移ろう季節の端で

みつきようか

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移ろう季節の端で

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 11月         

 紗穂は今のところ勉強している。あたしは文庫本の続きを読んでいる。作中では戦艦三笠(どんな艦なの)にZ旗(四色の…とは書かれてるけど、どんな旗なの)が掲揚された。全八巻もあるこの長い小説は、親族に当たるある男性約一名から押し付けられたものだ。今年の夏休みにその男性宅を訪れた時、
「この小説は日本人なら絶対読まんといかん!」
 と強調され、
「だからあんたにやる」
 と本棚に入り切らず床に直置きされていた、しかもうっすら埃を被っているものを押し付けられたのである。男性が何をどう言おうと絶対に押し付けられたのだ。ちょうどその時男性の飼い猫が首輪の鈴をチリリンと鳴らしながらトットットと傍らを通り抜けると、
「こらチビ太郎!おかしい顔して!」
 と、男性が間髪入れずいちゃもんをつけた。猫も気の毒に。ああ、いらん事まで思い出してしまった。
 当の小説は、興味に負けて読み始めると面白かったから有難く押し付けられてきた。心理戦に負けた気もして少々悔しい。
  ――照美とお姉ちゃんの話し声が居間から聞こえる。土曜日の今日、お姉ちゃんが久々に実家に帰ってきていた。内容までは聞き取れない話し声に、時折テンションの高い笑い声が混じった。照美の声だ。
「はしゃいでるよねー」
 テーブルにシャープペンをコトンと置いて紗穂が言った。
「こっちは受験生なんだけどな」
 そう言う紗穂は、あたしと喋り、漫画を読み、時々勉強に戻ると言った具合なのだ。今日は自分の部屋で勉強する気がないらしい。まあそう言う日もある。
「紗穂ちゃん勉強中って言ってこようか」
「ううん、いい。そこまででもないし、言ったら後がうるさいから、言わなくていいよ」
 そうなのだ。照美が気を遣うのは、大企業に勤める夫を持つ国立大卒の専業主婦である自分と同等か、それ以上の立場にいる人間に対してだけである。世間の目は異常に気にするので外面は良くしているのだが隠し切れていない。多少人を見る目のある人物からすればどうしようもなさがバレバレなのだ。娘であるあたしたちには隠そうともしていない。今の場合だと、静かにしてくれと言われて一応静かにはするだろうが、程なく「そこまでうるさくしてないのに」だの「少し話が盛り上がっただけじゃない」だのグジャグジャした聞こえよがしの言い訳が照美の気が済むまで続く。お姉ちゃんもそう言う時は照美に同調する。
 それでもあたしは、紗穂の為に言った方が良いかなと思ったのだった。
「あたしたち姉妹皆、可哀想に…」
 つい呟いてしまった。あんなのが母親で。そう続けたかった。
千咲ちさ姉さんは違うでしょ」
 少し冷めた口調で紗穂が言った。
 あたしは壁の向こうを気にした。千咲お姉ちゃんと照美がいる、壁の向こうを。今ぐらいの大きさの声なら向こうには内容までは聞こえないだろう。
「そう思う?」
「思う。だって千咲姉さん、照美さんのお気に入りでしょ」
 気に入られたいかあ?あのババアから…と言う言葉をあたしは飲み込んだ。妹への教育的配慮である。
「それはそうなんだけど、お姉ちゃんはお姉ちゃんで色々苦労してたよ」
「嘘ぉ。どんな事?」
 …そうか。紗穂は知らないのか。
 同じ家で暮らしているのに、紗穂とあたしとでは見えているものが違うようだ。
「どんな事って、あたしたちがやられたのと同じ事。素直でいなさい=言いなりになってなさいって言う強烈な圧力があった」
「それあった?千咲姉さんに?」
「あったけど?」
 あたしももちろん全ては知らない。知っているのは自分に見えていた事だけだ。
 あたしも紗穂も今までの経験上、照美が娘たちにとんでもない理想像を求めている事は分かっている。明るく活発で素直で優秀で親思いで優しくて友達も多くて…と言う、注文が多過ぎる理想像を。照美あんたは自分の娘にそんな事求める資格無いよ?と言いたくなるのだが、照美はどうもその辺はすっ飛ばして、あたしたちにただただ理想を押し付ける。そして理想から少しでも外れた(と照美には見える)事をあたしたちがしたら照美は怒り狂うのだった。三人姉妹の中ではお姉ちゃんが照美の理想像に一番近い人間である事は、お姉ちゃんにとって幸なのか不幸なのか、幸でもあり不幸でもあるかも知れない。
「あったかなぁ…。信じられない」
 紗穂が首を傾げた。
「あんたに見える範囲内では、お姉ちゃんが波風立てる事がなかっただけだよ」
 お姉ちゃんは賢いから、色々思う事はあっても黙って言う事聞いてる方がこの家では一番平和に暮らしていけると分かっていたのだ。けれどもやはり色々思う事はあるから時折波風は立つ。
「じゃあ、花郁姉さんに見える範囲内ではあったの?」
「あったよ」
「どのような」
「あり過ぎてな。今思い出せるのは、お姉ちゃんが高校入って間もなかった頃…」
「…頃…?」
「夜だった。あたしとお姉ちゃんと照美とで、居間にいたんだよね。あたしは本か雑誌か読んでて、お姉ちゃんと照美は何か話してたわけ。何かはあたし聞いてなかったけど。そのうち、二人が穏やかじゃない雰囲気になってきたのが分かって、あたしが顔上げた時、お姉ちゃんが照美に、『そんなんだから子供が反発するんだ』って言ったんだよね」
「反発してたの?千咲姉さん」
「それまでもしてたのかな?あの人なりに」
 その辺り知らない。あの人高校に入ってからちょこちょこ反発するようになったのは知ってる。進学校だったからストレス増えたのかな。実はそんなに行きたくもない学校だったみたいだし。
「…まあともかく、言ったわけよ。別に叫んだわけでもなく普通の呟きで、たった一言だけ。そしたら照美が嘲りの表情で、『何が反発だ偉そうに』だの、『世間も知らない癖に一人前の口聞くな』だの、『経済的に自立してないうちは親の物』だのと他にも色々気が済むまで喚き散らしまして。お姉ちゃん涙ぐんだよ」
「それ…。そのパターン、あたしデジャ・ビュ」
 嫌そうに、紗穂が言った。
「あたしも」
 照美は娘から少しでも非難されると、それが正当な事であっても過剰反応して相手を徹底的に攻撃する。それが何故なのかは分かる。分からないのは子供を、その子供の経済的自立の如何によっては所有物として扱うのが当然、尊重しないのが当然と思っている事だ。人道上の問題と経済的自立の問題はそもそも別物と言うごく当たり前の事が、照美には理解する事が難しい。
「…でも、その時あたしが思ったのは、こいつお姉ちゃんが相手でも同じなんだって事。言いなりになってる間は良いけど、反発したら許さない」
 人格を認めていない。照美にとって娘は支配の対象なのだ。
「…紗穂ちゃんどうする?」
「何が?」
「もう一つ思い出したんだけど、聞ける?」
「うん」
 そうか。聞けるか。嫌になるかと思ったけど。
「もう面倒だから、これは状況説明省くけど、時期的にはさっきと同じ頃。お姉ちゃん多分、最初は某高あんまり好きじゃなかったらしいよ」
 この町においては、そこに行っていると言えば一目置かれる進学校を。
「そうなの?」
「泣きながら照美に、本当は商高に行きたかったって訴えてた」
「ほんとですか」
「ほんとです。でも照美は、『今更言うな、その時に言え』だの…この先は略させてもらいます。お察し下さーい」
「良く分かります…」
 わざとなのか渋面を作って、紗穂はうんうん頷いた。
「今更言うなと言われても、その時に言ったとしても絶対聞き入れなかったでしょ、照美さん」
「大体、その時に本当の希望を言えない環境に照美がしてしまってた」
 こう言う所を指摘すると、照美は絶対「そんな事ない。言えばちゃんと聞いてた。そんな風に思うあんたたちがおかしい」とか言うに違いない。全て人のせいにして自分の非は頑として認めない。それは何故なのか?――過剰反応の場合と同じだ。自分を守る為。責任逃れと、非の打ちどころのない素晴らしい私、と言う幻想を守り抜く為。
「ごく一部抜粋でこれだもんな。まだまだあるのが恐ろしい」
 照美も良い部分はあるのだが本人が築き上げたマイナスが大き過ぎて、せっかくのプラスが相殺どころか抹殺されてしまう。学業面はそれなりに優秀だったのは分かるが、ちょくちょくあった「私は頭良いから凡人と一緒にするな」アピールもえげつなさ過ぎた。そんなんだから過去のあたしは、例えば照美が「私の高校入試の成績は9番だった」と言えば「一学年9人しかいなかったんですね」とか「上に8人もいたんですね」と言ってしまってたし、今だって、そう言う事は言わなくなったにしても、あいつのやらかしに対して、照美にも考えがあるのだろうし一方的に悪者にしてしまうのは申し訳ない、とは思いたくないのだった。一方的に悪者にされてるのはむしろこっちだし。
 照美のマイナスを全て話したら何泊何日かかるのだろう。嫌だそんなツアー。
 壁の向こうは静かになっていた。お姉ちゃん、基本的には照美と仲が良いけれどいつまで保つのだろう。あいつの身勝手な要求に応え続けても気に入られても、多少当たりが柔らかくなるだけで特別甘やかしてもらえていたわけでもない。むしろ照美からは要求に従って当たり前としか思われてない。辛いと訴えても撥ねつけられる。力になってもらえず放置される。だけど問題そのものは残ったままだから死ぬ思いで自分で何とかするしかない。娘にそんな思いをさせておきながら照美は、何とか持ち堪えている娘を見て「私は突き放す事で、自分の問題に自分で対処する力を養う機会をこの子に与えてあげた」ぐらいにしか思っていない。普段は強気な事を言う割にいざとなったら何も出来ない自分を絶対に認めたくないのだった。
 しかもお姉ちゃんは、照美からあたしと比べて貶される事も多々あった(これは逆の場合もあった。紗穂とあたし、紗穂とお姉ちゃん、と言う場合も。その時の照美のイライラの矛先が誰に向いているかによって、比較と貶しの対象は変わる)。それでも我慢して良い娘であり続けている。でも我慢にも限界がある。小さな波ならもう何度も立ってる。いつか大きな反動が来そうで不安に思っているのはあたしだけなのだろうか。何もないならそれが良いのだけど。
「……照美さん、どうしても某高でないと嫌ってとこあるよね」
 紗穂が言った。
「中学に入った時、学校に出す書類の中に、志望校を書くのがなかった?」
 ――紗穂も、言いたいんだ。
「あった。親が書く奴でしょ?」
「うんそれなんだけど、照美さん、あたしに何も訊かずに、勝手に某高って書いたの」
「あんたも?」
「え、花郁姉さんも?」
「やられたよ!全く同じ事」
 紗穂もだったのか。そりゃあたしに見える範囲外だった。
 あたしは小学生の頃、大して勉強しなくても割と成績良かった。「小学校までは授業さえ聞いていれば何とかなる。中学校からはちゃんと勉強しなくちゃダメだけど」、と照美は小学校六年生だったあたしに言った。その理屈が正しいかどうかはともかく、当時のあたしは「あー、あたし絶対本ばっかり読んでそんなに勉強しないからダメだわ…」と思って気楽~に構えていたのだけど…。
「で、紗穂ちゃんはどうしたの?その書類」
「後で修正テープで消して、商高って書き直して出した」
 訂正印いらなかったのか。
「度胸あるねー」
「花郁姉さんは?」
「その場で、あたし商高行くって言ったら、」
「言ったんだ?」
「あー…。言ってたんだね。今思い出した」
 思い出してみれば、本当の希望を言えないような環境下でも言ってた事もあったな。希望だけではなく。
「まあ続けるけど、そう言ったらよ。『そんなとこ行って何になるの!』って怒鳴りつけられて。腹立ったけど面倒だし鬱陶しいしで、そのまま出したよ。出すだけはね」
 それまでも、希望を言っても通してもらえる事は滅多になかった。だから諦めて言わなくなっていた部分もあった。しかし進路先まで干渉と言うか強制されるとは思ってなかった。照美が求める「ちゃんとした道」にはお姉ちゃんが進んでくれるから、あたしは好きにしてても良いかなと思っていた。お姉ちゃんを人身御供みたいに思っていた部分もあったのである。その点はあたしも悪かったかなと思うから、もしもお姉ちゃんに大きな反動が来たなら負うべき所は負わないといけない。それで責任が果たせるかどうか分からないし、そもそもあたしが責任を感じる事ではないかも知れないけれど。
 それはともかく、あたしはいい加減腹を立てたわけだ。何で自分の希望を言っただけで怒鳴られなきゃいけない?怒鳴れば言いなりになると思いやがって。某高なんか絶対行かん。大体勉強嫌いだし。と。
 無論、某高に罪はない。きちんと勉強していても入れたかどうかは分からない。でも、ああ言う経緯がなかったとしても別に某高行きたくなかった。はっきりした理由はなかった。行ってみた場合を考えてみようとしてもビジョンが浮かばない。自分に嵌まらない。いや…、違うな。と言う感覚だった。
「花郁姉さんも商高志望だったんだ」
「最初はね。商高にはすいませんだけど、自分のやる気とそれに応じて得られるであろう学力を考えれば、そこかなあと」
 元来の志望動機はそうだった。
「途中で変わったんだね」
「うん。一年かけてやっと、変わったと言うか行き着いた」
 実は商高も何か違うと思っていた。ビジョンもやっぱり浮かんではこなかった。
 正直、本心は最初から分かっていたのだ。ただ、そここそ照美は絶対許さないような学校だった。本当に本当の希望はやはり言えていなかったわけだ。でもなあ、と当時のあたしはある日考えた。どう言う所か興味あるよね。ミッションスクールって。…ならもう良くない?既に学力下がりっ放しだし、それでも照美別に何も言わないし(不思議な事にこの頃はまだ何も言わなかったのである)。じゃあもうこのまま行ってそこで良いよ。
 と言うわけで決まったのだった。いや別にビジョンは浮かばなかった。本当の希望を言えない環境や状況にあると、自分でも表面上なかなか気付けないほど自分を誤魔化している事が多くて、心底本当の気持ちに辿り着くまで恐ろしく時間がかかるのだった。またそのミッションスクールが、言っては悪いが全く勉強しなくても入れるような所だったから、もともと勉強嫌いなあたしがいよいよ勉強捨てちゃって、さすがに照美が死ぬほどピリピリし出した事や、その結果あたしと照美の間で何度も紛争が起こった事や、あたしの学力が学力だっただけに三者面談でも照美は某高をとてもじゃないがごり押し出来なかった事は紗穂には言わなくて良いと思う(知ってるかも知れないけど)。――結果、今やあたしと照美はどうしても必要な事以外口を聞かない。幸い照美もあたしが無視していれば自分からちょっかいはかけてこない。
 でも良かった。照美とは極力関わらない方が良いし、波風立てずに照美の言いなりになって某高に行ったとしても、あたしは多分今ぐらいの時期でプツンと何かが切れて、ものすごく醒めた気分で包丁持ち出して顔色一つ変えずに照美をザクザク刺して、返り血浴びて冷然と死体を見下ろして、「フン」と包丁を床に投げ捨てたかも知れない。
 親殺しになるよりは今の方が良い。
 そう思えば、そうしなかった(今の所は)お姉ちゃんは非常に忍耐強い人なのだった。
「でも」紗穂が言った。「何で照美さん、某高にこだわるんだろう。卒業生でもないのに」
 そもそもあいつはよその人だ。
「それねえ…。一つはあいつ、某高に行かないと人生に失敗すると思い込んでる」
 その理屈で言うなら世界のほとんどの人間が人生に失敗してるよね。照美は人生も子育ても失敗してるけど。と続けると、
「ほんとだね」
 と紗穂は頷いた。
「きっと今の照美さんにとっては、この町が全世界なんだよ」
「そうなんだろうけど、それでもこの町の人の多くが人生に失敗してるわけじゃないって。してたら大変でしょ」
 本当、ごく狭い世界で某高の商高の他のとこだのごちゃごちゃ言わないで恥ずかしい。大体どうして高校基準?
 そりゃ狭くて悪いわけではない。あたしもごく狭い世界しか知らない。照美みたいなのはいかがなものかと言う話だ。
「他には?」
「他ね…。この町で一番と聞いたら、もうそこしか見えなくなるような感じはする。自分が最良と思ったら娘にとっても最良だと思い込んでる。そこに行ってくれたら、この町でなら通用するステイタスも得られるし。結局、見栄」
「あるある」
「それともう一つ、あいつもともとは教職志望だったんだよね」
「そうなの?」
「そうだったの。試験に一回落ちたぐらいで、臨採にも行かずに諦めてるから、本気度は分からないけど」
 見栄っ張りな割に挫折体験を話す事もある照美なのである。
「ともかくそのせいか、お姉ちゃんとあたしには教職教職って推してたよ。あたしに関しては中学の時点ですっかり諦めてくれたけど、お姉ちゃんには最後まで推してた。結局お姉ちゃん、進学せずに県庁行ったけど」
 それはお姉ちゃんの、照美への配慮もある反発だったのだろうか。大学は行かなくとも公務員だからと言う点で照美は満足しているようだ。
「あたしにはその押し付けはないな。某高圧力はあっても」
「…言われてみれば、ないね。あたしの記憶を辿っても」
 娘によってかける圧力が同じだったり違ったり、照美は色々支離滅裂だ。本当に訳が分からない。紗穂は何となく淋しそうだ。照美への反発心はあっても深くは期待されてないようなのは淋しいのかも知れない。
「さすがの照美も手加減を知ったんじゃない?押し付けても逆効果だなって。あいつもいい加減、それぐらい学習してもらわんと」
 あのババアから期待されても良い事ないよ、とは言えなかった。
 照美が紗穂にも某高をごり押し出来なかったのは、あたしが通う高校を滑り止めにした事も表向き容認したのは、紗穂の成績がそれほど伸びていないからだ。決して悪くはないが某高の合格圏内ではない。商高にしても実際結果が出るまでは分からない。さすがの照美もお姉ちゃんの時ほど自信は持てなかったのだ(お姉ちゃんは一本だった。本人のプレッシャーはすごかっただろう)。紗穂が、あんまり成績良かったら絶対ごり押しされるから自分を守る為に成績をセーブしているのかどうかは分からない。
「で、話を戻すね。教職に就くには、大抵の場合、進学校から大学ってコースでしょ。だからまず某高に、って言うのもあったと思うよ」
「だとしても、そう思い通りに行くと思ってたのかな」
「信じ切ってたと思うよ」
 照美はどうやら頭の中に厳然とした計画を立てていて、その計画の通りになる事を信じて疑っていないようなのだ。不測の事態が発生する可能性や、娘たちにも感情がありそれ故に計算通りに事を運ぶのはなかなか難しい事もある、と言う事を全く理解していないらしい。思い通りに行かなかったとしたら、やっぱり例のごとく、思い通りになってくれないあの子たちが悪い。私は何も間違ってないのに。と言う思考になるらしい。自分の間違いをそもそも理解出来ていないものだから、謝りもしなければ改善もない。この優秀な私が格下に頭を下げるなんて考えられない、と言う思いもあるようだ。
 よりによってそんな面倒くさい奴の所にあたしは生まれてしまった。紗穂とワーワー言い合えるから、良くはないまでもまだ救いはある。
 それにしても、まあどうしても知りたい事でもないけれど、どうしてうちの姉妹は揃いも揃って進学先として商高を視野に入れていたのだろう……。



 
 今だから思う事。あたしにそれだけの能力があったとしてだけど。中学で死ぬほど本気で勉強してトップクラスの成績を維持して、三者面談で先生に「第一志望は某高です」と言う。すると先生が「え?某高?!」と驚愕し「もったいないですよ!某高なんて!もっと良いとこ行けますよ!」…と、そんな事を叫ばせてみたかった気がする(都合良くそう叫んでもらえたかどうかはともかく)。でもあたしの事だから叫ばせただけで満足して一気に勉強しなくなって、照美と紛争起こしながら結局今の高校に行ったかも知れない。そうだったとしてもせめて特進コースに行かない?と言う良心の声も聞こえる。でも勉強し続けてたら照美殺す羽目になるからダメだ。それは某高以上のとこに行ったとしてもか。行かないけど。
 照美も学歴にこだわる割に某高で満足している。某高は何も悪くない。照美への当てこすりとして思うだけである。あいつは大学にしてもお姉ちゃんにそうハイレベルな所は目指させていない。お姉ちゃんには悪いがあいつも一応身の程を知っているのかも知れない。…そうだったとしても、それだけが理由ではないと思う。
 もう一つ、あたしが教員になったとしたら。もしも変な教員がいたらそいつの靴隠したり、そいつが窓の下歩いてたら「おらぁ!」とバケツの水かぶせて「オホホホホ」と猛ダッシュしてばっくれる、別の意味で変な教員になってるかしら……。
 つまらん妄想はここまでにして、と。
 また一週間が始まる。お姉ちゃんは今朝、あたしが起き出す頃に車で帰って行った。この町から県庁まで道路を選べば一時間はかからない。
 鞄を提げて玄関を出ると珍しく通路に人の姿があった。スタイリッシュなパンツスタイルの中年の女の人と、濃紺の詰襟の制服姿の高校生だろう男の子が、隣室のドアの前に佇んでいた。親子、なのだろうか。
 声を掛けて空けてもらわないと通り抜けられそうもない。挨拶すれば気付いてくれるだろう。声掛けるの億劫だけど。と思っていると、男の子があたしに気付いて女の人に何か言った。何か思い詰めてるような顔でドアを見ていた彼が、あたしに気付くと微かに意外そうな顔を見せたのが印象的だった。
「え?…あら、ごめんなさい」
 女の人が柔らかい声であたしに言って、空けてくれた。
 彼はとっくに少し下がってくれていた。
 女の人も何だか深刻そうだったのに、あたしに気付くと明るい表情を見せた。すらりとした長身だ。肩には届いていない長さの栗色の髪には緩いウェーブがかかっている。色白の顔にワインレッドの口紅が良く映えている、優しい顔つきの明るそうな人だ。
「すみません。…ありがとう」
 女の人に、そして空けるよう促してくれたのだろう彼に言うと、女の人から
「おはようございます」
 と、にっこり言われ、
「あ、おはようございます」
 と、慌てて返した。
 二人の傍を通り抜けてすぐ、隣室のドアが開く気配がした。
「ああ、やっと…」
 と切り出した女の人の声は聞き流した。
 一基しかないエレベーターは上の階に上がってしまっていた。あの二人は着いてすぐのようだったから、エレベーター、まだこの階に停まってるかもと期待したのに。
 女の人と隣室の住人との会話が、あたしのちょっと離れた左側から聞こえてきていた。意識して聞いてしまわないよう、ひたすらエレベーターのフロアランプを見る事に集中した。やがて会話が消え、二人が中に通された気配と、ドアの閉まる音がした。まもなく到着したエレベーターにあたしはさっさと乗り込んだ。
 隣室には去年から高齢の男性が一人で暮らしている。うちに御挨拶にいらっしゃったのを覚えている。
 あの彼は学校行かなくて良いのだろうか。この町では見ない制服だった。まだ八時前なのにどこから来たのだろう。でもあの色あのデザインの詰襟は、昔の海軍士官みたいでステキ…。



 中島敦の『山月記』。
 次の授業までに下読みしておいて下さい。館山先生はそう言った。次の授業を明日に控えた日曜日の今日、葉ちゃんと理乃ちゃんとあたしは真面目に下読みしている。読むのは真面目に読んでいるのだった。静かな中に、時折、教科書のページを捲る音。時折、この家の前を走っていく車の音。時折、グラスの中で鳴る氷の音が交じった。
 この家は理乃ちゃんの自宅の道向かいにある。白塗りの壁のお洒落な感じの洋風家屋だ。住人だった理乃ちゃんの伯父さん一家が数年前に東京に引っ越してしまって以来、理乃ちゃんの御両親が管理を任されている。家具も家電もライフラインもそのまま使用可にしてあるものだから、自然と理乃ちゃん一家のセカンドハウスのような扱いになってしまい、今やあたしたちのたまり場にもなっていた。
「…終わった」
 葉ちゃんが教科書をパタンと閉じて、氷をカランと鳴らしながらメロンフィズのグラスを傾けた。
「速いね」
 あたしが今読んでいるのは、狂奔の末に虎と化した李徴が、再会した旧友の袁傪えんさんに自作の詩を詠み託す場面だ。――隴西と言う地方の出身である李徴と言う超優秀な人物が、天宝の終わり頃か最後の年に若くして科挙に合格し、江南尉と言う役職に任命されたが……が、自信過剰で人の言う事に耳を貸さず、周りを見下す困った性格で、人間関係に支障を来たしまくっていた。それから詩人を志すも察するに色々あって虎と化し人間界からリタイアし、その後偶然、数少ない友人の一人で今や要職にある人格者の袁傪に再会したのだった。以上、あたしの口語体と途中までの粗過ぎる粗筋である。
「これ難しい…」
 浮かない表情の理乃ちゃんはテーブルに教科書を伏せ、長い髪を後ろに払いのけた。そしてバドワイザーの缶を手にした。
「もうダメ。あたしこれ以上読めない」 
「そんな事言っても、ちゃんと読んでおかないと館山先生怒るよ」
「今はもうダメって意味。続きは今夜頑張る」
 館山先生が怒ったとこ見た事ないな。あたしは理乃ちゃんと葉ちゃんのやり取りを聞きながら思った。そうしながら何だか嫌な感覚が、透明な水に落とした一滴の黒いインクのように胸中に淡く静かに澱んでいるのを感じていた。『山月記』のせいだ。李徴が袁傪に訴えた悲嘆を読んで行くにつれてひしひしと感じ取ってしまった。自分の本当の姿に向き合えない弱さ、自分の弱さを認められない弱さ、自信と履き違えた傲慢さ、傲慢さの裏に潜む小心。この部分を読んであたしが思い出したのは過去にほんの少し接点があった人の事だ。だけどそう言ったものはあたしの中にもあるのだろうから、こうも身につまされるように感じてしまうのだと思う。
 それとは別にあたしの脳裏には、夜明け前の静謐な気配の中、月明かりに照らされた叢中に踏み入る虎の後ろ姿も浮かんでいた。
「……あたしも読了」
 教科書を閉じて伸びをした。ブルーハワイフィズのグラスには手を伸ばさなかった。
「お疲れ様」
「ありがとう葉ちゃん」
「これ、李徴は結局虎のままなんだね」
「はい?」
「葉子ね、これ読みながら、ラストもしかして人間に戻ったりしないかなー、と思ってたんだ。でも違った」
「何でそう思ったの?」
「あたしも聞きたい」理乃ちゃんが口を挟んだ。「あたしまだ途中までしか読んでないけど、あの話の流れで最後人間に戻られちゃったら、信じていた何かが崩れてしまいそう」
「だってファンタジーの世界じゃ良くあるじゃん」
「これはファンタジーなの?」
「ファンタジーと言えなくもないような…」
 葉ちゃん、理乃ちゃん、あたしの順で口々に呟いた。
「でも」あたしは言った。「人間に戻った場合の李徴のその後を想像したら、喉元過ぎればでまた色々ありそうな気がするよ」
「そしてまた虎になって山に消えるんでしょ?妻子を残して」
 と、葉ちゃんが言った。
「家庭持ちだったの?」
 理乃ちゃんが目を見開いた。
「理乃ちゃんそこまで読んでないんだろうけど、妻子ある事が最後あたりで判明したよ」
 葉ちゃんが教えると、
「妻子が可哀想」と理乃ちゃんは呟いた。そう。李徴は妻子持ちで、色々あっても恐らく妻子の為に頑張っていたのだ。
 あたしは話を接いだ。
「で、そんな事が何回か続くと奥さんも慣れちゃって、心配してくれてる袁傪に『あの人、いえあの虎、しばらく放っておいて良いわよ』とか言うんだ」
「大変だな…」
 葉ちゃんの声のトーンは暗かった。
「あなたたち、ちょっと嫌だ」
 理乃ちゃんが自分も乗った事を忘れたように呟いた。暗に、中島敦に謝れとあたしを非難している気がする。だとしたらごもっともだ。
 葉ちゃんがメロンフィズのグラスを空けた。あたしは自分のグラスを一瞥した。グラスの中は、ブルーのフィズと溶けてほぼ水になっている氷とで二層構造になっている。ちなみに葉ちゃんが空けたのは二杯目だ。
「でもあたしこれ読んでて、さる御方の事思い出した」
「誰よ。さる御方って」
「皇族?旧華族?」
「いやいやいや」
 葉ちゃんと、彼女の後からツッコミ入れてきた理乃ちゃんに、あたしは首を横に振った。
「中一の時の、クラスメートだった男子だよ」
「おぉ?」
 葉ちゃんが妙な目つきをした。
「…何なの?」
 理乃ちゃんも期待に満ちた目をして身を乗り出した。
「残念ながら、あなたたちが期待しているような良い話じゃないのよ…」
 その手の良い話に大抵の女子が食い付く気持ちが良く分からない。
「その人、頭はすごく良かったの」
「頭は」
「頭は」あたしは葉ちゃんに頷いて見せた。「ただお人柄が、すみませんけど、ちょいとアレで。言っちゃ何だけど、頭良くて謙虚なら感じ良いのに、全然そうじゃなくて」
 人を見て謙虚になったりならなかったりしてたのかも知れない。色々根深い屈折がありそうな人だった。
「感じ悪い言動は色々目についたんだけど、一例を挙げれば、通知表もらう度に『どうだこれ』って態度でそれをクラス中に公表する人だったんだよね…」
「どれぐらいだった?成績」
 葉ちゃんが興味深そうに尋ねた。「何だ、そんな話…」と言いたげな様子の理乃ちゃんと違って、彼女としてはこれはこれで面白いらしい。
「そりゃあ、ずば抜けてたよ。あまりしっかり見せてもらってないけど、5しか見えなかった気がする」
「おー。素晴らしい」
「本人も毎回嬉しかったと思うよ。あたしも他の人たちも、その人の求める所を察して、『わあ、すごい』等で対応させていただきました」
「そりゃ、努力は評価しないとさー」
「もちろんそうだし、花郁ちゃんや葉ちゃんが言った通り、ずば抜けて素晴らしいとは思う」静かな声で理乃ちゃんが言った。「でもあたし、嬉しかったんだとしても、毎回そんな自慢をする人を彼氏にはしたくないな…」
 小柄でちょっと丸みのある体つきを反映したような優しい顔をして、なかなか厳しい。
「だね」
 実はあたしも同感なのだった。彼氏どころか恋愛自体今のあたしにとってはこの世に存在しない物としか思えないけれど。もちろんさる御方だってあたしなんぞと付き合いたくはないに違いない。
「ただあたしが見たとこ、自慢もあったかも知れないけど、力の誇示でもあったのかなと思う。自分は人に見せても恥ずかしくないだけの実力と自信がある。その辺の奴らとは格が違うのだから一目置け、って言ってるように見えた」
「威嚇?」葉ちゃんが言った。
「それもそうだね。…ともかくその人のそう言う所ね。何と戦ってるのか知らないけど、実はそれほど自信家じゃないかも知れない自分の本性から目を逸らして、あらぬ方向に走り出しているような所が、李徴とリンクしてる気がする」
 優秀さを誇示する所なんて照美にも似ている。
「難しいね…」葉ちゃんが空のグラスを振って氷をカラカラ鳴らした。「まあ人の通知表の中身なんて、滅多にお目にかかれない代物だよ。しかもずば抜けて良いもの見せてもらったんだ。本人が見せたくて見せているのだから、別に問題はない。悪い事でもないよ。多分ね」
「そうだね。あの御聡明さはあやかりたい」
「葉子も」
「あと言っておくけど、本人がどう言うつもりだったかは本当に分からないよ。あたしが言った事とは全然違うかも知れないし、そもそもそこまで考えてないかも知れない」
「分かってるよ」
 葉ちゃんは答えて、またグラスをカラカラ鳴らした。
 あたしは自分のグラスを理乃ちゃんの前にズイッと押しやった。
 理乃ちゃんは目を丸くした。
「なあに?花郁ちゃん」
「ブルーハワイまずい」
「捨てれば良いでしょ!」
 理乃ちゃんは笑顔で厳しく言ってキッチンを指さした。
「何でブルーなのにパイン味なの?考えられない」
「あたしに言われても!」
「あ、ほら葉ちゃんのグラス空じゃない?」
「葉子さっきからグラスカラカラ鳴らしてんだけど、理乃ちゃん全然気付いてくれないんだよねー」
「もう信じらんない…!」
 叫んでテーブルに突っ伏した理乃ちゃんの事は、そっとしておく。あたしは自分と葉ちゃんのグラスを持って立ち上がった。
「ビール、ビール。葉ちゃん何飲むー?」
「葉子バイオレットが良いー」
「はいはーい」


 
 次の日、葉ちゃんは体調不良で学校を休んだ。入学以来初めての事だ。まさか二日酔いじゃないだろう。彼女は寮生だしそんなに飲んでないと思う。そう言う問題ではないと言われれば、まあそうだ。
「花郁ちゃん…」
 朝のHR後、一時間目の授業が始まるまでの数分の空き時間。理乃ちゃんが不安そうに声を掛けてきた。
「うん、」彼女が何を心配しているか分かる。「お昼一緒に食べようね」
「良いの?」
「大丈夫。あたしがそちらに出張するから」
 理乃ちゃんにだって、一年生の時からのお付き合いである葉ちゃんやあたしの他にも仲の良い人はいる。けれど今頼みやすいのはあたしであるらしい。
 お昼休みになるとあたしは机を寄せ始めたテーブルメイトたちに、出張する旨を報告した。
「そうか。今日、鹿島さんお休みだね」
 今思い出したように元永さんが言った。
「じゃあさんをこっちに呼んだら?」
 詩織ちゃんが言った。
「あ、だよね。大沢さん、谷脇さんに聞いてみて」
 と言って元永さんがあたしに向けた目には善意がこもっていた。詩織ちゃんと奈々子ちゃん、そして野崎さんの目にもだ。この優しい人たちは、理乃ちゃんを呼んだら?と詩織ちゃんが言った直後にあたしと美香と凛ちゃんの間にビシッと凍るような緊張感が走った事には気付かなかったようだ。
 理乃ちゃんには大丈夫と答えたけれど、思ったほど大丈夫じゃなかった。こう言う提案を受けるとは思わなかった。 
「うん、ありがとうなんだけど…。諸事情ありまして。今日は出張します。ごめんね」
 あたしは美香と凛ちゃんを密かに気にしながら答えた。元永さんたちには本当すみませんだけど、何と言ってもこの二人は葉ちゃんと理乃ちゃんとは非常に仲が悪い。この四人の確執は今年の五月頃から始まり、半年経った今まで持ち越されている。最初はそれなりに仲良さそうだったのに。原因はあたしには分からない。四人ともあたしに気を遣ってくれてか何も言わなかったし、あたしも訊かなかった。ケースバイケースと言うか…二対二だし、まあ大丈夫かなと思ったからだ。あたしが確執の原因ではないと思う。争いの種になるほどの人間ではない。
 四人ともあたしに「どっちの味方?!」と迫らず付き合ってくれているのが、ありがとうだしごめんねでもある。
 そう言うわけで、このグループに理乃ちゃんを入れてしまったら一部が非常に雰囲気悪くなってしまう。しかしこちらのそう言う内部事情を元永さんたちはきっと全く知らないのだった。
 ――葉ちゃんは翌日には学校に出てきた。
「ねー、昨日誰と一緒にいたの?」
 理乃ちゃんに訊く葉ちゃんの声があたしの耳に入った。
「誰でもいいでしょ、もう」
 理乃ちゃんは困ったように答えて席に着いた。
 午前の時間は過ぎて、お昼休みも結構過ぎた頃。バラバラバラ…とヘリコプターの飛ぶ音が響いた。元永さんが窓をバッと振り仰ぎ、手を挙げて叫んだ。
「爺!」
 その後起こったテーブルメイトたちのクスクス笑いのお陰でやっぱり冗談だとあたしはすぐ気付かされたけれど、実は一瞬ホントかと思ってしまった。
 笑いが収束すると詩織ちゃんが壁時計を見上げて言った。
「さー、お昼休みもそろそろ終わり」
「五時間目、何だっけ?」野崎さんが訊いた。
「現代文」詩織ちゃんが答えた。
「難しいよね、『山月記』」奈々子ちゃんが言った。「現代の日本で言えば、窓際族と言えどもキャリア官僚の地位を捨てて、詩人を目指したって事でしょ?そんな愚かな選択ないよね」
 全くだ。詩人を志す人には失礼だが、あたしは心の中で深く頷いた。本当に、難しい。
「館山先生って、大沢っち好きだよね」
 詩織ちゃんが突然言った。
「え?」 
「出来るから」
 テーブルメイトたちは、詩織ちゃんの言葉を聞きつけて気まずそうに黙った人と、聞こえなかった(振りをしてるのかも知れない)人とに二分した。 
 あたしはちょっと考えた。詩織ちゃんの口調にはさりげなさを装ったやっかみがあった。でもあたしにはやっかまれる程の実績などない。
「そんな事ないと思うよ」
 さらっと答えた。その途端、何となく思い当たる節が記憶に上ってきた。
「片付けよっか」
 野崎さんの呼び掛けで皆机を元の並びに戻し、それぞれの席に帰った。
「奈緒ちゃんただいまー」
「お帰り大沢ー」
 奈緒ちゃんの周りには高浜さんと森尾さんがいた。高浜さんは「もう時間なのね」と呟いて、森尾さんを促して「またね」と席に戻って行った。
 あたしの頭の中には、思い出した思い当たる節が居座っていた。
 先週の現代文の授業の時。中間テストの答案の返却があった。館山先生はあたしに返却する時「満点」と言ったのだった。あたしや周囲に気を遣って下さったのか小声で、囁いたと言っても良いぐらいだった。それが生憎、最前列のしかも教卓に近い席にいた詩織ちゃんには聞こえてしまっていた。彼女が「おー…」と感心したような声を上げた事にあたしは気付いていた。この時あたしは何となく、彼女の反応が結局はあまり良い方向に行かないような気がしたのだ。すっかり忘れてしまっていたけれど。
 そして昨日の現代文の授業。
「この小説には、袁傪が非常に位の高い…皇帝に直接仕えるほどの高官である事を表している部分が、二ヶ所あります。どなたか、何でも良いです。これじゃないかなと思う所がありましたら、答えてもらえますか?」
 館山先生はそう言ってしばらく待っていた。だけど、積極的に答えてくれる生徒がいてくれないかなと期待しているのだろう彼女に、あたしたちはお応えする事が出来なかった。
「難しい表現と、簡単な表現です。どちらか一つでも結構です」
 譲歩していただいても同じ事だった。
 館山先生は少し寂しそうな顔をして、あたしたちをゆっくり見回した。この日の館山先生は普段のようなセーターとタイトスカートではなく、ノーカラーのオフホワイトのツイードジャケットに、ジャケットと共布の、膝上の丈のマーメイドスカートと言う装いだった。髪はいつものストンとしたストレートではなく、毛先を肩の辺りで緩く巻いていた。学校の女性教員の中では、彼女が一番若い。ふんわりした感じの美人だ。
 あたしは黙って館山先生を見ていた。そのうち目が合うと思っていた。やがてその時が来た。
「大沢さん、どうです?」
 やっぱり訊かれた。積極的に答える気はないが、一つは答えが見当つかないわけではなし、消極的に答えるつもりはあった。
 あたしは答えた。
「勅命を奉じて」
「あ、難しい方を言いましたね」
 難しいのか。簡単な方ってどれだろう。
「簡単な方はどうですか?」
「いえ、分かりません」
「そう…?」
 その時、誰かの答える声がした。
「あ、今どなたか答えた…。正解です。もう一度大きな声でお願いします」
「はい」
 副級長の三上さんだった。
「部下に命じて行列の進行を停め…です。皇帝が遣わした行列の進行を自分の裁量でどうにか出来る立場の人なんだな、と思いました」
 なるほどねー。そうと聞けば分かる。三上さん、何故そう思ったのかまで説明してる(あたしはたまたま、勅と言う漢字の意味を知っていて、見当付けただけだ)。分かってたならさっさと答えてくれれば良かったのに。あたしが言えた事じゃないけど。でもすごい。表現は確かに簡単だけど難易度はそっちの方が高そう。三上さんもしかしたら、難しい方も分かってたんじゃない?
 ――思い出している今も感心してしまう。でもそこは、今はごめん別に重要じゃない。
 この二つの事柄は全然大した事じゃない。多分その事が、詩織ちゃんの目にはあたしが贔屓されているように映ったのだとしても、館山先生もあたしもそんなつもりはない。あたしは今まで忘れていたぐらいだ。先生は答えられそうな相手と目が合ったから(あたしがそう仕向けたのだけど)当てただけだろう。あたしは現代文の成績は良いけれど、満点はたまたまだ。高校生である今、大して勉強しなくても(今のあたしは単位取得の関係上ちょっとはする)たまに高得点を取れると言う事は、方々に失礼かも知れないけれどテスト問題のレベルがそれなりなのかも知れない。
 そう言った諸々の事が本当に詩織ちゃんのやっかみの理由なのだとしても、そんな事で。そんな事でも妬み嫉みは買ってしまう。分かってる。そう言うものだって。あたしだって誰かにそう言う感情を持つ事と決して無縁じゃない。
 詩織ちゃんだって色々良い所あるだろうに。
 次のテストではわざと十六点ぐらい取って詩織ちゃんに見せてみようかな。いやいや思ってみただけ。
 

 騒ぎが起こったのは五時間目の休み時間に入って間もない頃だった。廊下から「きゃあ」だか「ああ」と言ったような小さい叫び声が聞こえてきた後、複数の人がざわめいた気配が教室にいても分かった。クラスメートの中には様子を見に出た人もいた。葉ちゃんもその一人だった。しばらくして戻ってきた彼女はあたしに言った。
「ゆきんこ、倒れたんだって」
 ゆきんこ。二年生でクラスが別れてしまった友人の永沢幸美ながさわゆきみを、あたしたちはそう呼んでいる。
「えっ?何で?」
「二組の人たち、五時間目、視聴覚室で出産の映像見せられたんだって」
「はあ?何でそんなもん?!」
 もちろん、人間の、だろう。
「分からないけど、あったんだって。それでゆきんこ気分悪くなっちゃって、廊下で倒れちゃったの」
「えー…。可哀想に…」
 倒れたのは映像が原因とは言い切れない…とはこの場合思うまい。そんなものを何故見せる。目的は何なのだ。生徒が倒れるほどのものを授業で見せるとは知っていたのだろうか。それを許可したのか正文まさふみ。そんなものを授業で見せろと決まっているのだろうか。
「…あたしたちも見せられるのかな」
「葉子、嫌だ」
「あたしだって」
 そんなもの見せて何かメリットあるのだろうか。
「他の人たち、どう思ってるんだろう」
「分からないけど…」
「あたしたちも、まだ見たわけじゃないけど…」
 でもゆきんこは倒れた。
 あたしと葉ちゃんは目を合わせたまま少し黙った。何とも言えない、しかし良いものではない感情があった。
「…葉ちゃん、情報提供ありがとう」
「どういたしまして」
「ゆきんこに会ったら、お大事にって言っときます」
「葉子も」
 ではでは。とお互い手を振った。
 出産の映像なんてそんな教材どこから来るのだろう。健全な目的があるとしても悪趣味としか思えない。学校が独自に見せたのではない…と思いたい。だとしたら、そんなものを見せるようこの学校に指示したのは誰?何?…国?……国…と言うか官庁、官僚…は、しっくりこない。あたしにおける官僚イメージは「杓子定規」「品行方正」「四角四面」「法令遵守」「ただし裏では色々やってる」である。あくまでもイメージである。が、イメージ通り「裏では色々やってる」のだとしても、やはり「杓子定規」(以下略)であるから、出産の映像を多感な高校生に見せるような判断はしない気がする。その通り、国ではないのだとしたら誰が?何が?何の為に?それに、この学校だけではないかも知れない?そんなものを見せているのは。



 ――そんなこんなで、日々は過ぎて行く。今日もどんどん過ぎて行って……
「終わったね」
 階段の最後の一段を拭き上げて、言った。
「終わったよ」
 葉ちゃんが塵取りにゴミを掃き入れて、言った。拭き係と掃き係は一日交替にしている。
「それじゃあ片付けて、」
「行きましょうかね」
 行きましょうかね。葉ちゃんの言葉を心の中で復唱した。掃除の時間はまだ終わっていない。他の所を手伝いに行くと言う殊勝な考えはあたしにも葉ちゃんにもない。自分の仕事がちゃんと終わっているなら少しぐらいは気を抜いて良い。今この時期はそれでも良いと思う。
 階段の掃除を担当している今の、掃除終了後の時間潰しの場所は、三階の踊り場である。階段は実は楽な掃除箇所なので時間は結構余る。先生の巡回もそんなにない。
 外を見れば生憎の曇り空の下にいつもの風景がある。すぐそこに修道院の白い平らな屋根があり、道路を挟んだ向こうには隣り合わせに立っている市役所と消防署がある。その更更に向こうに褪せたような緑や茶色の葉をつけた木々を戴いた城址の石垣と、お濠も姿を覗かせていた。区画と区画の間を縫うように敷かれた車道と歩道には車や人が行き交い、時折、歩行者信号の青を知らせる擬音であるカッコウの鳴き声が響いた。
 市役所の正面玄関の前にいつもと違う光景を見つけた。
「あの人たち、何だろう」
 あたしが言うと、葉ちゃんはあたしの視線を辿った。
「市役所の、玄関のとこにいる人たち?」
「うん」
「自衛隊か何かの、音楽隊じゃない?」
 十数人はいるかと思われるその一群は、年齢はまちまちのようだけど全員男性だ。全員軍服風の白いスーツに白い制帽と言う格好をしている。
「分からないけど、そう言う人たちが来るようなイベント、何かあったっけ?」
「さあ…。葉子は知りません」
 県のマーチングフェスティバルで見る自衛隊の音楽隊の制服とは違う。
 一群の中の何人かがこちらに気付いた。
 あたしは思い付いて窓を開け、彼らに手を振った。
「え」
 葉ちゃんが驚いて声を漏らした。突発的な行動でごめん。
 反応あるかな。なかったらどうしよう。
「あ」
 あたしも声を漏らした。一群のほとんどの人が笑顔で手を振り返してくれた。
「おぉ!」
 と感激の声を上げた葉ちゃんも遠慮がちに手を振った。彼らの反応に安心したのだろう。もちろん葉ちゃんにもちゃんと応えてくれた。
 あたしはまた思いついて、頭から外して持っていた三角巾を彼らに向かって振った。この学校、昔の良妻賢母教育の名残なのか掃除の時生徒は三角巾着用なのである。
「あっ!」
「すごっ!」
 あたしと葉ちゃんはほぼ同時に叫んだ。彼らは帽子を脱いで頭上で大きく振ってくれていた。
「かっこいいー」
 葉ちゃんが嬉しそうに言った。
「皆さんありがとー」
 あたしは、届かないけど言うだけ言った。
「何やってるのぉ?」
 奈々子ちゃんの声だ。背後から聞こえた。
「何かあるの?」
 階段を上りきった奈々子ちゃんはあたしの隣から窓の向こうを覗き込んだ。彼女より少し遅れて上倉さんも踊り場に着いた。この二人はやはり楽な中央階段の担当だ。
「あの人たち、何だと思う?」
 奈々子ちゃんに訊いてみた。
「どの人たち?」
「市役所の、玄関の前にいる人たち」
「……あっ!」
 奈々子ちゃんは急に身を隠すようにその場にうずくまった。
「どうしたの!?」
「消防署かも知れない」
「え?」
「それなら、うちのお父さんいるかも」
「そうなの?」
 消防署の人たちだとしたら、何か見つかりたくないんだろうな。奈々子ちゃん。
 あたしは彼らにバイバイの意味で手を振って窓を閉めた。
「本当にお父さんいたらごめんね。あたし色々知らなかったから」
「いいよ、謝らなくて。本当にそうか分からないし」
「宇田さんのお父さん、消防士なんだ?」
 葉ちゃんが言った。
「うん。確か演奏する時、ああ言う格好してた気がする」
「音楽隊?」
「うん」
「おー。かっこいい」
「ほんとー」
 あたしも同意した。
「そんな事ないよ…」
 奈々子ちゃんがそんなに嬉しくもなさそうに首を横に振ると、耳の後ろで結んでいるツインテールも揺れた。奈々子ちゃん、もう立ち上がっても良くない?
「奈々」
「あ、うん」
 上倉さんに呼ばれて奈々子ちゃんはうずくまったままツツツと窓から離れ、やっと立ち上がった。そして言った。
「あたしたち、大沢っちに訊きたい事があって来たんだ」
「何かな?」
「大沢っちのお家って、河川敷の近くの白いマンションだよね」
「そうだけど」
「そこに大杉って女、住んでる?」
 上倉さんが言った。
「大杉さん…?」
 あたしと苗字似てるわ。それにしても上倉さんと話すの初めてだ。染めているとはっきりわかる茶髪のロングヘアに、もともとキツめの顔立ちをさらに強調するような濃いアイメイクが目立っている。石原先生に注意されても改めはしない。そう言う派手で気と圧が強い人だから、地味で暗いあたしとは同じクラスにいても接点がなかった。
「どんな人?」
「血色悪くて、小太りで、一度見たら忘れられないブス」
「…いくつぐらいの人?」
「三十二のおばさん」
 性格悪いな上倉さん。あたしも良くはないけどな。
 何なのか知らないけど。
「うーん…」
 記憶を辿ってみた。
「……ごめん。そう言う人とは会った事ないと思う。マンションって意外と、会わない人とは全然会わないんだ」
「ふーん。ま、住んでんだけど」
 知ってるのか。じゃあ何故訊く。
「その人が、どうかしたの?」
「あのね、本当に本当の事なんだ」
 上倉さんは含み笑いを浮かべて声のトーンを落とした。以下、彼女の話による。大杉さんは小学校の頃、酷くいじめられていたそうだ。中学校は転居して遠方に通わざるを得なくなるほどだった。その人が半年前、某出版社の文芸誌の新人賞に小説を送った。そうした所が偶然にも(あたしと同じマンションに彼女がいるそうである事もそうだけど)その文芸誌の編集部に、大杉さんいじめの主犯格だった人物が編集者として勤務していた。そしてその編集者、大杉さんが投稿してきた事を小学校時代の友人たちに言い触らしたのだ。それだけでなく友人たちの周囲の人たちにまで、小学校の頃の事とか彼女の現住所等の個人情報とか、実体験を書いてきた事などを触れ回ったと言う。
「…ふざけてる」
 あたしは話を聞いているうちに怒りが込み上げてきて、言った。
「本当だったら酷い。酷過ぎる。その編集者」
 しかしその編集者と大杉さんの地元はどこなのだろう。上倉さんは「地元」としか言わなかった。本当に知らないのか、編集者を庇っているのか。上倉さんはどこかの誰かからこの話を聞いたのだろうけれど。
「上倉さんを疑うわけじゃないけど、本当だとしたら、葉子も許せないと思う」
 葉ちゃんの表情は険しかった。
「それを何故あなたが知っているのかはともかく、本当だとしたら大不祥事だよ。論外と言うか、前代未聞じゃない?謝って済む事じゃない。葉子のお父さん銀行員だけど、顧客の個人情報が、例え過失で外部に流出したのであっても、当事者には厳しい処分が下されるんだってよ。過失でもそれなのに、故意で漏洩したとなると……。上倉さん、こう言うお話は、御両親から聞かせてもらってない?」
 上倉さんは黙っていた。だから聞かせてもらってるのかもらってないのか分からない。あたしは照美からも父親からもそう言う教育は受けていない。でも、解る。
「もう随分広まってるのかな」
 あたしは言った。
「大杉さんにとって、極めて悪い状況になってるんじゃない?」
 現に上倉さんが面白がって大杉さんを侮辱しつつ、あたしに訊くのにかこつけて言い触らしているぐらいだから。
「本当だとしたら、その編集者は、大杉さんを再び苦しめるつもりで言い触らしたんだよね。きっと遊び半分で。そうじゃない?」
 だとしたら稀に見る極悪人だ。あたしでもそう言う事はしない。変な教員に水かけるとかそいつの靴隠すとか思ってるのはあくまでも思ってるだけだし。その編集者は自分が何をしたのか解ってるのかな。酷い人権蹂躙だし、とんでもない公私混同だ。詳しくは分からないけど、昔大杉さんに酷い事をしてしまったと言う反省もほぼ確実にしてない上に。いや絶対してない。
「そんな社員を置いてて良いの?」
 葉ちゃんが言った。
「葉子が社長だったら嫌だな。そんな社員がいると知ったら、『社運、尽きた…!』って思う」
「ガックリしちゃうね。でもきっと会社側は知らないよ。その編集者が自分から言うわけない」
「ああ。そうだとしたらその編集者もそう言う所は分かってるんだね」
 会社も被害者みたいなものだ。人格・能力共に優れた方も大勢いらっしゃるだろうに。創業者が聞いたら泣くわ。
「大体その編集者、そんな事してて、肝心の仕事はちゃんと出来てるの?出来てれば許されるってものじゃないけど。花郁ちゃんどう思う?」
「さあ…。どうだろ」
 その編集者の実務能力や、事件についての会社側の認識・把握については置いておくにしても、そんな大不祥事を進んで起こすトラブルメーカーでも雇っていられるから資本が強い所は良いな。その編集者も某出版社に入れる運と知性があるのにどうして自分からそう言う道に突き進んでしまったのかな。使い果たしたのかな。
「それにしても本当なら、よく言い触らせたよね。人道的にも社会的にもダメなのはもちろんだけど、リスクの観点からしても」
「本当なら、いや本当でなくても、葉子も気を付けよう。足元に」
「あたしも」
 あたしは上倉さんに目を向けた。彼女はあたしが「ふざけてる」と言った時、「は?」と言うように唇を半開きにしたまま固まった。その後ふて腐れたように押し黙り、今もふて腐れているように見える。何で自分がここまで言われないといけない?と思っているのかも知れない。自分の感覚がおかしいとは思っていないのだろうか。笑って話す事ではないし、それ以前に言い触らして良い事じゃない。ここまで言われてピンと来てないはずはないだろう。
 奈々子ちゃんはひたすら静観している。彼女はまあ、悪意のある人じゃない。
 刺々しい空気。しかしあたしは上倉さんに訊きたい事がある。
「上倉さん」
 極力優しく話しかけた。
「教えてくれない?大杉さんの小説、どんな内容だったの?」
 地元がどこかは置いといて良いと思う。
「どうして知りたいの?」
 軽く威嚇するように上倉さんは言った。
 いやあなた、わざわざ言い触らしに来てくれたんだよね?そこまで言い触らす気あるんじゃないの?…とは、あたしは言わない。
「興味がある。ダメ?」
 これだって嘘じゃない。
 上倉さんはあたしをじっと見つめた。睨んでいるわけではなく怯えているわけでもない。推し量っているような感じがした。
 こうしている間にも他の学年か他のクラスの子がちらりほらりと階段を行き来した。その誰もがあたしたちにはそれほど注意を払ってないようだった。
「何のドラマもない、OLのつまらない日常生活の羅列だって」
 上倉さんが投げやりな口調で言った。
「え?」
 答えてもらって悪いけど訳が分からない。
「と言う事は、昔の事書いてきたわけじゃないんだ?」
「…まあ、ね」
「そうだとしてもその編集者は、何故その日常生活が、大杉さんの実体験だなんて言ったの?それまでに、彼女の生活が分かるほどの近いお付き合いがあったの?」
「まさか。ないでしょ」
「だとしたら実体験だなんて言えるわけない。実話に基づいたフィクションは確かにあるけど、その小説がそうだと言えるの?書いた本人でもないのに。実話に見せかけたフィクションだってある(あたし騙された事あるわ)。それに、作中人物=作者って言うのは、違う場合もあると思うよ」
 実体験って聞いたから、てっきり小学校時代の事を書いてきたのかと思った。
 つまらない日常のつまらないお話だったのだろうか。いや待て大杉さんはOLなのだろうか。
「作り話と分かった上で、実体験って言い触らしてるんじゃない?何故か」
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「あのさ、偉そうな事」
「葉ちゃん」
あたしは唇の前で人差し指を立てた。
「あなたたち、集まってどうしたの?」
 階段から声を掛けてきたのは石原先生だった。まずい、と押し黙ったあたしたちの前まで来ると、先生は「ん?」と笑顔で押した。
 あたしは黙っていても良かったのかも知れない。でも言ってしまった。
「ああ、お姉様…。石原お姉様がいらっしゃった」
「御機嫌よう。石原お姉様」
 葉ちゃんも乗ってくれた。
「御機嫌よう。妹たち」
 石原先生は若干鬱陶しそうに、でも返して下さった。彼女はこの学校の、二十年前の卒業生である。あたしたちにとっては確かにお姉様…先輩なのだ。
「何でもないのなら、早く教室にお入りなさい。他の人たち待ってるわよ」
「私たちを探しにいらして下さったんですか?」
 葉ちゃんが猫を被った。バレてると思うけど。
「そう。いつまで経っても戻ってこないから」
「すみません」
 すっかり時間は過ぎていたのだった。石原先生と奈々子ちゃんに続いて階段を降りようとしていた上倉さんに、
「ちょっと良い?」
 葉ちゃんが抑えた声で呼び止めて、言った。 
「偉そうな事言ってごめんけど、さっきの話、もう絶対誰にもしない方が良いと思うよ。他に知ってる人がいるなら、その人にも忠告した方が良い。本当であろうとなかろうと」
 肝心な事言ってくれてありがとう葉ちゃん。あたし気が回らなかったわ。
「二人がかりで色々言ってごめんね。上倉さん」
 あたしは謝った。色々言ったけどふと思い返してみたら、葉ちゃんと二人で上村さんを糾弾しているような構図になっていて、そこは申し訳なく思ったのだ。
 上倉さんは「ちっ」と舌打ちが聞こえそうな表情を見せて、振り切るように階段を下りた。
「…行こう」
「うん」
 葉ちゃんに頷いて階段を下りた。上倉さんに謝った事とは矛盾するかもだけど、葉ちゃんが一緒にいる時で良かった。本当に頼もしい。お陰で上倉さんの圧に負けなかった。
 色々分からない事も多いけれどこれ以上知らない方が良いと思う。本当であるなら、人の権利や尊厳が踏みにじられている事だけに気には留めておくけれど、第三者としての弁えがある。思い込みや決めつけで突っ走るのも危険極まりない。小説の内容とか、こっちから訊いてしまった事もあるけれど。
 上倉さんが、こんな事にあたしや葉ちゃんが面白がって乗ってくると思っていたなら見くびってくれたもんだ。彼女の話し方や態度からは、被害者を悪者や笑い者にして加害者を庇い通しているような印象があった。この事でなくてもそう言う印象を受けるような事、世間に結構ある。印象通りであるのなら、どう見ても責めを負うべき加害者を庇うような歪んだメンタリティって何なのだろう。加害者が強者に見えて阿る心理になるのだろうか。いじめ問題については、あれだけ全国的に頻発してて自殺者も大勢出てるのにどうして大臣は動かないのだろう。見えないだけで実は色々動いてくれてるのかな。
 上倉さんが、人が小説を送ったと言うだけでブスだのおばさんだの悪口雑言なのも良く分からない。深い理由でもあるのだろうか。だけど彼女のような人は心配だ。真偽のほどは分からなくても情報を鵜呑みにして踊らされているのでなければ良いけれど。あたしにしても踊らされないでいられる自信はない。
 世の中には色んな人がいる。ええ、本当に。
 余計なお世話だけどその編集者、この先どうなるのだろう。順調に人生を送っていくのか、因果応報と言うものがあるのか。実は興味がある。でも関わりたくはない。関わる事があるはずもない。
 ただ…大杉さんに、そして本当でなかったならその編集者にも色々と申し訳ないけれど、事件への怒りはそれとしても、本当、興味は掻き立てられるから考えてしまう。
 その編集者、大杉さんが投稿してきた事で、昔の事を書かれるのではと恐れた部分もあったのかも知れない。そうだとしたら、疚しい事があるのならそう思うのは無理もない。そう言う事もあるからしてはいけないと言われている事はしてはいけないんじゃないか。もしかしたら、時間が経てばその人との関係性が変わる可能性だってあるかも知れないのに。
 例え大杉さんが昔の事を書いたとしても、彼女が多少なりとも小説家としての性を備えているのなら書いてしまうものなのだろう。それは過去への報復と言うよりは…何だろう。あたしがもしも照美との事を書くとして考えたら(絶対ないけどな。世の中に絶対はない…けど)。…書かなければいけないと言う意志の発露?課題に取り組むような、そんな感じなのじゃないか。もちろんあたしの勝手な推測ではある。
 あたしがその編集者と同じ立場だったとしたら。大杉さんが投稿してきても黙っておく。昔の事を書かれたとしたら…それが、プライバシーに充分配慮してある事、書き方を可能な限り考慮してある事が条件ではあるけれど…最初は腹立つけどもちろん黙ってて、後々冷静になって考えたら、自業自得と言う結論に辿り着くかも知れない。嫌だと言える立場ではない、と。その小説が優れた物語として昇華されていれば尚更。あたしの素人目でも、文学って色々配慮はいるにしても、だからと言って書いて良いのかが通用しない、世間のモラルを適用するのが難しい部分があるのは解る。その編集者はプロなのだから尚更こう言う見識は当たり前に持ってるものじゃない?
 もしもあたしが今この時期の事を誰かから書かれるとしたら?例の条件はもちろん守ってもらうとして。……二十五年?いや二十六年ぐらい経っていればもう良いかな。今のあたしがしてる事なんて、善し悪しは別にしても可愛いものだし、四半世紀以上も経てばいい加減時効よ色々と。…と割り切れない事もあるかもだけど。
 大杉さんは、まだ結果は出せていないのだろう。しかしそう言うムーブメントを起こしてしまう何かを持っているのではないか。今回のムーブメントはもちろん彼女が望んだ事ではないし、彼女はむしろ被害者だし、今回はマイナスの反応として表れてしまっているけれども。……今は、かも知れない。先はどうなるか分からない。もしかしたらの可能性はある。
 その編集者も小学校を卒業してかなりの時間が経っているのに、本当よくやったもんだ。誉めてはいない。仕事を汚してまで何をそう大杉さんを追い詰めたがる。それこそ何か深い理由でもあるのだろうか。過去の事がもはやトラウマになっていてPTSDの裏バージョンみたいな反応を起こしちゃったのだろうか。普段忘れていても、思い出す状況に出くわしてしまったら精神が一気に当時に引き戻され、この場合は被害当時ではなく加害当時の感情に支配されてパニック的に加害行為に及んでしまう。加害行為って、自分の良心を殺さないと出来ないと思うし。つまり心を殺してまでそれをやってしまったと言う深い傷があるんじゃないか。…そんな反応が症例としてあるかどうかは知らない。だけどそうでもなければその異常な執拗さは説明が付かない。こう言う考え、他の考えと食い違うかも知れない。思考の変遷もしくは分立って事で仕方ない。……きっと、あたしの考えてる事がおかしい。人に聞かせたらきっと噴飯ものだ。大杉さんが何か持ってるとか、その編集者が暫定・裏PTSDとか言う事ではなく、単純にその編集者の人格の問題なのだろう。
 心って本当に難しいな。そんな事しなければ良いだけの話なのに。本当その編集者、どう言う教育受けてきたんだろう。あたしも村崎さんに謝罪も贖罪もしてないけど、その編集者は謝るとか償うとか言う事をそもそも知らないのだろうか。人間は一人では歪めない。親御さんの御指導・御鞭撻が遠く及ばなかったのか、アレなお友達に引っ掛かってアレな影響受けちゃったのか、変な教員から変な教育受けて人格を歪められたのか。
 本当だとしたら、だけど。
 本当だとしたら、小説よりも奇なりな事が起こる。それが現実。
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