婚約破棄? 国外追放?…ええ、全部知ってました。地球の記憶で。でも、元婚約者(あなた)との恋の結末だけは、私の知らない物語でした。

aozora

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 王都、という言葉は、静かなフィンの小屋の空気を、凍てつくように重くした。

 それはリナにとって、度々夢の断片に現れる、まばゆいばかりにきらびやかで、しかし底知れぬ冷たさを秘めた場所だった。

 そして、ケインにとっては。

 失われた過去の全てがそこに眠ると信じる、忌まわしいほどの引力を持つ、宿命の地。

 沈黙を破ったのはケインだった。

「行くしかない、ということですね」

 彼の紫水晶の瞳は、揺るぎない決意を宿してリナをまっすぐに見つめている。

 その視線に、リナはこくりと頷いた。

「はい。星詠みの雫草がなければ、またいつ村が同じ危機に陥るかわかりません」

 リナは言葉を一度切り、そっと自分の胸に手を当てた。

 心臓が、とくん、と力強く鳴る。

「それに……私も、行かなければならない気がするんです。私が何者なのか、その答えが、王都にあるような気がして」

 その言葉は、ケインの心にも深く、深く突き刺さった。

 彼もまた、同じ焦燥感を抱えていたからだ。

 自分が何者で、なぜこの辺境の地にいるのか。

 そして何より、なぜこの娘から片時も目が離せないのか。

 その答えを知るためには、王都は避けては通れない道だった。

「……そうか。お前がそこまで言うのなら、俺も行こう。この胸騒ぎの正体が、王都にある気がしてならない」

 ケインは、静かに、しかし断固とした口調で告げた。

「……お前を一人で向かわせるわけにはいかない。王都へは、俺も同行する」

 迷いのないその声に、リナは安堵の息を漏らした。

「わかった。準備をしよう」

「王都までは馬を使っても数日はかかる。道中の安全は、この俺が保証する」

 力強いケインの言葉に、リナの胸を占めていた不安が、少しだけ和らいだ。

 隣に彼がいる。

 それだけで、未知の場所へ向かう恐怖よりも、未来への希望が勝るのを感じた。

 話を聞いていたフィンは、深く皺の刻まれた目元をゆっくりと和らげ、静かに頷く。

「決めたのなら、儂は止めんよ。お前さんたちなら、きっと大丈夫じゃろう」

 老人は、優しい声で言った。

「……リナ、少しだけ準備を手伝っておくれ」

 ◇

 出発は三日後と決まった。

 その間、リナは村に残していく人々のために、ありったけの薬を調合した。

 風邪薬、傷薬、胃腸薬……。

 工房の棚が薬瓶と薬包で埋め尽くされていく光景は、彼女がこの村で過ごした日々の証そのものだった。

 ケインは騎士団の同僚に任務の引き継ぎを行い、旅に必要な物資を調達していた。

 頑丈な馬を二頭手に入れ、保存食や野営道具を揃える彼の姿は、頼もしいの一言に尽きた。

 村人たちは、二人が王都へ向かうと聞いて、名残を惜しんだ。

「リナ先生がいなくなると寂しくなるな」

「ケイン様も、どうかお気をつけて。あなたがいなければ、この村は今頃……」

 口々に寄せられる温かい言葉に、リナは胸が熱くなるのを感じた。

 ここは、記憶のない彼女を受け入れてくれた、かけがえのない故郷だ。

 必ず帰ってくる。

 その想いを、強く、心に刻み込んだ。

 出発の前夜、リナはフィンの工房で最後の荷造りをしていた。

 肩に乗ったモカが、小さな手で薬草の包みをきゅっと抱きしめている。

 もちろん、モカも一緒に旅に連れて行くつもりだった。

「リナ」

 静かな声に振り返ると、フィンがそこに立っていた。

 その手には、古びた革の小袋が握られている。

「これを、お守りに持っていくといい」

 差し出された小袋を、リナはそっと受け取った。

 手のひらに載せると、中には何か柔らかな布が入っているのがわかる。

「これは……?」

「お前さんが、この森で倒れておった時に着ていた服の切れ端じゃ。儂が今まで、大事にしまっておいた」

 フィンの言葉に、リナは息を呑んだ。

 袋の口を開け、中身を手のひらに取り出す。

 それは、上質な絹で織られた、美しい刺繍入りの布地だった。

 蜂蜜色の彼女の髪と同じ色合いの生地に、銀糸で緻密な紋章が縫い込まれている。

 見たこともない紋章だったが、なぜか指先がその形を覚えているような、不思議な感覚があった。

「これが、私の……」

「過去に繋がる、唯一の手がかりじゃ。王都へ行けば、この紋章に見覚えのある者もおるかもしれん」

 フィンは、リナの頭を優しく撫でた。

 その手は、本当の祖父のように温かい。

「じゃが、忘れるでないぞ。お前さんは、もう公爵令嬢でも何でもない。このシエル・テラ村が誇る、最高の薬師じゃ。何があっても、自分を見失ってはならん」

「……フィンさん」

 リナの翠の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 フィンは慌てたように、しかし優しい手つきでその涙を拭う。

「泣くんじゃない。お前さんの帰りを、みんなで待っておるからの。ケインという、頼もしい騎士殿もついとる」

 言いながら、フィンは悪戯っぽく笑った。

「あの朴念仁、お前さんのことになると見境がなくなるからのう。これ以上ないほどの用心棒じゃ」

 その言葉に、リナの頬がぽっと赤く染まった。

 肩のモカが、何かを察したように、きゅる、と小さく鳴いた。

 ◇

 翌朝、シエル・テラの村はずれに、旅支度を整えたリナとケインの姿があった。

 村人たちが総出で見送りに来てくれている。

「リナ、これ、旅の途中で食べな!」

「ケイン様、ご武運を!」

 差し出されるパンや干し肉を、リナは笑顔で受け取った。

 ケインは馬上から、村人たちに無言で頷いて応えている。

 その表情はいつも通り硬いが、どこか柔らかさが滲んでいるように見えた。

 リナの肩では、モカがきゅるきゅると鳴きながら、小さな前足で見送りの人々に手を振っている。

 まるで、自分も旅の仲間だと主張するかのように。

「行ってまいります」

 深々と頭を下げるリナに、フィンが力強く頷き返した。

「ああ。行ってこい」

 ケインがリナの馬の手綱を引き、二頭の馬はゆっくりと歩き出す。

 遠ざかっていく村を、リナは何度も何度も振り返った。

 温かな日差しが、彼女の背中を優しく押してくれているようだった。

 王都へと続く道は、辺境のそれとは違い、よく整備されていた。

 時折、商人たちの馬車とすれ違う。

 最初の二日間は、穏やかな旅が続いた。

 昼は馬を進め、夜は森の開けた場所で野営をする。

 初日の夜、野営の準備に戸惑うリナの傍らで、ケインは手際よく火を起こし、寝床を設営した。

 彼はさりげなく、リナの毛布と自分の毛布の間隔を少しだけ寄せてくれた。

 その小さな気遣いに、リナの胸が小さく跳ねた。

 ケインは持参した保存食を温め、リナは持ってきた薬草で体を温めるスープを作った。

 言葉数は少ないが、二人きりの時間は不思議と心地よかった。

 ある日、道端に珍しい薬草を見つけたリナが馬を止めた。

 彼女が熱心に薬草を観察している間も、ケインは決して視線を外さず、周囲を警戒していた。

 視界の端で、時折素早く森の奥に目をやるケインの姿に、リナは彼がどれほど自分を守ろうとしているかを実感する。

 その日の夕食は、ケインが狩ってきた小鳥の肉が加わった。

 リナが焼いた肉を差し出すと、ケインは「美味い」と短く呟き、普段よりも少しだけ表情を和らげた。

 その言葉と笑顔に、リナの頬がまた熱くなる。

 リナが薬草の話をすればケインは静かに耳を傾け、ケインが魔物の習性について語ればリナは興味深そうに聞き入った。

 互いの知らない部分が、少しずつ埋まっていくような感覚。

 それは、記憶を失った二人にとって、何よりも確かな絆の証だった。

 しかし、穏やかな道中の間に、ケインの警戒心は次第に高まっていた。

 森の奥から聞こえる、不自然な獣の鳴き声。

 焚き火の跡に見慣れない紋様の残骸。

「王都に近づくほど、人里は増えるが、同時に危険も増す」

 ケインは、低い声でそう言った。

 彼の紫水晶の瞳が、僅かに光を帯び、鋭さを増しているのを見て、リナは改めて彼の強さと、自分を守ろうとする意志を感じた。

 三日目の夜。

 月が美しい夜だった。

 パチパチと音を立てて燃える焚き火を挟み、二人は向かい合って座っていた。

 リナの膝の上では、モカが丸くなってすうすうと寝息を立てている。

 時折、ぴくぴくと小さな耳を動かした。

 ふと、リナは訓練用の剣を磨いているケインの横顔を見つめた。

 炎に照らされたその貌は、彫刻のように整っている。

 しかし、その紫水晶の瞳の奥には、いつも深い影が落ちていた。

 記憶がないという、底なしの孤独。

 それはリナも痛いほどわかる感情だった。

 けれど、彼にはそれだけではない、何かがある。

 リナを魔獣から救った、あの日の銀閃。

 暗殺者と対峙した時の、圧倒的な強さ。

 それは、ただ騎士としての訓練だけで身につくものだろうか。

「あの……ケインさん」

 リナがおそるおそる声をかけると、ケインは剣を磨く手を止め、ゆっくりと視線を上げた。

 紫水晶の瞳が、静かにリナを映す。

「どうして……。どうしてケインさんは、記憶がないのに、そんなに強いんですか?」

 それは、ずっと胸の中にあった純粋な疑問だった。

 記憶は、その人の経験の積み重ねのはずだ。

 それを失っているのに、彼の剣からは一切の迷いが感じられない。

 まるで、体が、魂が、戦い方を覚えているかのように。

 ケインは、リナの問いにすぐには答えなかった。

 彼は視線を焚き火の揺らめきに戻し、しばし何かを考えるように目を伏せる。

 沈黙が、夜の静けさに溶けていく。

 気まずいことを聞いてしまっただろうか、とリナが後悔しかけた、その時だった。

「……わからん」

 ぽつりと、ケインが呟いた。

「俺にも、なぜだかわからん。剣を握れば、体が勝手に動く。敵を前にすれば、どうすればいいか、自ずとわかる」

 彼はそこで言葉を切り、ゆっくりと顔を上げて、今度は真っ直ぐにリナの瞳を見つめた。

 その眼差しは真摯で、リナは思わず息を呑む。

 彼の瞳が、まるで魂に刻み込まれたかのように、確かにリナの存在を捉えた、かのように見えた。

「だが、それは俺の意志というより……もっと根源的な何かに突き動かされている感覚だ。……守るべきものがある、と、魂が叫ぶからだ」

 彼の声は、低く、静かだったが、リナの心の奥深くまで染み渡るような響きを持っていた。

「……それが何かは、まだ思い出せないが」

 そう言って、ケインはわずかに眉を寄せ、苦しげな色を瞳に浮かべた。

 守るべきもの。

 その言葉が、リナの胸を強く打った。

 記憶を失ってもなお、彼の魂に刻み込まれた、揺るぎない衝動。

 それが、彼の強さの源なのだ。

 そして、なぜだろう。

 その「守るべきもの」が、まるで自分のことであるかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。

 彼の瞳に見つめられていると、魂ごと包み込まれるような、不思議な安らぎを感じるのだ。

「きっと……思い出せます」

 リナは、祈るように言った。

「ケインさんが、本当に守りたかったもの。王都へ行けば、きっと……」

「……そうだな」

 ケインは短く答えると、ふいと視線を逸らした。

 その耳が、焚き火の光に照らされて、ほんの少しだけ赤くなっていることに、リナは気づかなかった。

 夜が更け、二人はそれぞれの毛布にくるまって眠りについた。

 リナは、フィンのくれたお守りの小袋を、ぎゅっと握りしめていた。

 王都。

 そこには、残酷な真実が待っているのかもしれない。

 今の穏やかな幸せが、音を立てて壊れてしまうかもしれない。

 それでも、進まなければならない。

 ケインの失われた記憶のために。

 そして、自分の魂の欠片を取り戻すために。

 隣で眠るケインの穏やかな寝息が聞こえる。

 彼がそばにいてくれるなら、きっと大丈夫。

 リナはそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと意識を夜の闇へと手放した。

 運命の歯車は、もう止まらない。

 失われた記憶と、忘れられなかった想いを抱えた二人の旅は、全ての始まりの地へと、着実に近づいていた。
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