上 下
32 / 37
一章 ユリア公爵令嬢

二十八 人の心

しおりを挟む



(お腹の底がグツグツしている。これに集中してみましょうか。見て見なかったフリなんてしたくない……。これまでは見ないようにしていたエネルギーを、知ってもいいかもしれないという気持ちに今はなっているんだわ。むしろ知らなくちゃいけないかもしれない。どうして私がこんなにも怒っているのか。

 いつも鈍くてゆっくりな私の頭がよく働いているのがわかる。早く早く想像が回る。メガネが体の一部になったみたいにソレが持つイメージが私の頭に入り込んできて、ともに早く早く回る。まさにカオスだ。

 伯爵令嬢たちのグループはみな二番目や三番目の息女たちで、いわゆる後継の権利を持っていない。
 そのような子たちをどう使うかというと、貴族のマナー、そのしくみの”根源”をみれば、下の層のものとみなし自分達のために動かせる駒としてみなす。それぞれがけっこうな価値を持つから普段はだいじに育んでおくけれど、使い所とみなせば組織のために働くように命令を下す。

 彼女たちにはそれを「嫌」という権利を与えない。だいじに育てられていれば育てられているほど、親の庇護がなくなった少女は一人きりでは生きられない。複数人が集まったって自立することは不可能でしょう。生殺与奪の権を握られている彼女たちは言いなりになるしかない。

 おそらく今回においては、空上モモさんに毒を盛ることだった。

 明確に毒ということが明かされていたのだろう。だから彼女たちは緊張していた。
 それを与えるのが平民だからというフィルターをかけて自分達の心を守ろうとした。
 私に遮られたときに顔色を変えていたし、作戦失敗となれば罵ってでも命令達成しようとした。

 そこまで取り乱したところから……察することができる。
 万が一にも毒を入れたということがわかれば伯爵家に目が向いてしまうゆえ、もしも飲ませることができなければ、伯爵令嬢自身がそのブドウジュースを飲んで証拠隠滅をしろ。それが責任だ。とでも言ったのでしょう。

 怖い大人の男の顔……からの心配をするような父の顔で……これまでにお前にどれだけかけたと思っている? 費用を払えるか? 伯爵令嬢という権利を返納するか? 一度も訪れたことがないであろう僻地に放り出されて生きていけると思っているか? やめておきなさい。伯爵令嬢として生きられるように我々は手を尽くしているんだよ。
 ──そのように可愛がってあげるのだ。
 彼女たちの家では男児が神々の加護を継ぐから、母は黒子であっただろう。

 必死に親に媚びたのかな。
 自ら、その作戦を自分に任せてくださいと言ったのかな。

 けれど、言われたことを受け入れたとしてもその意思決定と、人の心はちがうものだよ。ボロボロになっていくんだ。私はそれを、痛いくらいに知っている。

「どうして助けてくれたのかしら」と彼女は期待したような眼差しを私に向けている。これまで、お人形のくせにと私を蔑んでいたその強い色があせてしまって、同じようなものに成り下がったと理解しているらしい弱々しさ。これまで彼女がお人形じゃなくいられたのは、親の方針のひとつでしかなかったと思い知ったらしい。

 【夜虫遊び】……蜘蛛に餌を与えられて巣に絡まったまま踊らされていた蝶々がいた。それのよう。
 人が集うところではそのような醜悪な状況も現れるというシーンをまざまざと私は思い出した。

 記憶と想像が早く早く混ざる。
 何かまた見えそうでもある。
 けれど私は現実に返っていかなくてはならない。
「これから王立学園生なのだもの。仲良くやりましょう」と、伯爵令嬢に手を伸ばした。

 マナーがまだ生まれていないこの場においては、彼女にワインをかけたりしなくてもいいのだ。

 私はほっと胸をあたためていた。

 伯爵令嬢は手をとって立ち上がり、震える手をすぐに背中の方に隠すと、礼をして去っていった。
 とりまきになっていた少女たちはもはや彼女を追わない。誰につくべきか迷い迷って、周りを見渡しておどおどとしている。のんびりと飲み物を飲んでいる空上モモさんは豪胆といえる……。
 モモさんをおもしろがった黒曜宮ロクタ様が話しかけていたり、王子殿下は、ぼーっとしている私の代わりに周りに話しかけて場を取り繕ってくださっていたり。

「伯爵令嬢はユリアに恐れをなしたようだね」耳元でスバル様がこそりと……そうなんでしょうか!?

 私、おこがましくも感謝されることを想定していました。
 だって彼女が毒を飲むのを防いだつもりだったんですもの。実際そうでしたし。けれど、彼女の視点になって想像をしてみましょう。
 毒を盛ろうとしていたことを看破されて、それを飲み干すという方法で解毒した公爵令嬢が「仲良くやりましょう」……怖かったんじゃないでしょうか? 顔に影が入り口元はニヒルに吊り上がり、背後に暗雲を背負ってラスボスの如き迫力だったのではないでしょうか? それでなくとも手紙喪失ハンカチ事件から私に不気味さを感じていたでしょうしね。……。……やらかしてしまったのではないかしら。

 私は自分の手のひらをみる。
 けれど、立場が弱くなってしまった人の手を引き上げるということができたのは、よかったわ。

 心が弱っている人を蹴り付けたくなくて、できればその悲しみに寄り添うことの方をしてあげたかった。ずっと。どうしてそう思うのか分からなかったけれど、使用人など立場が弱い人たちにずっと支えられてきたという、そういう気持ちを抱え続けていたのかもしれません。
 仕事をすることで(言えないありがとう)を返せていたらよかったのだけど、貴族の言いなりになって悪いことをしているという罪悪感に苛まれていました。

 いい失敗だった。きっと。

 私は「とほほ」という笑みを口元に浮かべていた。王子殿下はトントンと肩を叩いてくれました)



 それから少し歓談して、空気が和んだ頃、

「少し裏庭の方に行ってくるよ」

「裏庭? まだ前夜祭の途中ですし、これからダンスもありますのに、どうして……」

 お帰りになるのだろうか、という予感があってユリアの胸に冷たい風が吹き抜けていく。

「君たちはこの会場に避難しておいた方がいいだろう。どうしてなのか知りたい? それはどうしても? それなら後で時間を作ってあげようか……。でも今は、ほら、足元が揺れるよ」

 大地が横に小刻みに動いたので、会場のあちこちの卓ががたがたと揺れててグラス同士もぶつかった。生徒は体勢を崩してしまい男子が女子を支えたり、見つめ合ったりしていた。空上モモだけは体幹をまっすぐに直立して周りを眺めている。従業員はなぜだか事態を把握していたようで、手際よく招待客の補助をした。

「ユリアお嬢様! こちらに……そしてお兄様方とともに招待客のみなさんを誘導してください。会場の中央に集めていただいて魔法で結界を張るのです。転がってきた物で傷つけたりしてしまわないように気をつけて。身分ある人には傷ひとつでもいけません」

「ダン。なぜあなたがここにいて、そんなことまで理解しているの?」

「王族紹介で公爵家にきた、コネですよ」

「そう。適切だと思うわ」

 ユリアは誘導をしながら、裏庭の方に視線を向けた。
しおりを挟む

処理中です...