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フォーマルハウト
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硝子の箱のようなサンルームからバルコニーに降り、小指の先ほどの大きさの水晶の欠片を宙に透かした。目を凝らしてもひどく見づらい。星なんて全然見えない。見えるのは夜の色と、街灯りを透かして映し出された水晶の中の細かい瑕だけ。初めて見る水晶越しの夜はそんなものだった。
純度の高い水晶で作ったルーペか、望遠鏡で見てみたい。レンズが水晶で出来てるもの。そんなものがあるなら。
軽い失望を紛わしたくて冷たい欠片をぎゅっと握り締め、水晶の感触を掌で味わった。硝子よりも滑らかで硝子よりも強く凝った硬さ。握り締めているうちに冷たさは消えた。
珪素と酸素の凝集。そう思った途端に、透明な結晶である水晶が、砂粒よりも遥かに細かい元素の集合体でしかないと感じる。この感覚で、握り締める手にもう少し力を入れればさらさら崩れてしまったりしないだろうか。そんな事はもちろんないのだけれど。
ないと思い込んでいるだけで、本当は出来たりしたらどうしよう。本当に出来てしまったら嫌かも知れない。意識に制限がかかっている事は感じるけれど、それを取り外す気にはまだなれない。制限とか取り外すとか、そんな風に感じるのが不思議だ。取り外せるものだと分かっているようなのも何故だろう。自分の意識は本当は自分に収まり切れないほど広いのに、一部だけ何かに囲い込まれてその一部だけを用いてしか生きられないように仕組まれている。そんな奇妙な感覚は、子供の頃から時折不意に訪れる。
奇妙な感覚と言えば、家族が、ひどく違うものに感じる事もあった。家族を見ているうちに奇妙な違和感が湧き、この人たちが私の家族なんだよね?と心の中で自分に確認する事が何度かあった。そんな時は自分を取り巻く家庭や家族全てが、借り物かぺーパークラフトのように薄っぺらなものに思えて仕方なかった。確かに血の繋がった家族であるのに。
違和感を覚える時があるのは家族に対してだけじゃなかった。他人に対しても見えない壁を一枚隔てたような距離を感じる事がある。別の言い方をするなら、スクリーンに映し出された映像の中の人たちや出来事をどこか突き放して見ているような感覚。人と距離を置いている時でなくとも、感じる。
手を開いて、温まってしまった水晶を晩秋の夜気に晒した。
小さい欠片を、今は持て余す。
二十歳は過ぎているのに、五歳の女の子のような子供じみた事をしている。
屋内に戻ろうとして、声もなく驚いた。こちらをじっと見つめている人影がサンルームにあった。癖のない髪を短く整えた細身の青年だ。彼が背にしている開け放されたドアから射し込んでいる廊下の明かりがサンルームを柔らかに照らしていた。彼がいた事にも驚いたけれど、彼の眼差しに微かに竦んだ。切れ長の目に、少し怖いような強い感情を湛えている。
硝子のドアを開いた彼は、バルコニーに降りてはこなかった。こちらに何か話しかけようとしたのか唇を僅かに開いたものの言葉はとうとう発さなかった。
いつからいたの?と問う気にはなれなかった。微かな竦みがまだ残っていた。彼は怒っているのだろうか。害意は感じない。害意なんかあるはずがない。もっと別の感情なのか。分かるような気がした。はっきり言えば分かっている。けれどもどうしようもない。自分が彼に苦しいもどかしい思いをさせているとしてもどうしようもない。彼は分かってくれている。それでも感情がせめぎ合う時はある。
私もそこまで分かっていて彼を完全に遮断していられるほど冷たくなれない。
彼の傍へ、自然と足が動いた。水晶の欠片を差し出すと、心持ち表情を和らげた彼はそれを一瞥した後、指で摘み上げ、宙に透かした。
時間的に、あの時からずっと見られていたはずはない。
同じ事してる。言おうとして止めた。二歩三歩、と彼から離れて、目を向けた先は夜空だった。
南の空。天頂近くに秋の四辺形がある。四辺形の右下の角の星を起点にほぼまっすぐと言って良いほど下へ視線を辿らせると、一つだけぽつんと明るく瞬く星がある。
――フォーマルハウト。
1.2等級、25光年。目立つ星の乏しい秋の夜空で唯一の一等星。眺めていると、自分と似たものを感じて微かに辛くなる。それでいて、自分と似たものを感じるからこそのどこか恋しいような感情も胸の奥に滲む。この星にまつわる数少ない話を以前彼から教えてもらった。
――北落師門。
中国ではそう呼ばれていると言う。北落は北の垣根、師門は軍隊の門。この星の名にちなんで長安の北の軍門を北落門と呼んだらしい。最初に聞いた時は学生の頃の世界史の資料集に載っていたような堅固な城塞の門と、吹き抜ける冷たい秋の風が思い浮かんだ。あの星に何故そのような名前が与えられたのかまでは彼も知らないのだった。
――孤独の星。
占星術の世界ではそう言う位置づけであると聞いた。夜空におけるあの星の在り方故の位置づけだろうと言っていた。そう教えてもらって以来あの星に自分を重ねる。あの星と同種の孤独ではないかも知れない。誰をも完全には受け容れない孤独感。誰をも。…自分の事も。
自分に対しても感じていた。自分に対する違和感。自分と言う器と、自分と言う意識が馴染んでいない。意識の自分が器の自分を、客観的な存在として、全く別の存在として内側から眺めている。自分が眺めているその自分は紛れもなくこの自分なのであると言う事がしっくりこない。こう言う感覚を持っているのは私だけなのだろうか?
彼に訊いてみたい。急にそんな衝動が湧いた。けれども体は動かなかった。彼はまだサンルームにいるだろうか。振り返る事すらしたくなかった。辛さを感じる時はあるにせよ、根底の孤独を明け渡すつもりはやはりない。踏み込ませない部分を持つ女だと彼は分かってくれている。拒絶をも受け容れてくれている。けれど根底の部分で拒絶されているのに、彼だって孤独を感じていないはずはない。
――でもどうしようもない。
心の中で幾度となく繰り返した言葉を、心の中でまた繰り返した。
いっそ離れてしまえたら楽かも知れない。理解してくれている事すら時には重い。理解に応えてあげられない事が辛い。彼のような相手は得難いのだと分かっている。私がこう言う形で彼に甘えているのだとも思う。
こんな風に思う私をも、まるで他人のように突き放して見ている私を感じる。
私が今感じているこの感情も、本当に私のものなのだろうか?
この感情だけでなく、周囲の物事、人々に対して、私が抱く感情も。
紛れもなく自分のものだと言葉では言える。けれども心の奥で、そうではないと何かが告げる。自分のものではないのなら誰のものなのだろう。分からない。振り払うように、頭をゆっくり横に振った。まだ彼が見ているなら、この仕草をどう思っただろう。
――今は止めよう。彼の事を思うのは。
まだいるのだろうと、もういないのだろうと。
今この時ここに彼は必要ない。
今この時、私が容れたいと思えるのは、フォーマルハウトの孤独と、夜の深い、切ないほどの昏さ。冷やかさ。そして今ここに在る自分。他に誰をも何をも容れる気はなかった。
純度の高い水晶で作ったルーペか、望遠鏡で見てみたい。レンズが水晶で出来てるもの。そんなものがあるなら。
軽い失望を紛わしたくて冷たい欠片をぎゅっと握り締め、水晶の感触を掌で味わった。硝子よりも滑らかで硝子よりも強く凝った硬さ。握り締めているうちに冷たさは消えた。
珪素と酸素の凝集。そう思った途端に、透明な結晶である水晶が、砂粒よりも遥かに細かい元素の集合体でしかないと感じる。この感覚で、握り締める手にもう少し力を入れればさらさら崩れてしまったりしないだろうか。そんな事はもちろんないのだけれど。
ないと思い込んでいるだけで、本当は出来たりしたらどうしよう。本当に出来てしまったら嫌かも知れない。意識に制限がかかっている事は感じるけれど、それを取り外す気にはまだなれない。制限とか取り外すとか、そんな風に感じるのが不思議だ。取り外せるものだと分かっているようなのも何故だろう。自分の意識は本当は自分に収まり切れないほど広いのに、一部だけ何かに囲い込まれてその一部だけを用いてしか生きられないように仕組まれている。そんな奇妙な感覚は、子供の頃から時折不意に訪れる。
奇妙な感覚と言えば、家族が、ひどく違うものに感じる事もあった。家族を見ているうちに奇妙な違和感が湧き、この人たちが私の家族なんだよね?と心の中で自分に確認する事が何度かあった。そんな時は自分を取り巻く家庭や家族全てが、借り物かぺーパークラフトのように薄っぺらなものに思えて仕方なかった。確かに血の繋がった家族であるのに。
違和感を覚える時があるのは家族に対してだけじゃなかった。他人に対しても見えない壁を一枚隔てたような距離を感じる事がある。別の言い方をするなら、スクリーンに映し出された映像の中の人たちや出来事をどこか突き放して見ているような感覚。人と距離を置いている時でなくとも、感じる。
手を開いて、温まってしまった水晶を晩秋の夜気に晒した。
小さい欠片を、今は持て余す。
二十歳は過ぎているのに、五歳の女の子のような子供じみた事をしている。
屋内に戻ろうとして、声もなく驚いた。こちらをじっと見つめている人影がサンルームにあった。癖のない髪を短く整えた細身の青年だ。彼が背にしている開け放されたドアから射し込んでいる廊下の明かりがサンルームを柔らかに照らしていた。彼がいた事にも驚いたけれど、彼の眼差しに微かに竦んだ。切れ長の目に、少し怖いような強い感情を湛えている。
硝子のドアを開いた彼は、バルコニーに降りてはこなかった。こちらに何か話しかけようとしたのか唇を僅かに開いたものの言葉はとうとう発さなかった。
いつからいたの?と問う気にはなれなかった。微かな竦みがまだ残っていた。彼は怒っているのだろうか。害意は感じない。害意なんかあるはずがない。もっと別の感情なのか。分かるような気がした。はっきり言えば分かっている。けれどもどうしようもない。自分が彼に苦しいもどかしい思いをさせているとしてもどうしようもない。彼は分かってくれている。それでも感情がせめぎ合う時はある。
私もそこまで分かっていて彼を完全に遮断していられるほど冷たくなれない。
彼の傍へ、自然と足が動いた。水晶の欠片を差し出すと、心持ち表情を和らげた彼はそれを一瞥した後、指で摘み上げ、宙に透かした。
時間的に、あの時からずっと見られていたはずはない。
同じ事してる。言おうとして止めた。二歩三歩、と彼から離れて、目を向けた先は夜空だった。
南の空。天頂近くに秋の四辺形がある。四辺形の右下の角の星を起点にほぼまっすぐと言って良いほど下へ視線を辿らせると、一つだけぽつんと明るく瞬く星がある。
――フォーマルハウト。
1.2等級、25光年。目立つ星の乏しい秋の夜空で唯一の一等星。眺めていると、自分と似たものを感じて微かに辛くなる。それでいて、自分と似たものを感じるからこそのどこか恋しいような感情も胸の奥に滲む。この星にまつわる数少ない話を以前彼から教えてもらった。
――北落師門。
中国ではそう呼ばれていると言う。北落は北の垣根、師門は軍隊の門。この星の名にちなんで長安の北の軍門を北落門と呼んだらしい。最初に聞いた時は学生の頃の世界史の資料集に載っていたような堅固な城塞の門と、吹き抜ける冷たい秋の風が思い浮かんだ。あの星に何故そのような名前が与えられたのかまでは彼も知らないのだった。
――孤独の星。
占星術の世界ではそう言う位置づけであると聞いた。夜空におけるあの星の在り方故の位置づけだろうと言っていた。そう教えてもらって以来あの星に自分を重ねる。あの星と同種の孤独ではないかも知れない。誰をも完全には受け容れない孤独感。誰をも。…自分の事も。
自分に対しても感じていた。自分に対する違和感。自分と言う器と、自分と言う意識が馴染んでいない。意識の自分が器の自分を、客観的な存在として、全く別の存在として内側から眺めている。自分が眺めているその自分は紛れもなくこの自分なのであると言う事がしっくりこない。こう言う感覚を持っているのは私だけなのだろうか?
彼に訊いてみたい。急にそんな衝動が湧いた。けれども体は動かなかった。彼はまだサンルームにいるだろうか。振り返る事すらしたくなかった。辛さを感じる時はあるにせよ、根底の孤独を明け渡すつもりはやはりない。踏み込ませない部分を持つ女だと彼は分かってくれている。拒絶をも受け容れてくれている。けれど根底の部分で拒絶されているのに、彼だって孤独を感じていないはずはない。
――でもどうしようもない。
心の中で幾度となく繰り返した言葉を、心の中でまた繰り返した。
いっそ離れてしまえたら楽かも知れない。理解してくれている事すら時には重い。理解に応えてあげられない事が辛い。彼のような相手は得難いのだと分かっている。私がこう言う形で彼に甘えているのだとも思う。
こんな風に思う私をも、まるで他人のように突き放して見ている私を感じる。
私が今感じているこの感情も、本当に私のものなのだろうか?
この感情だけでなく、周囲の物事、人々に対して、私が抱く感情も。
紛れもなく自分のものだと言葉では言える。けれども心の奥で、そうではないと何かが告げる。自分のものではないのなら誰のものなのだろう。分からない。振り払うように、頭をゆっくり横に振った。まだ彼が見ているなら、この仕草をどう思っただろう。
――今は止めよう。彼の事を思うのは。
まだいるのだろうと、もういないのだろうと。
今この時ここに彼は必要ない。
今この時、私が容れたいと思えるのは、フォーマルハウトの孤独と、夜の深い、切ないほどの昏さ。冷やかさ。そして今ここに在る自分。他に誰をも何をも容れる気はなかった。
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