役立たずと追放された空想令嬢ですが、その知識は未来の科学技術でした。私を拾ってくれた冷徹公爵様に溺愛され、世界を変える発明で大逆転します!

aozora

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 「――ホウ素」

 エリアーナは、まるで初めてその言葉を口にするかのように、静かに呟いた。

 脳裏に、この世界の誰も知らぬ『周期表』と名付けられた、元素の設計図が鮮明に浮かび上がる。

 そして、ホウ素が精製土水晶――シリコン――の結晶格子に侵入し、電子の振る舞いを根源から変質させるイメージが広がった。

 純粋であろうと完璧に配列された土水晶の結晶に、異物が入り込み、その本質を不可逆的に歪ませる光景。

「カイウス様……どうして、それを?」

 驚愕に彩られた紫色の瞳が、目の前の黒衣の公爵を射抜くように捉えた。

 彼が口にしたのは、ただの偶然ではありえない。

 それは、暗闇を手探りで進むエリアーナの行く先を、一閃の光で切り裂くかのような、あまりにも的確な指摘だった。

「ヴァルヘイムは技術立国だ。古くから鉱物資源の研究には力を入れてきた。国の機密書庫には、大陸中の鉱石とその組成に関する膨大な記録がある」

 カイウスはこともなげに語る。

 だが、彼の金の瞳は、エリアーナの顔に咲き始めた知的な興奮の花を、一片たりとも見逃さなかった。

 その観察眼は、単なる知的好奇心を超え、まるで彼女の魂の輝きそのものを測量しているかのようだった。

「黒曜鋼は、硬度と耐熱性において大陸最高の金属だ。だが、その特性は微量に含まれる複数の元素の複合的な作用によるもの。その一つに、ホウ素があった。ただそれだけのことだ」

「ただそれだけ、では……ありません」

 エリアーナは、震えが止まらない声で否定した。

 それが、あまりにも恐ろしい真実だったからだ。

「それは、私たちの計画における、最大の『壁』の正体そのものです。ゾーンメルティング法で不純物を一端に押しやっても、炉の素材である黒曜鋼そのものから、精製中の土水晶にホウ素が溶け出していたとしたら……」

「これでは、どれだけ繰り返しても純度は上がりません。純粋を求める炉そのものが、不純物の源であったとは。まるで、汚泥の沼から聖水を掬い上げようとするかのようです……!」

 難解なパズルが解けた瞬間の、目の覚めるような感覚が全身を駆け巡る。

 同時に、自分自身の見落としに対するわずかな悔しさが、苦い水のように込み上げた。

 しかし、それ以上に、この難問のピースをいとも容易く提示してみせたカイウスという男の底知れぬ深さに、エリアーナは畏怖にも似た感嘆を覚えていた。

 彼はただの支援者ではない。

 この壮大な計画を、同じ高みから見据えることができる、唯一無二の伴侶なのだと。

「問題の原因が分かったのなら、次の一手も見えているのだろう?」

 カイウスが静かに問う。

 彼の金の瞳は、エリアーナの紫色の瞳を真っ直ぐに見据えていた。

 そこには、微塵の疑いもなく、ただ揺るぎない信頼が宿っている。

 その絶対的な眼差しに、エリアーナは胸の奥が熱くなるのを感じた。

「はい」

 エリアーナは力強く頷いた。

 紫色の瞳に、再び研究者としての強い光が宿る。その輝きは、迷いを振り切った決意に満ちていた。

「解決策は、一つです。黒曜鋼に代わる、全く新しい素材で精製炉を造り直します。不純物を一切含まない、極限まで純粋な素材で……!」

 その言葉が、どれほど困難な、途方もない道を指し示しているのか。

 この時のエリアーナは、まだ完全には理解していなかった。

 ◇ ◇ ◇

 翌朝、工房に併設された会議室には、開発チームの主要メンバーが集まっていた。

 エリアーナを中央に、ドワーフの工芸師ギデオン、音響魔術師のヨハン、そしてカイウスが集めた各分野の若き技術者たちが、押し殺したような緊張の面持ちで彼女の言葉を待っている。

「――以上の理由から、現行の黒曜鋼製精製炉では、目標純度である『イレブンナイン』の達成は不可能であると結論付けました」

 エリアーナは、わずかに喉を潤してから、黒板に描いた模式図を指し示した。

 凍るような緊張が胸中を支配するが、その表情には、自らの天命とカイウスの言葉が与えてくれた揺るぎない確信が宿っていた。

 昨夜の議論を、チームの誰もが理解できるように、慎重かつ丁寧に説明していく。

 静まり返った室内に、最初に声を上げたのはギデオンだった。

「馬鹿な……! 黒曜鋼だぞ? ドワーフの技術の粋を集めて鍛え上げた、この世で最も硬く、最も安定した金属のはずだ。そいつが不純物の発生源だなんて、にわかには信じられん!」

 長年の常識を覆すエリアーナの言葉に、熟練の職人としてのプライドが首を振らせる。

 他の技術者たちも、困惑したように顔を見合わせていた。

「ギデオン様の仰ることは、もっともです。通常のモノづくりにおいては、黒曜鋼は最高の素材でしょう。ですが、私たちが目指しているのは、原子レベルでの純度管理です」

「そこでは、これまで『誤差』として無視されてきたものが、致命的な『欠陥』になるのです」

 エリアーナは、反論ではなく、静かな説得を選んだ。

 彼女の言葉には、知識に裏打ちされた、揺るぎない確信が満ちていた。

「お嬢様の言うことは、まるで神様の領域の話だぜ……」

 ギデオンは唸るように言って、太い腕を組んだ。

 彼の眉間には深い皺が刻まれているが、その目には敵意ではなく、未知の挑戦に対する職人としての好奇の色が、既に浮かび始めていた。

「だが、あんたがこのワシの知らねぇ『真理』とやらを見せてくれたのは、一度や二度じゃねぇ。……分かった。信じてやる。それで、その神様みてぇな炉を作るための『素材』ってのは、一体何なんだ?」

 ギデオンが折れたことで、会議室の空気は一変した。

 技術者たちの目が、期待と不安の入り混じった熱を帯びてエリアーナに注がれる。

「それは……」

 エリアーナは言葉を詰まらせた。

「これから、探します」

「「「はぁ!?」」」

 ギデオンを筆頭に、全員の声が綺麗に揃った。

「探すって、お嬢様! 黒曜鋼を超える素材なんざ、この大陸のどこを探したって……!」

「存在するはずです。理論上、ホウ素やその他の不純物元素と反応せず、極度の高温にも耐えうる、安定した結晶構造を持つ物質……。例えば、高純度に精製した石英そのもの――つまり『石英ガラス』で炉を造る、という手も考えられます」

「石英ガラスだと!? あんな脆いもんで、超高温の金属を溶かす炉が作れるもんか! それに、どうやって加工するってんだ!」

 ギデオンが頭を抱える。

 エリアーナの口から次々と飛び出す常識外れのアイデアに、彼の百五十年分の経験と知識が悲鳴を上げていた。

「あるいは、全く新しい合金……。もしくは、まだ発見されていない未知の鉱物……」

 エリアーナの思考は、既に現実の制約を超えて、天命の知識が示す理想の物質へと飛翔していた。

 こうして、世界で最も困難な「究極の坩堝(るつぼ)」探しが始まった。

 それからの数日間、工房は新たな熱気に包まれた。

 ギデオンはドワーフのネットワークを駆使して、伝説級の希少金属の情報をかき集めた。

 ヨハンは、様々な物質の固有振動数を測定し、外部からの影響を受けにくい安定した素材の候補をリストアップしていく。

 他の技術者たちも、文献を漁り、試作を繰り返し、不眠不休でエリアーナの要求に応えようとしていた。

 エリアーナ自身も、工房の書庫に籠もり、ヴァルヘイム公国が誇る膨大な鉱物学の資料を片っ端から読み解いていた。

 彼女はチームの誰よりも働き、誰よりも深く思考し、その小さな背中で、巨大なプロジェクトを力強く牽引していた。

 しかし、答えは簡単には見つからない。

 候補に挙がる素材はどれも一長一短で、エリアーナが求める完璧な条件――『絶対的な純粋性』と『超高温への耐性』――を両立するものは、どこにも存在しないように思われた。

 希望の船は、再び暗礁の気配に航路を閉ざされかけていた。

 焦りが、影のようにエリアーナの心に忍び寄る。

 天命は道を示すだけで、その道を切り拓くための具体的な手段までは教えてくれない。

 この知識は本当に自分のものなのか。

 自分はただ、神の言葉をなぞるだけの操り人形なのではないか――。

 以前にも感じた存在論的な不安が、疲労と共に彼女の精神を蝕んでいく。

 その夜も、エリアーナは一人、工房の書庫で明かりを灯していた。

 机の上には、候補素材の分析データが山のように積まれている。

 そのどれもに、赤いインクで「不可」の文字が書き込まれていた。

 疲れ果てた指先で、彼女は最後の古文書に手を伸ばす。

 それは、ヴァルヘイムの鉱物学史の中でも、特に非現実的な伝承ばかりを集めた、ほとんど誰も読まないような一冊だった。

 ぱらぱらとページをめくるうち、一つの挿絵が目に飛び込んできた。

 月の光を宿したかのように銀色に輝く金属のインゴット。そして、古語で記された、一つの名前。

「『月光鋼(げっこうこう)』……?」

 エリアーナがその名を読み上げる。

 伝承によれば、月の光を浴びて精錬されたという幻の金属。

 神々の時代の遺物とも言われ、いかなる魔法も熱も通さず、決して錆びることも、変質することもないという。

 それは、まさに彼女が求めていた「究極の坩堝」の素材だった。

 しかし、次の瞬間、希望は深い絶望へと変わる。

「幻の金属。伝承……。そんなものが、本当にこの世界に存在するのか? もし存在したとしても、どうやって手に入れ、どうやって加工するというのか。……これは、あまりにも、あまりにも遠すぎる道。やはり、私には……」

 ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた言葉は、最早声にならない嘆息となって、静寂に溶けて消えた。

「何が無理だというのだ」

 不意に、背後から落ち着いた声がした。

 驚いて振り返ると、いつの間に現れたのか、カイウスが腕を組んでそこに立っていた。

 彼の金の瞳は、月明かりの中でも鋭く、エリアーナの心の奥まで見通しているかのようだった。

「カイウス様……。いえ、その……」

 弱音を聞かれたことに、エリアーナは慌てて言葉を繕おうとする。

 だが、カイウスはそれを手で制した。

「君ほどの頭脳が、数日足踏みしたくらいで音を上げるはずがないだろう。何か、別のことに悩んでいるな?」

 彼の言葉は、常に本質を突いてくる。

 エリアーナは観念して、俯いたまま小さく頷いた。

「この知識は……天から与えられたもの。ですが、それを形にするのは、あまりにも難しくて……。私が、この天命を担う器ではないのではないかと、時々、怖くなるのです。特に……この『月光鋼』を見つけてから」

 彼女は、開いたままの古文書を指差した。

 それは、彼女が初めて他人に吐露した、偽らざる本心だった。

 カイウスはしばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりとエリアーナの隣に歩み寄ると、机に広げられた古文書のページをじっと見つめた。

「エリアーナ。君は、神が天地を創造した物語を知っているか?」

「え……? はい、もちろん」

 唐突な問いに、エリアーナは戸惑いながらも答えた。

「神は『光あれ』と言った。だが、光がどういう性質を持ち、いかなる法則で進むのかまでは定義しなかった。それを解き明かし、利用するのは、光の下に生まれた我々人間の仕事だ」

 カイウスは、静かに、しかし力強い声で語りかける。

「君に与えられた天命も同じだ。それは完璧な『設計図』かもしれん。だが、その図面を読み解き、この世界の法則の中で、現実の『素材』と『技術』を使って形にするのは、君自身の知恵と意志だ。それは神の模倣などではない。紛れもなく、君自身の『創造』だ」

 彼の言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、エリアーナの心に深く浸透していった。

「私が……創造……」

「そうだ。そして君は一人ではない。君のビジョンを信じ、付き従う者たちがいる。私もその一人だ」

 カイウスはそう言うと、机に広げられた地図を広げ直した。

「君が見つけた『月光鋼』は、確かに伝承の中の金属だ。だが、私の王家や公爵家に伝わる古文書にも、その存在を示唆する記録は残されている」

「君の天命が、ただの夢物語を現実に引き寄せたのかもしれないな」

 カイウスの口元に、初めて会った時のような、挑戦的な笑みが浮かんだ。

 エリアーナの胸が、再び熱く高鳴り始めた。

 そうだ。諦めている場合ではない。道がないのなら、造ればいい。

「ですが、この月光鋼は、どこで手に入るのですか? 伝承の金属なのでしょう?」

「古文書によれば、大陸で唯一、その鉱脈が眠るとされる場所が記されている」

 カイウスは、地図の一点を、指で力強く示した。

 そこは、ヴァルヘイム公国とグランツ王国。

 二つの大国の国境線が複雑に交差する、険しい山脈地帯だった。

「『龍の顎(あぎと)』と呼ばれる、難攻不落の渓谷だ。万年雪に覆われ、気流が荒れ狂い、生きて帰った者はいないとさえ言われる魔境」

「そして何より、グランツ王国との領有権争いが絶えず、最近では不審な動きも報告されている、大陸で最も危険な場所の一つだ」

 エリアーナの顔から血の気が引いた。

「そんな場所に……。危険すぎます。それに、グランツ王国が黙ってはいません……!」

 自分の研究のために、彼を、彼の国を、危険に晒すことなどできない。

 しかし、カイウスは揺るがなかった。

 彼の金の瞳は、絶対的な自信と、揺るぎない覚悟に満ちていた。

「案ずるな。龍の顎だろうと、王国の横槍だろうと、君の道を阻むものは全て私が排除する」

 彼はエリアーナの肩にそっと手を置いた。

 その手は、驚くほど熱かった。

「君は君の信じる道を征け、エリアーナ。必要なものは、必ず私が用意する」

 それは、王の如き宣言だった。

 エリアーナは、彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返すことしかできなかった。

 この人のためなら、この人と一緒なら、きっと天命を成し遂げられる。

 そんな確信が、胸の奥から熱く湧き上がってくるのを感じた。

 その頃――。

 龍の顎の麓、グランツ王国側の宿場町は、国境警備の兵士たちで賑わいを見せていた。

 酒場の片隅で、一杯のエールを呷っていたフード姿の男が、隣の席の商人たちの会話に、それとなく耳を傾ける。

「聞いたか? 最近、ヴァルヘイムの奴らが国境付近でコソコソ動き回ってるらしいぜ」

「ああ。なんでも、あの追放されたクレスメントの姫様が、向こうの公爵に拾われて、北の工房で何かとんでもない研究をしてるって噂だ」

「はっ、空想好きの狂人姫だろ? ヴァルヘイム公も人が悪い。そんな女を焚きつけて、いったい何を企んでるんだか」

 下卑た笑い声が響く中、フードの男の口元が、わずかに吊り上がった。

 狂人姫、か……。

 だが、その狂人姫が集めた人材は、確かに大陸随一の逸材揃い。工房から漏れ聞こえる熱気は、単なる噂では片付けられない。

 王太子殿下のあの傲慢なご判断が、まさかこれほどの国益を逃すことになるとは……。愚かしいことだ。

 男はエールを一息に飲み干すと、静かに席を立った。

 その目には、獲物を見つけた狩人のような、冷たい光が宿っていた。

 アルフォンス王太子が放った密偵の影が、静かに、だが確実に、エリアーナのすぐ側まで忍び寄っていた。
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