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意識が浮上する感覚は、まるで冷たい水の底から、光の差す水面へとゆっくりと昇っていくようだった。
最後に見たのは、全てを見透かすような、鋭い金の瞳。
そして、耳元で囁かれた、低く、有無を言わせぬ響きを持った声。
「――嬢。その『石』の話、詳しく聞かせてほしい」
その言葉が、遠のいていく意識に打ち込まれた最後の楔だった。
エリアーナが次に目を開けた時、視界に映ったのは見慣れない天幕の天井だった。
簡素ながら、風雨をしっかりと防いでくれそうな厚手の布地が視界いっぱいに広がっている。
鼻腔をくすぐるのは、消毒薬の匂いと、微かに薫る上質な茶葉の香りだった。
身体を起こそうとすると、柔らかな毛布が肩から滑り落ちた。
自分が寝かされていたのは、行軍用の折り畳み式寝台のようだったが、その上に敷かれたマットレスは驚くほど身体に馴染む。
ここはどこなのだろう。
あの盗賊たちは?
混乱する頭で状況を整理しようとした、その時だった。
「目が覚めたか」
凛とした声が、すぐ傍から聞こえた。
はっとして視線を向けると、そこにはカイウス・エトール・ヴァルヘイムが、簡素な椅子に腰を下ろして静かに座っていた。
手には一冊の革装本。どうやら彼女が目覚めるまで、ここで読書をしていたらしい。
天幕の中は、魔法の灯りだろうか、安定した光を放つランタンが一つだけ灯され、彼の黒髪と黒い軍服の輪郭を柔らかく照らし出している。
影の中に座るその姿は、まるで闇そのものが人の形をとったかのような、圧倒的な存在感を放っていた。
「……ヴァルヘイム、公爵、様」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「ああ」
カイウスは本を閉じると、それを傍らの小さなテーブルに置いた。
金の瞳が、真っ直ぐにエリアーナを射抜く。その視線に、嘲りや侮蔑の色は一切ない。
ただ、飽くなき探求の色だけが宿っていた。
「気分はどうだ。医師に見せたが、極度の疲労と緊張によるものだろうとのことだった」
「……おかげさまで。あの、助けていただき、ありがとうございました」
エリアーナは寝台の上で深く頭を下げた。彼がいなければ、今頃自分はどうなっていたか。
想像するだに恐ろしい。
「礼は不要だ。気まぐれに過ぎん」
カイウスは素っ気なく言うと、すぐに本題に入った。まるで、社交辞令に時間を費やすことすら無駄だと考えているかのように。
「それよりも、意識を失う前に君が口にした言葉。あれについて聞きたい」
来た。
エリアーナの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。まただ。
また、あの時と同じだ。
王城の『暁の間』で、アルフォンスや取り巻きの貴族たちから浴びせられた、嘲笑と憐憫の視線が脳裏に蘇る。
「『その奇妙な空想癖は、未来の王妃には相応しくない!』」
アルフォンスの甲高い声が、耳の奥で反響する。
どうせ、この人も同じなのだ。私の言葉を聞けば、「荒唐無稽だ」「気でも狂ったか」と一笑に付すに違いない。
そう思うと、唇が震えて言葉が出てこない。
俯くエリアーナの葛藤を見透かしたように、カイウスは静かに続けた。
「君が口にしたのは、『精製土水晶の純度は、九十九・九九九九……パーセント』。そうだな?」
「……っ」
「ただの石の話ではない。君は『純度』という言葉を使った。それは、特定の物質から不純物を意図的に取り除くという、高度な技術体系の存在を示唆している。そして、小数点以下の桁数にまで言及したのは、その純度が結果を左右する極めて重要な要素であることを意味する」
淀みなく紡がれる分析に、エリアーナは思わず息を詰めた。違う。
この人は、他の誰とも違う。
私の言葉を、意味不明な戯言として切り捨てていない。その裏にある論理構造を、正確に読み解こうとしている。
「……どうして、そんなことを」
「私はヴァルヘイムの領主だ。我が国は、技術こそが国力であると心得ている。新しい概念、新しい理論には常にアンテナを張っている。君の言葉は、私の知るどの技術体系にも当てはまらない。だからこそ、興味がある」
カイウスの金の瞳が、さらに強い光を宿す。
「恐れるな。私はグランツの王太子のように、理解できぬものを頭ごなしに否定するほど愚かではない。君の知識を、ありのままに話してほしい」
その言葉は、まるで魔法のようだった。
絶望の淵に突き落とされ、誰にも理解されない孤独の中で凍てついていたエリアーナの心に、小さな灯火がともるような感覚。
彼女はゆっくりと顔を上げた。目の前の男の瞳には、やはり嘲りの色は一片もなかった。
あるのは、未知の真理を前にした学者のような、真摯で、どこまでも純粋な探究心だけだった。
「……信じて、くださるのですか?」
「信じるか否かは、私が決めることだ。君はただ、語ればいい」
その合理的な物言いは、かえってエリアーナの心を落ち着かせた。同情でも、憐憫でもない。
彼はただ、エリアーナの中にある「知識」そのものに価値を見出そうとしている。
エリアーナは、一度深く息を吸い込んだ。そして、覚悟を決めて語り始めた。
どうせまた笑われるかもしれないという怯えを、心の奥底に押し込めて。
「……私の頭の中には、時折、光景が浮かびます。それは、この世界の誰も知らない、法則の光景です」
彼女はまず、「流電」と名付けた力の概念から説明を始めた。
「雷という現象があります。あれは、雲の中に溜まった膨大な力が、一度に大地へと解放される現象です」
エリアーナはやや早口になった。
「ですが、もし……その力を細く、長く、意のままに引き延ばし、金属の線の中を川のように流すことができたとしたら?」
「ほう。流れる雷、か」
カイウスは興味深そうに相槌を打つ。
「その『流電』は、夜を照らす灯りになり、鉄を溶かすほどの熱になり、物を動かす力にもなります。ですが、その本質は、情報を伝える速さにあります」
「情報、だと?」
「はい。そして、その『流電』を制御するために不可欠なのが、先ほど私が口にした『石』……私が『天命石』と呼んでいるものです」
カイウスの金の瞳が、一瞬、鋭く細められた。
「『天命』、だと? それは、神の啓示だとでも言うのか?」
エリアーナの説明は、その問いで一瞬止まったものの、すぐに熱を帯びていく。
それは、婚約者教育の一環として学んだ淑女の話し方とは程遠い、一つの分野に没頭する研究者のそれだった。
「大陸のどこにでもある石英に似た鉱物……『精製土水晶』。これを、特殊な魔法と技術を用いて、不純物がほとんど存在しない状態まで純度を高めます」
エリアーナは、少し専門用語が過ぎたかと思い、カイウスの表情をちらりと伺った。
「ええと、簡単に言えば、極限まで不純物を取り除くということです。すると、その石はとても不思議な性質を持つのです」
「……どのような性質だ」
「普段は『流電』を全く通しません。絶縁体です。ですが、ある特定の条件……例えば、微弱な『流電』を別の場所から加えるという『合図』を送ると、まるで門が開くように、堰を切ったように『流電』を通すようになるのです」
彼女は一息ついた。
「そして、『合図』がなくなれば、またピタリと流れを止める」
そこまで説明した時、それまで黙って聞いていたカイウスが、初めて口を開いた。
「……その、『通す』と『通さない』の切り替えは、人間の意思で、瞬時に、かつ正確に制御可能なのか?」
その質問に、エリアーナの脳裏にはまるで天啓のごとく鮮烈な電光が走った。的確すぎる。鋭すぎる。
彼女がこれから説明しようとしていた、この技術の最も根幹となる部分。その核心を、カイウスはたった一言で突いてきたのだ。
アルフォンスに同じ話をしようとした時、彼は「石が電気を通したり通さなかったり? 君は詩人にでもなるつもりか?」と、鼻で笑った。
父である侯爵ですら、「エリアーナ、それは魔法の領域の話だ。我々人間の手には余る」と、聞く耳を持たなかった。
だが、目の前の男は違う。彼は、エリアーナの語る現象の裏にある「制御可能性」という本質を、一瞬で見抜いた。
「……はい。可能です。極めて高速に、正確に」
震える声で答えると、カイウスはわずかに目を伏せ、何かを思考するように沈黙した。
彼の頭脳が、エリアーナの提示した新たなピースを基に、恐るべき速度で回転しているのが、その場の空気を通じて伝わってくるようだった。
やがて、カイウスはゆっくりと顔を上げた。
その金の瞳には、先ほどまでの探究心とは違う、畏怖とでも言うべき光が混じっていた。
「……なるほど。そういうことか」
彼の口から漏れたのは、感嘆のため息だった。
「一つの石に、その『門』を無数に作り込む。そして、それぞれの門の開閉を制御する。それはもはや、単なる道具ではない」
カイウスの言葉は、エリアーナ自身でさえ、まだ漠然としか捉えられていなかった天命の知識の応用可能性を、恐ろしいほど明確に言語化していく。
「『通す』を1、『通さない』を0と定義すれば、それは二進法の論理演算だ。つまり、その石は『思考』する。人間を遥かに超える速度で、複雑な計算を行うことができる。違うか?」
カイウスはわずかに目を閉じ、沈思する。
「我がヴァルヘイムの理論数学者たちが、遥か古代の文献を紐解き、『思考する機械』の概念を提唱したことがあった。
それは、全ての事象を『存在する』か『存在しない』かの二元に還元し、その組み合わせによって無限の論理を構築するという、途方もない机上の空論だった」
彼は顔を上げ、エリアーナを真っ直ぐに見つめた。
「我々はその理論を実現するための『媒体』を見つけられずにいた。スイッチング素子となりうる物質が。だが、君の『天命石』こそが、その失われた環(ミッシングリンク)だ。まさか、それが現実となるとは想像だにしなかった」
彼は再びエリアーナに視線を戻す。
「その計算結果を、情報として遠隔地に送る。伝達速度は、おそらく光に等しい。もはや、早馬や伝書鳩など、原始時代の遺物と化すだろう」
カイウスは椅子から立ち上がると、天幕の中をゆっくりと歩き始めた。その姿は、まるで檻の中を歩く黒豹のようだ。
「戦争の様相が、根底から覆る。戦場にいる兵士一人ひとりに、寸分の遅滞もなく、司令部から直接指示が届く。敵国の通信を傍受し、偽の情報を流すことも可能になる。国家間の諜報活動は、全く新しい次元に突入する」
「……」
「経済もだ。大陸中の市場の穀物価格、鉱物の相場、その変動をリアルタイムで把握できる者が現れたらどうなる? 富の動きそのものを支配できる。一国の経済を、意のままに動かすことすら夢物語ではなくなる」
そこまで一気に語ると、カイウスはぴたりと足を止め、エリアーナの方へと向き直った。
彼の金の瞳は、燃えるような輝きを放っていた。それは、彼女の知識の真価を、その軍事的、経済的、そして政治的な価値の全てを完璧に理解し、その計り知れない可能性に戦慄している者の目だった。
エリアーナは、生まれて初めて、魂の奥底から震えるような感動を覚えていた。
理解される、ということ。
自分の内側にある、誰にもわかってもらえなかった宝物の価値を、自分以上に正確に見抜いてくれる人間に出会えたということ。
アルフォンスに「狂っている」「妄想だ」と罵倒され、父に「魔法の領域」と切り捨てられた私の頭脳が、この男には「世界を変える力」として響いている。
この瞬間に、私の存在は初めて世界に許されたような気がした。
それは、百の慰めの言葉よりも、千の同情の言葉よりも、何よりも強く、エリアーナの傷ついた心を癒していく。
アルフォンスに婚約破棄された絶望も、父に見捨てられた悲しみも、この瞬間の感動の前では、遠い過去の出来事のように色褪せていくのだった。
「……グランツの王太子は、救いようのない愚か者だ」
カイウスは、侮蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。
「大陸の覇権を狙うと言いながら、その在り方を根底から覆す技術を目の前にして、それを『空想』と断じた。自らの無理解を棚に上げ、ダイヤモンドの原石をただの石ころと断じて投げ捨てたのだからな。歴史に残る大失態だ」
カイウスは再びエリアーナの寝台の傍に戻ると、その前に片膝をついた。
公爵という高貴な身分の男が、追放された罪人同然の令嬢に対して取るには、あまりにもありえない姿勢だった。
彼は、エリアーナの紫色の瞳を、まっすぐに見つめた。
「君を傷つけ、その価値を見誤った者たちのことなど、もう気にする必要はない。君の見るべきは過去ではなく、君がこれから創る未来だ」
その声は、断言だった。何の迷いも、疑いもない、絶対的な確信に満ちていた。
「君の空想は、世界を変える力がある」
「エリアーナ・フォン・クレスメント嬢」
初めて、彼は彼女の名前を呼んだ。
「私の領地で、それを現実にしてみないか?」
それは、問いかけの形をした、命令にも似た響きを持っていた。
絶望の闇に閉ざされていたエリアーナの人生に、一条の、あまりにも強烈な光が差し込んだ瞬間だった。
最後に見たのは、全てを見透かすような、鋭い金の瞳。
そして、耳元で囁かれた、低く、有無を言わせぬ響きを持った声。
「――嬢。その『石』の話、詳しく聞かせてほしい」
その言葉が、遠のいていく意識に打ち込まれた最後の楔だった。
エリアーナが次に目を開けた時、視界に映ったのは見慣れない天幕の天井だった。
簡素ながら、風雨をしっかりと防いでくれそうな厚手の布地が視界いっぱいに広がっている。
鼻腔をくすぐるのは、消毒薬の匂いと、微かに薫る上質な茶葉の香りだった。
身体を起こそうとすると、柔らかな毛布が肩から滑り落ちた。
自分が寝かされていたのは、行軍用の折り畳み式寝台のようだったが、その上に敷かれたマットレスは驚くほど身体に馴染む。
ここはどこなのだろう。
あの盗賊たちは?
混乱する頭で状況を整理しようとした、その時だった。
「目が覚めたか」
凛とした声が、すぐ傍から聞こえた。
はっとして視線を向けると、そこにはカイウス・エトール・ヴァルヘイムが、簡素な椅子に腰を下ろして静かに座っていた。
手には一冊の革装本。どうやら彼女が目覚めるまで、ここで読書をしていたらしい。
天幕の中は、魔法の灯りだろうか、安定した光を放つランタンが一つだけ灯され、彼の黒髪と黒い軍服の輪郭を柔らかく照らし出している。
影の中に座るその姿は、まるで闇そのものが人の形をとったかのような、圧倒的な存在感を放っていた。
「……ヴァルヘイム、公爵、様」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「ああ」
カイウスは本を閉じると、それを傍らの小さなテーブルに置いた。
金の瞳が、真っ直ぐにエリアーナを射抜く。その視線に、嘲りや侮蔑の色は一切ない。
ただ、飽くなき探求の色だけが宿っていた。
「気分はどうだ。医師に見せたが、極度の疲労と緊張によるものだろうとのことだった」
「……おかげさまで。あの、助けていただき、ありがとうございました」
エリアーナは寝台の上で深く頭を下げた。彼がいなければ、今頃自分はどうなっていたか。
想像するだに恐ろしい。
「礼は不要だ。気まぐれに過ぎん」
カイウスは素っ気なく言うと、すぐに本題に入った。まるで、社交辞令に時間を費やすことすら無駄だと考えているかのように。
「それよりも、意識を失う前に君が口にした言葉。あれについて聞きたい」
来た。
エリアーナの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。まただ。
また、あの時と同じだ。
王城の『暁の間』で、アルフォンスや取り巻きの貴族たちから浴びせられた、嘲笑と憐憫の視線が脳裏に蘇る。
「『その奇妙な空想癖は、未来の王妃には相応しくない!』」
アルフォンスの甲高い声が、耳の奥で反響する。
どうせ、この人も同じなのだ。私の言葉を聞けば、「荒唐無稽だ」「気でも狂ったか」と一笑に付すに違いない。
そう思うと、唇が震えて言葉が出てこない。
俯くエリアーナの葛藤を見透かしたように、カイウスは静かに続けた。
「君が口にしたのは、『精製土水晶の純度は、九十九・九九九九……パーセント』。そうだな?」
「……っ」
「ただの石の話ではない。君は『純度』という言葉を使った。それは、特定の物質から不純物を意図的に取り除くという、高度な技術体系の存在を示唆している。そして、小数点以下の桁数にまで言及したのは、その純度が結果を左右する極めて重要な要素であることを意味する」
淀みなく紡がれる分析に、エリアーナは思わず息を詰めた。違う。
この人は、他の誰とも違う。
私の言葉を、意味不明な戯言として切り捨てていない。その裏にある論理構造を、正確に読み解こうとしている。
「……どうして、そんなことを」
「私はヴァルヘイムの領主だ。我が国は、技術こそが国力であると心得ている。新しい概念、新しい理論には常にアンテナを張っている。君の言葉は、私の知るどの技術体系にも当てはまらない。だからこそ、興味がある」
カイウスの金の瞳が、さらに強い光を宿す。
「恐れるな。私はグランツの王太子のように、理解できぬものを頭ごなしに否定するほど愚かではない。君の知識を、ありのままに話してほしい」
その言葉は、まるで魔法のようだった。
絶望の淵に突き落とされ、誰にも理解されない孤独の中で凍てついていたエリアーナの心に、小さな灯火がともるような感覚。
彼女はゆっくりと顔を上げた。目の前の男の瞳には、やはり嘲りの色は一片もなかった。
あるのは、未知の真理を前にした学者のような、真摯で、どこまでも純粋な探究心だけだった。
「……信じて、くださるのですか?」
「信じるか否かは、私が決めることだ。君はただ、語ればいい」
その合理的な物言いは、かえってエリアーナの心を落ち着かせた。同情でも、憐憫でもない。
彼はただ、エリアーナの中にある「知識」そのものに価値を見出そうとしている。
エリアーナは、一度深く息を吸い込んだ。そして、覚悟を決めて語り始めた。
どうせまた笑われるかもしれないという怯えを、心の奥底に押し込めて。
「……私の頭の中には、時折、光景が浮かびます。それは、この世界の誰も知らない、法則の光景です」
彼女はまず、「流電」と名付けた力の概念から説明を始めた。
「雷という現象があります。あれは、雲の中に溜まった膨大な力が、一度に大地へと解放される現象です」
エリアーナはやや早口になった。
「ですが、もし……その力を細く、長く、意のままに引き延ばし、金属の線の中を川のように流すことができたとしたら?」
「ほう。流れる雷、か」
カイウスは興味深そうに相槌を打つ。
「その『流電』は、夜を照らす灯りになり、鉄を溶かすほどの熱になり、物を動かす力にもなります。ですが、その本質は、情報を伝える速さにあります」
「情報、だと?」
「はい。そして、その『流電』を制御するために不可欠なのが、先ほど私が口にした『石』……私が『天命石』と呼んでいるものです」
カイウスの金の瞳が、一瞬、鋭く細められた。
「『天命』、だと? それは、神の啓示だとでも言うのか?」
エリアーナの説明は、その問いで一瞬止まったものの、すぐに熱を帯びていく。
それは、婚約者教育の一環として学んだ淑女の話し方とは程遠い、一つの分野に没頭する研究者のそれだった。
「大陸のどこにでもある石英に似た鉱物……『精製土水晶』。これを、特殊な魔法と技術を用いて、不純物がほとんど存在しない状態まで純度を高めます」
エリアーナは、少し専門用語が過ぎたかと思い、カイウスの表情をちらりと伺った。
「ええと、簡単に言えば、極限まで不純物を取り除くということです。すると、その石はとても不思議な性質を持つのです」
「……どのような性質だ」
「普段は『流電』を全く通しません。絶縁体です。ですが、ある特定の条件……例えば、微弱な『流電』を別の場所から加えるという『合図』を送ると、まるで門が開くように、堰を切ったように『流電』を通すようになるのです」
彼女は一息ついた。
「そして、『合図』がなくなれば、またピタリと流れを止める」
そこまで説明した時、それまで黙って聞いていたカイウスが、初めて口を開いた。
「……その、『通す』と『通さない』の切り替えは、人間の意思で、瞬時に、かつ正確に制御可能なのか?」
その質問に、エリアーナの脳裏にはまるで天啓のごとく鮮烈な電光が走った。的確すぎる。鋭すぎる。
彼女がこれから説明しようとしていた、この技術の最も根幹となる部分。その核心を、カイウスはたった一言で突いてきたのだ。
アルフォンスに同じ話をしようとした時、彼は「石が電気を通したり通さなかったり? 君は詩人にでもなるつもりか?」と、鼻で笑った。
父である侯爵ですら、「エリアーナ、それは魔法の領域の話だ。我々人間の手には余る」と、聞く耳を持たなかった。
だが、目の前の男は違う。彼は、エリアーナの語る現象の裏にある「制御可能性」という本質を、一瞬で見抜いた。
「……はい。可能です。極めて高速に、正確に」
震える声で答えると、カイウスはわずかに目を伏せ、何かを思考するように沈黙した。
彼の頭脳が、エリアーナの提示した新たなピースを基に、恐るべき速度で回転しているのが、その場の空気を通じて伝わってくるようだった。
やがて、カイウスはゆっくりと顔を上げた。
その金の瞳には、先ほどまでの探究心とは違う、畏怖とでも言うべき光が混じっていた。
「……なるほど。そういうことか」
彼の口から漏れたのは、感嘆のため息だった。
「一つの石に、その『門』を無数に作り込む。そして、それぞれの門の開閉を制御する。それはもはや、単なる道具ではない」
カイウスの言葉は、エリアーナ自身でさえ、まだ漠然としか捉えられていなかった天命の知識の応用可能性を、恐ろしいほど明確に言語化していく。
「『通す』を1、『通さない』を0と定義すれば、それは二進法の論理演算だ。つまり、その石は『思考』する。人間を遥かに超える速度で、複雑な計算を行うことができる。違うか?」
カイウスはわずかに目を閉じ、沈思する。
「我がヴァルヘイムの理論数学者たちが、遥か古代の文献を紐解き、『思考する機械』の概念を提唱したことがあった。
それは、全ての事象を『存在する』か『存在しない』かの二元に還元し、その組み合わせによって無限の論理を構築するという、途方もない机上の空論だった」
彼は顔を上げ、エリアーナを真っ直ぐに見つめた。
「我々はその理論を実現するための『媒体』を見つけられずにいた。スイッチング素子となりうる物質が。だが、君の『天命石』こそが、その失われた環(ミッシングリンク)だ。まさか、それが現実となるとは想像だにしなかった」
彼は再びエリアーナに視線を戻す。
「その計算結果を、情報として遠隔地に送る。伝達速度は、おそらく光に等しい。もはや、早馬や伝書鳩など、原始時代の遺物と化すだろう」
カイウスは椅子から立ち上がると、天幕の中をゆっくりと歩き始めた。その姿は、まるで檻の中を歩く黒豹のようだ。
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「……」
「経済もだ。大陸中の市場の穀物価格、鉱物の相場、その変動をリアルタイムで把握できる者が現れたらどうなる? 富の動きそのものを支配できる。一国の経済を、意のままに動かすことすら夢物語ではなくなる」
そこまで一気に語ると、カイウスはぴたりと足を止め、エリアーナの方へと向き直った。
彼の金の瞳は、燃えるような輝きを放っていた。それは、彼女の知識の真価を、その軍事的、経済的、そして政治的な価値の全てを完璧に理解し、その計り知れない可能性に戦慄している者の目だった。
エリアーナは、生まれて初めて、魂の奥底から震えるような感動を覚えていた。
理解される、ということ。
自分の内側にある、誰にもわかってもらえなかった宝物の価値を、自分以上に正確に見抜いてくれる人間に出会えたということ。
アルフォンスに「狂っている」「妄想だ」と罵倒され、父に「魔法の領域」と切り捨てられた私の頭脳が、この男には「世界を変える力」として響いている。
この瞬間に、私の存在は初めて世界に許されたような気がした。
それは、百の慰めの言葉よりも、千の同情の言葉よりも、何よりも強く、エリアーナの傷ついた心を癒していく。
アルフォンスに婚約破棄された絶望も、父に見捨てられた悲しみも、この瞬間の感動の前では、遠い過去の出来事のように色褪せていくのだった。
「……グランツの王太子は、救いようのない愚か者だ」
カイウスは、侮蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。
「大陸の覇権を狙うと言いながら、その在り方を根底から覆す技術を目の前にして、それを『空想』と断じた。自らの無理解を棚に上げ、ダイヤモンドの原石をただの石ころと断じて投げ捨てたのだからな。歴史に残る大失態だ」
カイウスは再びエリアーナの寝台の傍に戻ると、その前に片膝をついた。
公爵という高貴な身分の男が、追放された罪人同然の令嬢に対して取るには、あまりにもありえない姿勢だった。
彼は、エリアーナの紫色の瞳を、まっすぐに見つめた。
「君を傷つけ、その価値を見誤った者たちのことなど、もう気にする必要はない。君の見るべきは過去ではなく、君がこれから創る未来だ」
その声は、断言だった。何の迷いも、疑いもない、絶対的な確信に満ちていた。
「君の空想は、世界を変える力がある」
「エリアーナ・フォン・クレスメント嬢」
初めて、彼は彼女の名前を呼んだ。
「私の領地で、それを現実にしてみないか?」
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美月とレイファスは、雪と氷に覆われた白銀の地ニブルヘイム辺境伯領へ、世界の命運を担うという「白銀の姫」に会うため、旅に出ることになる。二人は商人の娘とその用心棒として身を偽り、ニブルヘイムへ向かった。
旅の途中、白銀の姫に仕える少年騎士に出会うが、美月とは何かと衝突してしまう。一方、ニブルヘイムの地は、凶暴化した魔獣の増加により、想像以上の危機に晒されていた。
旅を重ねるほどに縮まるレイファスとの距離。しかし、二人の行く先に待つのは平穏ではなく——
使命も、恋も、前途多難な第二章が幕を開ける。
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