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10 おやつなんていらない ⑧

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「トリックでも何でもないですよ。中高一貫校の学生ならよく陥ることです。公立高校一年で習う英文法を、彼らは中三で扱う。ここで躓くことはありがちなんです。でも、高校に進級して外部受験組――それこそ、彼らより断然学力のある生徒が混ざると、もう入試を意識した問題に直面する。だから、本当は中学レベルの英語を分かっていない進学校の学生は多いんですよ」
 クールな声で解説され、何となくで入試を突破した私は頷くしかない。
 百人分の答案をパラパラとめくる岩城先生は、菊池さんを連れて来た時のような威圧感は無く、淡々と生徒の状況を教えて下さった。
「例えばこの生徒。基本がしっかり分かっているから、高一からの勉強を疎かにしていないね。ただ、日本語訳がおかしいんだよね」
 そのヒントだけですぐに分かる。
「玉置さん、ですね?」
「そうそう。彼女の和訳、意味は合っているんだけど、へんてこな日本語使うんだよね。どうしてそこに副詞を置くかな、って。あと、肯定文なのに『全然』を使ったり」
「〈全然〉大丈夫、とかですね」
「そう。否定文にしか使わない副詞だけど、日常会話では良しとされているからね」
 日本語の行く先を案じる岩城先生は、プロとして英語を教えていると感じ入る。
「あと、この前の菊池さん」
 紙をめくる指を一枚の答案用紙で止める。びくっと肩が動くと、「そんな警戒しないで大丈夫ですから」と語気を弛められた。
「花田さん頼りじゃなくてね、下手くそでもいいから、自分の言葉にする。それだけで、語学の勉強になるから。英語なんて、言いたいことを先に並べている言語だから、日本語に比べればシンプルなものだよ」
 最後の見解は受験時に頭を抱えた身としてさすがに同意出来ない。けれど、東大志望者に自ら説明させる市川さんの面談のように、すっと頭に入ってくる。邪険にすることもなく、菊池さんの苗字を覚えている岩城先生を私は頼もしく思った。
「神谷校長には頭が下がるね」
「え?」
「昨晩、現役生校舎で授業していたら、休み時間にいらしてね。何かと思えば、花田さんクラスの英語、何かありましたかって。花田さん、自分から相談したの?」
 首を振りながら、昨晩遅くに〈既卒生専用用〉校舎に戻ってきた神谷さんを思い出す。
 ――まさか、わざわざ、私のクラスのことを相談に行ってたの?
「よく見ているからね、神谷さんは。正直、怖いぐらい鋭い」
 答案用紙の束をトントンと角を整えると、岩城先生から差し出され一礼してから受け取ると、「あと」途端に眉根をしかめた。折角のロマンスグレーが台無しだ。
「授業中、飲み物を摂ろうとしているのか、授業から意識が飛んでいる生徒が一部いるので、注意お願いします」
「は、はい。すみません、厳重注意します」
 神経質だなと掠めつつ即座に返事すると、今度は目を細めて、頷きながら続けた。
「しっかり、クラスの生徒を導いて下さい。こちらは責任持って、授業を承りますから」
 その口調は、想像よりも綿あめみたいに柔らかかった。
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