140 / 186
第六章
馬には乗ってみよ人には添うてみよ26
しおりを挟む◇
ふっと部屋が静かになった。
風もないのに蝋燭の灯りがゆらりとゆれ、彼女の声はもう聞こえてこない。
魔王は深い溜め息をついて「まったく彼女には困ったものだな」とぼやく。
さて気を取り直してと顔を上げると、眼の前の青年の様子がおかしいと、いやまったくもっていつもと変わらぬ表情なのだが、喜怒哀楽の何も感じないと言うか違和感というか。
「……どうかしたか?」
「いやdadじゃなくてdaddyなんだと思って」
「ん?」
「BaBeでもなくdaddyなんだなぁと」
「んん?」
確かにカミルラの発音はハッキリとしておりdaddyと言っていた。
魔王はまるで木魚でもテンポ良く叩いたかのようにポンポンポーンと考えて閃き、そしてあらぬ誤解だと青ざめた。
「待て、違う。あれは彼女の戯言であってだな」
「いや別に驚きませんよ。そういった色っぽい関係があってもおかしくないでしょうし」
簡単に説明するとdaddyと言う言葉は子供が父親を呼ぶ時にも使ったりするが夜を一度でも共にした恋人にも使ったりするからであって、逆に一度もそういったことがない場合はdaddyなどとは呼ばない。つまり率直に言うとヤった事があると――そういうことだ。
「本当に違う。誤解だ。彼女とはそういったことは一切ない。まったく、ただの一度も」
「はぁそうなんですか」
魔王は自分は何故なんとか誤解を解こうと弁明しているのかと頭の隅っこで疑問に思いながら、青年は青年でなんでこんな弁解してるんだこの人はと頭の隅っこでモヤモヤした思いを抱きながら、それでもやっぱり。
「少なくとも魔族の間でその言葉をそんな使い方はしない」
「と言うことはそのままとらえてパパって事で? 部下にパパって呼ばれてるんですか? もしくは呼ばせてる? あまり好感は持てないご趣味ですね」
「な、なぜそうなる……潔白だ」
どよーんと絶望の効果音が聴こえてきそうな程に魔王の気持ちは沈んだ。
「やだな冗談ですよ。カミルラ様はそういった冗談もお好きな方なんだってのは分かりましたから」
「……にしてはなにか、怒ってないか?」
「怒ってないですよ。ほら、俺いたって普通でしょ?」
「その普通ですって顔が怒っているように見えるのは気のせいか」
「そうです気のせいですってば!」
バシンッと青年が思いっきり魔王の背中を叩いた。
「で? なにようで此方にいらしたので?」
青年は微笑んでいる。微笑んでいるがどこか機嫌が悪い。果たして本当に気のせいと言えるのか。
魔王は今度こそ気を取り直して、就寝前に青年とリーベに会いに来たのだと伝えると青年は意外そうな顔をした。
「もしかして、全然こっちに来ないって言ったこと、やっぱり気にしてます?」
「あぁ、我ながらほったらかしとは流石に無責任であったと思ってな」
「そうですか」
「言い訳にはなるがな、実はリーベを連れて来てからというもの其どころではなく、公務がほぼ手付かずのままだったのだ」
「え゛」
「殆どは下の者に任せていたが私にしか出来ない事も多くてな。特に眼を通しサインしなければならない書類がたまってしまってハクイに終わるまで此方に来るなと言われていた」
「魔王さまってハクイ様に弱いですよね」
「あれがそうまで言う理由も理解出来るからな。早々に終わらせてしまった方がいいのは確かだ」
とは言え今はほぼ片付いているので、せめて朝と夜だけでも此方に来れればと思ったのだと魔王が伝えると青年はなるほどと頷いた。多少機嫌がよくなったような気もしなくもない。
「でも残念。リーベはもう寝ちゃいましたよ」
「そのようだな」
「寝顔だけでも見ていきます?」
「いいのか?」
「もちろん。でも起こさないでくださいね」
魔王は物音を立てないようゆっくりと隣へと繋がる扉を開けて、そろりと中へ入る。
起こさないように忍び足で赤ん坊が眠る小さな寝台へ近付き、そっと中を覗き込んだ。
小柄な身体がすぴーすぴーと愛らしい寝息を立てて幸せそうに瞳を閉じている。
あまりの可愛らしさにそのぷくっとした頬を撫でようかと手を伸ばしたが、起こしてしまったら可哀想かとその手を引っ込めた。
そのままずっと眺めていたい気持ちにかられるがそうもいかない。名残惜しく感じながらもまた静かにその場から離れ部屋から出ると扉をそっと閉めた。
待っていた青年が「どうでした?」と訊いてくる。
「よく寝ていた。起きている時に会いたかったが」
「もう少し早く来ると会えますよ」
「違いない。カミルラはどうだ。何か困ったことはないか?」
「いや困るってほどじゃあないけど、全部一から教えないといけないから大変かなって程度です」
「そうか、本当は私が参加出来ればいいのだが……」
「魔王さまだとしても大して変わりないですけどね」
「そう言うな努力はする」
ぼそりと青年が「してくれるんだ」と呟いた。その言葉に疑問を抱き「どうかしたか?」と魔王は尋ねたが青年はいつもの調子に戻って「なんでもないですよ魔王さま」と微笑む。
ふと、魔王の眼に卓上にある数枚の紙とそれと共に並ぶ羽ペンが眼に止まった。
「……何か書き留めているのか?」
「あぁこれは」
二人は机に移動する。青年は紙を一枚手に取ると書きかけの物を魔王に渡した。
「日記みたいなもんですよ」
「日記?」
「えぇ、リーベの様子を」
確かに何時頃におしめを変えたや何時頃に昼寝をした事が逐一記録されている。それと共にその時の心情なども書かれていた。
「私の事も書いているのか」
今朝のことが書かれていた。意外と上手に縦抱きしていたとかそんな取り留めもないことを。
「どうも照れるな」
「え、照れるようなこと書きましたっけ?」
「いや気にするな」
すると青年はニッと悪戯っぽい笑みを浮かべて「魔王さまも書いてみます?」と言う。
「私がか?」
「せっかくですからこの空いているところに、ほらほら」
羽ペンを持たされた魔王は、青年がそう言うならと手に持っていた紙を卓上に置く。そして途中まで書かれていた文章を邪魔せぬように、隅へと綴った。
〝愛らしい寝息をたて幸せそうな寝顔であった〟と。
それを読んで青年が満足そうにふふっと笑う。
「これでいいか?」
「えぇありがとうございます」
「それをどうするつもりなんだ?」
「もう少し数が増えたら紙に穴を空けて紐で縛ろうと思ってますよ。記録しておくと体調の変化に気付きやすくなるって知り合いの女性が言ってましたので」
「そうか」
「魔王さまもたまに何か書いてくださいね。あの娘が大きくなったら渡そうとちょっと考えてるんで、あとリーベが結婚するってなったらこれを相手に突き付けてこんだけ愛されてる子を嫁に出すんだ大事にしろよって圧をかけてやります」
それはおそらくリーベにとってはありがた迷惑でしかないだろうが、まぁそれだけじゃないんですけどねと楽しそうに将来のことを考え微笑む青年に「あぁそれもいいかも知れないな」と言って魔王も目尻を下げた。
――ちなみに、そのあとリーベの夜泣きが始まったので、せっかく寝ようとしていた青年は寝れず。もちろん魔王も自室に帰れず。
その日は朝まで交代で面倒を見ながら、さっそく先程の続きを書くこととなったのだった。
0
あなたにおすすめの小説
祖国に棄てられた少年は賢者に愛される
結衣可
BL
祖国に棄てられた少年――ユリアン。
彼は王家の反逆を疑われ、追放された身だと信じていた。
その真実は、前王の庶子。王位継承権を持ち、権力争いの渦中で邪魔者として葬られようとしていたのだった。
絶望の中、彼を救ったのは、森に隠棲する冷徹な賢者ヴァルター。
誰も寄せつけない彼が、なぜかユリアンを庇護し、結界に守られた森の家で共に過ごすことになるが、王都の陰謀は止まらず、幾度も追っ手が迫る。
棄てられた少年と、孤独な賢者。
陰謀に覆われた王国の中で二人が選ぶ道は――。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
僕、天使に転生したようです!
神代天音
BL
トラックに轢かれそうだった猫……ではなく鳥を助けたら、転生をしていたアンジュ。新しい家族は最低で、世話は最低限。そんなある日、自分が売られることを知って……。
天使のような羽を持って生まれてしまったアンジュが、周りのみんなに愛されるお話です。
乙女ゲームのサポートメガネキャラに転生しました
西楓
BL
乙女ゲームのサポートキャラとして転生した俺は、ヒロインと攻略対象を無事くっつけることが出来るだろうか。どうやらヒロインの様子が違うような。距離の近いヒロインに徐々に不信感を抱く攻略対象。何故か攻略対象が接近してきて…
ほのほのです。
※有難いことに別サイトでその後の話をご希望されました(嬉しい😆)ので追加いたしました。
オッサン、エルフの森の歌姫【ディーバ】になる
クロタ
BL
召喚儀式の失敗で、現代日本から異世界に飛ばされて捨てられたオッサン(39歳)と、彼を拾って過保護に庇護するエルフ(300歳、外見年齢20代)のお話です。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる