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XIII 泣けない僕ら
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⚠️嘔吐、嘔吐物を飲む描写あります
部屋に戻った途端、ルシアンは震える指でドアを閉め、壁にもたれてその場に崩れ落ちた。何故か、ヴォルフガングの前であれほど強気だった彼の方が、今はまるで幼い子どものように怯えていた。
「……ネル」
掠れた声で呼ばれても、ネルは虚ろな目のまま立ち尽くしていた。
「ネル……頼むよ。俺を……犯してくれよ。めちゃくちゃにしてくれよ……でないと俺、どうにかなっちまいそうだ……!」
その声に、ネルはやっと顔を上げた。けれどそこには、怒りも悲しみも、優しさもなかった。あるのはただ、自分を保つために心を空っぽにした、壊れる直前の少年の顔だった。無言のまま、ルシアンに歩み寄る。次の瞬間、唇に牙が食い込むような激しいキスが落ちてきた。
「――ッ……!」
ルシアンは呻きながらも、ネルの腕の中に自ら身体を投げ出した。服が荒々しく引き裂かれ、乱暴に押し倒されたベッドの軋む音が響く。
――どれくらいの時間が過ぎたのか、もうわからなかった。
何度も何度も上下を入れ替えながら繋がって、何度も果てたはずなのに、虚しさは薄まるどころか濃くなるばかりだった。
ベッドの上、壊れたように笑うルシアンがぽつりと呟く。
「なあ、ネル……俺を壊してくれよ。もっと、もっと……めちゃくちゃにして……。まだまだ足りないよ……」
その声に、ネルはゆっくりと上体を起こす。沈んだ瞳の奥に、何も映っていなかった。
ルシアンはそんなネルの手を取り、自らの口元に持っていった。その細く白い指を愛でるように舐めると、そのまま喉の奥へ差し込ませる。ぐぷ、と咽ぶ音。強く喉の奥を擦られるたび、ルシアンの瞳が揺らいでいく。ネルも特に驚く様子も止めようとする様子もない。いつもの彼だったら驚いて手を引っこめるだろうに、今はただ、ルシアンの自己破壊的な行為をただ色のない瞳で見つめていた。
「ぉ、ぉえ……っ! ネル、やば……っ、ああ、くる……ッ!!」
胃液混じりの嘔吐物が喉を突き破って溢れ出す。それを、ネルは表情一つ変えずにすくい、啜った。
その様子を見ていたルシアンが、どこか救われたように笑う。
「……なぁ、ネル。今度は……お前の番だよ。お前も吐いてみない? ずっと吐きたそうにしてたじゃん。エレオノーラがやられてる間、ずっと、嗚咽してたよね……? ……吐けば、少しは楽になるかもよ」
ネルは少し驚いたような顔をしたが、すぐにゆるく口角をあげて「頼むよ」と言った。
ルシアンはそのまま、優しくさえ見える手つきで、ネルの美しい口元に手を伸ばす。そして、同じように、喉の奥へ指を差し込む。ネルも抵抗しなかった。
ぐぷ、ぐちゅ、ぴちゃ。いやらしい音が二人の間に広がる。ネルの体がびくんと震え、喉がうねるように動いた瞬間、
「う……おえ、ぁ……ッ!!」
ネルもまた、吐いた。
「……っ、あ……ごぼっ……はっ……」
喉の奥を刺激され、ネルは苦しげに身体を折り曲げた。胃の中のものを全て吐き出して、それでも空っぽにはなれなかった。シーツの上、薄く広がった吐瀉物の匂いが部屋を満たしていく。嗚咽しながら、それでも吐き出されたものを押し返すようにルシアンの細い手首を掴む。
――その指先に、まだどこかに“生きよう”とする意志が残っていた。
広がる異臭の中で、ルシアンは笑っていた。
「すっごいね、ネル……お前の中、こんなふうに苦しかったんだ……。ネルの吐いてる顔、すごく綺麗だった……」
ネルの喉に突っ込んでいた指を、今度は自分の唇に持っていく。そしてそのままルシアンは、自分の喉に指を突っ込む。何度も、何度も、喉を抉るように。
「うっ……おえ……は、はは……ネルに、吐かされたのに…………なんで、まだ……足りないんだろ……?」
彼は、涙なしで泣きながら笑っていた。ネルもまた、彼のその姿を見て、小さく嗤った。
「……もう一回、していい? お前の指、もっと欲しい」
「……なんで、そんな……」
ネルの息はまだ荒かった。
「だって、どうせならいっぱい吐きあおうよ。涙も出ないしさ。俺たち、“泣けない”吸血鬼なんだもん……壊れるしかないんだよ」
ネルは一瞬だけ目を伏せた。何も言わずに、指をルシアンの唇に押し込んだ。生々しい音が響く。
そして、また吐く。二人は互いの痛みを、喉の奥から引きずり出しながら分け合っていく。
「ねぇネル……俺さ、お前が綺麗すぎてたまに殺したくなるんだ。知り合ったばかりのとき、お前に強引なこと色々してたのも、多分嫉妬してたからだと思う。誰よりも美しいお前をめちゃくちゃにしたくて。でも、こんなふうに汚いところ見せてくれると――やっぱり好きだって思える。俺だけが知ってるネル、って感じでさ」
「……壊れたいの? 僕と」
「そう、お前と壊れたいんだよ。ずっと、ずっと一緒に」
薄明かりのなか、互いの肌は白磁のように滑らかで、血のように赤い唇が微かに濡れていた。
その美しさは、まるでオールドマスターの絵画のようだった。
――けれど、彼らのしていることは、絵にもできないほどに醜かった。
胃の中身を舌で分け合い、指を喉に押し込みあって、泣けない代わりに吐く。愛も、欲も、救いもない。ただ、空虚だけがそこにあった。
部屋の扉のすぐ外、エレオノーラはまだ立ち尽くしていた。何度かノブに手をかけようとしたが、そのたびに引っ込めている。
中から聞こえるのは……苦しげな音。えずく声、何かが溢れるような、湿った音。呼吸が詰まりそうになる。
(……何してるの……?)
けれど、次第に彼女の耳はその音に“慣れて”いった。
音を、声を、体温を――理解してしまいそうになるのが怖かった。
ついさっき、自分がヴォルフガングにされていたこと。身体を犯されながら、ネルの嗚咽を聞いていた。
あれは、きっと――“彼の涙”なのだ。吸血鬼には流せないはずの涙。
エレオノーラの喉の奥が、きゅっと痛んだ。彼にとって、自分はただの子どもだ。扉一枚隔てた先では、決して触れてはいけない深い、深い闇がうごめいている。
(……彼はきっと壊れてる。でも、どこかで……あたしも、それを……美しいって思ってる)
頭が痛い。でも、扉の前から動けない。
きっと――その奥に、自分が“好きになってしまった”ネルがいるから。
夜が明けかけたころ。玄関のドアが静かに開く。
「……ただいま。あー、疲れた。思ったより面倒な客だった。」
帰ってきたヴァネッサは、廊下に漂う空気の異常さに眉をひそめた。沈黙。湿った空気。そして何より、家の“気配”が違っていた。
「あんたたち……どうしたの? 静か過ぎて気持ち悪いわね。葬式ごっこなら宵の時間にしたら?」
軽口を叩いたつもりだった。けれど、それに誰も応えない。ヴァネッサは、すぐに何かが“壊された”のだと悟る。ヴァネッサは長い睫毛の奥で目を細め、廊下をゆっくりと進む。
部屋の前。そこに立っていたのは、エレオノーラだった。
「……あら、エレオノーラ。こんなとこでなにしてるの?」
気軽にかけたつもりの声に、エレオノーラはびくりと肩を揺らした。俯いたまま、彼女はかすれた声で答える。
「……なんでも、ないの」
それだけ言い残して、エレオノーラはヴァネッサの横をすり抜けるようにして早足で去っていった。その背中に、ヴァネッサはふと、不穏な気配を感じ取る。
(……なんか、おかしいわね)
エレオノーラの消えた方向を一瞥したのち、ヴァネッサは目の前の扉に向き直った。そっとノックする。
「ネル? ルシアン? 起きてる? ……帰ったわよ」
中から返ってきたのは、ルシアンの明るすぎる声だった。
「ヴァネッサー! お帰りー! 俺、モンシェリと愛について熱く語り合ってたんだよね! 主に物理でさ……」
わざとらしい軽口。けれど、貼り付けた仮面のようなものが透けて見える。
ヴァネッサが眉をひそめるより早く、もう一つの声が聞こえた。
「……もう、いい。……もう、やめろ」
それはネルの声だった。かすれて、消え入りそうで、それでもはっきりとした拒絶の響きを含んでいた。
ヴァネッサは扉を見つめたまま立ち尽くした。内側の二人に何があったのか、確かめる言葉も浮かばない。ただ、何かが壊れかけているということだけが確信として胸に残った。
(……何が起きたの?)
けれど、それを問いただすには――今はまだ、タイミングではない。
ヴァネッサが去ったあと、部屋の空気はしんと静まり返っていた。ルシアンはベッドの端に座り、ネルに背を向けどこか遠くを見つめている。自分たちのもう痕跡など何もなかった。さっきまでの荒れた気配はすべて消え、部屋はまるで最初から静かだったかのように整っている。けれど、その清潔さが却って嘘くさく、ネルの胸の奥に重たく沈んでいた。
ルシアンはネルに背を向けたまま、ポツリと話し始めた。
「……昔、そういう客がいたんだよね。吐くと喜ぶ奴。毎回そいつが持ってきた食べ物を食わされて吐かされてた。吐いたものはそいつが食べるか、自分でまた食べさせられてた。……最初は嫌だったし、苦しかった。でも、嬉しかったの。そいつがすごく喜んでくれるからさ。『君の吐いてる顔はすごく綺麗だ』って。俺にはそれが――“愛されてる”って、思えたんだ」
ネルは口をつぐむ。自分も先程ルシアンの誘いに乗ったくせに引いてしまったのだ。
「そのうち、そいつと商売抜きで付き合うようになった。俺のこと『愛してる』って言ってくれて……ああ、俺もこんなふうに、誰かにちゃんと選ばれるんだって、思った。……でも、そいつは女と結婚して、俺を捨てた」
ルシアンは唇を噛んでいた。微かに血が滲む。
「最後に言われたの、『どれだけ女に寄せても、本物の女には敵わない』って。それでも……吐き癖だけは残ったの。今でも呪いながら、食べては吐いてる。……吸血鬼になって、食べる必要なんてなくなった後も。そいつの喉を裂きに行こうかと思った。けど、できなかった」
ネルは何も言えず、ただルシアンの横顔を見つめていた。
クラリッサのことを思い出していた。自分の中のどうしようもない愛と、歪んだ衝動と、それを隠して“淑女”として演じていた自分。
――自分も同じだ。クラリッサをめちゃくちゃにしたいと思いながら、最後まで彼女の前ではいい義妹であろうとした。
「……馬鹿だな、お前も」
ようやく搾り出した声に、ルシアンはふっと笑った。
「知ってるよ。だから、俺、お前が好きなんだよ、ネル」
しばらくすると、ルシアンはヴァネッサの部屋へ向かった。ネルもベッドから降り、ふらりと扉を開け、廊下に出る。そこには、まだエレオノーラの気配が漂っていた。
「……エレオノーラ」
探すように歩き出し、角を曲がった先。壁にもたれかかるようにして座り込んでいる彼女を見つける。
ネルが近づくと、エレオノーラは顔を上げる。目元が赤く、息がかすかに震えていた。
「……どうして来たの?」
「……君とこうしたかった。」
それだけを言って、ネルは静かに彼女の隣に腰を下ろす。そして、そっと手を伸ばした。彼女の小さな身体を抱え、部屋へと連れ帰る。
エレオノーラは、少しだけ戸惑ったように彼を見つめ――それでも、身を寄せた。ネルの体温に触れ、彼の匂いに包まれながら、彼女は思った。
(……この人、こんなに細いんだ)
ネルの服がはだけ、白い肌が露わになる。
胸も、腰も――女のそれであることは一目でわかる。
(……ああ、やっぱり女なんだ)
言葉にはしない。けれど、それを見た瞬間、エレオノーラの中の何かが静かに冷えていくのを感じた。
それは幻滅ではなく、目を覚ますような感覚だった。
ネルは彼女を抱きしめる。裸のまま、震える指で髪を撫で、唇を重ねる。けれどそのキスの先にあるものは、どうしても掴めなかった。
彼の脳裏には、いつもちらつく“姪の顔”――人間だった頃、無邪気に微笑んでいたエリザベスやキャロラインの瞳が焼き付いて離れない。
「……やっぱり、無理だ」
かすれた声が、額を押し付けたまま洩れる。エレオノーラも、それ以上を求めなかった。ただ、その腕に身を委ねて、そっと目を閉じた。
――数分か、数時間か。時間の感覚も曖昧なまま、ふたりは抱き合っていた。そしてそっと、扉が開く。
音を立てないように入ってきたルシアンは、ベッドの脇にしゃがみ込む。ふたりの裸を見て、一瞬だけ目を伏せるが、何も言わない。
彼は手に持った毛布をふわりと広げ、そっと2人の体にかけた。
「……馬鹿だなぁ、2人とも」
小さく笑って、まずネルの頭を撫でる。そのあと、エレオノーラの髪も優しく梳いた。
(俺が壊したのに守りたいなんて、ずるいよな)
夜はまだ深く、けれど、どこかで鳥の声が聞こえ始めていた。
部屋に戻った途端、ルシアンは震える指でドアを閉め、壁にもたれてその場に崩れ落ちた。何故か、ヴォルフガングの前であれほど強気だった彼の方が、今はまるで幼い子どものように怯えていた。
「……ネル」
掠れた声で呼ばれても、ネルは虚ろな目のまま立ち尽くしていた。
「ネル……頼むよ。俺を……犯してくれよ。めちゃくちゃにしてくれよ……でないと俺、どうにかなっちまいそうだ……!」
その声に、ネルはやっと顔を上げた。けれどそこには、怒りも悲しみも、優しさもなかった。あるのはただ、自分を保つために心を空っぽにした、壊れる直前の少年の顔だった。無言のまま、ルシアンに歩み寄る。次の瞬間、唇に牙が食い込むような激しいキスが落ちてきた。
「――ッ……!」
ルシアンは呻きながらも、ネルの腕の中に自ら身体を投げ出した。服が荒々しく引き裂かれ、乱暴に押し倒されたベッドの軋む音が響く。
――どれくらいの時間が過ぎたのか、もうわからなかった。
何度も何度も上下を入れ替えながら繋がって、何度も果てたはずなのに、虚しさは薄まるどころか濃くなるばかりだった。
ベッドの上、壊れたように笑うルシアンがぽつりと呟く。
「なあ、ネル……俺を壊してくれよ。もっと、もっと……めちゃくちゃにして……。まだまだ足りないよ……」
その声に、ネルはゆっくりと上体を起こす。沈んだ瞳の奥に、何も映っていなかった。
ルシアンはそんなネルの手を取り、自らの口元に持っていった。その細く白い指を愛でるように舐めると、そのまま喉の奥へ差し込ませる。ぐぷ、と咽ぶ音。強く喉の奥を擦られるたび、ルシアンの瞳が揺らいでいく。ネルも特に驚く様子も止めようとする様子もない。いつもの彼だったら驚いて手を引っこめるだろうに、今はただ、ルシアンの自己破壊的な行為をただ色のない瞳で見つめていた。
「ぉ、ぉえ……っ! ネル、やば……っ、ああ、くる……ッ!!」
胃液混じりの嘔吐物が喉を突き破って溢れ出す。それを、ネルは表情一つ変えずにすくい、啜った。
その様子を見ていたルシアンが、どこか救われたように笑う。
「……なぁ、ネル。今度は……お前の番だよ。お前も吐いてみない? ずっと吐きたそうにしてたじゃん。エレオノーラがやられてる間、ずっと、嗚咽してたよね……? ……吐けば、少しは楽になるかもよ」
ネルは少し驚いたような顔をしたが、すぐにゆるく口角をあげて「頼むよ」と言った。
ルシアンはそのまま、優しくさえ見える手つきで、ネルの美しい口元に手を伸ばす。そして、同じように、喉の奥へ指を差し込む。ネルも抵抗しなかった。
ぐぷ、ぐちゅ、ぴちゃ。いやらしい音が二人の間に広がる。ネルの体がびくんと震え、喉がうねるように動いた瞬間、
「う……おえ、ぁ……ッ!!」
ネルもまた、吐いた。
「……っ、あ……ごぼっ……はっ……」
喉の奥を刺激され、ネルは苦しげに身体を折り曲げた。胃の中のものを全て吐き出して、それでも空っぽにはなれなかった。シーツの上、薄く広がった吐瀉物の匂いが部屋を満たしていく。嗚咽しながら、それでも吐き出されたものを押し返すようにルシアンの細い手首を掴む。
――その指先に、まだどこかに“生きよう”とする意志が残っていた。
広がる異臭の中で、ルシアンは笑っていた。
「すっごいね、ネル……お前の中、こんなふうに苦しかったんだ……。ネルの吐いてる顔、すごく綺麗だった……」
ネルの喉に突っ込んでいた指を、今度は自分の唇に持っていく。そしてそのままルシアンは、自分の喉に指を突っ込む。何度も、何度も、喉を抉るように。
「うっ……おえ……は、はは……ネルに、吐かされたのに…………なんで、まだ……足りないんだろ……?」
彼は、涙なしで泣きながら笑っていた。ネルもまた、彼のその姿を見て、小さく嗤った。
「……もう一回、していい? お前の指、もっと欲しい」
「……なんで、そんな……」
ネルの息はまだ荒かった。
「だって、どうせならいっぱい吐きあおうよ。涙も出ないしさ。俺たち、“泣けない”吸血鬼なんだもん……壊れるしかないんだよ」
ネルは一瞬だけ目を伏せた。何も言わずに、指をルシアンの唇に押し込んだ。生々しい音が響く。
そして、また吐く。二人は互いの痛みを、喉の奥から引きずり出しながら分け合っていく。
「ねぇネル……俺さ、お前が綺麗すぎてたまに殺したくなるんだ。知り合ったばかりのとき、お前に強引なこと色々してたのも、多分嫉妬してたからだと思う。誰よりも美しいお前をめちゃくちゃにしたくて。でも、こんなふうに汚いところ見せてくれると――やっぱり好きだって思える。俺だけが知ってるネル、って感じでさ」
「……壊れたいの? 僕と」
「そう、お前と壊れたいんだよ。ずっと、ずっと一緒に」
薄明かりのなか、互いの肌は白磁のように滑らかで、血のように赤い唇が微かに濡れていた。
その美しさは、まるでオールドマスターの絵画のようだった。
――けれど、彼らのしていることは、絵にもできないほどに醜かった。
胃の中身を舌で分け合い、指を喉に押し込みあって、泣けない代わりに吐く。愛も、欲も、救いもない。ただ、空虚だけがそこにあった。
部屋の扉のすぐ外、エレオノーラはまだ立ち尽くしていた。何度かノブに手をかけようとしたが、そのたびに引っ込めている。
中から聞こえるのは……苦しげな音。えずく声、何かが溢れるような、湿った音。呼吸が詰まりそうになる。
(……何してるの……?)
けれど、次第に彼女の耳はその音に“慣れて”いった。
音を、声を、体温を――理解してしまいそうになるのが怖かった。
ついさっき、自分がヴォルフガングにされていたこと。身体を犯されながら、ネルの嗚咽を聞いていた。
あれは、きっと――“彼の涙”なのだ。吸血鬼には流せないはずの涙。
エレオノーラの喉の奥が、きゅっと痛んだ。彼にとって、自分はただの子どもだ。扉一枚隔てた先では、決して触れてはいけない深い、深い闇がうごめいている。
(……彼はきっと壊れてる。でも、どこかで……あたしも、それを……美しいって思ってる)
頭が痛い。でも、扉の前から動けない。
きっと――その奥に、自分が“好きになってしまった”ネルがいるから。
夜が明けかけたころ。玄関のドアが静かに開く。
「……ただいま。あー、疲れた。思ったより面倒な客だった。」
帰ってきたヴァネッサは、廊下に漂う空気の異常さに眉をひそめた。沈黙。湿った空気。そして何より、家の“気配”が違っていた。
「あんたたち……どうしたの? 静か過ぎて気持ち悪いわね。葬式ごっこなら宵の時間にしたら?」
軽口を叩いたつもりだった。けれど、それに誰も応えない。ヴァネッサは、すぐに何かが“壊された”のだと悟る。ヴァネッサは長い睫毛の奥で目を細め、廊下をゆっくりと進む。
部屋の前。そこに立っていたのは、エレオノーラだった。
「……あら、エレオノーラ。こんなとこでなにしてるの?」
気軽にかけたつもりの声に、エレオノーラはびくりと肩を揺らした。俯いたまま、彼女はかすれた声で答える。
「……なんでも、ないの」
それだけ言い残して、エレオノーラはヴァネッサの横をすり抜けるようにして早足で去っていった。その背中に、ヴァネッサはふと、不穏な気配を感じ取る。
(……なんか、おかしいわね)
エレオノーラの消えた方向を一瞥したのち、ヴァネッサは目の前の扉に向き直った。そっとノックする。
「ネル? ルシアン? 起きてる? ……帰ったわよ」
中から返ってきたのは、ルシアンの明るすぎる声だった。
「ヴァネッサー! お帰りー! 俺、モンシェリと愛について熱く語り合ってたんだよね! 主に物理でさ……」
わざとらしい軽口。けれど、貼り付けた仮面のようなものが透けて見える。
ヴァネッサが眉をひそめるより早く、もう一つの声が聞こえた。
「……もう、いい。……もう、やめろ」
それはネルの声だった。かすれて、消え入りそうで、それでもはっきりとした拒絶の響きを含んでいた。
ヴァネッサは扉を見つめたまま立ち尽くした。内側の二人に何があったのか、確かめる言葉も浮かばない。ただ、何かが壊れかけているということだけが確信として胸に残った。
(……何が起きたの?)
けれど、それを問いただすには――今はまだ、タイミングではない。
ヴァネッサが去ったあと、部屋の空気はしんと静まり返っていた。ルシアンはベッドの端に座り、ネルに背を向けどこか遠くを見つめている。自分たちのもう痕跡など何もなかった。さっきまでの荒れた気配はすべて消え、部屋はまるで最初から静かだったかのように整っている。けれど、その清潔さが却って嘘くさく、ネルの胸の奥に重たく沈んでいた。
ルシアンはネルに背を向けたまま、ポツリと話し始めた。
「……昔、そういう客がいたんだよね。吐くと喜ぶ奴。毎回そいつが持ってきた食べ物を食わされて吐かされてた。吐いたものはそいつが食べるか、自分でまた食べさせられてた。……最初は嫌だったし、苦しかった。でも、嬉しかったの。そいつがすごく喜んでくれるからさ。『君の吐いてる顔はすごく綺麗だ』って。俺にはそれが――“愛されてる”って、思えたんだ」
ネルは口をつぐむ。自分も先程ルシアンの誘いに乗ったくせに引いてしまったのだ。
「そのうち、そいつと商売抜きで付き合うようになった。俺のこと『愛してる』って言ってくれて……ああ、俺もこんなふうに、誰かにちゃんと選ばれるんだって、思った。……でも、そいつは女と結婚して、俺を捨てた」
ルシアンは唇を噛んでいた。微かに血が滲む。
「最後に言われたの、『どれだけ女に寄せても、本物の女には敵わない』って。それでも……吐き癖だけは残ったの。今でも呪いながら、食べては吐いてる。……吸血鬼になって、食べる必要なんてなくなった後も。そいつの喉を裂きに行こうかと思った。けど、できなかった」
ネルは何も言えず、ただルシアンの横顔を見つめていた。
クラリッサのことを思い出していた。自分の中のどうしようもない愛と、歪んだ衝動と、それを隠して“淑女”として演じていた自分。
――自分も同じだ。クラリッサをめちゃくちゃにしたいと思いながら、最後まで彼女の前ではいい義妹であろうとした。
「……馬鹿だな、お前も」
ようやく搾り出した声に、ルシアンはふっと笑った。
「知ってるよ。だから、俺、お前が好きなんだよ、ネル」
しばらくすると、ルシアンはヴァネッサの部屋へ向かった。ネルもベッドから降り、ふらりと扉を開け、廊下に出る。そこには、まだエレオノーラの気配が漂っていた。
「……エレオノーラ」
探すように歩き出し、角を曲がった先。壁にもたれかかるようにして座り込んでいる彼女を見つける。
ネルが近づくと、エレオノーラは顔を上げる。目元が赤く、息がかすかに震えていた。
「……どうして来たの?」
「……君とこうしたかった。」
それだけを言って、ネルは静かに彼女の隣に腰を下ろす。そして、そっと手を伸ばした。彼女の小さな身体を抱え、部屋へと連れ帰る。
エレオノーラは、少しだけ戸惑ったように彼を見つめ――それでも、身を寄せた。ネルの体温に触れ、彼の匂いに包まれながら、彼女は思った。
(……この人、こんなに細いんだ)
ネルの服がはだけ、白い肌が露わになる。
胸も、腰も――女のそれであることは一目でわかる。
(……ああ、やっぱり女なんだ)
言葉にはしない。けれど、それを見た瞬間、エレオノーラの中の何かが静かに冷えていくのを感じた。
それは幻滅ではなく、目を覚ますような感覚だった。
ネルは彼女を抱きしめる。裸のまま、震える指で髪を撫で、唇を重ねる。けれどそのキスの先にあるものは、どうしても掴めなかった。
彼の脳裏には、いつもちらつく“姪の顔”――人間だった頃、無邪気に微笑んでいたエリザベスやキャロラインの瞳が焼き付いて離れない。
「……やっぱり、無理だ」
かすれた声が、額を押し付けたまま洩れる。エレオノーラも、それ以上を求めなかった。ただ、その腕に身を委ねて、そっと目を閉じた。
――数分か、数時間か。時間の感覚も曖昧なまま、ふたりは抱き合っていた。そしてそっと、扉が開く。
音を立てないように入ってきたルシアンは、ベッドの脇にしゃがみ込む。ふたりの裸を見て、一瞬だけ目を伏せるが、何も言わない。
彼は手に持った毛布をふわりと広げ、そっと2人の体にかけた。
「……馬鹿だなぁ、2人とも」
小さく笑って、まずネルの頭を撫でる。そのあと、エレオノーラの髪も優しく梳いた。
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200人になるまで見捨てずに居て下さった皆様にもこれからも見守っていただける物語を!!
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