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移ろう季節の端で
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10月
「電気つけてくる」
と、奈緒ちゃんが言った時、あたしは少し惜しいと思ったのだ。
「ごめん。ありがとう」
と答えたけれど、もう少し味わっていたかった。南向きの教室に射し込む秋の夕陽の懐かしいような暗さと穏やかさを。それは室内が明るくなると一気に薄まってしまうのだった。
奈緒ちゃんが戻ってきて椅子に腰掛けた。彼女とは今学期の席替えで隣同士になった。少しウェーブのついた長い髪を今日はポニーテールにしている。お月様みたいな色白の丸顔の物静かな子だ。
手元に奈緒ちゃんの視線を感じながら刺繍針を動かす。手芸の授業の課題…スウェーデン刺繍のテーブルセンターの製作中なのである。ただしあたしが今やっているのは、あたしのではなく奈緒ちゃんのだ。
「随分進んだね」
「そりゃあ、ずっとやってるから」
そう言えばどれぐらいやってるのだろう。見ると壁時計の針は五時を回ったばかりだ。一時間は経ってない。
「バスの時間大丈夫?まだある?」
奈緒ちゃんに聞いた。決して都会とは言えないこの町はバスの本数が多くはない。
「大丈夫。六時過ぎのがある。…六時までお願い」
「了解」
やっぱりと言うか、奈緒ちゃんの課題の進み具合は手伝いが必要なほどだとは思えなかった。人に手伝ってもらわなくとも提出期限には充分間に合ったと思う。…手伝うのは、あたしはもちろん構わない。
一つのレーンに糸を縫い通したら糸の色を一段トーンアップしたものに変えて、今度はその上のレーンに縫い通していく。刺繍のパターンに糸の色でグラデーションをつけていくのだった。六時直前に切りの良いところで終われるように、縫うペースを上げた。
「どうでしょう」
六時直前。テーブルセンターを奈緒ちゃんに向けて広げて見せた。
「すごい。綺麗」
「そうです?」
「ふふ…。うん」
奈緒ちゃんはテーブルセンターの端を手に取り、ポプラの木のシルエットのようなパターンを見ながら楽しそうにうなずいた。
「大沢、やっぱり上手よね。ありがとう」
「どういたしまして。でも何とかなってるのはこれだけ。この課題だけだよ」
「そんな事ない。大沢にお願いして良かった」
「いえいえ」
奈緒ちゃんは知らない。本当にそうなのだ。あたしは手芸は大の苦手なのに、何故かこの課題だけはやる気になって何とか出来てしまっただけだった。もしかして全てが出来ていると思われてたら困る。
「片付けようか。帰ろう」
「そうね」
答えた奈緒ちゃんはテーブルセンターを手早く畳み、紺色の補助バッグに仕舞った。
電灯を消してみると、あたしの好きな雰囲気はずいぶん暮れて暗さを増していた。
廊下の窓から見える空の色はまだ仄かに明るい。引き換え、あたしたちが歩いている廊下が、この季節この時間の無灯の屋内であるという以上に暗く感じられるのは、両脇は黒の、中央部は灰色の御影石張りだからかもしれない。
体育館の方から剣道部の人たちの掛け声と竹刀を打ち合わせる音が響いてくる。ずっと響いていたはずの音なのに今初めて聞いたような気がする。
前庭に出るとそこは残光を遮るものがない分、屋内よりは明るかった。奈緒ちゃんと取り留めのない事を喋りながら正門を出る。すぐ左に曲がると、目の前と言ってもいい場所にカトリックの白い教会がある。あたしたちが通っているカトリック系の女子高と関係があるところかどうか分からない。今まで一度も足を踏み入れた事はない。
「じゃあここで。また明日」
「うん。今日はありがとう」
「いえいえ。気を付けて帰ってね」
教会の前でお互いに手を振った別れ際、奈緒ちゃんが提げている頑丈そうな小ぶりの銀色の紙バッグが、行き交う車のライトを映してきらめいた。もうやがて真暗くなる。
奈緒ちゃんの、いつもはないその手荷物は、あたしにとってはあの事件の象徴みたいなものだった。
あの事件。――あんな事件であるだけに思い出したくない。あんな事件である上にまだ終わったことでもない。思い出したくなくともまだ忘れられる時ではないのだった。
始まりは昨日の朝。クラスメートの殆どが教室に揃った頃だった。
「村崎!お前、間違えんなよ!」
水口さんの怒鳴り声が室内のさざめきを圧して響いた。奈緒ちゃんとあたしはお喋りを止め、他の人たち同様、彼女に目を向けた。
水口さんが睨みつける先に村崎さんが立ちすくんでいた。登校して教室に入ったところを水口さんに怒鳴りつけられたのだった。
水口さんの横で高浜さんが困ったように見ていた。予想外の事をされてしまったような戸惑った様子だった。
「謝れよ」
「…どうして水口さんがそんな事言うの」
「はぁ?」
「関係ないでしょ。水口さん」
村崎さんのしっかりした受け答えにあたしは感心した。立ち竦んでいたのが嘘みたいだ。彼女は気の弱そうな外見とは裏腹に結構気が強い。普段からそれで反感を買ってしまってる部分もある。この時は水口さんをヒートアップさせてしまった。
「いいから謝れって言ってるだろうがぁ!」
怒鳴るだけで済んでいるのが奇跡のような感じだった。
「お前の勘違いのせいで、彩ちゃんたちがどれだけ迷惑したか分かってんの!?お前が誘われるわけないって、どうして分からない!?分からないとは思うけど!」
ヒートアップする直前、水口さんは一瞬言葉に詰まった。あたしにはそう見えた。それにしても、分からないとは思うけどって、酷過ぎる。
「ねえ、彩ちゃん。迷惑だったねー」
打って変わった猫撫で声で言い、水口さんは高浜さんを振り向いた。高浜さんは笑顔の一歩前のような表情をして、うなずきの一歩前のような仕草をした。そうする以外どうしようもなかったのかもしれない。それは水口さんを大満足させたらしい。彼女は嬉しそうに、今度は奈緒ちゃんに叫んだ。
「ねえ!松岡さんも迷惑だったよね!」
この頃には、あたしは水口さんの言動が空恐しくなってきていた。暴走しているようにしか見えなかった。何があったか知らないけれど、彼女をそうさせている何かには奈緒ちゃんも関わっている。
水口さんは明らかに奈緒ちゃんの同意を期待していた。そんな彼女に奈緒ちゃんが返したのは無表情だった。それは黙ってやり過ごそうとしているようにも、怒っているようにも見えた。水口さんの期待を打ち砕くには充分だったようだ。彼女は少し狼狽えたような顔をした。
「あー、うるさい」
隙を突いたように村崎さんが言った。自分の席に進みながら更に二言三言、何か呟いた。水口さんは唇を噛み締めるように歪め、敵意に満ちた目で村崎さんを追った。その後席に戻り、周囲の人たちとヒソヒソ話を始めた。
一時間目の授業が終わった頃には、結構な数のクラスメートに朝の一件の原因が知れ渡っていた。それは彼女たちが村崎さんに向ける目と、空気感で分かるのだった。表立った動きはなくとも深々と突き刺さる針のような敵意。その対象ではないあたしでさえクラスの居心地が悪かった。状況が悪化、長期化するならどうにかしないといけない。そう思った。奈緒ちゃんと高浜さんが状況を見て見ぬ振りしているようなのも、人の心理として仕方ない事なのかもしれないけれど、勝手ながら、何があったにしても当事者としてもうちょっと何かないのかな、だった。
村崎さんは黙って耐えていた。あたしはその姿を見るにつけ、何があったにせよ本当は今すぐどうにかしないといけないのだと言われている気がした。それでも、彼女が自ら命を絶つような最悪の事態にはならない気もしたのはなぜだろう。
――今日、村崎さんは欠席した。水口さんたちはどう思ったのか分からない。あたしはまだ引っ込んでいた。体調不良により欠席という話だったけれど、本当の理由は昨日の事だろう。そのぐらいダメージを受けたのだ。でもそれならあたしが出て行かなくても今後動きがあるかもしれない。悪化したと言える事態だけど、欠席している以上村崎さんが脅かされる事はない。彼女のお母さん…村崎さんの家は母子家庭だと聞いていた…も村崎さんから何か聞いているんじゃないだろうか。もう少し待ってみよう。そう考えたのだった。
「ねえ、大沢」
奈緒ちゃんから話しかけられたのは、二時間目の休み時間だった。
「はぁい?」
「手芸の課題、もう終わってたよね?」
「うん。一応」
早く終わってどうしよう、と解放感いっぱいで思っていたら先生が別の手芸材料を持ってきて下さった。今はそれをやって時間つぶししている。先生に感謝するべき事なのはそうなのだけど、こんな事ならゆっくりやれば良かった。心配しなくても次回からはきっとゆっくりだ。いや今回以前は、すでに。
「もう提出しちゃった?」
「ううん。まだ」
あんまり早く預っても失くしたり汚したりしたら大変だから、と先生からのご意見だった。早いのもいろんな意味で考えものだ。
「…見せてもらえない?」
「え?」
「持って来てない?」
「いや、置いてる。見たい?」
「うん」
机の中から紙袋を取り出し、中身のテーブルセンターを奈緒ちゃんに渡した。彼女は膝の上でテーブルセンターを広げて静かに見つめた。本当に静かに。それは一分にも満たないぐらいの時間だったかもしれないのだけど、それでも彼女があんまりにも無言だったからあたしは心配になってきた。
「あたしの、手伝ってくれない?」
奈緒ちゃんは顔を上げると同時にそう言った。あたしはすぐには返事出来なかった。そう言われるとは思っていなかった。
「あたし、あんまり進んでなくて。期限に間に合うか心配なの。手伝ってもらえたら助かる」
そうなの?とはあたしは言わなかった。
「…良いよ」
「本当?ありがとう」
「いつ手伝えば良い?」
「今日の放課後、大丈夫?」
「大丈夫」
「良かった。お礼するね」
「良いよ、そんなの」
「駄目よ」
あたしが奈緒ちゃんに抱いた違和感は、会話していても消えなかった。
――あんな状況があって、昨日の今日で、村崎さん休んでて、しかも自分が関係してるのに、それ言える?
――そんなに進んでないの?真面目にやってるように見えたのに?
しかしあたしにとってそれらは断る理由にはならなかった。
誰かがあたしたちの傍らでスッと立ち止まった。見上げると高浜さんだった。
「お話し中にごめんね」
彼女はあたしと奈緒ちゃんを交互に見た。
「奈緒美。石原先生が、正面玄関まで来て下さいって」
奈緒ちゃんがサッと顔を曇らせた。
「……あたしだけ?」
「ううん。あたしも、森尾ちゃんも。早く」
足早に行った高浜さんを、奈緒ちゃんは慌て気味に追った。ドアの前では森尾さんが不安そうな面持ちで二人を待っていた。
合流して出て行く三人を水口さんがじっと見つめていた。
動きあり。
森尾さんも関わってるんだ。
三人は五分もしないうちに戻ってきた。それぞれが手に銀色の小振りな紙バッグを提げていた。
「彩ちゃん」水口さんが身を乗り出して呼び、紙バッグを指さした。「村崎?」
高浜さんは紙バッグを隠すようにちょっと身をよじり、困ったように微笑んだ。その後ろを森尾さんが通り過ぎた。奈緒ちゃんは無言で席に着いた。
チャイムはとっくに鳴っていた。皆、席に着いていた。なのに先生がなかなか現れず、教室は次第に私語で満ちていった。
あたしはこのまま静かにしておこうかなと思った。でもこの時、そうする事は結局出来なかった。
「奈緒ちゃん」
椅子ごとにじり寄った。
「どうしたの?」
「うん。今頃聞くのも何だけど…」
「…何?」
「答えたくなければ、答えてくれなくて良いんだけど…」
「…うん?」
「村崎さんと何があったの?」
詮索するつもりや噂の種にするつもりはなかった。やはり本当の事を知ってる第三者がいた方が良いかもしれないという、なぜそういう第三者が必要だと思ったのか自分でも分からない、余計かもしれない気回しからの問いだった。
「…それね……」
そう呟いた奈緒ちゃんから次の言葉はなかなか聞けなかった。あたしはいよいよ申し訳なくなってきて、いや良いよごめん。で終わらせようと思ったら。
「先週の、土曜日ね」
「うん」
「三人で、W市に遊びに行く約束してたの」
隣県の都市に。
「でもその日、駅で待ち合わせしてたら、村崎さんがお母さんと一緒に来たの」
「奈緒ちゃんたちの所に来たって事?」
「そう」
「何で?」
「あたしたちも訳分からなかったんだけど、お母さんの前で何も言えないじゃない」
「そうだね」
「お母さんはあたしたちに、よろしくお願いしますって村崎さん置いて、お帰りになったの。その後彩ちゃんが、どうして来ちゃったのかな?って村崎さんに訊いたら、高浜さんが誘ってくれたでしょ、って」
「どう言う事?」
「彩ちゃんは村崎さんを誘ってない」
「それは分かる」
「だけど考えてみたら、彩ちゃんがその話をあたしと有希(奈緒ちゃんは森尾ちゃんとは呼ばない)に持ってきた時、例によって村崎さんが近くにいたのね。もしかしたら、自分も声掛けられたって、誤解させてしまったのかも」
「かも知れないね…」
だから水口さんは昨日ああ言う事を言った?
奈緒ちゃんの読み通りであるならあたしも納得出来る気がした。村崎さんは知的障害を持っている。まさかの勘違いをしたとしても無理はない(もちろん障害があろうと健常であろうと、勘違いはする)。更に彼女は校内に友人と呼べる相手を一人も持っていない。ただどう言う考えなのか、奈緒ちゃんたちを友人に見立てているのか、微妙にくっついている時がある。奈緒ちゃんたちは穏やかだから、そう言う時追い払ったり避けたりはせず、影であるかのようにそっとしておいてくれているのだった。まさにそう言う時に、タイミングや条件が重なって誤解が生じてしまったのだろう。
あたしは入学した頃から村崎さんに対して、どう言う訳でこの学校に来たのだろうと思っていた。他の、彼女の障害に対応出来る体制が整っている学校ではいけなかったのだろうか。恐らく彼女のと言うよりは彼女のお母さんの判断だったのだろう、と勝手に思っている。この学校もミッションスクールと言う体質上、もしかしたら福祉的な入学枠もあるのかも知れない。
「で、その日は村崎さんも連れて行ったの?」
「うん…。どうしようもなくて」
「良い事したと思うよ」
本当に、そこは。
「でも高浜さんが、その事を水口さんに話してしまった?」
「そうだと思う」
奈緒ちゃんと森尾さんは、水口さんとは殆ど親交がない。
「そうだとしたら、そこは黙ってなきゃいけなかったよ。高浜さん」
あたしの言葉に奈緒ちゃんは困ったような笑みを見せた。さっきの高浜さんと同種の笑みだった。
事情を聞けば、発端となった事柄については誰も悪くない。村崎さんだって、勘違いしてしまったのだとしたらそこは三人には謝った方が良いにしても、勘違いしたくてしたわけではない。更には彼女が言った通り水口さんは関係ない。三人に謝っていなかったとしても、水口さんが怒鳴りつける必要はないだろう。まして言いふらしてネチネチ吊し上げるなんて以ての外だ。それに多分だけど、事後の高浜さんの行動もどうだろう。本当に彼女が話したのなら、彼女も普段は村崎さんに親切な方だし、悪気で話したのではないと思う。多分愚痴をこぼさせてもらったぐらいの感覚だったのだろう。けれど水口さんの村崎さんに対する普段から辛辣な態度を思えば、話したりしたらどんな事になるか想像出来なかったのだろうか。水口さんみたいな筋違いの正義感も傍迷惑だけど。
教室のドアが、ガラリと開かれた。
「お話、ありがとう」
あたしは奈緒ちゃんに言い、椅子と一緒に席に戻った。
入ってきたのはクラス担任の石原先生だった。彼女は欠席していたはずの村崎さんを伴っていた。古典の時間なのに教科担任の間宮先生は現れなかった。
村崎さんは石原先生に促されて席に着いた。
あたしたち生徒は息を殺した、そうしてしまうぐらい静かだった。
石原先生も教卓の向こうで黙っていた。彼女が着ているカーディガンは鮮やかなロイヤルブルーだ。穿いている膝丈のフレアスカートは黒地に白い影抜きの花模様がプリントされている。肩に付くか付かないかぐらいの長さの髪はバレッタでハーフアップにしている。顔立ちと性格はキリッとしているが装いはいつもフェミニンなのだった。
「よろしいですか」
石原先生が良く通る声で沈黙を破った。
「突然すみません。本来でしたら間宮先生の授業なのですが、その前に、私からあなたたちにお話したい事がありまして、申し訳ないのですがお時間をいただきました」
少し閉め損なっているドアに気付いて見ると、その隙間から見える廊下に間宮先生と、もう一人誰かが佇んでいた。
「実は先程、村崎さんのお母様から、今このクラスで起こっているトラブルについて御相談をいただきました。お母様と致しましては、皆さんさえよろしければお話をさせていただきたい、とお思いでいらっしゃいます。あなたたちはどうです?お話、聞かせていただきますか?」
そう訊かれても皆当然のように黙っていた。皆それぞれ思う事はあったとしても、この場合の沈黙は同意としか受け取られない。そしてあたしは決して聞きたくないわけではなかった。
「よろしいようですね。では、」
石原先生はお母さんを招き入れた。お母さんは目のぱっちりした小柄な美人だった。クラス中が微かに息を呑んだ。あたしたちの親世代なら平均的には四十代前半だろうけれど、その人はもっと若そうだった。三十八歳の石原先生よりも若いかも知れない。
「初めてお目にかかります。村崎沙和の母でございます」
お母さんは深々と頭を下げた。
「本日は私の勝手なお願いでこのような場を設けていただく事となり、皆様には大変申し訳なく存じます。今回皆様をお騒がせさせております事につきましても、娘が御迷惑をおかけしております事、親として心苦しく申し訳なく思っております」
謝って欲しくない。こちらこそ心苦しい。お母さんは憔悴していた。あたしたちがそう言う思いをさせてしまっている。村崎さんは今どう言う思いでいるのだろう。あたしのずっと斜め前の席にいる彼女は背中を丸めて、顎を上げ過ぎるぐらい上げてお母さんを見ていた。彼女の胸中もそれとして姿勢の方も気になった。
お母さんのお話は、聞いているうちに申し訳ないけど飽きてきた。
「娘が御迷惑はおかけしてしまうにしても、悪気があっての事ではありません」とか、「今回の事にしても、娘は付き合って下さって嬉しかったと思います」とか、「せっかく受け入れていただいた学校で、皆様に支えられて日々を過ごす事が出来れば、親として言う事はございません」とか、どれもこれも痛いほど切実な声だった。そう感じる一方で、期待外れだと言う思いもあった。切実な声はそれとしても、村崎さんが何故障害を持って生まれてきたのか、どうしてこの学校に入る事になったのかを聞きたかった。どうしてそう言う話を期待したのだろう。そう言う話をする脈絡はない。そう言う話をまさかこう言う場で他人に聞かせるはずもない。ましてや障害の原因なんか不明かも知れない。分かっているのに勝手に酷い期待をしてしまった。どうしてそう言う話を聞きたいのだろう。好悪の感情とは別にあるただ純粋な興味かも知れない。今更だけどあたしは結構アホで人でなしだ。
お母さんは話し終えるとハンカチを目の下にそっと当てた。
室内は、しんとしていた。
「…以上で、よろしいですか?」
と訊いた石原先生にお母さんは頷いた。
「それでは、あなたたちからお母様に、お話したい事はありませんか?」
村崎さんがサッと手を挙げた。
「どうぞ」
石原先生に優しく促されて、村崎さんは何かを言った。その声は弱くてあたしの所には殆ど届かなかった。
「沙和ちゃん」お母さんが言った。「それは良いの。それはもう、終わった事」
「あいつ何て言った?」
矢原さんがあたしを振り向いて小声で言った。彼女はあたしのすぐ前の席にいる。
「さあ?良く聞こえなかった」
「そこの二人。何かあるの?」
石原先生が見逃すはずはなかった。
「何もありません」
矢原さんは向き直りながら答えた。
「大沢さんは?」
「何もありません」
石原先生は少しの間矢原さんとあたしを見つめた。あたしも、きっと矢原さんも、そわそわした。
「皆、何もないようですね」
石原先生はお母さんに顔を向けた。
「それでは御都合もおありでしょうし、お母様はこれでお引き取りいただいて結構です。本日はお忙しいところ、お時間を割いていただいて、貴重なお話をして下さってありがとうございました」
頭を下げ合う石原先生とお母さんの姿は、大人社会を感じさせた。
「あなたたちからも、お礼を申し上げて下さい」
「…起立」
石原先生から目で合図されて、級長である高浜さんが号令をかけた。
「ありがとうございました」
頭を下げながら、思った。感謝もだけど謝罪もしなくちゃいけないんじゃないか、あたしは特に。と。でも思っただけだった。
石原先生がお母さんを送ろうとドアに向かったところで、間宮先生が教室に顔を覗かせて言った。
「私が下までお送りします」
「よろしいですか?お願いしても」
「はい。先生は、まだ…」
間宮先生は声のトーンを急に落とした。その先は聞き取れなかった。彼女にお母さんを託した石原先生は、最初みたいに黙って教卓の向こうに佇んで、二人が遠ざかるのを待っていた。…やがて、お母さんがいた時とは段違いに厳しい表情と声で言った。
「あなたたちには、まだもう少しお話したい事があります。本来でしたら、あなたたちはまず謝罪をしなければいけないところですし、私もそうさせるつもりでした。なのにさせなかった。何故だと思います?」
そう言って石原先生は少しの間沈黙した。あたしたちに考えさせようとしたのかも知れない。
答えさせはせず石原先生は続けた。
「お母様が大変恐縮なさって、そこまではさせないでいただきたいと仰って下さったからです。今回の事だけでなく、他にも色々御迷惑をおかけしているでしょうから、と。お母様に、そんなにも肩身の狭い思いをさせてしまっております事を、私は申し訳なく思います」
石原先生の考えとあたしの考えは、どことなく一致している気がする。もちろん普通に考えれば誰もが同じ考えに辿り着くと思う。もともとはちょっとの勘違いで済んだはずの事を、関係ない人がわざわざ引っ掻き回して周囲も同調してこう言う大事にしてしまっている所が、何か恥だし、もういかん気がする。
「ですが、」
石原先生が言った。
「そうと伺って考えてみれば、村崎さんに関しては、あなたたちも今まで色々と納得のいかない事があるのでしょうし、形だけ謝らせても意味がないと思いました。ですので、あなたたちの言い分も聞きたいと思います。明日の放課後から、出席番号順にまず五名ずつ、聞き取りをします。言いたい事がある人は整理しておいて下さい。…これは、こちらへ来る前に、校長先生やお手透きの先生方とも話し合って、そうした方が今後の為にも良いだろうと言う事で決定しました。言わば学校側からの、あなたたちへの処分です。自分は関係ないのに、と思う人もいるかと思います。ですが昨日その場にいた時点で、そしてこのクラスの人間である時点で、関係者なんです」
……ですね。
「何より」
石原先生の声が一段強くなった。
「私が情けなく思うのは、あなたたちの誰一人として、今回の事を私に報告しなかった事です。私は昨日の時点で知りたかった。聞けば誰の目にも明らかなトラブルだったと思いますよ。お母様が御相談にいらっしゃったから良かったものの、そうでなかったなら、ずっと隠しておくつもりだったんですか?村崎さんだから良いと思ったんですか?そうだとしたら、そう言う人間の事を何と言うか分かります?」
卑怯者。小心者。臆病者。あたしの場合は、それに加えて人でなし。報告しなかった理由?恐らく村崎さんだからと言う理由もあるでしょうし、何よりそんな深刻な事だなんて解る人間が恐らくはいなさ過ぎたからじゃないですか?それと恐らく関わる勇気がなかったからじゃないですか?そんな勇気はないと思います。あたしだってそんなのない。保身も大事です。誰かがやってくれるならそうして欲しいですよ。それが無理なら、勇気がないなりに自分でどうにかしないと仕方ないけど。でも確かに報告は早い方が良いですね。反省します。
「…分かりますか?分からない人は、良く考えて下さい。ひとまず、私からは以上です」
厳しさは崩さないまま石原先生は出て行った。戻ってきて廊下で待機していたらしい間宮先生と話す声が漏れてきた。授業時間は残り少ない。それでも古典の授業はあるのだろうか。
間宮先生が現れた。ちょっと眠たそうなふっくらした顔と、おすべらかしみたいに緩く一つに結んだ髪型が平安の雰囲気を醸し出している。二十九歳だと聞いた。
間宮先生は教卓の向こうに立つと、
「号令」
高浜さんにピシャリと命じた。
それからの授業は本当にあっと言う間に終わった。
休み時間、あたしは奈緒ちゃんに訊いてみた。
「放課後、大丈夫?気持ち的に」
奈緒ちゃんの返事は、
「大沢が大丈夫なら、お願い」
だった。
奈緒ちゃんはあんまりダメージを受けてないか、本当に切羽詰まっているのかも知れない。それとも敢えて何もなかったようにしていたい?
ここでも色々思ったものの、あたしにとってそれらはやはり断る理由にはならず、また、あたしも村崎さんやお母さんほどのダメージは受けていなかった。
「分かった。あたしも大丈夫」
と答えた。
今日は午後から雨と天気予報で言っていた。予報は外れず午後から結構本降りだ。朝は、予報が嘘であるかのように晴れていたのに。信じて傘を持って行ってて良かった。それでも濡れたスカートの裾やブレザーの袖口をタオルで軽く叩いた。
自分の部屋に入ると、よりひんやりと感じた。あと三日で十一月。今みたいに雨降りの夕方ともなるとそれなりに肌寒い。この部屋は北向きだから尚更だ。
『ちいさい秋みつけた』の二番の歌詞の歌い出しを不意に思い出した。思い出しただけなのに何故か気持ちが胸の奥に入り込んで、あたしに次の行動に移る事を一時止めさせた。辛うじてのように鞄は床に置いた。腰高の本棚に寄り掛かり、雨音を聴きながら窓を眺めた。
このマンションに越してくる前。あたしが小学校四年生の頃。当時我が家には一冊の童謡集があった。その頃親戚の一人が贈ってくれたものだった。その中に収められた一編が『ちいさい秋みつけた』だった。それまでは一番の歌詞しか知らなかったあたしは初めて二番三番の歌詞を読み、その素晴らしさに酔ってしまった。一番の歌詞よりもずっと好きだった。こう言う詞を書くのはどんな名前の人なのだろう。と初めて作詞者に興味を持って期待してその名前を見たらサトウハチローと言う名前で、何だ…。とちょっと失望した。もっとかっこいい名前と思っていたのに。失礼過ぎるのは分かっている。あたしが勝手に期待し過ぎたのだ。十六歳になっている今は、サトウハチローがすごい人だったと言う知識はある。
童謡集は、頂き物ではあるがとっくに処分してしまった。
それにしてもこの歌詞、まるで今いるこの部屋を予言したみたいだ。この部屋は北向きであるのに加えて窓は網入りの曇りガラスなのだから。
外から話し声が聞こえ、窓の向こうを二つの人影が通り過ぎた。この部屋は通路側でもある。声の主はこの家の人間だ。あたしは本棚からパッと離れてブレザーのボタンを外しながらクローゼットに近付いた。
「ただいまー」
紗穂の声が玄関から聞こえた。続けて聞こえた照美の「ただいま」にあたしの「お帰り」が被さった。
気持ちの底の、嫌な淀みを感じた。机に向かって、置きっ放しだった文庫本を開いてもなかなか消えなかった。読むのを中断して、本に挟んでいた栞を持って眺めた。ステンレス製の良くあるお土産品だ。手の中にすっぽり収まる長方形の中に、ステンドグラスで幾つかの絵柄が描かれている。その中でも目立つのが日本海軍の桜と錨のマーク、操舵輪、そして戦艦大和だった。あまり人に言った事はないけれど、あたしは小学校五年生の夏に、ある映画を地上波で観て以来、日本海軍スキーなのである。と言っても今や映画の内容はうろ覚えだし海軍知識はごく僅かだ。何か訊かれてベラベラ答えられるほどディープではない。
ノックが聞こえた。更に声が続いた。
「入りますよー。良いですかー」
「良いですよー」
返事しながら栞を挟み直した。
「お邪魔しまーす」
紗穂が猫のようにスルッと入ってきて、床に置いてる青いビーズクッションに腰を落ち着けた。白いマグカップを持っている。コーヒーの香りが漂ってきた。
紗穂は見た目が何となく水口さんに似ている。紗穂の方が色白で華奢だが、あたしと違って決して内気ではなさそうな顔立ちと、ショートボブが少し伸びたような髪型なんかが似ている。だからどうだと言うわけではない。ただ、似てるなあと言う話である。
「いらっしゃい。どうだった?」
三者面談は。
「商高に決めた。希望通り」
紗穂は答えて、マグカップを唇に寄せた。マグカップの中身はブラックに見えるけど、紗穂の場合砂糖はたっぷり入ってる。
「揉めなかった?照美と」
「大丈夫。あの人、ああ言う時は理解あるお母さんでいる」
「だよね。あたしの時もそうだったもん」
「面談終わってからは、何となく感じ取れるものがあったけど」
「分かる。他人の目がなくなったら出てくるものがね」
自分の思い通りにならなかった憤懣だの、鬱屈だの。
「うんうん」と紗穂はちょっと苦笑して頷いた。
「滑り止めは花郁姉さんの学校にしたから。制服地味だけど」
「地味で良いんです」
何の飾りも柄もないただのグレーの上下なんて、着る人を選ばないから良いじゃない。とはあらぬ誤解をさせそうで妹相手でも言えなかった。
「そろそろ何か新しいのある?」
本棚を覗いて紗穂が言った。
あたしは一昨日買ったコミックのタイトルを答えた。
「えー、読みたい。どこ?」
「上から二段目」
「…あったー」
並べている本の列の中に、紗穂が抜き出した上中下巻分の空洞が出来た。
「去年か一昨年か映画になったんだっけ?これ」
「うん。映画も観たかったんだけどね。気付くのが遅かった」
「これ最初は本当に大都会のニッチな所でしかやってなかったもんね。それがじわじわ話題になっちゃって、今度長尺版を撮る事になったんだよ」
「なったんだっけ?と言った割に詳しくない?紗穂さん」
「本当だね。何でかな」
二人してハハハと小さく笑った。
「こっちでは、ほとんど話題になってなかったのにね」
「でもコミックは辛うじてのように、ワンセットだけ本屋さんにあったのよ…」
「良くあったね…」
「本屋さんだし、アンテナ張って押さえてたんだと思うよ…」
「さすがね…」
「それ目当てで本屋さん行ったんじゃなかったんだけどね。あたしは割とそう言う巡り逢いの運はあって」
「ああそう…」
紗穂の関心はコミックに移りつつあった。
あたしも黙って文庫本を開いた。
激しくなったり弱まったりを繰り返していた雨も今朝は上がっていた。空はまだどんよりしている。あたしの気分は冴えない。大体朝のこの時間はまだ調子が上がらない。軽く溜息をついて、マンションのアプローチからまだまだ乾き切れていない舗道に出ると、少しだけ雲が割れて、ほんの束の間陽が射した。束の間の陽光を浴びるとあたしの気分は少し救われる。曇り空の朝はこう言う事がたまにある。その度にあたしは、光合成と思って少し可笑しくなるのだった。
最初の交差点で信号待ちしていると、見覚えのある人物を助手席に乗せた見覚えのある黒いクラウンが走っていった。奈緒ちゃんの家の車だ。彼女は行きだけお父さんに車で送ってもらっている。タイミングが合った朝はあたしと正門で落ち合うけれど、今日はもう無理だ。
あたしが教室に入った時奈緒ちゃんはとっくに席に落ち着いていた。彼女と優雅に朝の挨拶を交わし、穏やかなひと時を過ご…
「もう、やだぁー」
息を呑んだ気配を伴った声が前の方から聞こえた。見ると声の主が鞄を抱えて今まさにこちらに歩いてきていた。村上凛子。黒髪だけど赤毛のアンみたいに麦わら帽子が似合いそうな小柄で素朴な感じの子だ。
「ねえねえー」
と、あたしたちに呼び掛けて立ち止まった。あたしは凜ちゃんの抱える鞄の理由が分からないまま返事した。
「なあに?」
「鞄の中、ゴキブリがいるー」
「え!」
鞄のバックルは外されていて蓋がカパカパしている。
奈緒ちゃんが、見るのも嫌と言うように少し身を引いた。ちょっと細めた目と固く結んだ唇が嫌悪感を物語っていた。
嫌悪感はあたしも同じだ。でも何でこっちに持ってくる。何とかして欲しいからだろう。では何とかしなければ。あたしは凜ちゃんに訊いた。
「どこら辺にいるの?」
「ここ」
凜ちゃんは鞄の底の角の辺りを指した。
「底か…。ちょっと見せてもらいます」
あたしが言うと凜ちゃんは気を回してくれたのか、迷わずサッと鞄を開けた。やめてー!と言うあたしの心の叫びはどうやら聞こえなかったようだ。彼女はそう言うところ思い切りが良い。ゴキさんが飛び出してこなくて良かった。
中を覗いてみると、空っぽの鞄の底に…
「…いるね」
「どうしよう」
困って呟く凜ちゃんの向こうに彼女の机が見えた。そこには鞄から全て出したのだろう教科書やペンケースが積まれていた。良く出せたな。
「これなら何とかなる。ちょっと借りるね」
鞄を受け取って窓辺に行った。カラリと開けて鞄を外に突き出し、逆さにブンブン振って底のゴキさんを一階の白いコンクリートの庇の上に落とした。
「それ以上大きくなって戻って来なくて良いからね」
呟いて窓をピシャッと閉めた。振り向くと、今いるクラスメートのほとんどから注目されていた。あんまり気分の良い類のそれではない。何してんの?あの人。そんな感じだ。素知らぬ顔をして凜ちゃんに鞄を返した。
「何とかなったよ」
「ありがとうー。良かったー」
「鞄、アルコールで拭いた方が良いかも」
「保健室にあるかなぁ」
「あると思うよ」
「行ってみる。お世話になりましたー」
「どういた…」
しまして。とあたしが言い終わる前に凜ちゃんは鞄を持ってパタパタと出て行った。保健室、もう開いているなら良いけど。
あたしはハァと溜息をついた。
「この時間、優雅に穏やかに過ごしたかったんだけどね…」
「ふふ…」
奈緒ちゃんは笑ったけれど、あたしはあんまり笑える気分じゃなかった。考えてみれば たかが虫一匹なのにこのダメージ何だろう。
「手、洗ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
手を洗って教室に戻るとさっきより更に人が増えていた。今が登校ラッシュだ。
村崎さんも来ている。
お母さんがいらっしゃった日から、数えてみれば八日経つ。学校側からの処分は効を奏した。村崎さんは既に渦中の人ではなくそっとしておかれる存在になっている。全員が反省して態度を改めたわけではなく、大方は、この人に関わったら面倒な事になるから触れないでおこうと決めたからだと思う。そうだとしたら大方の人たちは、自分たちで勝手に関わって勝手に面倒な事にしてしまったと気付いているのかどうか、村崎さんだけでなくお母さんをも傷付けた事を理解しているのかいないのか、実は皆ちゃんと気付いているし理解しているのだとしても傍目からは分からない。
あたしも偉そうな事は言えない。村崎さんに謝る事だって、あたしはそんな良い人ではないし、確かに器がないから出来ないのだった。
「花郁ちゃんおはよう」
葉ちゃんがあたしの横を通りすがりに言った。
「あ、おは…」
「おはよう」
葉ちゃんと一緒に来た理乃ちゃんからも畳みかけるように言われて、あたしの返事は慌てふためいた。
八日経つ。あたしと葉ちゃんが実際に処分を受けてからなら六日経つ。あの時石原先生に自分の言い分を立派に言ってのけたのは、葉ちゃんだった。
音楽の教師である石原先生にとって、音楽室はテリトリーと言って良い。あたしたちはグランドピアノを背にして順不同で横一列に並んでいた。
「言いたい事を聞かせて下さい」
石原先生が促した。
「…では、言わせていただきます」
葉ちゃんが徐に口を開いた。
「先生は、村崎さんだったら良いと思ったのかと仰いましたけれど、確かに、村崎さんだったら何かされても良いと言う事はありません。ですが、村崎さんだけを過度に庇わなければいけないと言う事もありませんよね」
ショートヘアに、縁なしの眼鏡が似合う理知的な顔。その印象を裏切らないスラスラと淀みの無い口調だった。
「例えばどう言う事ですか?」
石原先生が訊いた。
「行事の準備とか、掃除の時とか、係の仕事の時とか、村崎さんが自分の仕事をしてくれないせいで、周りに負担がかかる時があります。悪気はないとしても迷惑は迷惑です。簡単な仕事を割り振っているのに。それも難しいのか、たださぼっているだけなのか分からない。そう言う時に先生が、村崎さんには何も注意せずに、きちんとやってる私たちに、村崎さんをしっかりフォローしなさいと言うのはおかしいと思います。こっちはちゃんとしているのに叱られるなんて、訳が分からない」
「あなたたちへの配慮が足りなかったのは、申し訳なく思います」
石原先生は落ち着き払っていた。
「ですが、村崎さんへの注意や指導なら何度もしています。あなたたちが知らないだけです。ただ、村崎さんは本当に『子供』なの。注意や指導を理解して、自分の改善に繋げられるだけの器がない。でもそれは村崎さんのせいではないの。こちらが手探りで、工夫して、彼女に少しでも理解してもらえる方法を考えないといけない」
この時あたしは石原先生の言葉選びにイラッとした。
「私たちにそれをやれと言うんですか?」
葉ちゃんが鋭く言い放った。
「しなければいけないと思います。出来ない、したくないと言うのであれば、結局あなたたちも、村崎さんを受け容れられるだけの器がない。そこに気付きもしないばかりか、立場の弱い彼女を悪者にして責めるなんて、十六や十七にもなって未熟にも程がある」
仰る事は正しいと思いますし、あたしの考えとやっぱりどことなく一致している気もしますが、あたしたちが(と全員一緒くたにしたら駄目だけど)未熟で器がないとお分かりなのでしたら、村崎さんをフォローしろなんて求めないで下さい…。難しいと分かっていて敢えて求めているのかも知れないけれど。
器の備わってない人間たちが多い中に村崎さんみたいな人(この言い方も良くないかも)を迎え入れても、酷い目に遭わせてしまう可能性の方が高いと思う。けれども恐らく、恐らくだがお母さんが色々悩まれた末の選択は責められない。
「早い人は、あと一年半もすれば社会に出て行くんですよ」
石原先生の口調が葉ちゃんよりも鋭くなった。
「世の中の人間全てが自分たちと同じであるのが当たり前、と言う感覚でいてどうするんですか?本当に色んな人がいますよ。相手によって対応を考える必要が生じる場合もあるんです。今回の場合は、こちらが負わなければいけない。指導や注意はしているとは言え、村崎さんにあなたたちに合わせなさいと求める事は出来ない。してはいけない。それは目が不自由な人に物を見ろと言うのと同じ。暴力でしかない。確かに、彼女に合わせた指導法でも、効果が見えるまで時間はかかるにしても、そこを踏まえて根気強くやっていかないと、彼女の場合は本当に『子供』だから」
「知的障害でしょう?」
この突然の発言が、石原先生の流れるような弁舌を一時中断させた。
不服そうに石原先生を見つめていた葉ちゃんが、驚いた顔をあたしに向けた。
そう。発言者はあたしだった。
「余計な事は言わなくていい」
石原先生が言った。
「知的障害なら知的障害と言ったらどうですか」
「大沢さん?」
あたしは黙った。苛立ちは顔に出ていたと思う。石原先生が怒りを抑えているのが見て取れた。あたしを睨みつけていた。けれどそれも長くは続かなかった。
「……あなたたちはどうなの?」
ずっと黙っている三人に矛先が向いた。
「川田さんは?北原さんは?木野さんは?何もない事はないはずよ。どう?」
三人にとばっちり食らわせちゃったかな、あたし。
石原先生の事だから最初から三人にも訊くつもりだったかも知れない。
三人とも黙っていた。黙り続けた。ここでは何も言わないだろう。
「本当に何もないの?それならそうと答えられるはずでしょう?どうなの、川田さん」
「…ありません」
「北原さんと木野さんは?」
「ありません」
「何もないです」
「だったらもう二度と、今回の事について文句を言わないで」
川田さんが伏せていた目をちらりと上げた。石原先生と目が合うと焦ったようにまた伏せた。
「当たり前よね。言いたい事が何もないのなら、文句もないはず。後から陰で色々言うぐらいなら、今ここで言えばいい。機会は与えられているのだから。でも、言いたい事はないのよね」
三人に言うと石原先生は葉ちゃんに目を向けた。
「鹿島さんは?他にはない?」
「ありません」
意外にも葉ちゃんはそう答えた。
「納得はしていませんが、これ以上言い合っても平行線だと思います。結論が出せない」
「…私も今後、あなたたちに極力負担が掛からないよう、対策を考えます」
折り合った。
「そして、大沢さん」
来るような気がしていた。
「あなたはもっと言葉を考えなさい。子供と言う表現の何が気に入らなかったのか知りませんが、露骨な発言をすれば物事をどうにか出来ると思っているなら甘過ぎる。そう言う発言をする人に、言いたい事を言ってもらおうとは思いません」
「分かりました」
あたしは若干ふて腐れて答えた。あたしだってそもそもこの場で何か言うつもりはなく。おとなしく処分を受けるつもりだったのだ。怒れる立場にないけど。
石原先生は一瞬眉を顰めた。可愛くない生徒。と言う感情がつい出てしまったようだった。しかしもうお説教をする事はなくあたしたちを解散させた。
音楽室を後にして、川田さんたちを追い越してさっさと階段を降りるあたしに、葉ちゃんが追い付いてきて言った。
「どうなるかと思った」
葉ちゃんとあたしは背格好が似ている。いわゆる中肉中背だ。こうして並んで歩いていると、葉ちゃんが自分の影のように感じられて何だかおかしな気分にもなる。
「ハラハラさせてすみません」
「…まあ、花郁ちゃんが悪いとも思えないよ」
「…ありがと」
肯定してもらったらもらったで心地悪かった。
「でも先生がちゃんとしてくれて良かった」
葉ちゃんが階段を降り切って言った。
「それこそ、もう葉子たちがハラハラしなくて済むもん。これで取りあえず、何とかなると思う」
自分の事を「葉子」と言う所は、悪くはないけれど、彼女の理知的な印象を裏切っている。
あたしは頷いた。
「そうだね。そこはね」
あたしも葉ちゃんも、悪いけど村崎さんが決して好きではない。彼女から好かれているとも思っていない。けれどもそれはそれ、これはこれなのだった。
石原先生なら大丈夫と思っていた。ただあたしは中学二年の頃、ある新聞記事を読んだ事がある。学校において何らかのトラブルが起こった時に止めるどころか「もっとやれ」と煽ったり、まともな先生が解決に動こうとすると「余計な事するな」と脅してその先生をいじめたり、人事を握って飛ばしたり、かと思えば自分の事は碌に仕事しない癖に格上げさせたり、まあそう言った変な言動を取り変な圧力を掛ける変な教員がいると言う内容だった。今や石原先生には失礼極まりないが、ちょこっと…本当にちょこっと、まさかそんな変なのじゃないよねと心配していた部分もあたしにはあったのだ。
「でも葉子、村崎さんたちの間で何があったのか、詳しくは知らない」
確かにお母さんのお話だけでは分からない事が多かっただろう。葉ちゃんも、水口さん発で知れ渡った範囲外の人であるし。
「あたしも」
ごめん嘘ついた。でもこの嘘は許して欲しい。葉ちゃんなら話しても大丈夫だけど。あたし一人が黙ってても意味ないかも知れないけれど。奈緒ちゃんから口止めされてはいなかった。今更口止めしても意味ないと思ったからなのか、あたしを信用してくれたのかは分からない。
教室には意外にも結構な数のクラスメートが残っていた。窓際の席にいた理乃ちゃんが葉ちゃんに気付いて笑顔で手を振った。
「じゃ、花郁ちゃん。葉子はこれで」
「うん。バイバイ」
「バイバイ」
キィ…と言う軋みが外から聞こえた。風が出てきたのだ。前庭の掲揚台に掲げられた国旗と校旗が煽られるとたまにワイヤーが軋むのだった。
教室の後ろの方では川田さんが、彼女のグループの人たちと一緒に石原先生の事を何だかんだ言っていた。水口さんのグループの人たちも混じっていた。この二つのグループは今回の事では村崎さんを共通の敵として共同戦線を張っていた。でも今、水口さんの姿はない。
――だからいないと言うわけではないのだろうけれど、水口さんは、実は自分たちのグループの人たちからも川田さんたちからもあまり好かれてはいない。しかし当の水口さんはそう言う事に全く気付いていないと言うか、思ってもみないようなのだった。良くある内部事情である。
あたしはそんな事を思う一方で、さっきからずっと意識に燻ぶるものを感じていた。
――「子供」と言う表現にどうしてあんなに苛立ったのだろう?
答えは分かっていた。
これも新聞で読んだ事だけど、知的障害と言う言葉は、昔から使用されていたその状態を表す言葉が差別的であるからと言う理由で、それに代わって用いられるようになった表現であるそうだ。だったら別に使っても良いんじゃないかとあたしは思うのだけど、石原先生はそうしなかった。その表現を知らなかったわけではなさそうだ。知っていても使わなかったのは配慮なのだろう。絶対使わないといけない言葉でもない。でもあたしには、あんまり遠回しが過ぎると反って差別的と言うか、障害から目を逸らしているような気がした。そこまで忌避するべき言葉なわけ?そこまで忌避するなら新しい表現なんて意味ないよね?と思ったのだった。
使うにしても状況は考えないといけないのは分かる。差別や侮辱目的で知的障害と言う言葉を使っておいて「これは差別語じゃありませんから」と居直る人間もいるのかも知れない。そう言う人間は例え知的障害を他の表現に変えたとしてもその新しい表現を用いて差別や侮辱をやらかす。この場合は結局言葉ではなく、言葉を悪用する人間が悪い。
こう言う事を、一喝されても石原先生に反論した方が良かったのだろうか。それをやったら論点がズレてしまうから黙って正解だったかも知れない。石原先生なら「今そんな話はしてません!」と論点を戻すだろうから反論しても良かったかも知れない。…あの時は退却大事と思った。だから黙った。そして今、あんな事言わなきゃ良かったとは思えない。
あんまり突き詰めると表現の自由と言論の自由みたいな、あたしなんかの手に負えない領域に突き進んでしまう。ここまでにしよう。
――石原先生も大変だ。
あたしが言うな。
「電気つけてくる」
と、奈緒ちゃんが言った時、あたしは少し惜しいと思ったのだ。
「ごめん。ありがとう」
と答えたけれど、もう少し味わっていたかった。南向きの教室に射し込む秋の夕陽の懐かしいような暗さと穏やかさを。それは室内が明るくなると一気に薄まってしまうのだった。
奈緒ちゃんが戻ってきて椅子に腰掛けた。彼女とは今学期の席替えで隣同士になった。少しウェーブのついた長い髪を今日はポニーテールにしている。お月様みたいな色白の丸顔の物静かな子だ。
手元に奈緒ちゃんの視線を感じながら刺繍針を動かす。手芸の授業の課題…スウェーデン刺繍のテーブルセンターの製作中なのである。ただしあたしが今やっているのは、あたしのではなく奈緒ちゃんのだ。
「随分進んだね」
「そりゃあ、ずっとやってるから」
そう言えばどれぐらいやってるのだろう。見ると壁時計の針は五時を回ったばかりだ。一時間は経ってない。
「バスの時間大丈夫?まだある?」
奈緒ちゃんに聞いた。決して都会とは言えないこの町はバスの本数が多くはない。
「大丈夫。六時過ぎのがある。…六時までお願い」
「了解」
やっぱりと言うか、奈緒ちゃんの課題の進み具合は手伝いが必要なほどだとは思えなかった。人に手伝ってもらわなくとも提出期限には充分間に合ったと思う。…手伝うのは、あたしはもちろん構わない。
一つのレーンに糸を縫い通したら糸の色を一段トーンアップしたものに変えて、今度はその上のレーンに縫い通していく。刺繍のパターンに糸の色でグラデーションをつけていくのだった。六時直前に切りの良いところで終われるように、縫うペースを上げた。
「どうでしょう」
六時直前。テーブルセンターを奈緒ちゃんに向けて広げて見せた。
「すごい。綺麗」
「そうです?」
「ふふ…。うん」
奈緒ちゃんはテーブルセンターの端を手に取り、ポプラの木のシルエットのようなパターンを見ながら楽しそうにうなずいた。
「大沢、やっぱり上手よね。ありがとう」
「どういたしまして。でも何とかなってるのはこれだけ。この課題だけだよ」
「そんな事ない。大沢にお願いして良かった」
「いえいえ」
奈緒ちゃんは知らない。本当にそうなのだ。あたしは手芸は大の苦手なのに、何故かこの課題だけはやる気になって何とか出来てしまっただけだった。もしかして全てが出来ていると思われてたら困る。
「片付けようか。帰ろう」
「そうね」
答えた奈緒ちゃんはテーブルセンターを手早く畳み、紺色の補助バッグに仕舞った。
電灯を消してみると、あたしの好きな雰囲気はずいぶん暮れて暗さを増していた。
廊下の窓から見える空の色はまだ仄かに明るい。引き換え、あたしたちが歩いている廊下が、この季節この時間の無灯の屋内であるという以上に暗く感じられるのは、両脇は黒の、中央部は灰色の御影石張りだからかもしれない。
体育館の方から剣道部の人たちの掛け声と竹刀を打ち合わせる音が響いてくる。ずっと響いていたはずの音なのに今初めて聞いたような気がする。
前庭に出るとそこは残光を遮るものがない分、屋内よりは明るかった。奈緒ちゃんと取り留めのない事を喋りながら正門を出る。すぐ左に曲がると、目の前と言ってもいい場所にカトリックの白い教会がある。あたしたちが通っているカトリック系の女子高と関係があるところかどうか分からない。今まで一度も足を踏み入れた事はない。
「じゃあここで。また明日」
「うん。今日はありがとう」
「いえいえ。気を付けて帰ってね」
教会の前でお互いに手を振った別れ際、奈緒ちゃんが提げている頑丈そうな小ぶりの銀色の紙バッグが、行き交う車のライトを映してきらめいた。もうやがて真暗くなる。
奈緒ちゃんの、いつもはないその手荷物は、あたしにとってはあの事件の象徴みたいなものだった。
あの事件。――あんな事件であるだけに思い出したくない。あんな事件である上にまだ終わったことでもない。思い出したくなくともまだ忘れられる時ではないのだった。
始まりは昨日の朝。クラスメートの殆どが教室に揃った頃だった。
「村崎!お前、間違えんなよ!」
水口さんの怒鳴り声が室内のさざめきを圧して響いた。奈緒ちゃんとあたしはお喋りを止め、他の人たち同様、彼女に目を向けた。
水口さんが睨みつける先に村崎さんが立ちすくんでいた。登校して教室に入ったところを水口さんに怒鳴りつけられたのだった。
水口さんの横で高浜さんが困ったように見ていた。予想外の事をされてしまったような戸惑った様子だった。
「謝れよ」
「…どうして水口さんがそんな事言うの」
「はぁ?」
「関係ないでしょ。水口さん」
村崎さんのしっかりした受け答えにあたしは感心した。立ち竦んでいたのが嘘みたいだ。彼女は気の弱そうな外見とは裏腹に結構気が強い。普段からそれで反感を買ってしまってる部分もある。この時は水口さんをヒートアップさせてしまった。
「いいから謝れって言ってるだろうがぁ!」
怒鳴るだけで済んでいるのが奇跡のような感じだった。
「お前の勘違いのせいで、彩ちゃんたちがどれだけ迷惑したか分かってんの!?お前が誘われるわけないって、どうして分からない!?分からないとは思うけど!」
ヒートアップする直前、水口さんは一瞬言葉に詰まった。あたしにはそう見えた。それにしても、分からないとは思うけどって、酷過ぎる。
「ねえ、彩ちゃん。迷惑だったねー」
打って変わった猫撫で声で言い、水口さんは高浜さんを振り向いた。高浜さんは笑顔の一歩前のような表情をして、うなずきの一歩前のような仕草をした。そうする以外どうしようもなかったのかもしれない。それは水口さんを大満足させたらしい。彼女は嬉しそうに、今度は奈緒ちゃんに叫んだ。
「ねえ!松岡さんも迷惑だったよね!」
この頃には、あたしは水口さんの言動が空恐しくなってきていた。暴走しているようにしか見えなかった。何があったか知らないけれど、彼女をそうさせている何かには奈緒ちゃんも関わっている。
水口さんは明らかに奈緒ちゃんの同意を期待していた。そんな彼女に奈緒ちゃんが返したのは無表情だった。それは黙ってやり過ごそうとしているようにも、怒っているようにも見えた。水口さんの期待を打ち砕くには充分だったようだ。彼女は少し狼狽えたような顔をした。
「あー、うるさい」
隙を突いたように村崎さんが言った。自分の席に進みながら更に二言三言、何か呟いた。水口さんは唇を噛み締めるように歪め、敵意に満ちた目で村崎さんを追った。その後席に戻り、周囲の人たちとヒソヒソ話を始めた。
一時間目の授業が終わった頃には、結構な数のクラスメートに朝の一件の原因が知れ渡っていた。それは彼女たちが村崎さんに向ける目と、空気感で分かるのだった。表立った動きはなくとも深々と突き刺さる針のような敵意。その対象ではないあたしでさえクラスの居心地が悪かった。状況が悪化、長期化するならどうにかしないといけない。そう思った。奈緒ちゃんと高浜さんが状況を見て見ぬ振りしているようなのも、人の心理として仕方ない事なのかもしれないけれど、勝手ながら、何があったにしても当事者としてもうちょっと何かないのかな、だった。
村崎さんは黙って耐えていた。あたしはその姿を見るにつけ、何があったにせよ本当は今すぐどうにかしないといけないのだと言われている気がした。それでも、彼女が自ら命を絶つような最悪の事態にはならない気もしたのはなぜだろう。
――今日、村崎さんは欠席した。水口さんたちはどう思ったのか分からない。あたしはまだ引っ込んでいた。体調不良により欠席という話だったけれど、本当の理由は昨日の事だろう。そのぐらいダメージを受けたのだ。でもそれならあたしが出て行かなくても今後動きがあるかもしれない。悪化したと言える事態だけど、欠席している以上村崎さんが脅かされる事はない。彼女のお母さん…村崎さんの家は母子家庭だと聞いていた…も村崎さんから何か聞いているんじゃないだろうか。もう少し待ってみよう。そう考えたのだった。
「ねえ、大沢」
奈緒ちゃんから話しかけられたのは、二時間目の休み時間だった。
「はぁい?」
「手芸の課題、もう終わってたよね?」
「うん。一応」
早く終わってどうしよう、と解放感いっぱいで思っていたら先生が別の手芸材料を持ってきて下さった。今はそれをやって時間つぶししている。先生に感謝するべき事なのはそうなのだけど、こんな事ならゆっくりやれば良かった。心配しなくても次回からはきっとゆっくりだ。いや今回以前は、すでに。
「もう提出しちゃった?」
「ううん。まだ」
あんまり早く預っても失くしたり汚したりしたら大変だから、と先生からのご意見だった。早いのもいろんな意味で考えものだ。
「…見せてもらえない?」
「え?」
「持って来てない?」
「いや、置いてる。見たい?」
「うん」
机の中から紙袋を取り出し、中身のテーブルセンターを奈緒ちゃんに渡した。彼女は膝の上でテーブルセンターを広げて静かに見つめた。本当に静かに。それは一分にも満たないぐらいの時間だったかもしれないのだけど、それでも彼女があんまりにも無言だったからあたしは心配になってきた。
「あたしの、手伝ってくれない?」
奈緒ちゃんは顔を上げると同時にそう言った。あたしはすぐには返事出来なかった。そう言われるとは思っていなかった。
「あたし、あんまり進んでなくて。期限に間に合うか心配なの。手伝ってもらえたら助かる」
そうなの?とはあたしは言わなかった。
「…良いよ」
「本当?ありがとう」
「いつ手伝えば良い?」
「今日の放課後、大丈夫?」
「大丈夫」
「良かった。お礼するね」
「良いよ、そんなの」
「駄目よ」
あたしが奈緒ちゃんに抱いた違和感は、会話していても消えなかった。
――あんな状況があって、昨日の今日で、村崎さん休んでて、しかも自分が関係してるのに、それ言える?
――そんなに進んでないの?真面目にやってるように見えたのに?
しかしあたしにとってそれらは断る理由にはならなかった。
誰かがあたしたちの傍らでスッと立ち止まった。見上げると高浜さんだった。
「お話し中にごめんね」
彼女はあたしと奈緒ちゃんを交互に見た。
「奈緒美。石原先生が、正面玄関まで来て下さいって」
奈緒ちゃんがサッと顔を曇らせた。
「……あたしだけ?」
「ううん。あたしも、森尾ちゃんも。早く」
足早に行った高浜さんを、奈緒ちゃんは慌て気味に追った。ドアの前では森尾さんが不安そうな面持ちで二人を待っていた。
合流して出て行く三人を水口さんがじっと見つめていた。
動きあり。
森尾さんも関わってるんだ。
三人は五分もしないうちに戻ってきた。それぞれが手に銀色の小振りな紙バッグを提げていた。
「彩ちゃん」水口さんが身を乗り出して呼び、紙バッグを指さした。「村崎?」
高浜さんは紙バッグを隠すようにちょっと身をよじり、困ったように微笑んだ。その後ろを森尾さんが通り過ぎた。奈緒ちゃんは無言で席に着いた。
チャイムはとっくに鳴っていた。皆、席に着いていた。なのに先生がなかなか現れず、教室は次第に私語で満ちていった。
あたしはこのまま静かにしておこうかなと思った。でもこの時、そうする事は結局出来なかった。
「奈緒ちゃん」
椅子ごとにじり寄った。
「どうしたの?」
「うん。今頃聞くのも何だけど…」
「…何?」
「答えたくなければ、答えてくれなくて良いんだけど…」
「…うん?」
「村崎さんと何があったの?」
詮索するつもりや噂の種にするつもりはなかった。やはり本当の事を知ってる第三者がいた方が良いかもしれないという、なぜそういう第三者が必要だと思ったのか自分でも分からない、余計かもしれない気回しからの問いだった。
「…それね……」
そう呟いた奈緒ちゃんから次の言葉はなかなか聞けなかった。あたしはいよいよ申し訳なくなってきて、いや良いよごめん。で終わらせようと思ったら。
「先週の、土曜日ね」
「うん」
「三人で、W市に遊びに行く約束してたの」
隣県の都市に。
「でもその日、駅で待ち合わせしてたら、村崎さんがお母さんと一緒に来たの」
「奈緒ちゃんたちの所に来たって事?」
「そう」
「何で?」
「あたしたちも訳分からなかったんだけど、お母さんの前で何も言えないじゃない」
「そうだね」
「お母さんはあたしたちに、よろしくお願いしますって村崎さん置いて、お帰りになったの。その後彩ちゃんが、どうして来ちゃったのかな?って村崎さんに訊いたら、高浜さんが誘ってくれたでしょ、って」
「どう言う事?」
「彩ちゃんは村崎さんを誘ってない」
「それは分かる」
「だけど考えてみたら、彩ちゃんがその話をあたしと有希(奈緒ちゃんは森尾ちゃんとは呼ばない)に持ってきた時、例によって村崎さんが近くにいたのね。もしかしたら、自分も声掛けられたって、誤解させてしまったのかも」
「かも知れないね…」
だから水口さんは昨日ああ言う事を言った?
奈緒ちゃんの読み通りであるならあたしも納得出来る気がした。村崎さんは知的障害を持っている。まさかの勘違いをしたとしても無理はない(もちろん障害があろうと健常であろうと、勘違いはする)。更に彼女は校内に友人と呼べる相手を一人も持っていない。ただどう言う考えなのか、奈緒ちゃんたちを友人に見立てているのか、微妙にくっついている時がある。奈緒ちゃんたちは穏やかだから、そう言う時追い払ったり避けたりはせず、影であるかのようにそっとしておいてくれているのだった。まさにそう言う時に、タイミングや条件が重なって誤解が生じてしまったのだろう。
あたしは入学した頃から村崎さんに対して、どう言う訳でこの学校に来たのだろうと思っていた。他の、彼女の障害に対応出来る体制が整っている学校ではいけなかったのだろうか。恐らく彼女のと言うよりは彼女のお母さんの判断だったのだろう、と勝手に思っている。この学校もミッションスクールと言う体質上、もしかしたら福祉的な入学枠もあるのかも知れない。
「で、その日は村崎さんも連れて行ったの?」
「うん…。どうしようもなくて」
「良い事したと思うよ」
本当に、そこは。
「でも高浜さんが、その事を水口さんに話してしまった?」
「そうだと思う」
奈緒ちゃんと森尾さんは、水口さんとは殆ど親交がない。
「そうだとしたら、そこは黙ってなきゃいけなかったよ。高浜さん」
あたしの言葉に奈緒ちゃんは困ったような笑みを見せた。さっきの高浜さんと同種の笑みだった。
事情を聞けば、発端となった事柄については誰も悪くない。村崎さんだって、勘違いしてしまったのだとしたらそこは三人には謝った方が良いにしても、勘違いしたくてしたわけではない。更には彼女が言った通り水口さんは関係ない。三人に謝っていなかったとしても、水口さんが怒鳴りつける必要はないだろう。まして言いふらしてネチネチ吊し上げるなんて以ての外だ。それに多分だけど、事後の高浜さんの行動もどうだろう。本当に彼女が話したのなら、彼女も普段は村崎さんに親切な方だし、悪気で話したのではないと思う。多分愚痴をこぼさせてもらったぐらいの感覚だったのだろう。けれど水口さんの村崎さんに対する普段から辛辣な態度を思えば、話したりしたらどんな事になるか想像出来なかったのだろうか。水口さんみたいな筋違いの正義感も傍迷惑だけど。
教室のドアが、ガラリと開かれた。
「お話、ありがとう」
あたしは奈緒ちゃんに言い、椅子と一緒に席に戻った。
入ってきたのはクラス担任の石原先生だった。彼女は欠席していたはずの村崎さんを伴っていた。古典の時間なのに教科担任の間宮先生は現れなかった。
村崎さんは石原先生に促されて席に着いた。
あたしたち生徒は息を殺した、そうしてしまうぐらい静かだった。
石原先生も教卓の向こうで黙っていた。彼女が着ているカーディガンは鮮やかなロイヤルブルーだ。穿いている膝丈のフレアスカートは黒地に白い影抜きの花模様がプリントされている。肩に付くか付かないかぐらいの長さの髪はバレッタでハーフアップにしている。顔立ちと性格はキリッとしているが装いはいつもフェミニンなのだった。
「よろしいですか」
石原先生が良く通る声で沈黙を破った。
「突然すみません。本来でしたら間宮先生の授業なのですが、その前に、私からあなたたちにお話したい事がありまして、申し訳ないのですがお時間をいただきました」
少し閉め損なっているドアに気付いて見ると、その隙間から見える廊下に間宮先生と、もう一人誰かが佇んでいた。
「実は先程、村崎さんのお母様から、今このクラスで起こっているトラブルについて御相談をいただきました。お母様と致しましては、皆さんさえよろしければお話をさせていただきたい、とお思いでいらっしゃいます。あなたたちはどうです?お話、聞かせていただきますか?」
そう訊かれても皆当然のように黙っていた。皆それぞれ思う事はあったとしても、この場合の沈黙は同意としか受け取られない。そしてあたしは決して聞きたくないわけではなかった。
「よろしいようですね。では、」
石原先生はお母さんを招き入れた。お母さんは目のぱっちりした小柄な美人だった。クラス中が微かに息を呑んだ。あたしたちの親世代なら平均的には四十代前半だろうけれど、その人はもっと若そうだった。三十八歳の石原先生よりも若いかも知れない。
「初めてお目にかかります。村崎沙和の母でございます」
お母さんは深々と頭を下げた。
「本日は私の勝手なお願いでこのような場を設けていただく事となり、皆様には大変申し訳なく存じます。今回皆様をお騒がせさせております事につきましても、娘が御迷惑をおかけしております事、親として心苦しく申し訳なく思っております」
謝って欲しくない。こちらこそ心苦しい。お母さんは憔悴していた。あたしたちがそう言う思いをさせてしまっている。村崎さんは今どう言う思いでいるのだろう。あたしのずっと斜め前の席にいる彼女は背中を丸めて、顎を上げ過ぎるぐらい上げてお母さんを見ていた。彼女の胸中もそれとして姿勢の方も気になった。
お母さんのお話は、聞いているうちに申し訳ないけど飽きてきた。
「娘が御迷惑はおかけしてしまうにしても、悪気があっての事ではありません」とか、「今回の事にしても、娘は付き合って下さって嬉しかったと思います」とか、「せっかく受け入れていただいた学校で、皆様に支えられて日々を過ごす事が出来れば、親として言う事はございません」とか、どれもこれも痛いほど切実な声だった。そう感じる一方で、期待外れだと言う思いもあった。切実な声はそれとしても、村崎さんが何故障害を持って生まれてきたのか、どうしてこの学校に入る事になったのかを聞きたかった。どうしてそう言う話を期待したのだろう。そう言う話をする脈絡はない。そう言う話をまさかこう言う場で他人に聞かせるはずもない。ましてや障害の原因なんか不明かも知れない。分かっているのに勝手に酷い期待をしてしまった。どうしてそう言う話を聞きたいのだろう。好悪の感情とは別にあるただ純粋な興味かも知れない。今更だけどあたしは結構アホで人でなしだ。
お母さんは話し終えるとハンカチを目の下にそっと当てた。
室内は、しんとしていた。
「…以上で、よろしいですか?」
と訊いた石原先生にお母さんは頷いた。
「それでは、あなたたちからお母様に、お話したい事はありませんか?」
村崎さんがサッと手を挙げた。
「どうぞ」
石原先生に優しく促されて、村崎さんは何かを言った。その声は弱くてあたしの所には殆ど届かなかった。
「沙和ちゃん」お母さんが言った。「それは良いの。それはもう、終わった事」
「あいつ何て言った?」
矢原さんがあたしを振り向いて小声で言った。彼女はあたしのすぐ前の席にいる。
「さあ?良く聞こえなかった」
「そこの二人。何かあるの?」
石原先生が見逃すはずはなかった。
「何もありません」
矢原さんは向き直りながら答えた。
「大沢さんは?」
「何もありません」
石原先生は少しの間矢原さんとあたしを見つめた。あたしも、きっと矢原さんも、そわそわした。
「皆、何もないようですね」
石原先生はお母さんに顔を向けた。
「それでは御都合もおありでしょうし、お母様はこれでお引き取りいただいて結構です。本日はお忙しいところ、お時間を割いていただいて、貴重なお話をして下さってありがとうございました」
頭を下げ合う石原先生とお母さんの姿は、大人社会を感じさせた。
「あなたたちからも、お礼を申し上げて下さい」
「…起立」
石原先生から目で合図されて、級長である高浜さんが号令をかけた。
「ありがとうございました」
頭を下げながら、思った。感謝もだけど謝罪もしなくちゃいけないんじゃないか、あたしは特に。と。でも思っただけだった。
石原先生がお母さんを送ろうとドアに向かったところで、間宮先生が教室に顔を覗かせて言った。
「私が下までお送りします」
「よろしいですか?お願いしても」
「はい。先生は、まだ…」
間宮先生は声のトーンを急に落とした。その先は聞き取れなかった。彼女にお母さんを託した石原先生は、最初みたいに黙って教卓の向こうに佇んで、二人が遠ざかるのを待っていた。…やがて、お母さんがいた時とは段違いに厳しい表情と声で言った。
「あなたたちには、まだもう少しお話したい事があります。本来でしたら、あなたたちはまず謝罪をしなければいけないところですし、私もそうさせるつもりでした。なのにさせなかった。何故だと思います?」
そう言って石原先生は少しの間沈黙した。あたしたちに考えさせようとしたのかも知れない。
答えさせはせず石原先生は続けた。
「お母様が大変恐縮なさって、そこまではさせないでいただきたいと仰って下さったからです。今回の事だけでなく、他にも色々御迷惑をおかけしているでしょうから、と。お母様に、そんなにも肩身の狭い思いをさせてしまっております事を、私は申し訳なく思います」
石原先生の考えとあたしの考えは、どことなく一致している気がする。もちろん普通に考えれば誰もが同じ考えに辿り着くと思う。もともとはちょっとの勘違いで済んだはずの事を、関係ない人がわざわざ引っ掻き回して周囲も同調してこう言う大事にしてしまっている所が、何か恥だし、もういかん気がする。
「ですが、」
石原先生が言った。
「そうと伺って考えてみれば、村崎さんに関しては、あなたたちも今まで色々と納得のいかない事があるのでしょうし、形だけ謝らせても意味がないと思いました。ですので、あなたたちの言い分も聞きたいと思います。明日の放課後から、出席番号順にまず五名ずつ、聞き取りをします。言いたい事がある人は整理しておいて下さい。…これは、こちらへ来る前に、校長先生やお手透きの先生方とも話し合って、そうした方が今後の為にも良いだろうと言う事で決定しました。言わば学校側からの、あなたたちへの処分です。自分は関係ないのに、と思う人もいるかと思います。ですが昨日その場にいた時点で、そしてこのクラスの人間である時点で、関係者なんです」
……ですね。
「何より」
石原先生の声が一段強くなった。
「私が情けなく思うのは、あなたたちの誰一人として、今回の事を私に報告しなかった事です。私は昨日の時点で知りたかった。聞けば誰の目にも明らかなトラブルだったと思いますよ。お母様が御相談にいらっしゃったから良かったものの、そうでなかったなら、ずっと隠しておくつもりだったんですか?村崎さんだから良いと思ったんですか?そうだとしたら、そう言う人間の事を何と言うか分かります?」
卑怯者。小心者。臆病者。あたしの場合は、それに加えて人でなし。報告しなかった理由?恐らく村崎さんだからと言う理由もあるでしょうし、何よりそんな深刻な事だなんて解る人間が恐らくはいなさ過ぎたからじゃないですか?それと恐らく関わる勇気がなかったからじゃないですか?そんな勇気はないと思います。あたしだってそんなのない。保身も大事です。誰かがやってくれるならそうして欲しいですよ。それが無理なら、勇気がないなりに自分でどうにかしないと仕方ないけど。でも確かに報告は早い方が良いですね。反省します。
「…分かりますか?分からない人は、良く考えて下さい。ひとまず、私からは以上です」
厳しさは崩さないまま石原先生は出て行った。戻ってきて廊下で待機していたらしい間宮先生と話す声が漏れてきた。授業時間は残り少ない。それでも古典の授業はあるのだろうか。
間宮先生が現れた。ちょっと眠たそうなふっくらした顔と、おすべらかしみたいに緩く一つに結んだ髪型が平安の雰囲気を醸し出している。二十九歳だと聞いた。
間宮先生は教卓の向こうに立つと、
「号令」
高浜さんにピシャリと命じた。
それからの授業は本当にあっと言う間に終わった。
休み時間、あたしは奈緒ちゃんに訊いてみた。
「放課後、大丈夫?気持ち的に」
奈緒ちゃんの返事は、
「大沢が大丈夫なら、お願い」
だった。
奈緒ちゃんはあんまりダメージを受けてないか、本当に切羽詰まっているのかも知れない。それとも敢えて何もなかったようにしていたい?
ここでも色々思ったものの、あたしにとってそれらはやはり断る理由にはならず、また、あたしも村崎さんやお母さんほどのダメージは受けていなかった。
「分かった。あたしも大丈夫」
と答えた。
今日は午後から雨と天気予報で言っていた。予報は外れず午後から結構本降りだ。朝は、予報が嘘であるかのように晴れていたのに。信じて傘を持って行ってて良かった。それでも濡れたスカートの裾やブレザーの袖口をタオルで軽く叩いた。
自分の部屋に入ると、よりひんやりと感じた。あと三日で十一月。今みたいに雨降りの夕方ともなるとそれなりに肌寒い。この部屋は北向きだから尚更だ。
『ちいさい秋みつけた』の二番の歌詞の歌い出しを不意に思い出した。思い出しただけなのに何故か気持ちが胸の奥に入り込んで、あたしに次の行動に移る事を一時止めさせた。辛うじてのように鞄は床に置いた。腰高の本棚に寄り掛かり、雨音を聴きながら窓を眺めた。
このマンションに越してくる前。あたしが小学校四年生の頃。当時我が家には一冊の童謡集があった。その頃親戚の一人が贈ってくれたものだった。その中に収められた一編が『ちいさい秋みつけた』だった。それまでは一番の歌詞しか知らなかったあたしは初めて二番三番の歌詞を読み、その素晴らしさに酔ってしまった。一番の歌詞よりもずっと好きだった。こう言う詞を書くのはどんな名前の人なのだろう。と初めて作詞者に興味を持って期待してその名前を見たらサトウハチローと言う名前で、何だ…。とちょっと失望した。もっとかっこいい名前と思っていたのに。失礼過ぎるのは分かっている。あたしが勝手に期待し過ぎたのだ。十六歳になっている今は、サトウハチローがすごい人だったと言う知識はある。
童謡集は、頂き物ではあるがとっくに処分してしまった。
それにしてもこの歌詞、まるで今いるこの部屋を予言したみたいだ。この部屋は北向きであるのに加えて窓は網入りの曇りガラスなのだから。
外から話し声が聞こえ、窓の向こうを二つの人影が通り過ぎた。この部屋は通路側でもある。声の主はこの家の人間だ。あたしは本棚からパッと離れてブレザーのボタンを外しながらクローゼットに近付いた。
「ただいまー」
紗穂の声が玄関から聞こえた。続けて聞こえた照美の「ただいま」にあたしの「お帰り」が被さった。
気持ちの底の、嫌な淀みを感じた。机に向かって、置きっ放しだった文庫本を開いてもなかなか消えなかった。読むのを中断して、本に挟んでいた栞を持って眺めた。ステンレス製の良くあるお土産品だ。手の中にすっぽり収まる長方形の中に、ステンドグラスで幾つかの絵柄が描かれている。その中でも目立つのが日本海軍の桜と錨のマーク、操舵輪、そして戦艦大和だった。あまり人に言った事はないけれど、あたしは小学校五年生の夏に、ある映画を地上波で観て以来、日本海軍スキーなのである。と言っても今や映画の内容はうろ覚えだし海軍知識はごく僅かだ。何か訊かれてベラベラ答えられるほどディープではない。
ノックが聞こえた。更に声が続いた。
「入りますよー。良いですかー」
「良いですよー」
返事しながら栞を挟み直した。
「お邪魔しまーす」
紗穂が猫のようにスルッと入ってきて、床に置いてる青いビーズクッションに腰を落ち着けた。白いマグカップを持っている。コーヒーの香りが漂ってきた。
紗穂は見た目が何となく水口さんに似ている。紗穂の方が色白で華奢だが、あたしと違って決して内気ではなさそうな顔立ちと、ショートボブが少し伸びたような髪型なんかが似ている。だからどうだと言うわけではない。ただ、似てるなあと言う話である。
「いらっしゃい。どうだった?」
三者面談は。
「商高に決めた。希望通り」
紗穂は答えて、マグカップを唇に寄せた。マグカップの中身はブラックに見えるけど、紗穂の場合砂糖はたっぷり入ってる。
「揉めなかった?照美と」
「大丈夫。あの人、ああ言う時は理解あるお母さんでいる」
「だよね。あたしの時もそうだったもん」
「面談終わってからは、何となく感じ取れるものがあったけど」
「分かる。他人の目がなくなったら出てくるものがね」
自分の思い通りにならなかった憤懣だの、鬱屈だの。
「うんうん」と紗穂はちょっと苦笑して頷いた。
「滑り止めは花郁姉さんの学校にしたから。制服地味だけど」
「地味で良いんです」
何の飾りも柄もないただのグレーの上下なんて、着る人を選ばないから良いじゃない。とはあらぬ誤解をさせそうで妹相手でも言えなかった。
「そろそろ何か新しいのある?」
本棚を覗いて紗穂が言った。
あたしは一昨日買ったコミックのタイトルを答えた。
「えー、読みたい。どこ?」
「上から二段目」
「…あったー」
並べている本の列の中に、紗穂が抜き出した上中下巻分の空洞が出来た。
「去年か一昨年か映画になったんだっけ?これ」
「うん。映画も観たかったんだけどね。気付くのが遅かった」
「これ最初は本当に大都会のニッチな所でしかやってなかったもんね。それがじわじわ話題になっちゃって、今度長尺版を撮る事になったんだよ」
「なったんだっけ?と言った割に詳しくない?紗穂さん」
「本当だね。何でかな」
二人してハハハと小さく笑った。
「こっちでは、ほとんど話題になってなかったのにね」
「でもコミックは辛うじてのように、ワンセットだけ本屋さんにあったのよ…」
「良くあったね…」
「本屋さんだし、アンテナ張って押さえてたんだと思うよ…」
「さすがね…」
「それ目当てで本屋さん行ったんじゃなかったんだけどね。あたしは割とそう言う巡り逢いの運はあって」
「ああそう…」
紗穂の関心はコミックに移りつつあった。
あたしも黙って文庫本を開いた。
激しくなったり弱まったりを繰り返していた雨も今朝は上がっていた。空はまだどんよりしている。あたしの気分は冴えない。大体朝のこの時間はまだ調子が上がらない。軽く溜息をついて、マンションのアプローチからまだまだ乾き切れていない舗道に出ると、少しだけ雲が割れて、ほんの束の間陽が射した。束の間の陽光を浴びるとあたしの気分は少し救われる。曇り空の朝はこう言う事がたまにある。その度にあたしは、光合成と思って少し可笑しくなるのだった。
最初の交差点で信号待ちしていると、見覚えのある人物を助手席に乗せた見覚えのある黒いクラウンが走っていった。奈緒ちゃんの家の車だ。彼女は行きだけお父さんに車で送ってもらっている。タイミングが合った朝はあたしと正門で落ち合うけれど、今日はもう無理だ。
あたしが教室に入った時奈緒ちゃんはとっくに席に落ち着いていた。彼女と優雅に朝の挨拶を交わし、穏やかなひと時を過ご…
「もう、やだぁー」
息を呑んだ気配を伴った声が前の方から聞こえた。見ると声の主が鞄を抱えて今まさにこちらに歩いてきていた。村上凛子。黒髪だけど赤毛のアンみたいに麦わら帽子が似合いそうな小柄で素朴な感じの子だ。
「ねえねえー」
と、あたしたちに呼び掛けて立ち止まった。あたしは凜ちゃんの抱える鞄の理由が分からないまま返事した。
「なあに?」
「鞄の中、ゴキブリがいるー」
「え!」
鞄のバックルは外されていて蓋がカパカパしている。
奈緒ちゃんが、見るのも嫌と言うように少し身を引いた。ちょっと細めた目と固く結んだ唇が嫌悪感を物語っていた。
嫌悪感はあたしも同じだ。でも何でこっちに持ってくる。何とかして欲しいからだろう。では何とかしなければ。あたしは凜ちゃんに訊いた。
「どこら辺にいるの?」
「ここ」
凜ちゃんは鞄の底の角の辺りを指した。
「底か…。ちょっと見せてもらいます」
あたしが言うと凜ちゃんは気を回してくれたのか、迷わずサッと鞄を開けた。やめてー!と言うあたしの心の叫びはどうやら聞こえなかったようだ。彼女はそう言うところ思い切りが良い。ゴキさんが飛び出してこなくて良かった。
中を覗いてみると、空っぽの鞄の底に…
「…いるね」
「どうしよう」
困って呟く凜ちゃんの向こうに彼女の机が見えた。そこには鞄から全て出したのだろう教科書やペンケースが積まれていた。良く出せたな。
「これなら何とかなる。ちょっと借りるね」
鞄を受け取って窓辺に行った。カラリと開けて鞄を外に突き出し、逆さにブンブン振って底のゴキさんを一階の白いコンクリートの庇の上に落とした。
「それ以上大きくなって戻って来なくて良いからね」
呟いて窓をピシャッと閉めた。振り向くと、今いるクラスメートのほとんどから注目されていた。あんまり気分の良い類のそれではない。何してんの?あの人。そんな感じだ。素知らぬ顔をして凜ちゃんに鞄を返した。
「何とかなったよ」
「ありがとうー。良かったー」
「鞄、アルコールで拭いた方が良いかも」
「保健室にあるかなぁ」
「あると思うよ」
「行ってみる。お世話になりましたー」
「どういた…」
しまして。とあたしが言い終わる前に凜ちゃんは鞄を持ってパタパタと出て行った。保健室、もう開いているなら良いけど。
あたしはハァと溜息をついた。
「この時間、優雅に穏やかに過ごしたかったんだけどね…」
「ふふ…」
奈緒ちゃんは笑ったけれど、あたしはあんまり笑える気分じゃなかった。考えてみれば たかが虫一匹なのにこのダメージ何だろう。
「手、洗ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
手を洗って教室に戻るとさっきより更に人が増えていた。今が登校ラッシュだ。
村崎さんも来ている。
お母さんがいらっしゃった日から、数えてみれば八日経つ。学校側からの処分は効を奏した。村崎さんは既に渦中の人ではなくそっとしておかれる存在になっている。全員が反省して態度を改めたわけではなく、大方は、この人に関わったら面倒な事になるから触れないでおこうと決めたからだと思う。そうだとしたら大方の人たちは、自分たちで勝手に関わって勝手に面倒な事にしてしまったと気付いているのかどうか、村崎さんだけでなくお母さんをも傷付けた事を理解しているのかいないのか、実は皆ちゃんと気付いているし理解しているのだとしても傍目からは分からない。
あたしも偉そうな事は言えない。村崎さんに謝る事だって、あたしはそんな良い人ではないし、確かに器がないから出来ないのだった。
「花郁ちゃんおはよう」
葉ちゃんがあたしの横を通りすがりに言った。
「あ、おは…」
「おはよう」
葉ちゃんと一緒に来た理乃ちゃんからも畳みかけるように言われて、あたしの返事は慌てふためいた。
八日経つ。あたしと葉ちゃんが実際に処分を受けてからなら六日経つ。あの時石原先生に自分の言い分を立派に言ってのけたのは、葉ちゃんだった。
音楽の教師である石原先生にとって、音楽室はテリトリーと言って良い。あたしたちはグランドピアノを背にして順不同で横一列に並んでいた。
「言いたい事を聞かせて下さい」
石原先生が促した。
「…では、言わせていただきます」
葉ちゃんが徐に口を開いた。
「先生は、村崎さんだったら良いと思ったのかと仰いましたけれど、確かに、村崎さんだったら何かされても良いと言う事はありません。ですが、村崎さんだけを過度に庇わなければいけないと言う事もありませんよね」
ショートヘアに、縁なしの眼鏡が似合う理知的な顔。その印象を裏切らないスラスラと淀みの無い口調だった。
「例えばどう言う事ですか?」
石原先生が訊いた。
「行事の準備とか、掃除の時とか、係の仕事の時とか、村崎さんが自分の仕事をしてくれないせいで、周りに負担がかかる時があります。悪気はないとしても迷惑は迷惑です。簡単な仕事を割り振っているのに。それも難しいのか、たださぼっているだけなのか分からない。そう言う時に先生が、村崎さんには何も注意せずに、きちんとやってる私たちに、村崎さんをしっかりフォローしなさいと言うのはおかしいと思います。こっちはちゃんとしているのに叱られるなんて、訳が分からない」
「あなたたちへの配慮が足りなかったのは、申し訳なく思います」
石原先生は落ち着き払っていた。
「ですが、村崎さんへの注意や指導なら何度もしています。あなたたちが知らないだけです。ただ、村崎さんは本当に『子供』なの。注意や指導を理解して、自分の改善に繋げられるだけの器がない。でもそれは村崎さんのせいではないの。こちらが手探りで、工夫して、彼女に少しでも理解してもらえる方法を考えないといけない」
この時あたしは石原先生の言葉選びにイラッとした。
「私たちにそれをやれと言うんですか?」
葉ちゃんが鋭く言い放った。
「しなければいけないと思います。出来ない、したくないと言うのであれば、結局あなたたちも、村崎さんを受け容れられるだけの器がない。そこに気付きもしないばかりか、立場の弱い彼女を悪者にして責めるなんて、十六や十七にもなって未熟にも程がある」
仰る事は正しいと思いますし、あたしの考えとやっぱりどことなく一致している気もしますが、あたしたちが(と全員一緒くたにしたら駄目だけど)未熟で器がないとお分かりなのでしたら、村崎さんをフォローしろなんて求めないで下さい…。難しいと分かっていて敢えて求めているのかも知れないけれど。
器の備わってない人間たちが多い中に村崎さんみたいな人(この言い方も良くないかも)を迎え入れても、酷い目に遭わせてしまう可能性の方が高いと思う。けれども恐らく、恐らくだがお母さんが色々悩まれた末の選択は責められない。
「早い人は、あと一年半もすれば社会に出て行くんですよ」
石原先生の口調が葉ちゃんよりも鋭くなった。
「世の中の人間全てが自分たちと同じであるのが当たり前、と言う感覚でいてどうするんですか?本当に色んな人がいますよ。相手によって対応を考える必要が生じる場合もあるんです。今回の場合は、こちらが負わなければいけない。指導や注意はしているとは言え、村崎さんにあなたたちに合わせなさいと求める事は出来ない。してはいけない。それは目が不自由な人に物を見ろと言うのと同じ。暴力でしかない。確かに、彼女に合わせた指導法でも、効果が見えるまで時間はかかるにしても、そこを踏まえて根気強くやっていかないと、彼女の場合は本当に『子供』だから」
「知的障害でしょう?」
この突然の発言が、石原先生の流れるような弁舌を一時中断させた。
不服そうに石原先生を見つめていた葉ちゃんが、驚いた顔をあたしに向けた。
そう。発言者はあたしだった。
「余計な事は言わなくていい」
石原先生が言った。
「知的障害なら知的障害と言ったらどうですか」
「大沢さん?」
あたしは黙った。苛立ちは顔に出ていたと思う。石原先生が怒りを抑えているのが見て取れた。あたしを睨みつけていた。けれどそれも長くは続かなかった。
「……あなたたちはどうなの?」
ずっと黙っている三人に矛先が向いた。
「川田さんは?北原さんは?木野さんは?何もない事はないはずよ。どう?」
三人にとばっちり食らわせちゃったかな、あたし。
石原先生の事だから最初から三人にも訊くつもりだったかも知れない。
三人とも黙っていた。黙り続けた。ここでは何も言わないだろう。
「本当に何もないの?それならそうと答えられるはずでしょう?どうなの、川田さん」
「…ありません」
「北原さんと木野さんは?」
「ありません」
「何もないです」
「だったらもう二度と、今回の事について文句を言わないで」
川田さんが伏せていた目をちらりと上げた。石原先生と目が合うと焦ったようにまた伏せた。
「当たり前よね。言いたい事が何もないのなら、文句もないはず。後から陰で色々言うぐらいなら、今ここで言えばいい。機会は与えられているのだから。でも、言いたい事はないのよね」
三人に言うと石原先生は葉ちゃんに目を向けた。
「鹿島さんは?他にはない?」
「ありません」
意外にも葉ちゃんはそう答えた。
「納得はしていませんが、これ以上言い合っても平行線だと思います。結論が出せない」
「…私も今後、あなたたちに極力負担が掛からないよう、対策を考えます」
折り合った。
「そして、大沢さん」
来るような気がしていた。
「あなたはもっと言葉を考えなさい。子供と言う表現の何が気に入らなかったのか知りませんが、露骨な発言をすれば物事をどうにか出来ると思っているなら甘過ぎる。そう言う発言をする人に、言いたい事を言ってもらおうとは思いません」
「分かりました」
あたしは若干ふて腐れて答えた。あたしだってそもそもこの場で何か言うつもりはなく。おとなしく処分を受けるつもりだったのだ。怒れる立場にないけど。
石原先生は一瞬眉を顰めた。可愛くない生徒。と言う感情がつい出てしまったようだった。しかしもうお説教をする事はなくあたしたちを解散させた。
音楽室を後にして、川田さんたちを追い越してさっさと階段を降りるあたしに、葉ちゃんが追い付いてきて言った。
「どうなるかと思った」
葉ちゃんとあたしは背格好が似ている。いわゆる中肉中背だ。こうして並んで歩いていると、葉ちゃんが自分の影のように感じられて何だかおかしな気分にもなる。
「ハラハラさせてすみません」
「…まあ、花郁ちゃんが悪いとも思えないよ」
「…ありがと」
肯定してもらったらもらったで心地悪かった。
「でも先生がちゃんとしてくれて良かった」
葉ちゃんが階段を降り切って言った。
「それこそ、もう葉子たちがハラハラしなくて済むもん。これで取りあえず、何とかなると思う」
自分の事を「葉子」と言う所は、悪くはないけれど、彼女の理知的な印象を裏切っている。
あたしは頷いた。
「そうだね。そこはね」
あたしも葉ちゃんも、悪いけど村崎さんが決して好きではない。彼女から好かれているとも思っていない。けれどもそれはそれ、これはこれなのだった。
石原先生なら大丈夫と思っていた。ただあたしは中学二年の頃、ある新聞記事を読んだ事がある。学校において何らかのトラブルが起こった時に止めるどころか「もっとやれ」と煽ったり、まともな先生が解決に動こうとすると「余計な事するな」と脅してその先生をいじめたり、人事を握って飛ばしたり、かと思えば自分の事は碌に仕事しない癖に格上げさせたり、まあそう言った変な言動を取り変な圧力を掛ける変な教員がいると言う内容だった。今や石原先生には失礼極まりないが、ちょこっと…本当にちょこっと、まさかそんな変なのじゃないよねと心配していた部分もあたしにはあったのだ。
「でも葉子、村崎さんたちの間で何があったのか、詳しくは知らない」
確かにお母さんのお話だけでは分からない事が多かっただろう。葉ちゃんも、水口さん発で知れ渡った範囲外の人であるし。
「あたしも」
ごめん嘘ついた。でもこの嘘は許して欲しい。葉ちゃんなら話しても大丈夫だけど。あたし一人が黙ってても意味ないかも知れないけれど。奈緒ちゃんから口止めされてはいなかった。今更口止めしても意味ないと思ったからなのか、あたしを信用してくれたのかは分からない。
教室には意外にも結構な数のクラスメートが残っていた。窓際の席にいた理乃ちゃんが葉ちゃんに気付いて笑顔で手を振った。
「じゃ、花郁ちゃん。葉子はこれで」
「うん。バイバイ」
「バイバイ」
キィ…と言う軋みが外から聞こえた。風が出てきたのだ。前庭の掲揚台に掲げられた国旗と校旗が煽られるとたまにワイヤーが軋むのだった。
教室の後ろの方では川田さんが、彼女のグループの人たちと一緒に石原先生の事を何だかんだ言っていた。水口さんのグループの人たちも混じっていた。この二つのグループは今回の事では村崎さんを共通の敵として共同戦線を張っていた。でも今、水口さんの姿はない。
――だからいないと言うわけではないのだろうけれど、水口さんは、実は自分たちのグループの人たちからも川田さんたちからもあまり好かれてはいない。しかし当の水口さんはそう言う事に全く気付いていないと言うか、思ってもみないようなのだった。良くある内部事情である。
あたしはそんな事を思う一方で、さっきからずっと意識に燻ぶるものを感じていた。
――「子供」と言う表現にどうしてあんなに苛立ったのだろう?
答えは分かっていた。
これも新聞で読んだ事だけど、知的障害と言う言葉は、昔から使用されていたその状態を表す言葉が差別的であるからと言う理由で、それに代わって用いられるようになった表現であるそうだ。だったら別に使っても良いんじゃないかとあたしは思うのだけど、石原先生はそうしなかった。その表現を知らなかったわけではなさそうだ。知っていても使わなかったのは配慮なのだろう。絶対使わないといけない言葉でもない。でもあたしには、あんまり遠回しが過ぎると反って差別的と言うか、障害から目を逸らしているような気がした。そこまで忌避するべき言葉なわけ?そこまで忌避するなら新しい表現なんて意味ないよね?と思ったのだった。
使うにしても状況は考えないといけないのは分かる。差別や侮辱目的で知的障害と言う言葉を使っておいて「これは差別語じゃありませんから」と居直る人間もいるのかも知れない。そう言う人間は例え知的障害を他の表現に変えたとしてもその新しい表現を用いて差別や侮辱をやらかす。この場合は結局言葉ではなく、言葉を悪用する人間が悪い。
こう言う事を、一喝されても石原先生に反論した方が良かったのだろうか。それをやったら論点がズレてしまうから黙って正解だったかも知れない。石原先生なら「今そんな話はしてません!」と論点を戻すだろうから反論しても良かったかも知れない。…あの時は退却大事と思った。だから黙った。そして今、あんな事言わなきゃ良かったとは思えない。
あんまり突き詰めると表現の自由と言論の自由みたいな、あたしなんかの手に負えない領域に突き進んでしまう。ここまでにしよう。
――石原先生も大変だ。
あたしが言うな。
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