婚約破棄? 国外追放?…ええ、全部知ってました。地球の記憶で。でも、元婚約者(あなた)との恋の結末だけは、私の知らない物語でした。

aozora

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 夜の王都を疾駆する蹄の音は、まるで心臓の鼓動そのものだった。

 石畳を蹴り、家々の窓に映る灯りを後方へと流し去る。ケインはただひたすらに馬を駆った。

 冷たい夜気が頬を切り裂く。だが、彼の内側で燃え盛る激情に比べれば、それは些細な刺激でしかなかった。

 リナを乗せた馬車が闇に消えた瞬間、ケインの世界から色彩と音が失われた。魂を無理やり抉り取られるとは、きっとこういう感覚なのだろう。

 胸にぽっかりと空いた穴からは、耐え難いほどの喪失感と、これまで感じたことのない苛烈な怒りが噴き出していた。

 なぜ、彼女なのだ。

 なぜ、あのささやかな幸福を、理不尽な権力が踏みにじるのか。

 記憶のない自分にとって、彼女だけが唯一の光だった。彼女の作る薬の香り、柔らかな笑顔、時折見せる芯の強さ。そのすべてが、空っぽだったはずの自分の心を少しずつ満たしてくれていたというのに。

 (許さない……!)

 誰が、何の目的で彼女を陥れたのかは知らない。

 だが、必ず取り返す。

 ケイン―――アリステアの紫の瞳は、夜の闇よりもなお深く、冷たく燃える決意の光を宿していた。

 もう二度と、失うものか。

 彼の魂が、そう絶叫していた。

 彼が馬を止めたのは、壮麗な王城の正門ではなかった。

 近衛騎士団の詰所。辺境警備騎士隊が王都で活動する際の拠点でもある。

 馬から飛び降りるや否や、見張りの騎士が驚きの声を上げた。

「ケイン殿! 一体どうされたのですか、その形相は……!」

 ケインは返事もせず、詰所の扉を荒々しく押し開ける。

 中にいた数名の騎士たちが、彼のただならぬ雰囲気に息を呑んだ。

 奥の執務室から、壮年の男性が顔を出す。ケインが隊長として報告を上げていた、辺境警備騎士隊の王都における責任者、ダリウス隊長だった。

「ケインか。騒々しいぞ。一体何事だ」

「隊長。国王陛下への謁見を取り次いでいただきたい」

 ケインの静かだが有無を言わせぬ口調に、ダリウスは眉をひそめた。

「陛下へ? この夜更けにか。理由を聞こう」

「先ほど、シエル・テラ村の薬師、リナという娘が不当な罪で連行されました。私は彼女の無実を証明し、その身柄の解放を陛下に直訴する」

 ダリウスは大きなため息をついた。その反応から、彼がすでに事態を把握していることが知れた。

「……愚かなことを言うな。あの娘の逮捕には、国王陛下の令状が出ている。王命は絶対だ。お前が一騎士として覆せるものではない。たとえ将来を嘱望された者であろうとも、だ」

「ならば、一騎士としてではないやり方で覆すまで」

「ケイン! 目を覚ませ! お前は記憶を失っているとはいえ、その才能は誰もが認めるところ。このままでは、一介の村娘にのぼせ上がり、自らの未来を棒に振ることになるぞ!」

 ダリウスの言葉は、ケインを案ずるが故の、必死の忠告だった。

 だが、今の彼には届かない。

「彼女は、『一介の村娘』などではない」

 ケインは、ダリウスの言葉を静かに否定した。紫の瞳に宿る凄まじい光は、もはや単なる騎士の気迫ではなかった。生まれながらに人を統べる者の持つ、絶対的な威圧感がそこに揺らめいていた。歴戦のダリウスですら、思わずたじろぐほどの。

「彼女は……私のすべてだ。それを失ってまで手に入れる未来に、何の意味があるというのだ」

「……っ、貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!」

「分かっている。だから、道を開けていただきたい。聞き入れていただけぬのなら―――」

 ケインの右手が、腰に提げた剣の柄に伸びる。

「―――力ずくででも、通る」

 詰所内の空気が凍りついた。

 仲間であるはずの上官に刃を向けようとする狂気。

 だが、その瞳は狂気とは程遠い、どこまでも澄んだ理性を保っていた。

 本気なのだ。

 ダリウスはしばらくケインを睨みつけていた。

 やがて諦めたように大きく息を吐き、肩を落とした。

「……分かった。もう止めはせん。だが、謁見の取り次ぎはできん。陛下はすでにお休みになられている。これ以上は、お前自身の力で進め」

「感謝する」

 短い礼だけを残し、ケインは踵を返す。

 彼の背中に、ダリウスがぽつりと呟いた。

「……まるで、嵐のようだ。昔の、あの御方にそっくりだ……」

 その声がケインの耳に届くことはなかった。

 王城の廊下を、ケインは迷いなく進んでいく。

 記憶はないはずなのに、体はこの城の構造を熟知しているかのようだった。

 衛兵たちが何度も制止の声を上げ、剣を抜くが、ケインは一切速度を緩めない。

「止まれ! 何者だ!」

「国王陛下の寝所へ近づくことは許さん!」

 彼らの剣を鞘ぐるみいなし、急所を的確に突いて昏倒させる。

 決して命は奪わない、手練れの動きだった。

 やがて、最も豪奢な装飾が施された扉の前で、近衛騎士団長が自ら立ちはだかった。

「そこまでだ、ケイン殿。貴官の武勇は聞き及んでいるが、ここから先は王への反逆と見なす」

「退いてもらおう。陛下に申し上げたいことがあるだけだ」

「ならば朝を待て。それが道理というものだ」

「私の道理は、今、この瞬間にある」

 二人の間に火花が散る。一触即発の空気が張り詰めた、その時。

「……騒がしいな。通せ」

 重厚な扉の向こうから、威厳に満ちた声が響いた。

 近衛騎士団長は驚愕の表情を浮かべたが、主君の命令には逆らえない。不承不承、道を開けた。

 ケインが通されたのは、国王の私室だった。

 豪奢な調度品が並ぶ部屋の中央で、初老の男がガウンを羽織り、椅子に腰かけていた。

 ヴァイスリヒト王国国王、ゲオルグ・フォン・ヴァイスリヒト。その人であった。

 ケインは国王の前に進み出ると、静かに片膝をついた。

「夜分遅くに、無礼を承知で参上いたしました。陛下」

「うむ。して、近衛騎士たちを何人も打ち倒してまで、余に伝えたいこととは何だ。辺境警備騎士隊のケインとやら」

 国王の目は、全てを見透かすようにケインを射抜く。その声には、単なる問いかけ以上の、深い探るような響きがあった。

「本日逮捕された、薬師リナの件です。彼女にかけられた嫌疑は濡れ衣。どうか、再審議の機会をお与えください」

「ほう。マーロウ侯爵家からの告発で、証拠も揃っておると聞くが。お前はそれを覆せると?」

「はい。彼女は類稀なる薬師です。辺境の村で発生した魔術汚染による病を、たった一人で食い止めました。そのような人物が、違法な薬を売りさばくなどあり得ません。彼女の才能は、必ずやこの国の益となります」

 ケインは冷静に、理路整然とリナの功績を述べた。

 だが、国王は興味なさそうに鼻を鳴らした。

「国益、か。だが、法は法だ。たとえ有能であろうと、罪を犯したのであれば裁かねばならん。それに……」

 国王は椅子から立ち上がり、ケインの目の前に立った。

「一介の村娘のために、これほどの無謀を働く理由にはならんな。騎士よ、本当の理由を申せ。なぜ、その娘にそこまで執着する?」

 問い詰められたケインは、しばし沈黙した。

 論理的な答えなど、持ち合わせていない。記憶のない自分が、なぜこれほどまでに彼女に惹かれ、彼女を失うことに恐怖するのか。説明など、できるはずもなかった。

 だが、答えは一つしかなかった。

 魂が叫ぶ、唯一の真実。

「……分かりませぬ」

 ケインは顔を上げ、真っ直ぐに国王の瞳を見据えた。

「なぜ、これほど心が乱されるのか」

 ケインは絞り出すように言った。

「なぜ、彼女のいない世界を想像しただけで、息ができなくなるのか」

「私には、何も分かりません」

 記憶を失った己の胸中に渦巻く、理解不能な感情。だが、その感情だけは真実だった。

「ですが、これだけは申し上げられます。彼女を失うことは、我が身の半分を失うことと同義」

「……いいえ、それ以上の苦痛であると、私の魂が告げております」

「どうか、陛下。私のこの命に代えて、彼女に真実を語る機会をお与えください」

 ケインは深く、深く頭を下げた。

 国王は何も言わず、ただじっとケインを見下ろしていた。

 その瞳には、驚きと、懐かしさと、そして何かを見定めるような複雑な光が揺らめいていた。彼の魂から放たれる熱と、あの忘れ得ぬ面影が、国王の心に深く響いたのだ。

 王命という絶対の重みが、この若き騎士の、狂気じみた情熱とぶつかり合っていた。

 長い沈黙の後、国王は重々しく口を開いた。

「……よかろう。面白い。貴様のその執着、そしてその娘の真の価値を、この目で確かめてみたい。明日の朝、特別審議の場を設ける」

 国王の言葉に、ケインは顔を上げた。

「そこで、その娘の無実を証明してみせよ。だが、もし証明できなんだ時は……」

 国王の声が低くなる。

「お前もまた、王家を誑かした大罪人として、その娘と共に断頭台に送ることになる。それでも、良いな?」

「御意」

 ケインは、一片の迷いもなく即答した。

 翌朝。王城の一室には、重苦しい空気が漂っていた。

 玉座に座る国王の前には、数名の重臣、そして告発者であるイザベラ・マーロウが並んでいる。その反対側には、ケインが一人、固い表情で立っていた。

 やがて、重い扉が開き、二人の衛兵に付き添われてリナが姿を現す。

 憔悴はしているものの、その翠の瞳は絶望の色に染まってはいなかった。強い意志の光が、まだ確かに宿っている。

 リナはケインの姿を認めると、小さく目を見開いた。その翠の瞳に、かすかな驚きと、深い安堵が宿る。なぜ、彼がここにいるのか。まさか、自分のために……?

 (ケインさん……!)

 ケインもまた、リナに気づき、その紫の瞳にわずかな安堵と、痛みを滲ませた。無事だった。しかし、この場に立たせてしまったという自責が、唇を強く噛みしめさせた。

 リナはそんなケインの胸中を察したかのように、小さく、誰にも気づかれないように首を横に振った。あなたのせいじゃない、と伝えるように。その眼差しは、優しいだけでなく、全てを受け止めるような揺るぎない強さを宿していた。

 二人の無言のやり取りを、イザベラが冷たい視線で見ていた。

 彼女は優雅に一歩前に出ると、ケインに向かって嘲るように言った。

「まあ、ケイン様。昨夜は随分とご無理をなさったと伺いましたわ。けれど、なぜですの?」

 その声は、鈴を転がすように愛らしいのに、毒を含んだ棘のように耳に突き刺さる。

「なぜ、そのような一介の村娘のために、ご自身の輝かしい未来まで賭けてしまわれるのです? まるで理に合いませんわ」

 イザベラの問いは、この場にいる誰もが抱いていた疑問だった。

 全ての視線がケインに集中する。彼の答え一つで、この審議の趨勢が決まる。

 ケインは、イザベラを一瞥もせず、その視線をリナにだけ注いでいた。まるで、世界に二人しかいないかのように。

 そして、彼は迷いなく答えた。

「理に合うかどうかなど、どうでもいい」

 その声は、静かだが、謁見の間の隅々にまで響き渡った。

「理由など、私にも分からん。だが、私の魂が告げている」

 ケインは、リナから視線を外さぬまま、はっきりと告げた。

「彼女が、私の失われた半身であるような気がするからだ。……いや、違うな」

 彼は一度言葉を切り、そして、確信に満ちた声で言い放った。

「彼女は、私の失われた半身そのものだ。それを取り戻すのに、理由も理屈も必要ない」

 その言葉は、雷鳴のように謁見の間に響き渡った。

 重臣たちは息を呑み、イザベラの完璧な笑みが、初めて凍りつく。記憶を失ってもなお決して揺るがない、魂の繋がりを宣言された彼女の金の瞳に、焦りの色が浮かんだ。

 リナは、ケインのあまりにも真っ直ぐな言葉に、胸が張り裂けそうになる。

 涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。

 沈黙を破ったのは、玉座の国王だった。

 彼は満足げに頷くと、重々しく口を開いた。

「面白い。実に面白い答えだ。ならば、その『半身』とやらが、どれほどの価値を持つ者なのか……この場で証明してもらおうか」

 国王は衛兵に合図を送る。

「薬師リナよ。お前の実力を示す機会を与えよう。もし、お前が王宮一の薬師ですら匙を投げた、呪われし病を癒すことができたなら……お前の無罪を認めようではないか」

 その言葉は、リナにとって新たな試練の始まりを告げるものだった。

 並大抵の薬材では到底治療できないとされるその病を前に、会場にはざわめきが広がった。だが、彼女の隣には、全てを賭けて自分を信じてくれる騎士がいる。

 リナは、ケインに向かって強く頷き返した。

 もう、一人ではない。
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