紅き再誕-朝焼けに君を見た-

泉 沙羅

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IX 永遠に堕ちる夜

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 ロンドンの夜が、ひそやかに濡れていた。風も光も遠ざかり、街は濃く深い墨のような静寂に包まれている。
 セントポール大聖堂の天辺、かつて神に祈る声が天を穿ったその場所に、細く美しい影が腰を下ろしていた。

 ネルだった。狩りの帰り道、なぜか足が勝手にここへ向かった。人間の頃、遠くから見上げていたこの白亜の大聖堂。今は屋根の上に座っているというのに、心は少しも安らがない。
 ネルは両膝を抱え、沈黙の中に沈んでいた。目を伏せ、時折流れる風に銀色に輝く髪をなぶられながら、その心は遥かな昔を彷徨っている。人間だった頃のこと。家族のこと。己の中に根を張る「女らしさ」への嫌悪と執着――それらを手放そうとして、なおしがみついてしまう自分。男になることを学んでいるはずなのに、時折女の部分が疼いてしまう。
「――こんなところで夢でも見てるのか?」
 耳元にふと、甘くしなやかな声が落ちた。ルシアン。
 夜の闇に似た髪を揺らし、猫のように音もなく現れて、ネルの隣に腰を下ろす。
「……来るなよ。黙っていろ」
「やだな。そんな顔してたら、話しかけたくなるに決まってる」
 ルシアンは柔らかく微笑んで、唇を寄せた。首筋に、そっと。
「お前、本当に――綺麗だよね。いつ見ても」
「やめろ。こんなところで……!」
 ネルは身を引くが、ルシアンは逃さない。指先でそっと顎を撫で上げる。
「見られるの、怖い? ……じゃあ、いっそ落ちてみようか」
 彼は笑いながら、大聖堂の屋根の端を指す。
「なあ、ネル。落ちながら、してみようぜ。きっと最高に気持ちいいぜ」
 ネルの瞳が揺れる。そんな倒錯的なこと、考えたこともなかった。けれど、胸の奥で何かが疼く――その狂気に、どこかで抗えない自分がいる。
「ふふ……やっぱり怖いか?」

 ルシアンの囁きが、挑発に変わった瞬間だった。
 ネルは答えず、彼の胸元を掴み、そのまま押し倒す。息を呑んだルシアンを抱きかかえ、夜の空へと身を投じた。
 風が吠える。彼らの身体を、重力が呑み込んでゆく。
 互いの瞳だけが絡まり合い、世界が黒い奔流となって過ぎていく中、ルシアンは目を細めて笑った。
「……いいね。その顔。とても、いい」
 彼の唇がネルの首元に触れる。白い牙が食い込み、熱い奔流が血管を駆ける。
 ネルは息を詰め、次の瞬間、躊躇いなくその肩へ牙を沈めた。
 血が、交じる。感覚が、溶ける。
 まるで魂を舐め合うような快楽が、落下の速度とともに互いを満たしてゆく。指先が肌をなぞり、服の下へと忍び込む。腰を、背を、喉を。言葉では埋まらない孤独と飢えを、必死に埋めるようにまさぐる。
 喘ぎが風に消える。瞼の裏が白く染まり、まるで永遠の中に沈むような一瞬――
 着地の刹那、ネルはルシアンを抱き締めたまま、膝をついて静かに降り立った。
 空気が震え、時間が止まったような静寂が訪れる。
「……っ、は、あ……」
 ネルは眉をひそめ、呼吸を整えようとしていた。彼の腕の中で、ルシアンが甘く笑う。
「ふふ……なんて顔してるんだよ。かっこいいな、王子様。まるで、堕ちた天使みたい」

 一方その頃、大聖堂の下――
「お、おい、今、屋根から人が……! いや、男女か? なんか絡み合いながら落ちてきたぞ……!」
 守衛が声を上げ、狼狽する。
「はあ? なんだそれ、夢でも見たんじゃないのか。今夜は霧が濃いし、疲れてんだよ」
「でも俺、確かに見たんだよ! 羽でも生えてんのかってくらい、ふわって……」
「お前、紅茶でも飲んで頭冷やせ」
 そう言われて、守衛は不満げに舌打ちしながら詰所へと戻っていった。何もなかった、ということになっていた。
 けれど、夜の静けさの奥には確かに。
 血と、熱と、孤独と、悦びが溶け合った、堕天の一瞬が刻まれていた。


数日後――
 ネルがルシアンとの行為に溺れるようになり、何週間か経った夜のことだった。しとやかな夜の帳が降り、静寂の奥で濡れた吐息が絡み合っていた。ネルの脚は大きく開かされ、舌先が恥部に触れる度、肩がびくりと跳ねた。
「……あっ……! やめろ、もうイッた、もうイッたから……ルシアン……!」
 情けなく掠れた声を漏らしながらも、身体は抗えず震えていた。濡れぼそって綻んだ花弁に舌が執拗に這い回り、腫れた芽を吸い上げるように深く口づけられる。
「ふふ……お前のここ、甘くて、いい匂いがするんだよ。舐める度に蕩けてくるじゃないか。さすがオナニー狂い。ずっとこうしてたいくらい」
 ルシアンは悪戯っぽく目を細め、舌を踊らせる。鼻先でネルの敏感なところをくすぐりながら、ひたすら愛撫を繰り返す。その度に蜜が零れ、ねばついた音が混ざる。いやらしい水音に、ネルの目尻が震えた。
「な、なんで……! なんでそんなところ舐めたがるんだよっ……! 男が好きなんだろ、お前は……!」
 言葉の端々に震えが混じる。だがその声も、もう涙声に近い――吸血鬼に涙は流れなくとも、今のネルは確かに泣いていた。羞恥と屈辱と快楽に濡れて、下腹がびりびりと痺れる。
「お前が可愛いのが悪いんだよ。ほら、お前奥も弱いけど、ここも好きだろ。毎日自分で弄ってるの、知ってるぜ」
 ルシアンは笑いながら、執拗に舌を滑らせる。彼がネルの最も敏感な場所に舌を這わせた瞬間、ネルの身体が跳ね、腰が宙を仰ぐように浮いた。
「や、やっ……それ……っ……それだめ、も、もう、無理っ……!」
 そして、弓なりに反り返る腰。甘く湿った破裂音とともに、ネルの奥から熱い液体が噴き出した。
 ルシアンの口元にそれがかかっても、彼は一言も発さず、舌先でその名残を舐め取っていた。ただ甘やかに、獲物を愛でる獣のように。
「潮まで吹いちゃって……ほんと、最高」
 ネルは荒い呼吸のまま、ルシアンの細い肩を掴む。目が、燃えていた。羞恥と怒り、そしてどこか悔しさに。
「……ふざけんなよ」
 低く、息の詰まった声。
 ネルはゆっくりと体を起こし、ずぶ濡れのままルシアンの胸を押してベッドの上に倒す。その碧い瞳が、火のように燃えていた。
「お、やる気? いいね。やられっぱなしじゃ、気が済まないんだろ?」
 いつもの調子で笑うルシアン――だが、ネルは一切笑っていなかった。
「よくもやってくれたな。お前も同じ目に遭えよ……なんだ、勃ってるじゃないか。僕を舐めながらこんなにしてたのか、淫乱」
 静かに、じり、と唇を近づけ、ルシアンの股間に手を伸ばす。そして迷いなく、そこを咥えこんだ。
「っ……!」
 ルシアンの笑みが、揺らいだ。舌が這い、唾液で濡れそぼる音が静寂に響く。ネルは目を閉じ、夢中でしゃぶる。男の性を喉の奥まで咥え込み、吸い、舌で転がし、決して止まることはない。
「……ちょ、ネル……? おい、ちょっと、やば……っ」
 ルシアンが初めて、焦りを見せた。その顔をネルは見ない。ただひたすら、黙々と、確かめるように舌を動かしていた。
「っ……ぁ、……く……!」
 喉奥まで咥え込んで、音を立てて吸い上げる。唾液が糸を引き、ぬるぬると絡みつく。舌先が裏筋を這い、根本から亀頭までをぬらぬらと包み込む。ネルの動きは熱く、ひたむきで、どこか復讐に似た愛撫だった。
「ま、まじかよ……ネル、ちょっ……おま……やば、ほんと……!」
 普段の余裕を奪われ、ルシアンの表情が歪む。腰が勝手に跳ね、吐息が震える。
 やがてルシアンの身体が震え、熱い体液がネルの喉奥に注がれた。ネルは一度も顔を背けず、喉を鳴らしてすべてを飲み干す。
「……お前……飲んだの……?」
 唖然とするルシアンに、ネルは無表情のまま顔を上げる。
「……当然だろ。嫌なら、するな」
 それだけを言って、口元を指で拭った。目元にはまだ、わずかな紅潮が残っていた。ルシアンは一瞬言葉を失い、次いで、堪えきれぬように笑い出した。
「はは……最高だね、お前って。たまんないな、ほんと」


****


 体温の残るベッドに、二人は並んでいた。天蓋の奥には揺れる蝋燭の火がぽつりぽつりと残っていて、淡い光がルシアンの睫毛に影を落とす。そのまつ毛が触れるほどの距離に、ネルはただ無言でいた。
 肌がまだ少し湿っている。汗なのか、唾液なのか、それとも——。
 ルシアンがふいに身を寄せてくる。くにゃりと腕を回して、まるで猫が甘えるように。
「お前、ホント可愛い……キスしていい?」
「……いつも勝手にするくせに」
 そう呟いても拒むことなく、ネルはされるがままに唇を重ねられる。舌は絡まず、ただ柔らかな接吻。終われば静けさが戻り、今度はルシアンの囁きが落ちる。
「なあ……今までで一番気持ちよかったプレイって、どんなの?」
 唐突な質問だったが、ネルはすぐに答えず、天井を見つめたまま、数秒だけ間を置いた。
「……真珠のネックレスを中に入れた自慰、かな」
 ルシアンの目が、ぱちりと瞬いた。
「へえ……気持ちよかったん?」
「悪くなかったよ。というか……君、引かないのか?」
「え? 別に普通じゃん。俺なんてさ、客に火かき棒入れられそうになったことあるし。それに比べたらネックレスなんて全然まともじゃん」
「……」
 ネルの眉がぴくりと動く。わかりやすく引いていた。
「うわ、引いてんじゃん。お前に引かれるの、けっこう傷つくんだけど?」
「……いや、その話は普通引くと思う」
「で、なんでネックレス使おうと思ったんだ? その、真珠の」
 ルシアンの問いに、ネルはふいと目を逸らした。そして、呟くように言った。
「……好きな人……義姉からもらったものだったから……」
「…………」
 しばしの沈黙。ルシアンの呼吸音すら止まった気がした。ネルは視線を戻し、眉をひそめる。
「……なんだよ。そこで引くのかよ。なんでだよ」
「……いや、だってさ……それ、感情あるやつじゃん。相手いんじゃん」
 ルシアンは肩をすくめて、布団を引き寄せるようにして体を少しだけ遠ざけた。その動きがあまりにも微細で、あからさまではないぶん、逆に痛かった。
「俺、感情のある物に欲情するやつって、一番ヤバいと思ってるから……」
「なにその線引き。お前、今まで何でもアリみたいな顔してたくせに」
「いやいや違うって。何されるか分かんねー客相手にやるのと、誰かへの執着でやるのとは、全然違うから! つかお前、義姉って……血縁?」
「義姉だよ。兄の奥さん。美しくて、優しくて……。初めて女性として好きになったのも、彼女だった」
 静かな吐露に、ルシアンは言葉を失った。
「……そのとき、初めて……潮を吹いたんだ」
 ネルの告白にルシアンのまぶたがピクリと動く。「は?」と小さく漏らし、すぐには言葉が出ない。
 ネルは天井を見つめたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
「15の春だった。義姉にもらったばかりのネックレスで、まだ光沢が眩しくて……真珠って、不思議と冷たいんだよ。滑らかで、でも、奥に入れていくと体温に馴染んでいって……」
 その声音はどこか夢のようで、湿り気を帯びた記憶のなかにいるようだった。ルシアンは唖然としながらも、黙って聞いていた。
「義姉の香水の匂いがまだ残ってて……手首にキスされたときの感触を思い出しながら、そのまま……。数珠みたいに連なった真珠を、ゆっくり、一粒ずつ……。そして、それを一気に抜く瞬間に、身体が震えて……全身の力が抜けて、床に崩れ落ちてた」
 ネルは唇の端に、どこか憂いのある微笑を浮かべる。 
「……あのときが、初めてだった。気持ちいい、っていうのがどんなものか、改めてわかった気がしたんだ」
 静かな語りの中に、凍えるような熱があった。ルシアンは、それをどんな顔で受け止めていいか分からなかった。
 ようやく出たのは、乾いた、驚き半分呆れ半分の声だった。
「……お前さ……ヴァネッサに色々教わって、娼婦とも散々やって……俺とも、あんなにいろんなことして……」
 言いながら、ルシアンはネルの腕を掴む。
「刺し合いもしたし、空中で絡みながら落ちたこともあるだろ? この前なんて、教会の鐘の音に合わせて抜き差ししたの、覚えてる?」
「覚えてるよ……君がやたら興奮してたやつだろ。『神に見せつけてやれ!』とか叫んでた」
「そうそうそれそれ! それでも! それでもまだっ!」
 ルシアンはネルを揺さぶるようにして問いただした。
「……真珠のネックレスでやったやつが一番だったって、マジで言ってんの?」
「……ああ、マジで言ってる」
 ネルはあっさりと頷く。もう笑ってさえいた。
「……あの時の僕には、あれが全てだったから。あれ以上は、なかったんだよ。あれが僕にとっての……原点みたいなものなんだ」
「原点、って……。いやもう無理、ついてけねえ……。なあ、お前好きな奴ができる度にその人からもらったものでそういうことしてんの?」
「わからない。義姉以外の人をそういう目で見たことは今のところないから」
 ルシアンは額を押さえ、天井を見上げる。
「お前、どんだけ面倒くせえ性癖してんの……。いや、性癖っていうか執着っていうか、情念っていうか……もう呪いじゃん。怖い……」
「ふふ……そんなに引かなくても」
「引くわ!! 俺、自分が一番やばいと思ってたけど、お前が一番ヤバかったわ……。今までで一番気持ちよかったのが、義姉のネックレスでの自慰……マジかよ……!」
 ネルは目を細め、ルシアンの騒ぐ声を心地よい子守唄のように聞いていた。まるで、その“引かれっぷり”すら、彼にとっては愛おしく思えるかのように。そして、静かに目を閉じると、ぽつりと漏らす。
「……君がいるから、こうして話せるようになったんだよ。昔なら、絶対に誰にも言えなかった」
 その言葉に、ルシアンの動きが止まる。ネルが振り返る。わずかに潤んだ瞳で、彼を見ていた。
「ありがとう。ルシアン。君と……こうしてるの、嫌じゃないよ」
「……おい、やめろ。そういう優しいこと言われると、なんか俺が脆くなるだろ……」
 照れくさそうに顔を背けながら、ルシアンはネルの髪をかきあげる。彼の指がまた、そっと肩に触れた。
「お前、俺で抜いたとき、少しは好きになりそうだったろ」
 静かな室内に、その一言だけがふわりと落ちる。ネルはわずかに目を見開いたが、すぐに細めて、苦笑した。そして、何も言わなかった。返ってこない言葉に、ルシアンはすぐさま布団をかぶる。
「……ちっ、なんで黙んだよ。黙るのが一番答えっぽいからやめろ」
 ネルはただ、布団の膨らみを見つめていた。何も言わず、ただ静かに。
 二人の間にあったのは、性でも恋でもない、もっと複雑で歪んだ、けれど確かに互いを必要とする何かだった。
 火のように熱く、氷のように脆いその関係を、言葉にすることはできなかったが、どちらもそれで良かった。
 完全に光を遮断している「夜の結界」の向こうで夜が明けていく。そして朝を迎えた世界が動き出す。そんな世界と逆行するように、二人は並んで横になったまま、静かに眠りに落ちていった。

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