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市場の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
カイ・ウォーカーと名乗る学者の穏やかな声だけが、やけに鮮明に私の鼓膜を震わせた。
「その視点は、まるで地図製作者そのものです」
心臓が、氷水に浸されたかのように冷たく跳ねた。背筋を駆け上る悪寒を、私は必死で優雅な微笑みの下に隠す。一瞬でも動揺を見せれば、この穏やかな仮面を被った男に、心の臓腑まで見透かされてしまう。
「まあ、買いかぶりですわ、ウォーカー様。地図製作者とは、もっと緻密で根気のいるお仕事でしょう? わたくしのような素人にはとても」
私はゆっくりと首を横に振り、わざとらしく少し困ったように眉を下げてみせた。追放された令嬢の、か弱くも気丈な演技。王都では飽きるほど見てきた、そして自分も演じることを強いられてきた茶番だ。
「わたくしは父の書斎に籠もりがちで、世間を知りませんから。本で得た知識だけで、つい的外れな空想を巡らせてしまうのですわ」
内心では、警鐘がけたたましく鳴り響いていた。
(この男、絶対にただの学者ではないわ! 王立書庫ですって? そんな場所から、こんな辺境の、忘れられたも同然の土地に派遣されるなんて、どう考えても不自然すぎる!)
彼の指摘は、あまりにも的確だった。私が数日かけて工房の資料と格闘し、ようやくたどり着いた「意図的に消された道」という仮説。それを、市場の物流という断片的な情報だけで、いとも容易く導き出してみせた。偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。
守りに入ってばかりでは、相手の思う壺だ。私は思考を切り替え、今度は攻勢に出ることにした。
「それにしても、ウォーカー様こそ、まるで腕利きの商人のように物流にお詳しいのですね」
私は純粋な好奇心を装い、小首を傾げてみせる。
「王立書庫の学者様は、経済の動きにまでお詳しいのですね。わたくしの浅はかな知識では、埃をかぶった古文書を紐解くのがお仕事なのだとばかり思っておりましたわ」
これは、罠だ。彼の経歴と、彼が今見せた能力との間の矛盾を突く、小さな棘。彼が本当に王立書庫の人間ならば、その理由を説明する必要がある。もし嘘ならば、その綻びが必ずどこかに現れるはずだ。
カイ・ウォーカーは、私の言葉の裏にある意図を即座に理解したのだろう。しかし、彼の穏やかな表情は微動だにしない。まるで凪いだ湖面のように、私の投げた小石の波紋を、静かに受け止めている。
「ええ、おっしゃる通りです。ですが、書物に記された歴史というのは、結局のところ、人と物の流れの記録に他なりませんから」
彼は少し目を細め、遠くの雪を頂いた山脈を見つめながら言った。
「真実は、王の年代記のような華やかな表紙ではなく、埃をかぶった徴税帳簿の中にこそ眠っている。歴史とは、いつだってそういうものですから、お嬢様」
その答えは、完璧だった。非の打ち所がない。私の仕掛けた小さな罠を、彼は見事に回避し、さらには学識の深さを示すことで、自らの立場をより強固なものにした。
(……手強いわ)
私たちは、賑やかな市場の真ん中で、誰にも気づかれぬまま、静かな決闘を繰り広げていた。笑顔と言葉を剣とし、互いの真意という急所を探り合う、見えざる戦い。
しばらくの探り合いの後、私はアルフレッドに目配せをし、買い物かごを指し示した。
「そろそろ戻らないと、シチューが煮詰まってしまいますわ。ウォーカー様、本日は興味深いお話をありがとうございました」
私は淑女の礼をとり、踵を返した。これ以上ここにいても、得られる情報より、与えてしまう情報の方が多くなる。今は一旦、引くべきだ。
「こちらこそ。また、お目にかかれる日を楽しみにしております、フェアファックス嬢」
背後からかけられた声に、私の足がぴたりと止まった。
フェアファックス嬢。
彼は、私の名を、知っていた。
ゆっくりと振り返ると、カイ・ウォーカーは先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。その瞳の奥に、全てを見通しているかのような、深い光が宿っているのを除いては。
私は何も答えず、ただもう一度小さく会釈だけして、今度こそその場を離れた。
屋敷へと向かう馬車の揺れが、やけに心地悪く感じられた。
「アルフレッド」
私は、令嬢の仮面をかなぐり捨て、固い声で執事に問いかけた。
「アルフレッド……今の男、カイ・ウォーカー。あなたの目には、どう映った?」
御者台との仕切りのすぐそばに控えていたアルフレッドは、私の剣呑な気配を察し、静かに答えた。
「お嬢様が警戒なさるのも、ご無理はございません。あの穏やかな物腰の奥に、まるで鍛え上げられた鋼のような、冷たい光を感じました。ただの学者……いいえ、ただの文官の目ではございません。あれは、人を見定め、値踏みすることに慣れた者の目です」
「ええ。問題は、彼が何者で、目的が何なのかよ」
私は馬車の窓から、急速に遠ざかっていく村を睨みつけた。
「彼、私の名前を知っていたわ。この辺境で、私の顔と名前が一致する人間なんて、そうはいないはず。彼がここに来たのは、最初から私という存在を認識した上で……つまり、これは意図的な接触よ」
考えれば考えるほど、パズルのピースが不気味な形にはまっていく。
王立書庫の学者という、国家機関に属する肩書。
地図製作者に匹敵する、鋭い分析眼。
そして、フェアファックス家の追放された娘への、意図的な接触。
(まさか、リチャード公爵の差し金? いいえ、あの公爵ならもっと直接的に潰しにくるはず。だとしたら、公爵とは別の勢力? それとも……王家が直接?)
いや、それにしてはやり方が迂遠すぎる。公爵ならば、もっと直接的な手段で私を潰しに来るだろう。それに、あの男から感じたのは、敵意というよりはむしろ……純粋な知的好奇心に近いものだった。まるで、珍しい標本を観察する研究者のような。
どちらにせよ、危険な存在であることに変わりはない。カイ・ウォーカーという新たな「変数」の出現は、私の計画を根底から揺るがしかねない。
「アルフレッド、王立書庫について、何か知っていることはある?」
「王立書庫、でございますか……。確か、二代前の国王陛下が、王家の記録を管理するために設立された機関だったかと。出入りは厳しく制限され、所属する書記官たちは皆、王家への絶対的な忠誠を誓ったエリートだと聞いております」
「エリート……」
その言葉が、妙に引っかかった。
屋敷に戻るなり、私は一直線に秘密の工房へと向かった。カイ・ウォーカーという存在が、私の心に焦りという名の火をつけたのだ。
(ぐずぐずしていられない。奴が何者であれ、こちらの準備が整う前に動かれては厄介だわ)
私の当面の目標は、伝説の測量基点『原初の礎』の真の位置を特定すること。そのためには、まずこのフェアファックス領の、正確無比な地図を作成する必要がある。曽祖父が遺した歪像画の暗号を解くには、現実の地形と寸分違わぬ地図を重ね合わせることが、絶対条件なのだ。
私は工房の棚を片っ端から調べ、測量に必要な道具を探し始めた。星の位置を測るアストロラーベ、方位を知るための精巧なコンパス、そして、傾斜や距離を測るための……。
「……ない」
私の声が、がらんとした工房に虚しく響いた。
ないのだ。精密な測量に不可欠な道具が、ごっそりと。曽祖父の日誌には確かに記されていた、彼自身が改良を重ねたという高精度の六分儀や、真鍮製の美しい経緯儀(セオドライト)が、あるべき場所から姿を消していた。
(これも、曽祖父様が? 技術の悪用を恐れて、地図や資料だけでなく、道具まで処分してしまったというの?)
あるいは、もっと単純な理由か。二世代もの間、打ち捨てられていたのだ。誰かが持ち去ったか、あるいは父の代で売り払われたか。
どちらにせよ、結果は同じだ。これでは、正確な測量など不可能に近い。木の高さや川幅から大まかな距離を推測することはできても、リチャード公爵の歪めた地図に対抗できるほどの、ミリ単位の精度を出すことはできない。
計画が、初手から頓挫した。
私は壁に手をつき、額を押し付けた。悔しさと焦りが、胃の腑のあたりで渦を巻く。せっかく反撃の糸口を掴んだというのに、こんな物理的な問題で足止めを食うなんて。
「お嬢様」
静かな声に振り返ると、アルフレッドが心配そうな顔で立っていた。その手には、一枚の折り畳まれた羊皮紙が握られている。
「先ほど、村の子供がこれを。カイ・ウォーカー様から、お嬢様にと」
「あの男から……?」
私は訝しみながら、羊皮紙を受け取った。上質な紙の手触り。封蝋はなく、ただ丁寧に折り畳まれているだけだった。
広げると、そこには流れるように美しい、しかし力強いカリグラフィーで、短い文章が記されていた。
『知の探求者へ。
北の星の輝きだけでは、真の北は測れぬもの。
時に、足元の小さな花が、天体の運行よりも確かな道標となる』
その謎めいた文章の下に、もう一つ、何かが描かれていることに気づいた。
それは、インクで描かれた、精緻な植物のスケッチだった。五枚の小さな花弁を持つ、可憐な野草。この北の領地で、春先によく見かける花だ。
一瞬、その意図が分からず眉をひそめた。だが、スケッチの正確な描写が、私の記憶の扉を叩く。
(五枚の花弁、葉脈の走り方……これは『北の乙女の涙』と呼ばれる野草だわ。春先に咲く、ありふれた花……いいえ、違う!)
書斎で読んだ博物誌の一節が、脳裏に閃光のように蘇る。
『北の乙女の涙』は、ありふれた花ではない。鉄分を極端に嫌い、特定の希少鉱物が存在する石灰質の土壌でのみ群生を形成する……
(まさか……!『指標植物』……!)
私は震える手で、もう一度メッセージに目を落とした。『時に、足元の小さな花が、天体の運行よりも確かな道標となる』。
そういうことだったのか!
あの男は……私が精密な測量道具を持たず、天測だけに頼ることが困難だと見抜いた上で、別の道を示唆している?
そうよ、この花の群生地を辿れば、それは伝説の『原初の礎』を構成する特殊な鉱脈の位置を示す、生きた地図になる……!
カイ・ウォーカー。あの男は、一体どこまで知っているというの?
これは、単なる時候の挨拶でも、謎かけでもない。私の知識と観察眼を試し、そして、私がこの難問を解けるかどうかを見極めようとしている……これは、彼からの挑戦状だ。
底知れぬ恐怖と、それを上回る強烈な知的興奮に、私は工房の冷たい空気の中で、再び身震いするのを止められなかった。
カイ・ウォーカーと名乗る学者の穏やかな声だけが、やけに鮮明に私の鼓膜を震わせた。
「その視点は、まるで地図製作者そのものです」
心臓が、氷水に浸されたかのように冷たく跳ねた。背筋を駆け上る悪寒を、私は必死で優雅な微笑みの下に隠す。一瞬でも動揺を見せれば、この穏やかな仮面を被った男に、心の臓腑まで見透かされてしまう。
「まあ、買いかぶりですわ、ウォーカー様。地図製作者とは、もっと緻密で根気のいるお仕事でしょう? わたくしのような素人にはとても」
私はゆっくりと首を横に振り、わざとらしく少し困ったように眉を下げてみせた。追放された令嬢の、か弱くも気丈な演技。王都では飽きるほど見てきた、そして自分も演じることを強いられてきた茶番だ。
「わたくしは父の書斎に籠もりがちで、世間を知りませんから。本で得た知識だけで、つい的外れな空想を巡らせてしまうのですわ」
内心では、警鐘がけたたましく鳴り響いていた。
(この男、絶対にただの学者ではないわ! 王立書庫ですって? そんな場所から、こんな辺境の、忘れられたも同然の土地に派遣されるなんて、どう考えても不自然すぎる!)
彼の指摘は、あまりにも的確だった。私が数日かけて工房の資料と格闘し、ようやくたどり着いた「意図的に消された道」という仮説。それを、市場の物流という断片的な情報だけで、いとも容易く導き出してみせた。偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。
守りに入ってばかりでは、相手の思う壺だ。私は思考を切り替え、今度は攻勢に出ることにした。
「それにしても、ウォーカー様こそ、まるで腕利きの商人のように物流にお詳しいのですね」
私は純粋な好奇心を装い、小首を傾げてみせる。
「王立書庫の学者様は、経済の動きにまでお詳しいのですね。わたくしの浅はかな知識では、埃をかぶった古文書を紐解くのがお仕事なのだとばかり思っておりましたわ」
これは、罠だ。彼の経歴と、彼が今見せた能力との間の矛盾を突く、小さな棘。彼が本当に王立書庫の人間ならば、その理由を説明する必要がある。もし嘘ならば、その綻びが必ずどこかに現れるはずだ。
カイ・ウォーカーは、私の言葉の裏にある意図を即座に理解したのだろう。しかし、彼の穏やかな表情は微動だにしない。まるで凪いだ湖面のように、私の投げた小石の波紋を、静かに受け止めている。
「ええ、おっしゃる通りです。ですが、書物に記された歴史というのは、結局のところ、人と物の流れの記録に他なりませんから」
彼は少し目を細め、遠くの雪を頂いた山脈を見つめながら言った。
「真実は、王の年代記のような華やかな表紙ではなく、埃をかぶった徴税帳簿の中にこそ眠っている。歴史とは、いつだってそういうものですから、お嬢様」
その答えは、完璧だった。非の打ち所がない。私の仕掛けた小さな罠を、彼は見事に回避し、さらには学識の深さを示すことで、自らの立場をより強固なものにした。
(……手強いわ)
私たちは、賑やかな市場の真ん中で、誰にも気づかれぬまま、静かな決闘を繰り広げていた。笑顔と言葉を剣とし、互いの真意という急所を探り合う、見えざる戦い。
しばらくの探り合いの後、私はアルフレッドに目配せをし、買い物かごを指し示した。
「そろそろ戻らないと、シチューが煮詰まってしまいますわ。ウォーカー様、本日は興味深いお話をありがとうございました」
私は淑女の礼をとり、踵を返した。これ以上ここにいても、得られる情報より、与えてしまう情報の方が多くなる。今は一旦、引くべきだ。
「こちらこそ。また、お目にかかれる日を楽しみにしております、フェアファックス嬢」
背後からかけられた声に、私の足がぴたりと止まった。
フェアファックス嬢。
彼は、私の名を、知っていた。
ゆっくりと振り返ると、カイ・ウォーカーは先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。その瞳の奥に、全てを見通しているかのような、深い光が宿っているのを除いては。
私は何も答えず、ただもう一度小さく会釈だけして、今度こそその場を離れた。
屋敷へと向かう馬車の揺れが、やけに心地悪く感じられた。
「アルフレッド」
私は、令嬢の仮面をかなぐり捨て、固い声で執事に問いかけた。
「アルフレッド……今の男、カイ・ウォーカー。あなたの目には、どう映った?」
御者台との仕切りのすぐそばに控えていたアルフレッドは、私の剣呑な気配を察し、静かに答えた。
「お嬢様が警戒なさるのも、ご無理はございません。あの穏やかな物腰の奥に、まるで鍛え上げられた鋼のような、冷たい光を感じました。ただの学者……いいえ、ただの文官の目ではございません。あれは、人を見定め、値踏みすることに慣れた者の目です」
「ええ。問題は、彼が何者で、目的が何なのかよ」
私は馬車の窓から、急速に遠ざかっていく村を睨みつけた。
「彼、私の名前を知っていたわ。この辺境で、私の顔と名前が一致する人間なんて、そうはいないはず。彼がここに来たのは、最初から私という存在を認識した上で……つまり、これは意図的な接触よ」
考えれば考えるほど、パズルのピースが不気味な形にはまっていく。
王立書庫の学者という、国家機関に属する肩書。
地図製作者に匹敵する、鋭い分析眼。
そして、フェアファックス家の追放された娘への、意図的な接触。
(まさか、リチャード公爵の差し金? いいえ、あの公爵ならもっと直接的に潰しにくるはず。だとしたら、公爵とは別の勢力? それとも……王家が直接?)
いや、それにしてはやり方が迂遠すぎる。公爵ならば、もっと直接的な手段で私を潰しに来るだろう。それに、あの男から感じたのは、敵意というよりはむしろ……純粋な知的好奇心に近いものだった。まるで、珍しい標本を観察する研究者のような。
どちらにせよ、危険な存在であることに変わりはない。カイ・ウォーカーという新たな「変数」の出現は、私の計画を根底から揺るがしかねない。
「アルフレッド、王立書庫について、何か知っていることはある?」
「王立書庫、でございますか……。確か、二代前の国王陛下が、王家の記録を管理するために設立された機関だったかと。出入りは厳しく制限され、所属する書記官たちは皆、王家への絶対的な忠誠を誓ったエリートだと聞いております」
「エリート……」
その言葉が、妙に引っかかった。
屋敷に戻るなり、私は一直線に秘密の工房へと向かった。カイ・ウォーカーという存在が、私の心に焦りという名の火をつけたのだ。
(ぐずぐずしていられない。奴が何者であれ、こちらの準備が整う前に動かれては厄介だわ)
私の当面の目標は、伝説の測量基点『原初の礎』の真の位置を特定すること。そのためには、まずこのフェアファックス領の、正確無比な地図を作成する必要がある。曽祖父が遺した歪像画の暗号を解くには、現実の地形と寸分違わぬ地図を重ね合わせることが、絶対条件なのだ。
私は工房の棚を片っ端から調べ、測量に必要な道具を探し始めた。星の位置を測るアストロラーベ、方位を知るための精巧なコンパス、そして、傾斜や距離を測るための……。
「……ない」
私の声が、がらんとした工房に虚しく響いた。
ないのだ。精密な測量に不可欠な道具が、ごっそりと。曽祖父の日誌には確かに記されていた、彼自身が改良を重ねたという高精度の六分儀や、真鍮製の美しい経緯儀(セオドライト)が、あるべき場所から姿を消していた。
(これも、曽祖父様が? 技術の悪用を恐れて、地図や資料だけでなく、道具まで処分してしまったというの?)
あるいは、もっと単純な理由か。二世代もの間、打ち捨てられていたのだ。誰かが持ち去ったか、あるいは父の代で売り払われたか。
どちらにせよ、結果は同じだ。これでは、正確な測量など不可能に近い。木の高さや川幅から大まかな距離を推測することはできても、リチャード公爵の歪めた地図に対抗できるほどの、ミリ単位の精度を出すことはできない。
計画が、初手から頓挫した。
私は壁に手をつき、額を押し付けた。悔しさと焦りが、胃の腑のあたりで渦を巻く。せっかく反撃の糸口を掴んだというのに、こんな物理的な問題で足止めを食うなんて。
「お嬢様」
静かな声に振り返ると、アルフレッドが心配そうな顔で立っていた。その手には、一枚の折り畳まれた羊皮紙が握られている。
「先ほど、村の子供がこれを。カイ・ウォーカー様から、お嬢様にと」
「あの男から……?」
私は訝しみながら、羊皮紙を受け取った。上質な紙の手触り。封蝋はなく、ただ丁寧に折り畳まれているだけだった。
広げると、そこには流れるように美しい、しかし力強いカリグラフィーで、短い文章が記されていた。
『知の探求者へ。
北の星の輝きだけでは、真の北は測れぬもの。
時に、足元の小さな花が、天体の運行よりも確かな道標となる』
その謎めいた文章の下に、もう一つ、何かが描かれていることに気づいた。
それは、インクで描かれた、精緻な植物のスケッチだった。五枚の小さな花弁を持つ、可憐な野草。この北の領地で、春先によく見かける花だ。
一瞬、その意図が分からず眉をひそめた。だが、スケッチの正確な描写が、私の記憶の扉を叩く。
(五枚の花弁、葉脈の走り方……これは『北の乙女の涙』と呼ばれる野草だわ。春先に咲く、ありふれた花……いいえ、違う!)
書斎で読んだ博物誌の一節が、脳裏に閃光のように蘇る。
『北の乙女の涙』は、ありふれた花ではない。鉄分を極端に嫌い、特定の希少鉱物が存在する石灰質の土壌でのみ群生を形成する……
(まさか……!『指標植物』……!)
私は震える手で、もう一度メッセージに目を落とした。『時に、足元の小さな花が、天体の運行よりも確かな道標となる』。
そういうことだったのか!
あの男は……私が精密な測量道具を持たず、天測だけに頼ることが困難だと見抜いた上で、別の道を示唆している?
そうよ、この花の群生地を辿れば、それは伝説の『原初の礎』を構成する特殊な鉱脈の位置を示す、生きた地図になる……!
カイ・ウォーカー。あの男は、一体どこまで知っているというの?
これは、単なる時候の挨拶でも、謎かけでもない。私の知識と観察眼を試し、そして、私がこの難問を解けるかどうかを見極めようとしている……これは、彼からの挑戦状だ。
底知れぬ恐怖と、それを上回る強烈な知的興奮に、私は工房の冷たい空気の中で、再び身震いするのを止められなかった。
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