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冬の太陽が、王立大審院のステンドグラスを通して、色とりどりの光の塵を法廷内に降らせていた。しかし、その光は少しも暖かくなく、むしろ大理石の床の冷たさを際立たせているかのようだった。
傍聴席は、息を詰めた人々の熱気でむせ返っていた。貴族、平民、そしてペンを握りしめた新聞記者たち。リリア王国の歴史が大きく動く瞬間を目撃しようと、誰もが固唾を飲んで被告席を見つめている。
その被告席には、三人の男女が力なく座っていた。
かつて伝統派の巨魁として王国に君臨したベルフォート公爵、アレクサンドル・デュマ。一週間前の評議会での断罪以降、急激に老け込んだその顔には、もはや権力者の威厳はなく、ただ燃え尽きた憎悪の残滓がこびりついているだけだった。
その隣には、彼の嫡男、ジュリアン・ベルフォート。仕立ての良い上着も今は皺だらけで、彼の完璧だった容貌は虚ろな絶望に覆い尽くされている。その視線はどこか遠くを彷徨い、現実を捉えようとはしなかった。
そして、ヴィヴィアン・ルクレール。泣き腫らした目で、終始ぶるぶると震えている。彼女の野心と策略は、今や醜い恐怖に成り果てていた。
対照的に、証人席の最前列に座るセラフィナ・ド・ヴァレンシアは、驚くほど静かだった。
彼女が身に纏っているのは、自らがデザインしたチャコールグレーのスーツ風ドレス。華美な装飾は一切なく、ただ完璧なカッティングと上質な生地だけが、彼女の凛とした佇まいを引き立てている。その背筋はまっすぐに伸び、まるで嵐の後の静かな朝のようだった。
彼女の隣には、セバスチャン・モランが座っていた。彼もまた、黒を基調とした落ち着いた服装で、その横顔は揺るぎない岩のようだ。彼は時折、セラフィナにだけ分かるように、そっと気遣わしげな視線を送る。その視線が、彼女にとって何よりの支えとなっていた。
やがて、重々しい扉が開き、白髪の審問官長が入廷した。法廷内の一切の私語が止み、張り詰めた沈黙が支配する。
「これより、王立評議会の決議、および国王陛下の勅命に基づく公開聴聞会を執り行う」
厳粛な声が、高い天井に響き渡った。
審問官長は、分厚い羊皮紙の巻物をゆっくりと広げた。広げられた羊皮紙の上で、王家の紋章が魔術的な光を放つインクで荘厳に輝く。彼は、その内容を読み上げ始めた。
「元ベルフォート公爵、アレクサンドル・デュマ。汝は、その地位を悪用し、瘴気反応炉がもたらす環境汚染と国民への健康被害を組織的に隠蔽した。さらに、王国のエネルギー市場を不正に操作し、不当な利益を貪った。これらの行為は、リリア王国とその民に対する重大な背信行為である」
一つ、また一つと、ベルフォート家が犯してきた罪が、冷徹な言葉で白日の下に晒されていく。裏帳簿の存在、データの改竄、反対派への脅迫。セバスチャンとセラフィナが突き止めた証拠の数々が、反論の余地なく叩きつけられた。
「よって、王命に基づき、ベルフォート家に与えられていた公爵位を永久に剥奪する。また、ベルフォート家の全資産は、不正に得られたものとみなし、その一切を没収の上、国庫に帰属させるものとする」
どよめきが傍聴席から波のように広がった。
リリア王国建国以来の名門が、その歴史に幕を下ろした瞬間だった。
「黙れ……! この私が、血統も定かではない小娘風情の戯言で裁かれるというのか! 我らベルフォートの血と伝統こそがリリアの礎なのだ! それを忘れたか、愚民どもめ!」
それまで死んだように座っていたアレクサンドルが、獣のような叫び声を上げた。
彼は立ち上がろうとしたが、屈強な衛兵二人に両腕を掴まれ、力ずくで椅子に押さえつけられた。かつて王国を牛耳った男の、あまりにも無様な最後の抵抗だった。
セラフィナは、その光景をただ静かに見つめていた。彼女の心は、不思議なほど凪いでいた。
次に、審問官長の視線がジュリアンとヴィヴィアンに向けられた。
「ジュリアン・ベルフォート、並びにヴィヴィアン・ルクレール。両名は、公爵の陰謀を幇助した共謀者と断定する。よって、両名の貴族籍を除名。個人の全資産も没収の上、王都アストラリスより永久に追放するものとする」
「いやですわ! 私は、私はただ、ベルフォートの次期公爵夫人に相応しくあろうとしただけで……! そうですわ、悪いのは全てジュリアン様です! あの方が私を唆し、あなたを追い落とせと命じたのです! ねえ、セラフィナ様! あなたも女なら、高い地位を望む気持ちがお分かりになるでしょう!? どうか、どうかお慈悲を……!」
ヴィヴィアンが甲高い悲鳴を上げて椅子から崩れ落ち、床に突っ伏して泣きじゃくる。
その見苦しい命乞いは、誰の心にも響かなかった。むしろ、彼女がこれまで人々に見せてきた傲慢な姿との落差が、冷たい嘲笑を誘うだけだった。
だが、ジュリアンは違った。
彼は判決を聞いても、ただ呆然と座っていた。その虚ろな瞳が、ゆっくりと動く。まるで初めてピントが合ったかのように、まっすぐにセラフィナを捉えた。
その瞳に宿っていたのは、後悔、絶望、そして、今さらながらに気づいてしまった、取り返しのつかない喪失感だった。
「……閉廷」
審問官長が木槌を打ち鳴らし、聴聞会は終わりを告げた。
堰を切ったように、傍聴席から人々が立ち上がり、騒然とした喧騒が法廷を満たす。記者たちは被告席に殺到しようとし、衛兵たちがそれを押しとどめている。
セラフィナは、セバスチャンに促されるまま、静かに席を立った。もう、ここに用はない。過去との決別は、今、この瞬間に果たされたのだ。
彼女が背を向け、歩き出そうとした、その時だった。
「待ってくれ……セラフィナ!」
背後から、しわがれた声が聞こえた。
振り返ると、ジュリアンが衛兵の制止を振り払い、よろめきながらこちらへ向かってくるところだった。
セバスチャンが即座に反応し、セラフィナを守るように一歩前に出る。その鋭い視線が、ジュリアンを射抜いた。
「ベルフォート。それ以上近づけば、貴様の存在そのものをこの場から消すことになるぞ。彼女の名を、その汚れた口で二度と呼ぶな」
「頼む……一度だけでいい。彼女と……話をさせてくれ」
ジュリアンの声は、懇願に満ちていた。
セラフィナは、セバスチャンの腕にそっと手を触れた。
「大丈夫ですわ、セバスチャン様」
と、静かな声で告げる。
彼女はセバスチャンを制し、一歩前に進み出た。そして、かつての婚約者と、最後の対峙をする。
ジュリアンは、彼女の数歩手前で立ち止まると、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。彼は、泥のついた床に両膝をつき、セラフィナを見上げる。
「セラフィナ……」
その声は、嗚咽に震えていた。
「すまなかった……。私が、私が……全て、愚かだったんだ」
彼は、みっともなく顔を歪め、言葉を絞り出す。
「私は……君という、未来そのものを生み出す『原初の魔石』をすぐ隣に置きながら、古びた家名という『煤けた額縁』ばかりを大事にしていた……。そして、ヴィヴィアンという……虚飾だけで中身のない、ただの『模造品の輝き』に目を眩ませてしまったんだ……」
彼の言葉は、もはや支離滅裂だった。後悔の念が、彼の理性を完全に破壊していた。
「君がいれば……君さえ私の隣にいれば、こんなことには……! 家も、未来も、何もかも……。なぜ、なぜ私は君を手放したんだ……? 教えてくれ、セラフィナ。私は……どこで道を間違えた……?」
彼は、震える手をセラフィナに向かって伸ばそうとした。
「許してくれとは言わない。そんな資格がないことは分かっている。だが、どうか……どうか、もう一度……」
その先は、言葉にならなかった。それは、再起を願う言葉なのか、それとも単なる赦しを乞う言葉なのか。彼自身にも分かっていないようだった。ただ、目の前の、かつて自分が捨てた女性に、無様に、ただ無様に、救いを求めていた。
セラフィナは、そんな彼を静かに見下ろしていた。
その美しい菫色の瞳には、何の感情も映っていなかった。
かつて彼を愛した熱も、婚約を破棄された時の屈辱も、その後の憎しみも、怒りも、何もかもが綺麗に消え去っていた。
そこにあるのは、ただ、完全なる「無」。
まるで、道端に転がる、意味のない石ころを見つめるような。あるいは、壊れてしまって二度と動かない、古い玩具に目をやるような。
憐れみですらなかった。憐れむという感情を抱くには、相手が自分の人生にとって、あまりにも無価値な存在になりすぎていた。
彼女の沈黙は、どんな罵倒よりも、どんな拒絶よりも、ジュリアンの心を抉った。
やがて、セラフィナはゆっくりと彼から視線を外した。そして、隣で全てを見守っていたセバスチャンに向き直り、小さく、しかしはっきりと、一度だけ頷いた。
『行きましょう』
言葉はなくとも、その意思は明確に伝わった。
セラフィナは、きびすを返した。
一度も、振り返らなかった。
ジュリアンの絶望的な嗚咽が、背後で聞こえた。ヴィヴィアンが衛兵に引きずられながら、何かを喚き散らしている声も聞こえた。
だが、それらは全て、遠い世界の出来事のようだった。彼女の人生とは、もはや何の関わりもない、ただの雑音に過ぎなかった。
セバスチャンが、そっと彼女の隣に並んで歩き出す。
二人は、騒然とする大審院の長い廊下を、毅然とした足取りで進んでいった。
◇◇◇
大審院の重厚な扉を開けると、冬の冷たい空気が肌を刺した。法廷内の淀んだ熱気が、一瞬で浄化されていくようだ。
空は高く、どこまでも澄み渡っていた。
「……終わったな」
セバスチャンが、低く、穏やかな声で言った。彼は自分が羽織っていた上質なウールのコートを脱ぐと、そっとセラフィナの肩にかけた。コートに残る彼の温もりが、心地よかった。
セラフィナは、その心遣いに小さく微笑むと、空を見上げた。
「ええ。終わりましたわ」
彼女は静かに答えた。そして、一呼吸おいて、言葉を続ける。
「いいえ。……ようやく、始められるのです。私たちが、本当に創りたかった未来を」
彼女の視線は、もはや過去の残骸に向けられてはいなかった。その瞳が映しているのは、これから築き上げていくべき、新しい王国の未来。
ベルフォート家の瘴気反応炉が吐き出し続けた煤煙で、いつも少しだけ淀んでいた王都アストラリスの空が、今日は心なしか、青く澄んで見えた。
セラフィナは、セバスチャンの方を向いて、再び微笑んだ。それは、これまでのどんな微笑みよりも、晴れやかで、力強い微笑みだった。
セバスチャンもまた、彼女に応えるように微笑む。
二人は言葉を交わすことなく、ただ共に、新しい時代へと続く石畳の道を、並んで歩き始めた。
傍聴席は、息を詰めた人々の熱気でむせ返っていた。貴族、平民、そしてペンを握りしめた新聞記者たち。リリア王国の歴史が大きく動く瞬間を目撃しようと、誰もが固唾を飲んで被告席を見つめている。
その被告席には、三人の男女が力なく座っていた。
かつて伝統派の巨魁として王国に君臨したベルフォート公爵、アレクサンドル・デュマ。一週間前の評議会での断罪以降、急激に老け込んだその顔には、もはや権力者の威厳はなく、ただ燃え尽きた憎悪の残滓がこびりついているだけだった。
その隣には、彼の嫡男、ジュリアン・ベルフォート。仕立ての良い上着も今は皺だらけで、彼の完璧だった容貌は虚ろな絶望に覆い尽くされている。その視線はどこか遠くを彷徨い、現実を捉えようとはしなかった。
そして、ヴィヴィアン・ルクレール。泣き腫らした目で、終始ぶるぶると震えている。彼女の野心と策略は、今や醜い恐怖に成り果てていた。
対照的に、証人席の最前列に座るセラフィナ・ド・ヴァレンシアは、驚くほど静かだった。
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彼女の隣には、セバスチャン・モランが座っていた。彼もまた、黒を基調とした落ち着いた服装で、その横顔は揺るぎない岩のようだ。彼は時折、セラフィナにだけ分かるように、そっと気遣わしげな視線を送る。その視線が、彼女にとって何よりの支えとなっていた。
やがて、重々しい扉が開き、白髪の審問官長が入廷した。法廷内の一切の私語が止み、張り詰めた沈黙が支配する。
「これより、王立評議会の決議、および国王陛下の勅命に基づく公開聴聞会を執り行う」
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審問官長は、分厚い羊皮紙の巻物をゆっくりと広げた。広げられた羊皮紙の上で、王家の紋章が魔術的な光を放つインクで荘厳に輝く。彼は、その内容を読み上げ始めた。
「元ベルフォート公爵、アレクサンドル・デュマ。汝は、その地位を悪用し、瘴気反応炉がもたらす環境汚染と国民への健康被害を組織的に隠蔽した。さらに、王国のエネルギー市場を不正に操作し、不当な利益を貪った。これらの行為は、リリア王国とその民に対する重大な背信行為である」
一つ、また一つと、ベルフォート家が犯してきた罪が、冷徹な言葉で白日の下に晒されていく。裏帳簿の存在、データの改竄、反対派への脅迫。セバスチャンとセラフィナが突き止めた証拠の数々が、反論の余地なく叩きつけられた。
「よって、王命に基づき、ベルフォート家に与えられていた公爵位を永久に剥奪する。また、ベルフォート家の全資産は、不正に得られたものとみなし、その一切を没収の上、国庫に帰属させるものとする」
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リリア王国建国以来の名門が、その歴史に幕を下ろした瞬間だった。
「黙れ……! この私が、血統も定かではない小娘風情の戯言で裁かれるというのか! 我らベルフォートの血と伝統こそがリリアの礎なのだ! それを忘れたか、愚民どもめ!」
それまで死んだように座っていたアレクサンドルが、獣のような叫び声を上げた。
彼は立ち上がろうとしたが、屈強な衛兵二人に両腕を掴まれ、力ずくで椅子に押さえつけられた。かつて王国を牛耳った男の、あまりにも無様な最後の抵抗だった。
セラフィナは、その光景をただ静かに見つめていた。彼女の心は、不思議なほど凪いでいた。
次に、審問官長の視線がジュリアンとヴィヴィアンに向けられた。
「ジュリアン・ベルフォート、並びにヴィヴィアン・ルクレール。両名は、公爵の陰謀を幇助した共謀者と断定する。よって、両名の貴族籍を除名。個人の全資産も没収の上、王都アストラリスより永久に追放するものとする」
「いやですわ! 私は、私はただ、ベルフォートの次期公爵夫人に相応しくあろうとしただけで……! そうですわ、悪いのは全てジュリアン様です! あの方が私を唆し、あなたを追い落とせと命じたのです! ねえ、セラフィナ様! あなたも女なら、高い地位を望む気持ちがお分かりになるでしょう!? どうか、どうかお慈悲を……!」
ヴィヴィアンが甲高い悲鳴を上げて椅子から崩れ落ち、床に突っ伏して泣きじゃくる。
その見苦しい命乞いは、誰の心にも響かなかった。むしろ、彼女がこれまで人々に見せてきた傲慢な姿との落差が、冷たい嘲笑を誘うだけだった。
だが、ジュリアンは違った。
彼は判決を聞いても、ただ呆然と座っていた。その虚ろな瞳が、ゆっくりと動く。まるで初めてピントが合ったかのように、まっすぐにセラフィナを捉えた。
その瞳に宿っていたのは、後悔、絶望、そして、今さらながらに気づいてしまった、取り返しのつかない喪失感だった。
「……閉廷」
審問官長が木槌を打ち鳴らし、聴聞会は終わりを告げた。
堰を切ったように、傍聴席から人々が立ち上がり、騒然とした喧騒が法廷を満たす。記者たちは被告席に殺到しようとし、衛兵たちがそれを押しとどめている。
セラフィナは、セバスチャンに促されるまま、静かに席を立った。もう、ここに用はない。過去との決別は、今、この瞬間に果たされたのだ。
彼女が背を向け、歩き出そうとした、その時だった。
「待ってくれ……セラフィナ!」
背後から、しわがれた声が聞こえた。
振り返ると、ジュリアンが衛兵の制止を振り払い、よろめきながらこちらへ向かってくるところだった。
セバスチャンが即座に反応し、セラフィナを守るように一歩前に出る。その鋭い視線が、ジュリアンを射抜いた。
「ベルフォート。それ以上近づけば、貴様の存在そのものをこの場から消すことになるぞ。彼女の名を、その汚れた口で二度と呼ぶな」
「頼む……一度だけでいい。彼女と……話をさせてくれ」
ジュリアンの声は、懇願に満ちていた。
セラフィナは、セバスチャンの腕にそっと手を触れた。
「大丈夫ですわ、セバスチャン様」
と、静かな声で告げる。
彼女はセバスチャンを制し、一歩前に進み出た。そして、かつての婚約者と、最後の対峙をする。
ジュリアンは、彼女の数歩手前で立ち止まると、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。彼は、泥のついた床に両膝をつき、セラフィナを見上げる。
「セラフィナ……」
その声は、嗚咽に震えていた。
「すまなかった……。私が、私が……全て、愚かだったんだ」
彼は、みっともなく顔を歪め、言葉を絞り出す。
「私は……君という、未来そのものを生み出す『原初の魔石』をすぐ隣に置きながら、古びた家名という『煤けた額縁』ばかりを大事にしていた……。そして、ヴィヴィアンという……虚飾だけで中身のない、ただの『模造品の輝き』に目を眩ませてしまったんだ……」
彼の言葉は、もはや支離滅裂だった。後悔の念が、彼の理性を完全に破壊していた。
「君がいれば……君さえ私の隣にいれば、こんなことには……! 家も、未来も、何もかも……。なぜ、なぜ私は君を手放したんだ……? 教えてくれ、セラフィナ。私は……どこで道を間違えた……?」
彼は、震える手をセラフィナに向かって伸ばそうとした。
「許してくれとは言わない。そんな資格がないことは分かっている。だが、どうか……どうか、もう一度……」
その先は、言葉にならなかった。それは、再起を願う言葉なのか、それとも単なる赦しを乞う言葉なのか。彼自身にも分かっていないようだった。ただ、目の前の、かつて自分が捨てた女性に、無様に、ただ無様に、救いを求めていた。
セラフィナは、そんな彼を静かに見下ろしていた。
その美しい菫色の瞳には、何の感情も映っていなかった。
かつて彼を愛した熱も、婚約を破棄された時の屈辱も、その後の憎しみも、怒りも、何もかもが綺麗に消え去っていた。
そこにあるのは、ただ、完全なる「無」。
まるで、道端に転がる、意味のない石ころを見つめるような。あるいは、壊れてしまって二度と動かない、古い玩具に目をやるような。
憐れみですらなかった。憐れむという感情を抱くには、相手が自分の人生にとって、あまりにも無価値な存在になりすぎていた。
彼女の沈黙は、どんな罵倒よりも、どんな拒絶よりも、ジュリアンの心を抉った。
やがて、セラフィナはゆっくりと彼から視線を外した。そして、隣で全てを見守っていたセバスチャンに向き直り、小さく、しかしはっきりと、一度だけ頷いた。
『行きましょう』
言葉はなくとも、その意思は明確に伝わった。
セラフィナは、きびすを返した。
一度も、振り返らなかった。
ジュリアンの絶望的な嗚咽が、背後で聞こえた。ヴィヴィアンが衛兵に引きずられながら、何かを喚き散らしている声も聞こえた。
だが、それらは全て、遠い世界の出来事のようだった。彼女の人生とは、もはや何の関わりもない、ただの雑音に過ぎなかった。
セバスチャンが、そっと彼女の隣に並んで歩き出す。
二人は、騒然とする大審院の長い廊下を、毅然とした足取りで進んでいった。
◇◇◇
大審院の重厚な扉を開けると、冬の冷たい空気が肌を刺した。法廷内の淀んだ熱気が、一瞬で浄化されていくようだ。
空は高く、どこまでも澄み渡っていた。
「……終わったな」
セバスチャンが、低く、穏やかな声で言った。彼は自分が羽織っていた上質なウールのコートを脱ぐと、そっとセラフィナの肩にかけた。コートに残る彼の温もりが、心地よかった。
セラフィナは、その心遣いに小さく微笑むと、空を見上げた。
「ええ。終わりましたわ」
彼女は静かに答えた。そして、一呼吸おいて、言葉を続ける。
「いいえ。……ようやく、始められるのです。私たちが、本当に創りたかった未来を」
彼女の視線は、もはや過去の残骸に向けられてはいなかった。その瞳が映しているのは、これから築き上げていくべき、新しい王国の未来。
ベルフォート家の瘴気反応炉が吐き出し続けた煤煙で、いつも少しだけ淀んでいた王都アストラリスの空が、今日は心なしか、青く澄んで見えた。
セラフィナは、セバスチャンの方を向いて、再び微笑んだ。それは、これまでのどんな微笑みよりも、晴れやかで、力強い微笑みだった。
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