアは反論をする間も与えられず肩に担がれて、連れ去られてしまった。

 目を白黒させているうちに、ようやく頭の片隅でひらめきが起こる。自分の頭の回転の悪さに嫌気がさす。

(ああそう、主人の体調を守るのは最優先事項としたわけね!? 実際、私はメガネをかけたままで伯爵令嬢に会おうとしていて正常ではないようだし……。今夜の段取りはすべて、ひどいものだわ……)

 それこそ風邪のせいにしてゆすられながら安らかに眠ってしまえたらいいのにとユリアは思うが、猛烈な責任感が目を覚まさせ続ける。
 この心に見合うだけの力があればどんなによかっただろう。
 そして力に見合うだけの嫉妬の塊がなければ、嫉妬を抱かないような理想の環境であれば、しかしそれでは公爵令嬢でいられるはずもなく、嫉妬と陰謀渦巻く環境にいるのがユリアということは変えようがなく──。銀色に紅が混ざる髪がなびいているのが視界に入り続ける。綺羅星ユリアである。

 つむじ風が起こったかのように葉っぱが舞うのは、メイドの二人が足元を散らしているから。ダンはユリアを担いでいるのに不気味なくらいに足音がしなくて、この使用人たちはまるでプロの泥棒のようだ。

「持っていた封筒がないよう!」ふとそんな声が聞こえて、まさか、とユリアは思う。

 ここだよ~、とメアリが懐に手をやりながら舌を出す。スり盗ったのだ。

「時間が過ぎてるのに来ないじゃないの、あの[ピーー]!」

 信じられないくらい汚い言葉を使うのは彼女の家で誰かがそのようなことを言うのだろうか。

『あの子らから黒い靄がつながっているニャン。ユリア、黒い靄を見つけてごらん』

 見つけろと言ったって、と文句を思いながらもユリアは薄闇に目をこらす。

(とりあえず、手紙が悪い結果に繋がる道はなくなったらしいわね……)

 あまりの忙しさに目を回しながらも、ユリアは次のやるべきことに頭を切り替えた。
 香草の灰色の煙に混ざりもせず、ずんぐりとした濃い黒い靄がたしかに見える。メガネがずれたら見えなくなった。どうやらメガネをしていることで特別に見えるものらしい。

(呪いのメガネが悪化した)と思いながらも、言われたとおりにその黒い靄の方向を目で辿った。

 帯のようにどこかに向かい──給湯室だ。
 はたして猫の言うことを聞いている場合なのか、判断する余裕がユリアにはなかったし、おそらく、猫が一度ユリアのハッピーエンドを願ったことが、言うことを聞いてみようという方に秤を傾けた。ユリアは外套から腕を引きずり出し、執事の背中をたたく。

「あっちに行ってちょうだい」

「戻る気ならだめですよ。こっちも仕事してるんですから」

「違うの。戻らない。気になるところがあるから、そこまで守ってちょうだい」

 三人はユリアの言うことを聞いてくれて、方向転換した。違う、と言い切ったことがよかったのだ。

「せせ僭越ながら、ここ心の傷は怖いです。トラウマは根深いものです。傷つくことに慎重になってほしいと、ジニーは我がことながらお嬢様にも反映させることをお許しください。すすすみませんすみません」

 これだけは、とジニーが勇気を振り絞った。「覚えておくわ」とユリアはたしかに胸に刻んだ。

 とはいえ、傷つくことに慎重に、というのは無理だとも思っている。いるだけで針の筵のような社交界で暮らしてきたのだ。これからの学園生活では前にも増して、権力者の子どもたちとずっと一緒にいることになる。大人相手よりもまっすぐに悪意を向けられることもあるだろう。
 さっき見たばかりの女子のグループを思い出してしまい、ユリアは唸った。もはや楽しみな気持ちは萎んでいる。でもジニーに「ありがとう」と言った。

 それから口を押さえた。
 信じられない、というように、使用人たちがユリアを見ている。

 失言だ。言ってはならない言葉だったのに。でも否定する間も無く、給湯室についてしまった。

 みんな、黙り、どうやらユリアのしてしまったことに言及せずに済ませてくれるらしかった。

(あ……。私……。この人たちを守らなきゃ──)

 自然にユリアの胸に浮かぶ。
 それが彼女の、ノブリス・オブリージュの芽生えであった。



 給湯室の外壁は妙にきれいで嫌に新しさが感じられた。増設されたばかりらしい。新しいとはいいことばかりではなく、伝統の手間暇をかけられた舞踏会場本館の雰囲気からはかけ離れ、のっぺりと灰色に塗られた壁はただただ手抜きに見えてしまう。

 綺羅星公爵家がここで舞踏会を開くときには、会場寄付金を毎度出していたのだが、やはりというべきか、正当なところに使われてはいなかったらしい。たかが給湯室といえど従業員の意識には影響を及ぼすだろうし、今のユリアたちのようにふと訪れる貴族がいた場合、とても国一番の貸し会場の風格ではないとされるだろう。

(寄付金詳細を見せてください、なんて言いづらいからと、作業から目を背けてしまっていたわ)とユリアは肩を落とす。少女らしくなく肩が沈んだ。

 兄たちはまだ舞踏会を主催していないため、この給湯室に文句をつけていないはずだ。長年劇場を運営してきた彼らのことだから、この給湯室に気づいていたら放置はすまい。

 そして今夜のホストである貴族もチェックをしていないのだろう。さっき遠目に見た限りでも、舞踏会ホールは明かりの数も足りておらず薄暗く、入っている人に対して十分なもてなしがされていそうになかった。

 はた、とユリアは気づく。
 使用人が履くはずもないハイヒールの跡。こんなところに?

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