役立たずと追放された空想令嬢ですが、その知識は未来の科学技術でした。私を拾ってくれた冷徹公爵様に溺愛され、世界を変える発明で大逆転します!

aozora

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 グランツ王国の国境に近い、とある宿場町の酒場。

 エールを飲み干したフードの男、ゼルク。グランツ王国が放った密偵である彼は、酒場の片隅で静かに息を潜めていた。

 彼は気配もなく席を立つと、影のように夜の闇へ溶け込んだ。

 手に入れた情報は断片的だが、ゼルクの長年の勘が警鐘を鳴らしている。

 あの『狂人姫』、エリアーナ・フォン・クレスメント。彼女がヴァルヘイム公国で何かを企んでいるのは間違いない。

 そして、かの怜悧冷徹で知られる若き公爵、カイウス・エトール・ヴァルヘイムが、国を挙げてそれを支援している。

 単なる気まぐれや、元婚約者への当てつけにしては、規模が大きすぎた。

 アルフォンス王太子殿下は、エリアーナをただの空想好きの女と断じられた。

 だが、ゼルクが密かに集めた情報によれば、彼女の研究に協力しているのは、大陸最高のドワーフ工芸師に、音響魔術の若き天才。

 およそ狂人の戯言に付き合うような者たちではない。

 (殿下は『狂人の戯言』と一蹴されたが、これは国を傾けるほどの至宝、それをただの空想と見做して捨て置かれたのかもしれない……)

 獲物が牙を剥く前に、その正体を暴き、必要とあらば摘み取る。

 それがゼルクに与えられた、秘匿された使命であった。

 彼の影は、夜の街道を疾走し、エリアーナの工房がある湖畔の地へ、獲物を狙う獣のように、静かに確実に迫っていた。

 ◇ ◇ ◇

 同じ頃、ヴァルヘイム公国の領主館。

 カイウスの執務室には、分厚い絨毯も音を吸い込むかのような、重い沈黙が満ちていた。磨き上げられた黒檀の机の上には、一枚の羊皮紙が広げられている。

 それは、公国の諜報部がまとめた『龍の顎』周辺の最新の情勢報告書だった。

「……やはり、グランツの連中がうろついているか」

 カイウスの低い声が、室内に響く。

 金の瞳が、報告書の一文を鋭く捉えていた。

「はっ。報告によりますと、グランツは国境警備隊を増員し、『鉱脈調査』を名目に周辺の立ち入りを厳しく制限しております。……公爵閣下の仰せの通り、この地の希少鉱物の独占が狙いかと愚考いたします」

 影の中から現れたかのように、側近の男が恭しく頭を垂れる。

「奴らが狙うは、この地の希少鉱物の独占だろうが……それが『月光鋼』であるとは限らんな。むしろ、我々が動くことで、真の狙いを悟られぬよう、より一層の警戒が必要だ」

 カイウスは微かに眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえた。

 『龍の顎』は、その名の通り、二つの大国の国境線が龍の牙のように複雑に入り組んだ山岳地帯だ。

 領有権は曖昧なまま、長年にわたって両国の睨み合いが続いている。

 そこに眠るという幻の金属『月光鋼』。

 エリアーナの研究を完成させるために、不可欠な最後のピースだ。

「……探索隊の編成を急がせろ。第一騎士団から、腕利きの者だけを三十名選抜。隊長はゲオルグに任せる」

「ゲオルグ隊長を、でございますか。……御意。しかし公爵閣下、グランツとの予期せぬ軍事衝突の危険性もございますが」

「構わん。必要な挑発には乗ってやれ。だが、こちらから事を起こすな。目的はあくまで月光鋼の確保だ。これは、我がヴァルヘイムの未来を左右する任務であると、全兵に徹底させよ」

 彼の声には、いかなる障害をも打ち砕く、鋼鉄のような意志が宿っていた。

 側近は深々と頭を下げると、音もなく影の中へと消え去った。

 一人残された執務室で、カイウスは静かに窓の外の夜空を見上げた。

 星々の瞬きが、遠い湖畔の工房を照らしているだろうか。

 (エリアーナ……)

 彼の脳裏に、あの紫の瞳が浮かぶ。自分の天命が人を危険に晒すことを恐れ、憂いを帯びていた彼女の顔。

 その葛藤を断ち切るように、カイウスは強く拳を握った。

「君の道を阻むものは、全て私が排除する」

 その呟きは、誰に聞かせるでもない、彼自身の魂の誓いだった。

 ◇ ◇ ◇

 静まり返った深夜の工房。

 エリアーナは一人、巨大な水晶の塊から切り出された円盤――精製土水晶のウェハーの前に佇んでいた。

 月明かりが工房に差し込み、完璧な円形に磨き上げられた表面を、白く清らかに照らし出している。

 この美しくも難解な板の上に、彼女は神が与えたもうた回路図を刻み込まねばならない。

 だが、そのためには『月光鋼』で作られた坩堝が必要不可欠。そして、その幻の金属は、係争地という危険極まりない場所に眠っている。

 (私の……私の知識のせいで、また人が危険な目に遭う)

 胸を締め付ける罪悪感が、エリアーナの唇を思わずきつく噛ませた。

 王太子妃教育を受けていた頃から、ずっとそうだった。

 頭に浮かぶ不思議な知識を口にするたび、周囲は眉をひそめ、父や母を困らせた。そしてついには、婚約破棄と追放という、取り返しのつかない事態を招いてしまった。

 この場所に来て、カイウス様と出会って、ようやく自分の知識が価値あるものだと信じられるようになった。

 ギデオンやヨハン、工房の仲間たちも、私の言葉を信じ、力を貸してくれている。

 なのに、また……。

 自分の存在が、大切な人たちを争いに巻き込んでしまうのではないか。その恐怖が、冷たい霧のように心を覆っていく。

「きゅぅ……」

 足元で、小さな鳴き声がした。

 見れば、ライテイが心配そうに彼女の足にすり寄っている。

 柔らかな毛皮の感触と、微かな温もりが伝わってきた。

「ライテイ……」

 エリアーナは膝を折り、その小さな頭をそっと撫でた。

 ライテイは気持ちよさそうに目を細め、彼女の手に頬をこすりつける。

 この純粋な生き物は、いつも彼女の心の揺らぎを敏感に感じ取ってくれる。ただ、そばにいてくれる。それだけで、張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩む気がした。

「ありがとう。大丈夫よ」

 自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。

「夜更かしは感心しないな。研究者の資本は、健全な身体と精神だ」

 不意に、背後から落ち着いた声がかけられた。

 驚いて振り返ると、いつの間に現れたのか、カイウスが腕を組んでそこに立っていた。

「カ、カイウス様……! 申し訳ありません、物音を立ててしまいましたか!?」

「いや。君の気配を感じただけだ。……まさか、こんな時間に君がここにいるとはな」

 彼はこともなげに言うと、ゆっくりとエリアーナに歩み寄る。

 その金の瞳が、月光の下で彼女の顔をじっと見つめた。

「まだ、気に病んでいるのか。月光鋼の件を」

 見透かされたことに、エリアーナは俯いた。

「……私の、この『天命』と申しましょうか、この知識のために、カイウス様や、ヴァルヘイムの尊い兵士の方々を危険な場所へ向かわせるなど……それは、あまりにも、私のわがままかと……」

「わがまま、だと!?」

 カイウスは、心底意外だというように眉をひそめた。

「エリアーナ。君はまだ、この計画を君個人のものだと思っているのか?」

「え……!?」

「『遠見の水晶板』は、もはや君一人の夢ではない。我がヴァルヘイム公国の、いや、この大陸全体の未来を賭けた一大事業だ。私は領主として、その比類なき可能性に、必要な投資をしているに過ぎぬ」

 その言葉は、どこまでも合理的で、揺るぎない響きを持っていた。

 だが、彼の瞳の奥には、それだけではない、もっと熱を帯びた光が宿っているのをエリアーナは見逃さなかった。

「……それに」

 カイウスは一歩近づき、ためらうように手を伸ばすと、彼女の頬に落ちた髪を一筋、そっと指で払った。

 予期せぬ仕草に、エリアーナの心臓が大きく跳ねる。

「君が夢を叶えるところを、私が見たい。……それも、理由の一つだ」

 それは、今まで聞いた彼のどの言葉よりも、静かで、個人的な響きを持っていた。

 ただの支援者や、冷徹な領主としてではない。カイウス・エトール・ヴァルヘイムという一人の男が、これほどまでに私の夢を、成功を、心から願ってくれている。その熱い想いが、エリアーナの胸に痛いほど響いた。

「カイウス様……」

「だから、君は余計な心配などせず、己の天命を全うすることだけを考えろ。どんな茨の道であろうと、私が必ず切り拓く」

 力強い言葉に、エリアーナの心を満たしていた霧が、朝日を浴びたように晴れていく。

 そうだ。私はもう一人じゃない。

 この人の前で、下を向いているわけにはいかない。

「……はい、カイウス様」

 エリアーナは顔を上げ、まっすぐにカイウスの瞳を見つめ返した。

 その紫の瞳には、もう迷いの色はなかった。

 あるのはただ、己の成すべきことを見据えた、澄み切った決意の光だけだった。

「だからこそ、私はこの目で月光鋼の真の性質を、この手で確かめねばなりません。どうか、私も探索隊に加えていただけませんか!?」

 カイウスは一瞬、驚きに目を見張ったが、すぐに口元に微かな笑みを浮かべた。

 それは、他の誰も見たことのない、彼女にだけ見せる穏やかな微笑みだった。

「君は、そう言うと信じていたよ。……わかった。許可しよう」

 エリアーナの心臓が、歓喜に高鳴った。

「ありがとうございます!」

「だが、条件がある。そして、もはや君だけの任務ではないのだ、エリアーナ」

 カイウスはまっすぐエリアーナの瞳を見つめた。

「月光鋼は、この国の未来を左右する最重要資源だ。そして何より、君というヴァルヘイムの至宝を危険な場所へ送る以上、私もまた、その最前線に立つべきだろう」

 そこには、公爵としての責任感と、エリアーナの夢を共に追う者としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。

 ◇ ◇ ◇

 数日後、探索隊の準備が着々と進む中、エリアーナはギデオンに留守中の作業を引き継いでいた。

「……というわけで、精製土水晶の研磨工程は、この手順書通りにお願いいたします。特に表面の平滑度は、後の回路形成に決定的な影響を与えますので、細心の注意をお願いいたします」

 エリアーナはそう説明を終えると、まっすぐギデオンの目を見つめた。

「それから、もう一つ。カイウス様から同行の許可をいただきましたので、私も探索隊に同行します」

「な、なにぃ!? てめぇも行くのか、お嬢様!」

 ギデオンは、分厚い腕を組み、驚きに眉間の皺を深くした。

「『龍の顎』なんざ、魔窟だぞ。大丈夫なのか、あんたみたいなひ弱な嬢ちゃんが!」

「大丈夫です、ギデオン」

 エリアーナはきっぱりと答えた。

「古文書によれば、月光鋼は魔力に反応してその性質を微妙に変化させるとあります。この世界でただ一つ、確実に作り上げるには、私が現地でその特性を直接見極める必要があるのです。これは、研究者としての探究心であり、私の務めでもありますから」

 危険だと分かっていても、自分の目で確かめずにはいられない。

「ちっ、学者先生ってのは、どいつもこいつも命知らずで困ったもんだぜ」

 ギデオンは悪態をつきながらも、どこか誇らしげな目をしていた。

「まあ、いい。こっちのことはこのギデオン様に任せとけ。お嬢様が帰ってくるまでに、最高のウェハーを寸分の狂いもなく磨き上げといてやる。だから、さっさと必要なモン見つけて、とっとと無事に帰ってきやがれ!」

「はい! 必ず、無事に戻ります!」

 頑固で口の悪いドワーフの、不器用な優しさが胸に沁みる。

 工房の若い技術者たちも、遠巻きながら心配そうな、それでいて期待に満ちた眼差しでエリアーナを見守っていた。

 ここは、もう彼女にとってかけがえのない、第二の我が家だった。

 そして、出発の日の朝が来た。

 湖畔の屋敷の前に、ヴァルヘイム公国の紋章を掲げた精鋭部隊が整列している。

 誰もが歴戦の強者であることをうかがわせる、引き締まった空気をまとっていた。

 カイウスは、旅のために動きやすい革の乗馬服姿に着替えたエリアーナを見て、わずかに目を見張った。

「準備はいいか、エリアーナ」

 彼は隣に並び立つ彼女に、静かに問いかけた。

「はい、カイウス様。いつでも」

 エリアーナはきっぱりと頷いた。

 その瞳には、すでに迷いの影はない。

「よし」

 カイウスは満足げに頷くと、傍らに控えていた屈強な騎士に合図した。

「ゲオルグ隊長。エリアーナ嬢の身辺警護は、最優先中の最優先とせよ。彼女の髪一本たりとも、指一本たりとも、傷つけることは決して許さん。これは、公爵としての厳命であると同時に、私個人の、揺るぎない願いだ」

「御意! 命に代えても、エリアーナ様をお守りいたします!」

 ゲオルグと呼ばれた隊長が、胸に拳を当てて力強く応える。

 その万全の体制に、エリアーナは恐縮しつつも、深く頭を下げた。

「さあ、行こう」

 カイウス自らが馬に跨り、隊の先頭に立つ。

 エリアーナも用意された馬に乗り、彼の隣に並んだ。

 朝日が湖面を照らし、彼らの行く末を祝福するかのように輝いている。

 カイウスの号令一下、総勢三十余名からなる探索隊が、『龍の顎』を目指して静かに出発した。

 壮大な冒険の始まり。

 そして、世界の運命を変えるための、新たな一歩だった。

 ◇ ◇ ◇

 彼らが出発したのを見届けた後、工房の近くの森の木陰から、一つの影がすっと離れた。

 密偵ゼルクだ。

 彼は、この数日間で探索隊の目的の輪郭を捉え、その異常なまでの重要性を確信していた。

 (ヴァルヘイム公自らが出陣するほどの探索行……。狙いは、やはりあの姫が欲する特殊な鉱物か)

 ゼルクの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。

 目的地は『龍の顎』。グランツ王国が影響力を持つ、絶好の狩場だ。

 (面白い。公爵自ら、獲物と至宝を運んできてくれるとはな)

 彼は懐から小さな通信用の魔道具を取り出すと、短い報告を念話で本国へと送った。

『――目標、龍ノ顎ヘ。公爵カイウス同行。格好ノ機会ナリ』

 エリアーナたちがまだ知らない、グランツ王国の黒い牙が、すぐそこまで迫っていた。
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