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知の暗闇に閉ざされていたエリアーナの人生に、一条の、あまりにも眩い啓示の光が差し込んだ瞬間だった。
紫色の瞳から、張り詰めていた心が解けるように、熱い雫が一筋、頬を滑り落ちた。
それは、婚約を破棄された時の悔恨の涙でも、追放を宣告された時の絶望の涙でもない。
生まれて初めて、誰かに自分の全てを肯定されたことへの、魂の歓喜に他ならなかった。
人生で初めて経験する、本物の、解き放たれるような喜びの涙だった。
自分の頭の中に浮かぶ奇妙な知識。
誰にも理解されず、愛するはずだった人にさえ「空想癖」と蔑まれ、己の存在価値そのものまで見失いかけていたのだ。
だが、目の前の男は違った。
カイウス・エトール・ヴァルヘイム。
出会って間もない、隣国の公爵。
冷徹なまでの統率力と、全てを見透かすような鋭い知性を持つこの男だけが、エリアーナという人間の本質を、その言葉の真価を、完璧に見抜いてくれたのだ。
「……っ」
言葉にならなかった。
ただ、熱い嗚咽が喉の奥を塞ぎ、声帯を震わせる。
エリアーナはただ、こく、こくと、必死に頷くことしかできなかった。
「やらせて……ください……っ。私の、この知識が……もし、本当に……本当に、世界を変える力になるというのなら……」
ようやく絞り出した声は、涙で震えていた。
それでも、その紫色の瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
カイウスは、彼女の答えに満足したように、僅かに唇の端を持ち上げた。
他の者が見れば、凍てつくほど冷徹な微笑と映ったかもしれない。
だが、エリアーナには、その一角が、何よりも強く、心優しい笑みに見えた。
「良い返事だ」
彼はそう言うと、滑らかな動作で立ち上がり、エリアーナに手を差し伸べた。
「立てるか? これより、君の新しい人生の始まりだ」
エリアーナは少し躊躇いながらも、その手を取った。
大きくて、節くれだった、戦士の手。
けれど、触れた指先から伝わってくる温かさは、不思議なほど彼女の心を落ち着かせた。
カイウスに支えられて寝台から降り立つ。
まだ少し足元がおぼつかない彼女の体を、彼はさりげなく、しかし確実に支えていた。
至近距離に感じる彼の体温と、微かな森とインクの香り。
未知への扉が開かれる予感に、エリアーナの心臓が奇妙な熱を帯びて跳ねた。
もう、自分は一人ではない。
この人がいれば、きっと、頭の中にある途方もない設計図を、現実のものにできる。
グランツ王国の者たちが「空想」と唾棄したこの力で、彼らが見たこともない輝かしい未来を創り上げてみせる。
エリアーナの胸の内に、静かに、しかし確かな、知的なる革命の炎が灯った。
◇◇◇
ヴァルヘイム公国への道のりは、驚くほど快適だった。
カイウスが用意した馬車は、グランツ王国の王族が使うものよりも遥かに乗り心地が良く、まるで空中に浮かんでいるかのような滑らかさだった。
おそらく、サスペンションの構造に独自の工夫が凝らされているのだろう。
揺れをほとんど感じさせず、長時間の移動でも疲労を覚えることはなかった。
国境を越え、ヴァルヘイム公国の領地に入った瞬間、エリアーナは車窓の風景の違いに目を見張った。
グランツ王国の農村が、どこか痩せて疲弊しているように見えたのに対し、ヴァルヘイムの農地は隅々まで手入れが行き届き、生命力に満ちていた。
街道は綺麗に舗装され、行き交う人々の表情も明るく、活気に満ちている。
小国と侮れないその実力が、この豊かな国力と、何よりも民の生き生きとした活力にあるのだと、エリアーナは肌で感じ取った。
「我が国は、伝統よりも実利を重んじる。新しい技術や知識は、それが有用である限り、出自を問わず歓迎される」
向かいの席に座るカイウスが、彼女の視線に気づいたように静かに言った。
「君のような人間にとっては、グランツ王国よりも遥かに居心地が良いはずだ」
「……はい、本当に。グランツ王国とはまるで違う、豊かな国なのですね。道行く人々の活気にも、心惹かれます」
エリアーナが素直な感想を述べると、カイウスは金の瞳を微かに細めた。
「君がこれから作るものは、この国をさらに豊かにするだろう。そのための投資は惜しまない。必要なものがあれば、何でも言うがいい。人材、資金、希少な素材……私が全て用意する」
あまりにも壮大な言葉に、エリアーナは呼吸を忘れた。
彼が口にする「投資」とは、一個人が令嬢の研究を支援するというレベルの話ではない。
国家事業として、公国の未来そのものを、エリアーナの知識に賭けると言っているのだ。
「そこまで……信じてくださるのですか? 私の、話を」
「信じるに値するからだ」
カイウスは即答した。
「君の語る『天命石』の理論は、既存の魔法体系とは全く異なるが、一つの矛盾もない、完成された体系だ。それは空想などではない。まだ誰も発見していない、世界の新たな理そのものだ。それを最初に理解したのが、たまたま私だったというだけの話だ」
淡々と語られる言葉の一つ一つが、エリアーナの心の傷を癒やし、確かな自信を与えてくれるようだった。
この人の前では、何も偽る必要はない。
自分の全てを曝け出すことができる。
エリアーナは、自分の中に眠る知識について、より深く、具体的に語り始めた。
「まず必要なのは、限りなく純粋な『精製土水晶』です。不純物が百万分の一、いえ、一億分の一以下のレベルで……」
「そのための精製施設は、すでに国内最高の錬金術師ギルドに建設を指示し、着工の準備に入らせてある」
「えっ……!? まさか、私のまだ曖昧な構想を、そこまで完璧に読み解いて、すでに手配を済ませていらっしゃるのですか……!?」
「次に、その水晶を薄い円盤状……『ウェハー』と君は言ったか。それに加工する技術。そして、その表面に光を使って微細な回路を焼き付けるための……」
「『フォトリソグラフィ』だな。それには極めて精密なレンズと、強力かつ安定した光源が必要になるだろう。心当たりはある。大陸一の腕を持つドワーフの工芸師には、すでに打診を済ませ、具体的な調整に入っている」
エリアーナは、思わず声を失った。
自分がまだ構想段階でしか語っていないことを、カイウスはすでに先読みし、具体的な準備を進めている。
彼の頭脳は、エリアーナの構想を何歩も先んじて現実のものとする、恐ろしいほどの速度で回転していた。その並外れた行動力は、常人の想像を遥かに凌駕する。
「どうして……私が話す前に……」
「君の言葉から、必要な要素を逆算しただけだ。君が頭の中で描いているものを現実に作り上げるには、途方もない精度と技術、そしてそれを支えるインフラが必要になる。それらを整備するのが、私の仕事だ」
彼はこともなげに言う。
エリアーナは、自分が規格外の知性と権力を持つ男と手を組んでしまったのだという事実を、改めて実感した。
同時に、胸の奥深くで、長年の夢が具現化する予感に、知的好奇心が爆発寸前の熱を帯びるのを感じた。
夢が、現実になろうとしている。
自分一人の頭の中にしかなかった空想が、この人の手によって、今まさに形を与えられようとしているのだ。
馬車が緩やかに速度を落とし、やがて静かに停止した。
「着いたぞ」
カイウスの声に促され、エリアーナは馬車の扉から外へと降り立った。
そして、目の前に広がる光景に、思わず息を詰まらせた。
そこは、広大な湖のほとりだった。
鏡のように澄んだ湖面が、夕暮れの空のグラデーションを映し込んでいる。
その湖畔に、一軒の瀟洒な屋敷が静かに佇んでいた。
白い壁と、深い青色の屋根。
華美な装飾はないが、機能的で洗練されたデザインは、周囲の自然と見事に調和していた。
「ここが、君の新しい家であり、研究拠点だ」
カイウスに案内され、屋敷の中へと足を踏み入れる。
高い天井に、磨き上げられた木の床。
大きな窓からは湖の美しい景色が一望できた。
調度品はどれもシンプルだが質が良く、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
何より、生活に必要なものが全て揃えられていた。
「ここは……」
「君が研究に集中できるよう、静かで、誰にも邪魔されない場所を選んだ。食事や身の回りの世話をする者も手配してある。君は、余計なことを一切気にせず、自分の天命とだけ向き合えばいい」
至れり尽くせりの環境だった。
追放された罪人同然の自分に、なぜここまでしてくれるのか。
エリアーナが尋ねようと口を開きかけると、カイウスはそれを遮るように言った。
「礼は不要だ。これは私の利益のためでもある。君の成功は、ヴァルヘイムの成功に直結する」
そう言いながらも、彼の金の瞳に宿る光は、単なる利害勘定だけのものではないようにエリアーナには思えた。
「だが、本番はここからだ」
カイウスは彼女を促し、屋敷の裏手へと回った。
そこには、屋敷本体よりも遥かに巨大な、石造りの建物が聳え立っていた。
「君の工房だ」
重厚な木の扉が開かれると、エリアーナの目の前に、彼女が夢の果てにまで描いた、理想郷ユートピアが広がった。
広大な空間。
天井は高く、いくつもの天窓から光が差し込んでいる。
壁際には、大小様々なガラス製の蒸留器や冷却管が整然と並び、中央には巨大な溶解炉が鎮座している。
作業台の上には、精密な天秤、鉱物の硬度を測るための器具、魔法的なエネルギーを計測する装置までが置かれていた。
それは、ただの工房ではなかった。
錬金術、工芸技術、そして魔法工学……その全てが、最高峰のレベルで融合された、まさに大陸最高の研究施設だった。
「すごい……っ! これほど理想的な設備を、まさか、本当に用意してくださるなんて……!」
エリアーナは、知らず知らずのうちに、熱い吐息を漏らしていた。
一つ一つの設備に駆け寄り、その完璧な作りに目を輝かせる。
指先で冷たいガラスに触れ、金属の滑らかな感触を確かめる。
ここならできる。
ここでなら、あの『天命』を、この世に生み出すことができる。
希望と、身体の芯までを駆け巡る知的な興奮に、エリアーナの体は熱く打ち震えていた。
追放された悲しみも、元婚約者への憎しみも、もはや意識の彼方に融けていた。
彼女の頭の中は、これから始まる壮大な『天命』の創造への青写真で、きらきらと輝いていた。
その様子を、カイウスは壁に寄りかかり、腕を組んで静かに見守っていた。
彼の口元には、冷徹な仮面を微かに緩めるような、秘めたる愉悦の表情が浮かんでいた。
それは、単なる合理的な投資の成功を喜ぶものではなかった。
目の前で無邪気に輝くエリアーナの姿が、彼の心の奥底に、ひっそりと熱を灯しているようだった。
「気に入ったようだな」
「気に入るどころではありません! ここは……私の『知の聖域サンクチュアリ』ですわ!」
エリアーナは振り返り、頬を紅潮させながら言った。
貴族令嬢らしからぬ、素直で無邪気な喜びの表情だった。
「……まだ、見せたいものがある」
彼はそう言うと、工房の一番奥にある、ひときわ大きく、厳重に閂がかけられた扉へと向かった。
ギィィ、と重々しい音を立てて、扉が開かれる。
その先に広がっていた光景に、エリアーナは完全に言葉を失った。
そこは、体育館ほどもある巨大な倉庫だった。
そして、そのだだっ広い空間を埋め尽くすように、無数の『石』が、大小の山を成して積み上げられていた。
天窓から差し込む月光が、それらに反射して、倉庫全体を幻想的な光で満たしている。
透明なもの、乳白色のもの、わずかに紫がかったもの。
形も大きさも様々だが、その全てが、エリアーナの知識が求める『精製土水晶』の原石だった。
それは、もはや「山」というよりも、エリアーナが追い求めた『天命石』の無限の源泉と呼ぶべき、途方もない水晶の山脈だった。
一国の予算を傾けても、これだけの量を集めるのは不可能に思える。
唖然と立ち尽くすエリアーナの隣で、カイウスが静かに告げた。
「君への、ささやかな贈り物だ」
その声は、いつもと変わらぬ平坦な響きだった。
「研究材料は、いくらあっても困らないだろう。これで君は、当面、失敗を恐れる必要はない」
「だが、この途方もない宝の山を、真に意味あるものにするためには、君の知識だけでは足りない」
「精製し、加工し、繊細な回路を刻む。その全てに、類い稀な腕を持つ職人たちの協力が不可欠だ」
「特に、大陸一の頑固者として知られるドワーフの工芸師たちを、君自身が納得させ、心から協力させる必要があるだろう。彼らは、並大抵の人物には従わない」
ささやか。
この、小山のような水晶の山脈を前にして、彼は「ささやか」と言った。
エリアーナは、目の前の信じられない光景と、隣に立つ男の顔を、交互に見比べた。
彼の金銭感覚と、物事のスケールは、どうやら常識という物差しでは測れないらしい。
しかし、そんなことよりも、この途方もない量の贈り物に込められた、彼の絶対的な信頼と期待が、エリアーナの胸の奥底に、静かで確かな熱を灯した。
失敗を恐れるな、と彼は言った。
それは、何よりも心強い言葉だった。
エリアーナは、足元に転がっていた拳ほどの大きさの水晶の原石を、そっと拾い上げた。
ひんやりとした石の感触が、夢ではないことを告げている。
ここから、全てが始まるのだ。
自分を捨てた世界を見返す、壮大な革命が。
エリアーナは、水晶を胸に抱きしめ、目の前の宝の山を見上げた。
その紫色の瞳は、未来の輝かしい設計図を映し出すかのように、爛々と燃え盛っていた。
紫色の瞳から、張り詰めていた心が解けるように、熱い雫が一筋、頬を滑り落ちた。
それは、婚約を破棄された時の悔恨の涙でも、追放を宣告された時の絶望の涙でもない。
生まれて初めて、誰かに自分の全てを肯定されたことへの、魂の歓喜に他ならなかった。
人生で初めて経験する、本物の、解き放たれるような喜びの涙だった。
自分の頭の中に浮かぶ奇妙な知識。
誰にも理解されず、愛するはずだった人にさえ「空想癖」と蔑まれ、己の存在価値そのものまで見失いかけていたのだ。
だが、目の前の男は違った。
カイウス・エトール・ヴァルヘイム。
出会って間もない、隣国の公爵。
冷徹なまでの統率力と、全てを見透かすような鋭い知性を持つこの男だけが、エリアーナという人間の本質を、その言葉の真価を、完璧に見抜いてくれたのだ。
「……っ」
言葉にならなかった。
ただ、熱い嗚咽が喉の奥を塞ぎ、声帯を震わせる。
エリアーナはただ、こく、こくと、必死に頷くことしかできなかった。
「やらせて……ください……っ。私の、この知識が……もし、本当に……本当に、世界を変える力になるというのなら……」
ようやく絞り出した声は、涙で震えていた。
それでも、その紫色の瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
カイウスは、彼女の答えに満足したように、僅かに唇の端を持ち上げた。
他の者が見れば、凍てつくほど冷徹な微笑と映ったかもしれない。
だが、エリアーナには、その一角が、何よりも強く、心優しい笑みに見えた。
「良い返事だ」
彼はそう言うと、滑らかな動作で立ち上がり、エリアーナに手を差し伸べた。
「立てるか? これより、君の新しい人生の始まりだ」
エリアーナは少し躊躇いながらも、その手を取った。
大きくて、節くれだった、戦士の手。
けれど、触れた指先から伝わってくる温かさは、不思議なほど彼女の心を落ち着かせた。
カイウスに支えられて寝台から降り立つ。
まだ少し足元がおぼつかない彼女の体を、彼はさりげなく、しかし確実に支えていた。
至近距離に感じる彼の体温と、微かな森とインクの香り。
未知への扉が開かれる予感に、エリアーナの心臓が奇妙な熱を帯びて跳ねた。
もう、自分は一人ではない。
この人がいれば、きっと、頭の中にある途方もない設計図を、現実のものにできる。
グランツ王国の者たちが「空想」と唾棄したこの力で、彼らが見たこともない輝かしい未来を創り上げてみせる。
エリアーナの胸の内に、静かに、しかし確かな、知的なる革命の炎が灯った。
◇◇◇
ヴァルヘイム公国への道のりは、驚くほど快適だった。
カイウスが用意した馬車は、グランツ王国の王族が使うものよりも遥かに乗り心地が良く、まるで空中に浮かんでいるかのような滑らかさだった。
おそらく、サスペンションの構造に独自の工夫が凝らされているのだろう。
揺れをほとんど感じさせず、長時間の移動でも疲労を覚えることはなかった。
国境を越え、ヴァルヘイム公国の領地に入った瞬間、エリアーナは車窓の風景の違いに目を見張った。
グランツ王国の農村が、どこか痩せて疲弊しているように見えたのに対し、ヴァルヘイムの農地は隅々まで手入れが行き届き、生命力に満ちていた。
街道は綺麗に舗装され、行き交う人々の表情も明るく、活気に満ちている。
小国と侮れないその実力が、この豊かな国力と、何よりも民の生き生きとした活力にあるのだと、エリアーナは肌で感じ取った。
「我が国は、伝統よりも実利を重んじる。新しい技術や知識は、それが有用である限り、出自を問わず歓迎される」
向かいの席に座るカイウスが、彼女の視線に気づいたように静かに言った。
「君のような人間にとっては、グランツ王国よりも遥かに居心地が良いはずだ」
「……はい、本当に。グランツ王国とはまるで違う、豊かな国なのですね。道行く人々の活気にも、心惹かれます」
エリアーナが素直な感想を述べると、カイウスは金の瞳を微かに細めた。
「君がこれから作るものは、この国をさらに豊かにするだろう。そのための投資は惜しまない。必要なものがあれば、何でも言うがいい。人材、資金、希少な素材……私が全て用意する」
あまりにも壮大な言葉に、エリアーナは呼吸を忘れた。
彼が口にする「投資」とは、一個人が令嬢の研究を支援するというレベルの話ではない。
国家事業として、公国の未来そのものを、エリアーナの知識に賭けると言っているのだ。
「そこまで……信じてくださるのですか? 私の、話を」
「信じるに値するからだ」
カイウスは即答した。
「君の語る『天命石』の理論は、既存の魔法体系とは全く異なるが、一つの矛盾もない、完成された体系だ。それは空想などではない。まだ誰も発見していない、世界の新たな理そのものだ。それを最初に理解したのが、たまたま私だったというだけの話だ」
淡々と語られる言葉の一つ一つが、エリアーナの心の傷を癒やし、確かな自信を与えてくれるようだった。
この人の前では、何も偽る必要はない。
自分の全てを曝け出すことができる。
エリアーナは、自分の中に眠る知識について、より深く、具体的に語り始めた。
「まず必要なのは、限りなく純粋な『精製土水晶』です。不純物が百万分の一、いえ、一億分の一以下のレベルで……」
「そのための精製施設は、すでに国内最高の錬金術師ギルドに建設を指示し、着工の準備に入らせてある」
「えっ……!? まさか、私のまだ曖昧な構想を、そこまで完璧に読み解いて、すでに手配を済ませていらっしゃるのですか……!?」
「次に、その水晶を薄い円盤状……『ウェハー』と君は言ったか。それに加工する技術。そして、その表面に光を使って微細な回路を焼き付けるための……」
「『フォトリソグラフィ』だな。それには極めて精密なレンズと、強力かつ安定した光源が必要になるだろう。心当たりはある。大陸一の腕を持つドワーフの工芸師には、すでに打診を済ませ、具体的な調整に入っている」
エリアーナは、思わず声を失った。
自分がまだ構想段階でしか語っていないことを、カイウスはすでに先読みし、具体的な準備を進めている。
彼の頭脳は、エリアーナの構想を何歩も先んじて現実のものとする、恐ろしいほどの速度で回転していた。その並外れた行動力は、常人の想像を遥かに凌駕する。
「どうして……私が話す前に……」
「君の言葉から、必要な要素を逆算しただけだ。君が頭の中で描いているものを現実に作り上げるには、途方もない精度と技術、そしてそれを支えるインフラが必要になる。それらを整備するのが、私の仕事だ」
彼はこともなげに言う。
エリアーナは、自分が規格外の知性と権力を持つ男と手を組んでしまったのだという事実を、改めて実感した。
同時に、胸の奥深くで、長年の夢が具現化する予感に、知的好奇心が爆発寸前の熱を帯びるのを感じた。
夢が、現実になろうとしている。
自分一人の頭の中にしかなかった空想が、この人の手によって、今まさに形を与えられようとしているのだ。
馬車が緩やかに速度を落とし、やがて静かに停止した。
「着いたぞ」
カイウスの声に促され、エリアーナは馬車の扉から外へと降り立った。
そして、目の前に広がる光景に、思わず息を詰まらせた。
そこは、広大な湖のほとりだった。
鏡のように澄んだ湖面が、夕暮れの空のグラデーションを映し込んでいる。
その湖畔に、一軒の瀟洒な屋敷が静かに佇んでいた。
白い壁と、深い青色の屋根。
華美な装飾はないが、機能的で洗練されたデザインは、周囲の自然と見事に調和していた。
「ここが、君の新しい家であり、研究拠点だ」
カイウスに案内され、屋敷の中へと足を踏み入れる。
高い天井に、磨き上げられた木の床。
大きな窓からは湖の美しい景色が一望できた。
調度品はどれもシンプルだが質が良く、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
何より、生活に必要なものが全て揃えられていた。
「ここは……」
「君が研究に集中できるよう、静かで、誰にも邪魔されない場所を選んだ。食事や身の回りの世話をする者も手配してある。君は、余計なことを一切気にせず、自分の天命とだけ向き合えばいい」
至れり尽くせりの環境だった。
追放された罪人同然の自分に、なぜここまでしてくれるのか。
エリアーナが尋ねようと口を開きかけると、カイウスはそれを遮るように言った。
「礼は不要だ。これは私の利益のためでもある。君の成功は、ヴァルヘイムの成功に直結する」
そう言いながらも、彼の金の瞳に宿る光は、単なる利害勘定だけのものではないようにエリアーナには思えた。
「だが、本番はここからだ」
カイウスは彼女を促し、屋敷の裏手へと回った。
そこには、屋敷本体よりも遥かに巨大な、石造りの建物が聳え立っていた。
「君の工房だ」
重厚な木の扉が開かれると、エリアーナの目の前に、彼女が夢の果てにまで描いた、理想郷ユートピアが広がった。
広大な空間。
天井は高く、いくつもの天窓から光が差し込んでいる。
壁際には、大小様々なガラス製の蒸留器や冷却管が整然と並び、中央には巨大な溶解炉が鎮座している。
作業台の上には、精密な天秤、鉱物の硬度を測るための器具、魔法的なエネルギーを計測する装置までが置かれていた。
それは、ただの工房ではなかった。
錬金術、工芸技術、そして魔法工学……その全てが、最高峰のレベルで融合された、まさに大陸最高の研究施設だった。
「すごい……っ! これほど理想的な設備を、まさか、本当に用意してくださるなんて……!」
エリアーナは、知らず知らずのうちに、熱い吐息を漏らしていた。
一つ一つの設備に駆け寄り、その完璧な作りに目を輝かせる。
指先で冷たいガラスに触れ、金属の滑らかな感触を確かめる。
ここならできる。
ここでなら、あの『天命』を、この世に生み出すことができる。
希望と、身体の芯までを駆け巡る知的な興奮に、エリアーナの体は熱く打ち震えていた。
追放された悲しみも、元婚約者への憎しみも、もはや意識の彼方に融けていた。
彼女の頭の中は、これから始まる壮大な『天命』の創造への青写真で、きらきらと輝いていた。
その様子を、カイウスは壁に寄りかかり、腕を組んで静かに見守っていた。
彼の口元には、冷徹な仮面を微かに緩めるような、秘めたる愉悦の表情が浮かんでいた。
それは、単なる合理的な投資の成功を喜ぶものではなかった。
目の前で無邪気に輝くエリアーナの姿が、彼の心の奥底に、ひっそりと熱を灯しているようだった。
「気に入ったようだな」
「気に入るどころではありません! ここは……私の『知の聖域サンクチュアリ』ですわ!」
エリアーナは振り返り、頬を紅潮させながら言った。
貴族令嬢らしからぬ、素直で無邪気な喜びの表情だった。
「……まだ、見せたいものがある」
彼はそう言うと、工房の一番奥にある、ひときわ大きく、厳重に閂がかけられた扉へと向かった。
ギィィ、と重々しい音を立てて、扉が開かれる。
その先に広がっていた光景に、エリアーナは完全に言葉を失った。
そこは、体育館ほどもある巨大な倉庫だった。
そして、そのだだっ広い空間を埋め尽くすように、無数の『石』が、大小の山を成して積み上げられていた。
天窓から差し込む月光が、それらに反射して、倉庫全体を幻想的な光で満たしている。
透明なもの、乳白色のもの、わずかに紫がかったもの。
形も大きさも様々だが、その全てが、エリアーナの知識が求める『精製土水晶』の原石だった。
それは、もはや「山」というよりも、エリアーナが追い求めた『天命石』の無限の源泉と呼ぶべき、途方もない水晶の山脈だった。
一国の予算を傾けても、これだけの量を集めるのは不可能に思える。
唖然と立ち尽くすエリアーナの隣で、カイウスが静かに告げた。
「君への、ささやかな贈り物だ」
その声は、いつもと変わらぬ平坦な響きだった。
「研究材料は、いくらあっても困らないだろう。これで君は、当面、失敗を恐れる必要はない」
「だが、この途方もない宝の山を、真に意味あるものにするためには、君の知識だけでは足りない」
「精製し、加工し、繊細な回路を刻む。その全てに、類い稀な腕を持つ職人たちの協力が不可欠だ」
「特に、大陸一の頑固者として知られるドワーフの工芸師たちを、君自身が納得させ、心から協力させる必要があるだろう。彼らは、並大抵の人物には従わない」
ささやか。
この、小山のような水晶の山脈を前にして、彼は「ささやか」と言った。
エリアーナは、目の前の信じられない光景と、隣に立つ男の顔を、交互に見比べた。
彼の金銭感覚と、物事のスケールは、どうやら常識という物差しでは測れないらしい。
しかし、そんなことよりも、この途方もない量の贈り物に込められた、彼の絶対的な信頼と期待が、エリアーナの胸の奥底に、静かで確かな熱を灯した。
失敗を恐れるな、と彼は言った。
それは、何よりも心強い言葉だった。
エリアーナは、足元に転がっていた拳ほどの大きさの水晶の原石を、そっと拾い上げた。
ひんやりとした石の感触が、夢ではないことを告げている。
ここから、全てが始まるのだ。
自分を捨てた世界を見返す、壮大な革命が。
エリアーナは、水晶を胸に抱きしめ、目の前の宝の山を見上げた。
その紫色の瞳は、未来の輝かしい設計図を映し出すかのように、爛々と燃え盛っていた。
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※本作は、過去に投稿していた『真面目くさった女はいらないと婚約破棄された伯爵令嬢ですが、王太子様に求婚されました。実はかわいい彼の溺愛っぷりに困っています』の設定・キャラクター・構成を大幅に改稿し、新作として再構成したものです。
物語の結末やキャラクターの掘り下げを強化しておりますので、初めての方も、以前お読みいただいた方もお楽しみいただけます。
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