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一章 ユリア公爵令嬢
十 白い霧の誘い
しおりを挟む猫は悪夢の中でうたた寝をする。
『ふにゃああ。人に慣れたみたいやね。それはよかったニャン』
しっしっ、あちらへどうぞ、と猫は遠ざけるように前脚を振った。けして猫招きなんてしないぞという意志がある。
そして薄めでユリアの環境を真上から見下ろしてにゃごにゃご喉を鳴らした。
『その人たちには会ってもええよ。今のところは。やるべきことを忘れないで……間違えたりしないでいてね。ユリアのハッピーエンドはなあに?』
朝、起きたとたんユリアは白い霧に包まれていた。
こまかな白い光が集まっているようなもので、昨夜の、もったりした黒い靄とは様子が違う。ずいぶんと空気が軽くて息がしやすいくらいだ。さわやかな早朝の空気をもっと清らかにしたようなすがすがしさ。
これはなんだろう、と思いながらもメガネを外した。
おそらくメガネをしていたら見えてしまうものだからだ。
気だるい寝起きに見たいものではない。きっとややこしいものだろうから……。ほら、猫の声だけが、天から降ってきた。
『白い霧も覚えといてや。いいことの予兆やねん。ピンと来てさなそうな顔してるなあ、私にいいことが起こるなんてってカンジ? わかりやすくいうと、乙女ゲームのイベントスチル』
乙女ゲームのイベントが始まる時には魅力的なシーンが描かれた豪華なスチルカードが出現する。「触れますか?」「はい」というキーワードを選べばイベントが始まり、クリアを目指して恋愛ゲームを進めるという流れなのだった。
珍しく機嫌がよさそうな猫が、説明してくれた。
対してユリアは、乙女ゲームのことを話してくれたのは会った日以来のことだわ、と不満を言った。
ユリアを巻き込んだくせに、いつ返事をくれるのか、もしくは問題に導くのか、まったくわからないから心構えがしづらくて、疲れさせられるのだ。
給湯室の騒動から続いている毒物による倦怠感も、ユリアを不機嫌にさせていた。もっとも他人の前ではそんなそぶりを見せないようにしているが。
『ユリアがもっと前向きになったら、いくらでも話したるよ』
と揶揄うみたいに言うので、ユリアはしばらく冷たくすることにした。
そんなにたくさんの知識を詰め込まれては、パンクしそうだ。そっぽをむくユリア。
現在、別荘暮らしのユリアにもできる仕事がほしいと兄たちに言ったことが叶い始めて、書類が送られてきている。これに目を通すことに集中したい。
不安定な白い霧か、重要な書類なのかといわれたら迷いなく、ユリアがとるのは現在の現実であった。
ワンピースにメガネをかけただけのラフな格好でユリアは重要書類にペンを走らせていく。
『君さ。うまくできんかった反省と、倒れる前より快調になったからって仕事に暴走気味なんやろう』
「…………」
『夢中になっとるんは微笑ましいけどな。でも忘れないようにな。体調がええのはメガネのおかげやで?』
「メガネのせい、でしょう。勝手に人生をハードモードにされちゃったから困っているのよ」
『そんなことないもん。綺羅星の神様は派手な人生のほうをね……ンニャーーン』
猫はニャゴニャゴとふざけた声を出して、沈黙してしまった。
神様、と聞こえてきたことによりユリアは動きを止めた。つい習慣で祈りかけていた指を、そっと解く。
(……メガネのせい、でも私が倒れたせいだし、何もメガネじゃなくても、ああ、考える前に仕事しよ……)
この日、ユリアは初めて神様のことも冷たくスルーした。
記憶にある幼い頃から神様に感謝して生きるようにと言われてきた。貴族であれば誰もが受ける教育だ。
金のバッヂをつけた聖職者が貴族の家々を訪れて、神様の素晴らしさを問いてまわる。貴族はほとんどが加護をいただいているのだから、そういうものだと受け入れる。小さなユリアも兄たちの仕草を横目に見て、お祈りをしたことを覚えている。加護があるゆえの特権階級なのだから、これからも家系が繁栄するように、寄付を欠かさなかった。
難しい書類を終えた。
これまでこなしてきた定型句の書類に移ると、とくに考える事もなくこなすことができて、頭の中の余白には、ユリアの想像が膨らんでいく。
──はたして神様は寄付金によって支えられているのだろうか。祈りによってその力が大きくなると聖職者は言ったけれど。彼らはまた、太陽の神様であれば、日光シュラ王国という国名と、讃えられている王族によって広く認識されたから絶大な力を誇っているとユリアに教えた。
寄付を含めた心を人がさしあげたから神様となったのか、神様がもともといたから日光シュラ王国と命名したのか、どちらが先なんだろう?
とりとめのない遊ぶような疑問は、かといって正解を勝手に定めてしまってもいいような話題でもなく、このようなものはわだかまりとなりユリアの中に残り、これを上手に忘れてしまうこともできないならば、ユリアをぐったりとさせる。
まだ仕事の途中。
だから別の興味へと頭を切り替えることにした。
そういえば、婚約者の王子殿下の近くにいられたときは日だまりの側みたいにあたたかかった。彼は太陽の神様の加護をいただいている。
ただあたたかいというだけなら、ユリアの整った容姿みたいに、貴族としてはあまりにささやかな加護の効果のようである。しかし、数々の政策にたずさわって家臣たちを率いてきた王子殿下は頭脳と技能がずば抜けているし、それだけの意味、ということはないのだろう。現国王もとても優秀な方なのだし。
ユリアには知らされていない力をお持ちなのかもしれない。
それを知ろうというには怖さがあるのか、ユリアは乙女ゲームのラストを思い出すことができなかった。
ふと、ペンのインクが滲み、ほっそりしたユリアの白い指先と薄い貝殻みたいな爪を染めた。この書類は書き直しだ。集中力が切れてしまうかもしれないと書き直してもいいものを最後にしておいてよかった。
(あまりにも不釣り合いなんだよね。王子殿下と、ついていない私とでは。こんなふうに、彼のことを考えると、いつも落ち込むような谷に来てしまう。他の子はどうやって婚約者に夢中になるっていうんだろう。ときめきってどのようなものだっけ。
私を他人と比べすぎなのかな。でも比べないと、どうやって私を知ったら良いんだろう)
ユリアの父も母も、ユリアがどのような子なのかを教えてはくれない。猫がようやく「ユリアのことを考えろ」と宿題を出してきたところだ。
布で指先を拭きながら、ユリアは砂時計の砂が落ちきっているのを確認した。
「追加の書類をちょうだい」
そして、書類をこなすからくり人形になったように集中した。するとあれほど悩んでいた自分という輪郭が溶けていって、動く流れを体感するのみになる。心が、ペン先のほうに宿って紙の上をひたすらに滑っていくみたいだ。書かれていることをユリアは学習する。貴族のマナーに沿った文句がつらつら、つらつら──。
綺羅星。綺羅星。綺羅星。サインをしていく。
そしてまたユリアを見失う。
『ニャン!』
びくっとユリアが肩を揺らした。
その時、扉がノックされる。
「──ユリアお嬢様。悩ましい知らせがございます。王族の使いがいらっしゃいました……。休憩が終わるまで待つからと、婚約者としての貴女様へのご挨拶を望んでいます。ああなんということでしょう」
ユリアはどう答えるべきか言葉がでなかった。
メガネをかけるとようやく「私が出ます」と声に出すことができた。そして白い霧に包まれた。
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