上 下
2 / 18

亀が消えた日。

しおりを挟む


北風がピープーふいてきた。

寒いや寒いや。

なんて寒さだ。

思わず身をすくめ、上着の中へと顔をうずめる。
あぁ亀とはこんな気持ちかな。
あれは顔を引っ込める。まさしく今の私はそれにそっくりさ。
亀の甲羅の中は暖かいのだろうか?
なんて、そもそも亀は寒い所にいやしない。
いや、いるのか?
いやいや、いやいやいや聞いた事がない。

吹き付ける風と雪を避けるように足元を見ながら歩いていた。
そう言えば若者はこんな日でも薄着で良く歩く、特にスカートで歩く女性は良くあれで頑張れる。例えば私が女性であったなら、いやいや想像するのも恐ろしい。
あまりの寒さに現実逃避をしていると、足に何かがコツンと当たる。

「あぁどうやら私の現実逃避とやらもここまできたか」

とうとう幻覚が、だって見てみろ、私のお気に入りのブーツに当たったこれはなんだ?
そうだそのまさかだ。
見たことのある緑の甲羅の生き物が、といったらもう。

『煩いぞ』

そうは言ってもだってほら、まさかこのタイミングでなんて、あまりに出来す、ぎて……?

私は辺りを見渡した。

「はは、幻聴まで聞こえるとは、寒さとは余程人をおかしくさせるらしい」

『そうだなお前はおかしい』

…………ふふふふ。そんなバカな。いやいや、いやいや。

首を振って、謎の生き物、否、物体を背に先を急いだ。
早く帰って暖かな部屋で眠るのだ。
そうだそうしよう。そうするべきだ。
今日の私は些か、いやかなり疲れている。あぁそうに違いない。

『こら待て!凍って動けんのだ!早く助けんか!』

あぁそうだビールもぐいっと一杯。

『おい!』

いや待て、そう言えば家に無かったな。となると買わねばならん。それはダメだ。今は一刻も早く

『そうやって目をそらして行くのか?』

早く帰って

『そうやって目を背けて歩くのか?』

帰って寝る準備を――

『そうやって、そうやって』






「なんで持って来てしまったか」

部屋の明かりをつけ、暖房をつけ、私は卓袱台の前で胡座をかくと、その膝の上に乗せた生き物を静かに眺めた。

どうしてか私にもわからないが、私の足は直ぐには家へと向かわなかった。
私の手はこの甲羅を背に持つ生き物を拾い上げ、寒いだろうと自身の首に巻いていたマフラーをこれに巻いた。
そしてこれは今、私の家の私の胡座の上にいる。

「はて、亀も冬眠するものだったか?」
『何を当たり前のことを、お前さんものを知らないな』

やはり。まさかまさかとは思ったが、話しているのはこれらしい。
しかしどうにも慣れてきたぞ。

『亀は冬眠するものだ。だが《ワタシ》のこれは冬眠ではない。凍って動けんのだ』
「そうか亀は冬眠するのか。いやこれは私はなんて世間知らずな、いい歳をしてまったく私と言う奴は」
『おい』
「あぁいや聞いている聞いている。ささ此方へどうぞ」

私はストーブの前に新聞紙を敷くと、その上にこれを置いた。

『おい、こんなんで凍ったのが溶けると思うな』
「そうかいそうかい。それじゃあ」


『なんだこれは?』
「洗面器のお風呂だ」

私はその湯を張った洗面器に凍った生き物を入れ、頭にのせる代わりに甲羅に手拭いをのせた。

『お前さん、ふざけてはいけない』

どうにもまだ気に入らないらしい。

『《ワタシ》は真剣にどうにかしたいと思っているのだぞ』

私としても真剣に考え、これが一番だと思ったのだが……。
はて、どうしたものか。

『お前さん。そのいい加減さをどうにかせぬと何も変わらんぞ』

そんなにいい加減だったろうか?

『勝手に決め付けて事を進めるでない』

ううん。確かに私はこれにこうするとは言わなかったし、それでいいかとも聞かなかったな。

「そうかすまないな。だが正直これ以上の方法が思い付かないのだが」
『まぁ《ワタシ》もこれは悪くないと思えてきた。頭ごなしに言って悪かったな』
「いや私も悪かった。今度から気を付ける事にするよ」

その日はもう私も疲れていてそのまま眠ってしまった。
朝になればきっとこの夢からも覚めるだろうと。
しかし翌朝、やはりそれはそこにいた。
それも凍ったままで

『だから言ったろう。これでは溶けんと』

そう言って。


 それからと言うものそれとの生活が暫く続いた。
最初はこれやそれと思っていた私だが、いつの日か《彼》と思うようになった。
徐々に凍った体から解放されつつある時、彼は言った。

『身動きがとれるようになれば即出ていくと言うのに』

私は聞く、そんなに出て行きたいのかと、私はお前といるのも悪くないと。

『それは良くない』

何故と聞けば『甘えるな』と。

『その時が来れば《ワタシ》は出て行くぞ。目にも留まらぬ速さでな』

甲羅を背負った君が?

『まぁ今に見ていろ』



 その数日後、いつもの特等席に彼はいなかった。
お湯と手拭いだけが残った空っぽの洗面器。
きっと凍った身体から解放されたのだろう。
確かに彼は《目にも留まらず》いなくなったようだ。
私は何も言わずそれを持ち上げ、片づけた。
洗面器は元のお風呂場に、手拭いは手拭いの棚に。
新聞紙は捨てた。

仕事のため外に出れば、いつの間にか暖房が必要ない時期になっていた。





「――あんた、最近変わったわね」


母にそう言われたのは、久々に実家に顔をだした時だ。

「そうかな?」
「そうよ。ちょっと前までは顔も出しやしなかったわ」

あぁ言われてみればそうだったかも知れない。

「なんて言うか前までは、そう、まるで《亀》みたいだったわね」

「亀?」

「そうよ亀。なんだか背中に甲羅を背負って、いつも引っ込んでは何かから身を守るようなそんな感じ」


いっぱく遅れて、《彼》が浮かんだ。
あぁそうか。そうだったか。


「生きるのがつまらないって、のろのろと歩いてね」

考えてみれば、話し方も何処か似ていたような。


「……母さん、それは本物の亀に失礼さ。あれはいざとなると目にも留まらぬ速さでいなくなるからね」






春の暖かな風が、窓から入り込み、私の髪をすり抜けた。

今の私はもう《彼》に会う事はないのだろう。
そしてそれはきっと、とても良い事なのかも知れない。



亀が消えた日。  ― 完 ―


そう言えば、亀の甲羅は背負っているんではなく、肋骨が進化したものだとか、まぁそれはこの話には関係のない事ですが。

だってそんな事、一般的に知ってる人の方が少ないですからね。
しおりを挟む

処理中です...