【完結】さがしびと〜英雄の弟とまつろわぬ姫〜

よもぎ大福

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第29話 英雄の弟とまつろわぬ姫

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「気をつけて。」

「うん。また後で。」

 短い言葉で別れを告げて、クレスは海溝へと向かう。

 精霊術があるとはいえ、どこまで深く潜れるだろうか。

 たとえ海中の噴火でも、十分な深さがなければ、土石流が海岸に押し寄せるかもしれない。津波を引き起こす可能性もある。

 深く、深く潜る必要があった。

 薄暗い夜の海、更に黒く染まった深海へ旅立ったクレス。

 そこには、恐れも躊躇いもなかった。

 一方、私は。

 残された私は赤の祭壇に立ち、不気味に赤く輝く火口を見つめていた。

「結局私は、あなたからは逃げられないのね。」

 かつて身代わりの姫として、ここで震えていた。

 今もまた、体の震えを止めることができない。

 圧倒的な存在が今、何もかもを飲み込もうとしている。

 たとえ何百年生きようとも、死への恐怖が消えることはなかった。

 それでも、ここに立つと決めた。

 クレスの作戦に、全てを賭けると決めた。

 アラヤザの火口をアラヤミの深海に繋ぐ。

 どちらかを動かすのではない。

 転移の瞬間を維持し続ける必要があった。

 噴火がどれほどの規模か、時間かはわからない。

 私とクレスは、どれだけ耐えられるのだろう。

 不安要素だらけのデタラメな計画だ。

 でも、それでいい。

 もともと私達はデタラメな存在なんだから。

 大地が再び震える。

 いよいよ噴火が近い。

 恐怖に心が染まらないように、私にできるのは、悪態をつくことだけ。

「本当に間が悪い。なんで今?あと数年くらい待てないの?おまけに他人の話を聞かないし。協調性がなさ過ぎる。」

 自分で言っていて、おかしくなってしまった。

 まるで私だ。

 山の神殿の娘として生まれ、山の姫の妹として育った。

 過去の醜い自分を切り捨て、なりふり構わず行動した姿は、あたかも荒ぶる火山のよう。

 私はどこまで行っても、山の娘だった。

 切り捨てることなどできないのだ。

 なかったことにはできない。

 私が生まれ、育ち、ここまで来たその過程から、逃げ出すことなどできないのだ。

 目を逸らして、まるでなかったかのように、見ないように過ごしたとしても、逃げ切ることはできない。

 過去からは逃げられない。

 そう、向き合う時が来たのだ。

「アラヤザ。私はもう、あなたから逃げない。」

 あなたの恐ろしさに身を震わせ、姉に縋って逃げ出した、出来損ないの身代わり姫。

 今度こそ、私が、立ち向かう。

「ソニア。あなたの勇気を、どうか私に貸して。」

 声が聞こえた。

 私を呼ぶ、微かな声。

 姉の声ではない。

 まだあどけない、少年の声。

 私を呼ぶ、澄んだ声。

 《イアルさん!》

 赤の祭壇を飛び降り、山肌にひざまづく。

 左手を地面に、右手を虚空へ突き出し、彼の名を叫んだ。

「クレス!」

 星を掴むように、高く伸ばした手。

 その手が確かに、彼の手に触れた。

 周囲の景色が歪む。

 その歪みの中、クレスとその奥の暗い暗い海が見えた。

 クレスの周りを包む泡が、私をも取り込む。

 水圧を制御するためのものだ。

 満天の星空は、暗い海底に取って代わる。

 クレスの生み出した明かりが、うっすらと辺りを照らしていた。

 左手はいまだ、山肌に触れたまま。

 私が立つこの地面は、確かに先ほどいた場所。

 淡い明かりに照らされて、不気味な火口が震えていた。

 できた。

 本当にできた。

 アラヤザとアラヤミを繋いでみせた。

 私は火口に目をやる。

 轟音が鳴り響き、衝撃で海が揺れる。

 いよいよだ。

 クレスは私の手を強く握る。

 私も同じく握り返した。

 至近距離での噴火となる。

 この場を離れれば、アラヤザの火口は地上に戻ってしまうかもしれない。

 引くことはできない。

 絶対に生き残るのだ。

 私にもクレスにも、まだやることがたくさんある。

 絶対に死ねない。

 轟音が鳴り響く。

 衝撃を恐れて、強張る体。

 全てを灼き尽くす、吹き出すマグマ。

 そんな姿を予想していた私は、呆気に取られてしまった。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと火口から現れる黒い岩の塊。

 絶対的な圧力に押し潰され、即座に冷やされたマグマは、ただの岩となって緩やかに上へと押し出されるだけ。

 噴火とはとても呼べない、延々と続く岩の産出。

 どれだけ、それを眺めていただろうか。

 光の届かぬ深海で、時間の感覚もわからないまま。

 クレスの手の感触だけが、今私がここに生きていることを教えてくれていた。

 押し上げられた岩石が、ようやく動きを止めた頃。

 それは姿を現した。

 漆黒の長い髪は、時折り炎のように赤く揺らめく。

 滑らかな褐色の肌の中に埋め込まれた瞳は、夜空に輝く星の如き金と、雲間から登りゆく太陽の如き橙。

 黒い装束に身を包み、海を漂いながら、こちらを見ていた。

 アラヤザ。

 燃え盛る山。世界の半分。あるいは、ただひとつのものの、最初の子。

 《よくもまぁ、思いつくものだ。》

 呆れたような声音で、アラヤザは呟く。

 《意に沿わぬが、特別に許してやろう。》

 アラヤザは無邪気に笑う。

 それは幼子のように、あどけない笑顔にも見え。

 乙女のように、恥じらう微笑みにも見えた。

 《なにせ、アラヤミに会えたからな。》

 視界の端に、青く長い髪を見つけた。

 それを辿るように振り返る。

 でも、その姿を瞳に映すことなく、私の視界は暗転した。

 次に目を開いた時、飛び込んできたのは黎明の空。

 私は固い地べたに横たわり、空を見上げていた。

 隣には身動きひとつしないクレス。

 慌てて揺り動かす。

 微かな呻き声を上げて、彼は目を開いた。

「だめだ、もう動けない。」

 返事があったことに、胸を撫で下ろす。

「そうだね。私も。」

 辺りは黒ずんでいた。

 少し先に、ひしゃげた台のようなものが見える。

 深海で握り潰された、赤の祭壇だ。

 火口を見つめる。

 先程のような蒸気も熱気もない。

 噴火は終わったのだ。

 次の噴火がいつかはわからない。

 でも今この時、アラヤザは鎮まったのだ。

 辺りを包む厚い雲。

 輝く白の中から、眩い橙の光が浮かび上がる。

 アラヤザの瞳と同じ色をした、力強く輝く朝日。

 まるで今日という日の始まりを、高らかに祝福するよう。

 なんて鮮やかで、優しい朝。

 傍のクレスに語りかける。

「ありがとう。あなたがいたから、ここに来れた。」

 クレスは寝転んだまま、弱々しく笑う。

「こちらこそ、ありがとう。俺一人じゃできなかった。イアルさんがいてくれてよかった。」

「クレス、私は、」

 口にしかけた言葉を飲み込む。

 石を踏み砕く足音。

 誰かがこちらに向かってきていた。
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