無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 時が凍てついたかのような静寂が、闘技場を支配していた。

 エララは、ただ静かに、目の前のアラリック王子を見つめている。

 アラリックの喉元には、フェイラン鋼の剣の切っ先が突きつけられていた。

 切っ先から伝わるのは、絶対的な死の気配。

 その途方もない重圧に、彼は身動き一つできない。

 彼の蒼穹の瞳には、恐怖と、それ以上に深い混乱が渦巻いていた。

 なぜだ。

 アラリックの頭の中で、無数の問いが木霊する。

 なぜ、自分の剣は、この女に届かなかった?

 なぜ、追放したはずのこの女が、今、自分の喉元に剣を突きつけている?

 なぜ、自分はこのような、人生最大の屈辱を味わっている?

 答えは、どこにも見つからない。

 彼が揺るぎないと信じてきた力の公理は、目の前の細い腕の女によって、あまりにも静かに、そして完璧に、打ち砕かれたのだから。

 観衆も、国王も、その場にいる全ての人間が息を詰め、この異常な光景を固唾を呑んで見守っていた。

 勝利者は、敗者の命をどうするのか。

 誰もが、次の一瞬を待つ。

 ふ、とエララが微かに息を吐いた。

 そして、アラリックの喉元に突きつけられていたフェイラン鋼の剣を、まるで水面に描かれた水紋が音もなく消えるように、滑らかに引いた。

 その動きには、一切の殺意も、躊躇もなかった。

 それは、解き終えた難解な数式からペンを離すような、ごく自然な所作だった。

 エララは、初めからアラリックにとどめを刺すつもりなど、微塵もなかったのだ。

 この決闘は、彼女にとって復讐ではない。

 憎しみの発露でもない。

 ただ、ひとつの証明。

 かつてアラリックが「無価値」と断じた彼女の思考が、彼が絶対と信じていた「力」よりも、遥かに高い次元にある真理であることを示すための、冷徹なまでの証明に過ぎなかった。

 そして今、その証明は、完了した。

 これ以上、この男に費やす時間も、思考も、エララの世界には存在しない。

 剣を鞘に収める、澄んだ金属音が響いた。

 その小さな音が、闘技場にかけられた魔法を解いたかのように、人々を我に返らせる。

「しょ、勝者、フェイランの騎士!」

 審判が、やや上ずった、震える声で宣言した。

 どよめきが、津波のように観客席から押し寄せる。

 信じられない、という囁き。

 何が起こったのだ、という困惑。

 そして、無名の騎士への、畏怖に満ちた賞賛の声。

 だが、エララはその熱狂に興味を示すことなく、静かに貴賓席に座る国王へと向き直り、深く一礼した。

「陛下」

 凛と響いたその声は、か細いながらも、不思議なほど闘技場の隅々まで届いた。

 国王は未だ、驚愕と困惑の狭間で揺れる瞳で、エララを見つめていた。

 その表情は、複雑な感情を宿している。

「見事な剣であった、フェイランの……」

 国王が彼女の名を呼ぼうとした、その時だった。

「陛下に、一つ、お願いがございます」

 エララは、その言葉を遮るように言った。

 その声には、揺るぎない決意が宿っている。

 ざわめきが、再び静まっていく。

 勝利者が王に望むもの。

 それは名誉か、金か、あるいは新たな地位か。

 誰もが固唾を呑み、彼女の次の言葉を待った。

「私、エララ・フォン・ヘムロックは、本日をもって、ヘムロック公爵家より賜りました爵位の一切を、王家にお返ししたく存じます。そして、これからは一市民として生きていくことを、陛下にお認めいただきたく存じます」

 しん、と静まり返った闘技場に、その言葉はあまりにもはっきりと響き渡った。

 爵位の、返上。

 貴族にとって、その地位は命よりも重いもの。

 それを、自ら手放すというのか。

 貴賓席で、ヘムロック公爵夫妻が蒼白になっているのが、遠目にもはっきりとわかった。

 彼らが捨てた娘が、今度は彼らの家名を捨てようとしている。

 これ以上の屈辱はないだろう。

 国王が何かを言う前に、エララは続けた。

「そして、もう一つ。この身を、辺境伯カシアン・ヴァレリウス様が治めるフェイラン領の一員として、正式にお認めいただきたく、ここにお願い申し上げます」

 その言葉は、最初の宣言よりも、さらに大きな衝撃を人々に与えた。

 王都の栄華を捨て、あの何もない、寂れた辺境の地へ。

 自ら望んで、追放された地へ帰るというのか。

 誰もが、彼女の真意を測りかねていた。

 呆然と立ち尽くしていたアラリックが、その言葉に、はっと我に返る。

 なんだ? 何を言っている、この女は。

 勝ったのだろう? 俺に勝ったんだ。

 ならば、俺を罵り、嘲笑い、そして俺の隣に戻ってくるのが筋書きではないのか。

 俺の婚約者として、再びその地位を取り戻し、俺を許してやるのが、お前の望みだったのではないのか。

 混乱が、怒りへと変わっていく。

「ふざけるな……!」

 アラリックが、絞り出すような声で呟いた。

 その時、観客席の一角から、一人の男が静かに立ち上がった。

 そして、闘技場へと続く階段を、ゆっくりと下り始める。

 黒曜石のような漆黒の髪。

 射抜くように深く、しかし穏やかな黒い瞳。

 辺境伯カシアン・ヴァレリウス。

 彼は騒然とする周囲の視線をものともせず、ただ真っ直ぐに、エララのもとへと歩み寄る。

 その足取りには、一切の迷いがなかった。

 カシアンは、エララの数歩手前で立ち止まると、彼女に向かって、静かに微笑んだ。

 それは、言葉にせずとも、彼女の決断のすべてを肯定する、深く、そして優しい微笑みだった。

「……君の望む通りに」

 カシアンは、国王にではなく、エララにだけ聞こえる声で、そう言った。

 彼はエララの隣に並び立つと、今度は国王に向かって深く頭を下げた。

「陛下。彼女の願い、辺境伯として、謹んでお受けいたします。エララ嬢は、我がフェイラン領にとって、何物にも代えがたい至宝となるでしょう」

 その言葉は、エララの知性と価値を、王都の全ての人間の前で断言するものだった。

 お前たちが捨てた宝を、我々は喜んで受け取ろう、と。

 国王は、複雑な表情で二人を見つめ、やがて重々しく頷いた。

 ここで否と言える状況ではない。

 王子の権威は地に落ち、民衆は新たな英雄の誕生に熱狂している。

 その英雄が望むことを、無碍に却下することはできなかった。

「……よかろう。その願い、聞き届けた」

 王の裁可が下りた。

 エララは、再び深く一礼する。

 もう、この場所に用はない。

 彼女はカシアンと共に、ゆっくりと背を向けた。

 その瞬間、アラリックの中で何かが弾けた。

 行ってしまう。

 この女が、自分に背を向けて。

 自分を打ち負かし、自分の全てを否定し、そして自分を過去の人間として捨てて、行ってしまう。

 そんなこと、あってはならない。

 許されるはずがない!

「待て!」

 アラリックは、喉を張り裂くように叫んだ。

「待て、エララ! どこへ行くつもりだ! 僕の許しなく!」

 その声は、もはや王子の威厳など微塵も感じさせない、ただの男の、惨めな叫びだった。

 しかし、エララの足は止まらない。

 彼女は、一度も、ただの一度も、振り返らなかった。

 彼女の視線の先にあるのは、カシアンと、彼が治めるフェイランの地。

 自分をありのままに受け入れ、その知性を愛してくれた、新しい仲間たちが待つ場所。

 過去を記述していた方程式は、もう解き終えたのだ。

 新しい未来という、まだ誰も解いたことのない、希望に満ちた美しい問題が彼女を待っている。

 凛としたその背中が、ゆっくりと闘技場の出口へと向かい、やがて消えていく。

 その後ろ姿は、過去との完全な決別と、新しい人生への確かな一歩を、何よりも雄弁に物語っていた。

 残されたのは、地に膝をつき、呆然と虚空を見つめるアラリック王子。

 そして、歴史的な瞬間の目撃者となり、ただ声もなく立ち尽くす、数千の観衆だけだった。
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