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最後の言葉
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「おう、久しぶり」
「あら?」
おお?
うわっ!
おう、久しぶり、じゃないわよ。
蒸発したもと婚約者。
なんでこんなところで。
貴族街へのお買い物。
お店を出て少し離れたところから手を振る人がいたから目を向けたの。
なんだか見たことあると思って目を離せなかった。
ゆっくり手を振りながらこちらへ近づいて侍女や護衛が回りを固めたけど、思い出せないモヤモヤから彼らを止めた。
護衛が彼を囲った状態で安全を確認してから私は彼の顔をもっと見たくて近寄った。
しばらくしてやっと気づいた。
驚いて目を丸くする私にあっちも気づいて“久しぶり”と答えたの。
驚きすぎて固まった。
「……生きてらしたの?」
5年?6年?
何年ぶり?
6年で合ってるかしら?
驚いて目がさ迷う。
昔と違ってちょっと汚い。
手櫛で軽く整えているのかしら。
日に焼けて色が変わった髪。
無精髭に労働者が着ている装い。
上から下まで不躾にじろじろ眺めてちゃんと二本の足で立っているのか確認してしまった。
「ん、元気」
ヘラっと顔を緩める。
あら?
これは初めて見た。
こんな気の抜けた笑顔。
「そっちは元気?」
「ご覧の通りです」
ふん。
見てみなさい。
昔は伯爵令嬢だったけど今の私は公爵夫人よ。
ついでに薬指の大きな宝石の指輪と乗る寸前だった大きな馬車を扇で指す。
立派な家紋がついてるわよ?
あなたのご実家の。
「弟と睦まじいらしいね」
「おかげさまで」
その言葉で護衛達が気づいた。
6年前に失踪した公爵家のご長男だと。
あ、やっぱり7年?
えーと、いち、に、さん……6年で合ってる。
大丈夫。
「あぁ、やめてね。俺は平民だから」
フフっと小さく鼻で笑って挙げたままの手のひらを顔の横でパタパタと揺らして護衛達が戸惑うのを制した。
そうよ。
この人って婚約者の私のことを、公爵家の立場も全て捨てて家出した。
公爵家はこの人を死んだものとして家系図から消した。
産まれたことさえなかったことにした。
置き手紙には“外の世界が僕を待っている”とだけ書いてあった。
夢見がちと思っていたけどあそこまで酷いとは誰も思わなかった。
存在を消したことが周囲は冷淡に思うかもしれないけど、私達はこの人の帰りを三年待ったの。
私なんか適齢期越えてどうするのよって状態。
本音を言うと手紙に呆れてすぐに他の婚約者を探すつもりだった。
慰謝料はこちらが請求できるし、こんなゴタゴタから離れたかった。
私は16と成人したばかりでこの人との式が間近だったのに。
婚約者に逃げられた伯爵令嬢と社交界で冷淡に扱われたのよ。
思い出すとムカムカしてきた。
「あなた様は見るからに苦労なさってるようですわね」
「まあ、ちょっとね」
あ、また。
緩んだ顔でヘラっと笑う。
昔の神経質で青白かった顔と違う。
お人形みたいに整った顔立ちとその白さで社交界のプリンスだった。
ちょっとプリンセス扱いだったけど。
私より。
昔と違う。
そう思うと怒りより不可解さで眉をひそめた。
「……外の世界は居心地ようございますか?」
「それなりに」
細めた目尻、柔らかな笑み。
「……ご苦労なさったでしょうに」
その汚れた身なりを見れば分かる。
「悪くないよ」
「左様でございますか。それで今日はどうして私に声をかけたのですか?」
下手をしたら護衛が切っていた。
危険だったのに。
「懐かしくなったからかなぁ」
あぁ、本当に。
今までにない笑み。
「久しぶりに王都に来たよ」
「今までどちらに?」
「南。それからぐるっと海の方まで。船にも乗ったよ。向かいの海峡を渡って手足の指が足らないほどの国を回った」
「海?!船?!」
ここから?!
ここは内陸の国よ。
海まで二つの国境を通る。
船なんて私は見たことない。
しかもそこから海の向こうの国に?!
「た、大層な冒険をされたのね……」
「ふふ、楽しかったよ」
ニッと口角を上げる。
日に焼けて昔の色白さはない。
プリンスと持て囃された繊細な雰囲気も。
佇まいや体つきは馬車から見掛ける肉体労働者のそれ。
回りを囲む護衛達と態度や体格が釣り合っているように見える。
以前と変わらないのは若葉色の瞳だけな気がした。
「これ」
ポケットから一枚のボロボロに畳んだ紙を私へ。
受け取って開いてみる。
「父と母、それと弟と妹に申し訳なくなってね。君にも」
「これ、私の」
この国の新聞。
私と今の夫の弟君の結婚式のことが小さく載っていた。
ゴシップ物なのでちゃんとこの人が失踪したことと家系図から抹消されたことを面白おかしく書いてある。
「もう三年も前の記事ですよ」
「去年かなぁ。船に乗った客から買った。荷物の包み紙だった」
「あら、そうですの」
「謝りたくなった。自分の好きにしたことを」
「……今さら」
今頃、何しに来たのよ。
本当にこれしか出てこない。
6年もたって謝りに来てももう私達はいないものとしての生活に馴染んでる。
無理やりそうしてきたのに。
「……引っ掻き回しにきましたの?」
「いや、別に。好きにしただけだ。顔を見たくなったから来た。それだけ」
無責任。
昔と同じ。
「……最低」
勝手に外に出て気が向いたら帰ってくる。
残された方は辛かったのに。
義母は心労で何度も倒れた。
義父は病的に痩せた。
私の両親だって私の扱いにショックを受けて社交界から離れた。
夫の、弟君と義妹、私の兄妹もこのゴタゴタで中傷の的になったのよ。
私だって式の直前、婚約者に逃げられた令嬢と笑われた。
やっと、6年の歳月をかけて私達は平穏な生活を手に入れたのに。
手が震える。
持っていた扇を自然と振りかぶっていた。
でもこの場で投げたら何事かとまた周囲の話の種になるだけ。
落ち着くために深く呼吸を。
泣きそうなほどの昂りを治めたかった。
「あなた様と結婚しなくてよかった。弟君の、サイラス様。私の、夫と大違いだわ」
血の気が引いて目眩がする。
あぁ違う。
涙で滲んで視界がボヤけてるんだわ。
瞬きするだけで零れそう。
兄の、この人の失踪で好奇と中傷に幼かった夫は立ち向かったのよ。
家を背負ってご家族を守るために。
私のことも、兄が申し訳ないと頭を下げて。
償いにと四季ごとの連絡を重ねて。
後の社交界の仕打ちのせいで気を患った時は私への見舞いを欠かさなかった。
三年という長い期間を支えてくれた。
だから私も年下の彼を支えたいと望んだの。
この男の後始末に私達は奔放しただから。
「ねぇ、平民のあなた。今の名前は何かしら。アッシュベル・イーザーの名は捨てたのでしょう?全てを捨てたあなたはこの国では国籍のない移民よ。さっさと海に帰ったら?消したものが今さら現れても不愉快なのよ。興味本意で戻ってこないでくれる?見たくないの。辛い思い出しか出てこないから二度と顔を見せないで」
一気に捲し立てた。
止まると泣きそう。
「そうだね」
ムッとした声。
でも申し訳なさそうな、苦しそうな声音が滲んでて納得いかない。
どうして?
苦しいのは私なのに。
無責任なあなたがどうして悩むの?
掻き乱されて苦しむのは私達なのに。
「あなた達」
侍女と護衛達に扇を振る。
すぐに馬車の踏み台が置かれた。
昔の所作のまま。
優雅にもと婚約者が私へ手を差し出した。
「……この手は何?」
触りたくなくて身を引く。
「二度と来ない。最後だから」
「いらない。汚い手。それに夫以外の手は触りたくない」
「分かった」
すんなりと下げた。
彼の力を借りずに支えの取手を握る。
彼だけでなく誰の手も借りない。
ずっとそうしてきた。
馬車に乗って下から注ぐ彼の視線を無視する。
でもこれだけは伝えていいかもしれない、と口を開く。
「……あなたのお義母様。領地の西よ。セントルイス地区のお屋敷で静養中。会うなら行く前に手紙を出して。心臓が弱ってらっしゃるから」
家族のことも面白おかしくゴシップ記事に載っていた。
息子の失踪で気が触れた公爵夫人とそれを見捨てた公爵と書かれていた。
そんなことはなく、心身に傷を負ったけどお二人はお互いを慰め合ってる。
義母は一番悲しんでショックを受けていた。
母親として失格だとご自分を責めて義父や私達に泣いて謝っていた。
普通の、お優しい義母。
多少厳しいところはあってもごく普通の公爵夫人だった。
今もそれは変わらない。
ただ少しお心に傷があるだけ。
あれから上手く言葉が口から出ないとか人と会うと視線か定まらなくなるとか、強めの睡眠薬がないと眠れないとか。
そのくらいのこと。
ご自身に厳しく他人を気遣うところは以前のまま。
大きめにくりぬいた窓からさっきの記事を捨てた。
私のことは公爵家の財産を狙う女狐。
夫のことは実の兄を失脚させて女と地位を奪った悪漢。
兄に比べて華やかさのない義妹と貶して最低の記事。
失踪した絶世のプリンスを美化してある。
実際は不幸だけを私達に振り撒いて見捨てた勝手な男よ。
「教えてくれてありがとう」
嬉しそうな声にいらっとした。
私が伝えたのはあなたのためじゃない。
義母のためよ。
腹を痛めた我が子。
同じ母親としてお気持ちは分かる。
「夫は死に物狂いで地に落ちたイーザー家を守ってるの。それが私達家族を守るためだから。無責任なあなたには分かるかしらね。でも兄としての心があるなら夫のために表に出てこないで。そしてどこかで勝手に死んで」
くっ、と小さな苦笑が聞こえた。
「あぁ、お金の無心もやめてね?今のお金の管理は夫と私よ。お義母様からも引き出せないから。私が絶対させないわよ」
「そこまで言うか」
「その格好。お金に困ってるんじゃないなら何?」
「君は昔のままだ」
「嫌味ね」
「はっきりしてる。それは尊敬していたよ。キツかったけどね」
「私とのことをそう言うのね。ここで護衛に痛め付けさせていいわよ。私への侮辱だから。ただの平民さん。言葉遣いも改めなさい」
「失礼を。貴族として生きるには、自分の能力が足りなかったと伝えたかっただけです。他意はございません」
「社交界のプリンス、いえ、プリンセスかしら。チヤホヤされてただけのあなたが何を仰るの?」
「それしか能のない男でした。社交術どころ普通の会話もまともに出来ない凡人があの世界で生きるのは過酷でした」
「市民の中に混じっても同じことでしょうに」
「身に染みました。外に甘い夢を見て現実はいい経験と思います。それと、中とは違った甘さがあります」
「そう、よかったわね。私には関係ないし興味ないわ。それにそんなことを聞かされても負け惜しみに聞こえるわね。つまらないから、さようなら」
また扇を軽く振ると侍女が御者席に合図を送った。
軽くしなる鞭の弾く音、蹄の音。
がらっ、がらがらと回る車輪の揺れ。
横目に入る景色は前へと動く。
彼から馬車が遠退く前に。
“遠い海の向こうで一人で死んでね。出来るだけ早く。それだけを待ってるわ”
大事なことだからもう一度伝えた。
さようなら。
もと婚約者のあなた。
~終~
「あら?」
おお?
うわっ!
おう、久しぶり、じゃないわよ。
蒸発したもと婚約者。
なんでこんなところで。
貴族街へのお買い物。
お店を出て少し離れたところから手を振る人がいたから目を向けたの。
なんだか見たことあると思って目を離せなかった。
ゆっくり手を振りながらこちらへ近づいて侍女や護衛が回りを固めたけど、思い出せないモヤモヤから彼らを止めた。
護衛が彼を囲った状態で安全を確認してから私は彼の顔をもっと見たくて近寄った。
しばらくしてやっと気づいた。
驚いて目を丸くする私にあっちも気づいて“久しぶり”と答えたの。
驚きすぎて固まった。
「……生きてらしたの?」
5年?6年?
何年ぶり?
6年で合ってるかしら?
驚いて目がさ迷う。
昔と違ってちょっと汚い。
手櫛で軽く整えているのかしら。
日に焼けて色が変わった髪。
無精髭に労働者が着ている装い。
上から下まで不躾にじろじろ眺めてちゃんと二本の足で立っているのか確認してしまった。
「ん、元気」
ヘラっと顔を緩める。
あら?
これは初めて見た。
こんな気の抜けた笑顔。
「そっちは元気?」
「ご覧の通りです」
ふん。
見てみなさい。
昔は伯爵令嬢だったけど今の私は公爵夫人よ。
ついでに薬指の大きな宝石の指輪と乗る寸前だった大きな馬車を扇で指す。
立派な家紋がついてるわよ?
あなたのご実家の。
「弟と睦まじいらしいね」
「おかげさまで」
その言葉で護衛達が気づいた。
6年前に失踪した公爵家のご長男だと。
あ、やっぱり7年?
えーと、いち、に、さん……6年で合ってる。
大丈夫。
「あぁ、やめてね。俺は平民だから」
フフっと小さく鼻で笑って挙げたままの手のひらを顔の横でパタパタと揺らして護衛達が戸惑うのを制した。
そうよ。
この人って婚約者の私のことを、公爵家の立場も全て捨てて家出した。
公爵家はこの人を死んだものとして家系図から消した。
産まれたことさえなかったことにした。
置き手紙には“外の世界が僕を待っている”とだけ書いてあった。
夢見がちと思っていたけどあそこまで酷いとは誰も思わなかった。
存在を消したことが周囲は冷淡に思うかもしれないけど、私達はこの人の帰りを三年待ったの。
私なんか適齢期越えてどうするのよって状態。
本音を言うと手紙に呆れてすぐに他の婚約者を探すつもりだった。
慰謝料はこちらが請求できるし、こんなゴタゴタから離れたかった。
私は16と成人したばかりでこの人との式が間近だったのに。
婚約者に逃げられた伯爵令嬢と社交界で冷淡に扱われたのよ。
思い出すとムカムカしてきた。
「あなた様は見るからに苦労なさってるようですわね」
「まあ、ちょっとね」
あ、また。
緩んだ顔でヘラっと笑う。
昔の神経質で青白かった顔と違う。
お人形みたいに整った顔立ちとその白さで社交界のプリンスだった。
ちょっとプリンセス扱いだったけど。
私より。
昔と違う。
そう思うと怒りより不可解さで眉をひそめた。
「……外の世界は居心地ようございますか?」
「それなりに」
細めた目尻、柔らかな笑み。
「……ご苦労なさったでしょうに」
その汚れた身なりを見れば分かる。
「悪くないよ」
「左様でございますか。それで今日はどうして私に声をかけたのですか?」
下手をしたら護衛が切っていた。
危険だったのに。
「懐かしくなったからかなぁ」
あぁ、本当に。
今までにない笑み。
「久しぶりに王都に来たよ」
「今までどちらに?」
「南。それからぐるっと海の方まで。船にも乗ったよ。向かいの海峡を渡って手足の指が足らないほどの国を回った」
「海?!船?!」
ここから?!
ここは内陸の国よ。
海まで二つの国境を通る。
船なんて私は見たことない。
しかもそこから海の向こうの国に?!
「た、大層な冒険をされたのね……」
「ふふ、楽しかったよ」
ニッと口角を上げる。
日に焼けて昔の色白さはない。
プリンスと持て囃された繊細な雰囲気も。
佇まいや体つきは馬車から見掛ける肉体労働者のそれ。
回りを囲む護衛達と態度や体格が釣り合っているように見える。
以前と変わらないのは若葉色の瞳だけな気がした。
「これ」
ポケットから一枚のボロボロに畳んだ紙を私へ。
受け取って開いてみる。
「父と母、それと弟と妹に申し訳なくなってね。君にも」
「これ、私の」
この国の新聞。
私と今の夫の弟君の結婚式のことが小さく載っていた。
ゴシップ物なのでちゃんとこの人が失踪したことと家系図から抹消されたことを面白おかしく書いてある。
「もう三年も前の記事ですよ」
「去年かなぁ。船に乗った客から買った。荷物の包み紙だった」
「あら、そうですの」
「謝りたくなった。自分の好きにしたことを」
「……今さら」
今頃、何しに来たのよ。
本当にこれしか出てこない。
6年もたって謝りに来てももう私達はいないものとしての生活に馴染んでる。
無理やりそうしてきたのに。
「……引っ掻き回しにきましたの?」
「いや、別に。好きにしただけだ。顔を見たくなったから来た。それだけ」
無責任。
昔と同じ。
「……最低」
勝手に外に出て気が向いたら帰ってくる。
残された方は辛かったのに。
義母は心労で何度も倒れた。
義父は病的に痩せた。
私の両親だって私の扱いにショックを受けて社交界から離れた。
夫の、弟君と義妹、私の兄妹もこのゴタゴタで中傷の的になったのよ。
私だって式の直前、婚約者に逃げられた令嬢と笑われた。
やっと、6年の歳月をかけて私達は平穏な生活を手に入れたのに。
手が震える。
持っていた扇を自然と振りかぶっていた。
でもこの場で投げたら何事かとまた周囲の話の種になるだけ。
落ち着くために深く呼吸を。
泣きそうなほどの昂りを治めたかった。
「あなた様と結婚しなくてよかった。弟君の、サイラス様。私の、夫と大違いだわ」
血の気が引いて目眩がする。
あぁ違う。
涙で滲んで視界がボヤけてるんだわ。
瞬きするだけで零れそう。
兄の、この人の失踪で好奇と中傷に幼かった夫は立ち向かったのよ。
家を背負ってご家族を守るために。
私のことも、兄が申し訳ないと頭を下げて。
償いにと四季ごとの連絡を重ねて。
後の社交界の仕打ちのせいで気を患った時は私への見舞いを欠かさなかった。
三年という長い期間を支えてくれた。
だから私も年下の彼を支えたいと望んだの。
この男の後始末に私達は奔放しただから。
「ねぇ、平民のあなた。今の名前は何かしら。アッシュベル・イーザーの名は捨てたのでしょう?全てを捨てたあなたはこの国では国籍のない移民よ。さっさと海に帰ったら?消したものが今さら現れても不愉快なのよ。興味本意で戻ってこないでくれる?見たくないの。辛い思い出しか出てこないから二度と顔を見せないで」
一気に捲し立てた。
止まると泣きそう。
「そうだね」
ムッとした声。
でも申し訳なさそうな、苦しそうな声音が滲んでて納得いかない。
どうして?
苦しいのは私なのに。
無責任なあなたがどうして悩むの?
掻き乱されて苦しむのは私達なのに。
「あなた達」
侍女と護衛達に扇を振る。
すぐに馬車の踏み台が置かれた。
昔の所作のまま。
優雅にもと婚約者が私へ手を差し出した。
「……この手は何?」
触りたくなくて身を引く。
「二度と来ない。最後だから」
「いらない。汚い手。それに夫以外の手は触りたくない」
「分かった」
すんなりと下げた。
彼の力を借りずに支えの取手を握る。
彼だけでなく誰の手も借りない。
ずっとそうしてきた。
馬車に乗って下から注ぐ彼の視線を無視する。
でもこれだけは伝えていいかもしれない、と口を開く。
「……あなたのお義母様。領地の西よ。セントルイス地区のお屋敷で静養中。会うなら行く前に手紙を出して。心臓が弱ってらっしゃるから」
家族のことも面白おかしくゴシップ記事に載っていた。
息子の失踪で気が触れた公爵夫人とそれを見捨てた公爵と書かれていた。
そんなことはなく、心身に傷を負ったけどお二人はお互いを慰め合ってる。
義母は一番悲しんでショックを受けていた。
母親として失格だとご自分を責めて義父や私達に泣いて謝っていた。
普通の、お優しい義母。
多少厳しいところはあってもごく普通の公爵夫人だった。
今もそれは変わらない。
ただ少しお心に傷があるだけ。
あれから上手く言葉が口から出ないとか人と会うと視線か定まらなくなるとか、強めの睡眠薬がないと眠れないとか。
そのくらいのこと。
ご自身に厳しく他人を気遣うところは以前のまま。
大きめにくりぬいた窓からさっきの記事を捨てた。
私のことは公爵家の財産を狙う女狐。
夫のことは実の兄を失脚させて女と地位を奪った悪漢。
兄に比べて華やかさのない義妹と貶して最低の記事。
失踪した絶世のプリンスを美化してある。
実際は不幸だけを私達に振り撒いて見捨てた勝手な男よ。
「教えてくれてありがとう」
嬉しそうな声にいらっとした。
私が伝えたのはあなたのためじゃない。
義母のためよ。
腹を痛めた我が子。
同じ母親としてお気持ちは分かる。
「夫は死に物狂いで地に落ちたイーザー家を守ってるの。それが私達家族を守るためだから。無責任なあなたには分かるかしらね。でも兄としての心があるなら夫のために表に出てこないで。そしてどこかで勝手に死んで」
くっ、と小さな苦笑が聞こえた。
「あぁ、お金の無心もやめてね?今のお金の管理は夫と私よ。お義母様からも引き出せないから。私が絶対させないわよ」
「そこまで言うか」
「その格好。お金に困ってるんじゃないなら何?」
「君は昔のままだ」
「嫌味ね」
「はっきりしてる。それは尊敬していたよ。キツかったけどね」
「私とのことをそう言うのね。ここで護衛に痛め付けさせていいわよ。私への侮辱だから。ただの平民さん。言葉遣いも改めなさい」
「失礼を。貴族として生きるには、自分の能力が足りなかったと伝えたかっただけです。他意はございません」
「社交界のプリンス、いえ、プリンセスかしら。チヤホヤされてただけのあなたが何を仰るの?」
「それしか能のない男でした。社交術どころ普通の会話もまともに出来ない凡人があの世界で生きるのは過酷でした」
「市民の中に混じっても同じことでしょうに」
「身に染みました。外に甘い夢を見て現実はいい経験と思います。それと、中とは違った甘さがあります」
「そう、よかったわね。私には関係ないし興味ないわ。それにそんなことを聞かされても負け惜しみに聞こえるわね。つまらないから、さようなら」
また扇を軽く振ると侍女が御者席に合図を送った。
軽くしなる鞭の弾く音、蹄の音。
がらっ、がらがらと回る車輪の揺れ。
横目に入る景色は前へと動く。
彼から馬車が遠退く前に。
“遠い海の向こうで一人で死んでね。出来るだけ早く。それだけを待ってるわ”
大事なことだからもう一度伝えた。
さようなら。
もと婚約者のあなた。
~終~
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