16 / 25
XV 境界の夜
しおりを挟む
吸血鬼たちの住まう屋敷の廊下に、むせ返るような香りが漂っていた。重く、湿って、腐った花のような甘い匂い。アヘンだった。
「ちょっと、またあいつ……部屋で焚いてんの? 広間まで漏れてるじゃん。こないだヴァネッサ様に叱られたばかりだってのに」
若い吸血鬼の一人が顔をしかめ、袖で口元を押さえる。
「ああ、ルシアンだろ。間違いない、こないだよりひどい。臭くて堪らん。殺す気かよ」
広間にいる若手たちは揃って布で鼻を覆っていた。
「俺たち、もう人間じゃないんだからあんなもの吸ったところでキマんねえじゃん? なんで吸ってんの?」
「しらねー。ありゃもう儀式だろ。儀式。……ってか宗教だな。だから不死身になっても吸うのやめらんねえだろ」
「ねえ、聞いた? あいつ、アヘン中毒で死にかけてた時に吸血鬼にされたんだって。前パリから来た奴に聞いたんだけど、あいつがいた男娼館、男娼どもをアヘン漬けにすることで有名だったんだってよ。『煙管が首輪代わり』なんて言われてたらしいよ」
「うわ、それマジ? なんか納得だわ。頭おかしいもん」
「女の格好してるし。どうせ男に媚びたいだけでしょ」
「いや、でも“あの人”が連れてきたんでしょ? ヴァネッサ様が」
「まじかよ……やっぱりあの人趣味悪いよな。あの人のセンスだけは永遠に理解できない」
「てか、ここだけの話、アイツさ……昔好きだった男に言われたんだって。“どれだけ女に寄せても、本物の女には勝てないぞ”って。ヴァネッサとアイツ、2人で話してるの聞いちゃった」
「はは、それは刺さるなあ~! ぐっさり!」
「は? 女になりたかったってこと?」
「ほんとあいつ意味わかんねー」
「まあ、見た目だけならそこら辺の女よりずっと綺麗だけどな! 見た目だけなら!!」
若い吸血鬼たちがあれやこれやと噂話をする中、モーリスは腕を組み、芝居でも観るような表情で佇んでいた。ルパートもパイプを吹かしつつ顔をしかめてはいるが、年長者らしく何も言わず、ただ頭を横に振っていた。
と、そのとき。
廊下の向こうから足音が響いた。ヒールではない。軍靴のような、固い靴音。早足。リズムが乱れていた。
「うわ……帰ってきた」
「げげ、ヤバい奴がまた一人帰ってきた……!」
「部屋あんなにアヘン臭くして、あいつキレんじゃね?」
「……いや、あいつもキチガイだから。多分大丈夫。ルシアンといつもゲロ吐きあって飲みあってるじゃん。うーキモいキモい」
「でも、お嬢様だし……ほら、アレでしょ? 貴族の出なんでしょ?」
「元ね。元・お嬢様。今はただの……ヴァネッサの犬」
「あいつもあいつでルシアンとヤバくね?毎日毎日…………ヤッてんのか、殺し合ってんのかわかんねーよ。アレ聞いたら狼だってビビって退散していくぜ」
「今日はなお、ヤバそうだよな。あー勘弁してくれ。ゲロプレイ、アヘン、次は何だと思う?」
「やめろ、想像したくない」
「ぶっちゃけヴォルフガングの言う通りだよな。Invertってろくでもねえよ」
ネルが無言で通り過ぎる。青い瞳が赤く鈍く光っていた。若い吸血鬼たちは身をすくめ、道を開けるように左右に散る。ネルは彼らに目もくれず、自室の扉を荒々しく開けた。
部屋はアヘンの煙で満たされていた。レースのカーテンが揺れて、甘ったるい匂いが纏いつく。ルシアンは窓際の寝台で仰向けになり、ゆっくりと煙管を口に運んでいた。
「帰ってきたんだ?」
ぼんやりとした声で言う。目だけが、やけに冴えている。
ネルは無言でコートを脱ぎ、壁に叩きつけた。手袋を乱暴に引きちぎるように外す。その指の先は震えていた。
「……どうしたの?」
ルシアンは煙を吐きながら起き上がる。その仕草は、どこか猫のようにしなやかで、誘うようで、投げやりだった。
「……何か、あったの?」
ネルは答えず、ただルシアンの黒い目を見た。紅を塗った彼の赤い唇が微かに歪む。その顔は、どこか嬉しそうだった。
「ふふ、ガチ恋客に粘着されたときのヴァネッサみたいな顔してるね……。ちょうどよかったかも。俺もさ、ぶっ壊れたい気分なんだわ」
ルシアンは再び煙管を咥え、真っ白な煙を吐き出した。そして何かを思い出すように語り始める。
「俺さ、男になりたくなかったんだ。髭が生えるのも骨が太くなるのも全部気持ち悪くて、鏡を見る度に発狂しそうでさ。これ以上男になる前に死のうって思ってたときに『吸血鬼になれば成長を止めれる』って聞いて…………。だから人間捨ててやったのに」
ルシアンにとっては化粧もドレスも女めいた所作も全て「女になる」ためのものではなかった。生まれもった性に敢えて逆らう装い、所作をすることで自分を境界の存在にしていたのだ。
ネルは何も言わなかった。ただ青い瞳を紅く光らせながらルシアンを見つめるだけ。ルシアンは続ける。
「…………人間じゃなくなっても、俺みたいな半端者は存在しちゃいけないんだな」
自嘲するように笑ってみせるルシアン。だが、目が笑ってない。まるで効かないはずのアヘンでキマってるかのように。
「ねえ、めちゃくちゃにして。ねえ、壊してよ。今夜はそのために吸ったんだから」
ルシアンが言い終わるか否か、ネルは無言で彼に飛びかかった。ベッドが軋み、煙管が床に転がった。ルシアンも笑いながら、ネルのシャツを引き裂いた。
唇と唇がぶつかり合う。歯が割れるかと思うほど強く。
ネルの手がルシアンの髪を掴んで、頭をベッドに叩きつける。ルシアンのドレスを乱暴に剥ぎ、強引に脚を開かせる。自身の手の甲に香油を雑にかけるとルシアンのそこに無理やりねじ込む。長年女のそれのように散々慣らされてきたルシアンのそこは、ろくな下準備がなくても容易にネルの"ペニス"を飲み込めてしまう。それをいい事にネルはルシアンの中を自身の"ペニス"で乱暴に突いた。
「それでいいっ……それでいいのっ……もっと……もっと酷くしていいよ……」
ルシアンが喘ぐ。ネルの"ペニス"がルシアンの弱いところを責めると、彼は泣くような声をあげ、自身から透明な液を漏らした。
ネルはむちゃくちゃにルシアンを抱いた。そしてなぜか気がつくと、ルシアンの上に乗り、腰を振っていた。それと同時に、彼の白く細い首を両手で掴み、締め上げる。ルシアンは苦しげに笑った。彼の首を強く絞めるほどに、ネルの中にあるルシアンのそれが硬くなっていった。
「……これじゃっ……どっちが犯してるんだかっ……! ……っ!……わからないなっ……」
「……関係ないよ、ネル。ねえ……気持ちよければ、それでいいんでしょ……?」
ネルが怒りに似た何かで目を光らせた。
「気持ちよくなんかなれるか……こんな……!」
歯を食いしばりながら、ルシアンの首に爪を立てる。血が滲む。赤い液体が白い肌を汚す。それを舐め取るようにキスしながら、ネルも自分の爪で手首を裂いた。――再生する。一瞬で。血が溢れて、止まり、肉が閉じる。痛みは、すぐ消える。だからこそ、繰り返す。意味のない自傷を。
「ねえ、ネル。もっと……もっと俺をめちゃくちゃにして……!」
ネルは震える手で、ルシアンの胸を撫で、首に手を添え、再び絞めた。ルシアンの瞳が虚ろに揺れる。
「……お願い、今だけでも……“自分”でいさせてよ……」
その言葉に、ネルの手が止まった。首に手をかけたまま、ルシアンに顔を近づける。二人の額が触れ合った。
「お前も……そうなんだな」
「ああ。ずっと、そうだよ」
ルシアンはネルの手首を掴み、唇を寄せた。赤い爪でネルの皮膚を割く。再び血が流れ出す。そしてその血を舌で這いながら啜った。
「ん……ネルの味……たまんない……」
蕩けたような瞳でルシアンが呟いた。そして、ルシアンの黒い瞳が、ふと、揺れる。
上から見下ろすネルの顔を、ルシアンは息を呑むように見つめた。苦痛でも快楽でもなく、ただ、崇拝のような表情で。
「……やっぱり綺麗だね。ずるいよ、ネル……」
その声は甘えるようで、どこか苦しげでもあった。
「殴ってても、犯してても、犯されてても……どうしてそんなに、綺麗でいられるの? ねえ、なんで……? お前は、男にも女にもなれる。どっちでもないのに、どっちよりも綺麗……俺がなりたかった、全部を持ってる」
ルシアンは唇に着いたネルの血をぺろりと舐めとった。
「ねえ、病気もうつるなら、ネルの美しさも俺にうつしてよ……」
ネルの眉がぴくりと動いた。
目を細め、ふっと笑って――それはまるで刃を研ぐような笑みだった。
「それ以上綺麗になってどうする気だ?」
声は冷たく、挑発的だった。甘やかさも、優しさも、どこにもない。ただ命令するような、所有する者の声。
ぞくりとルシアンの背筋が震えた。
ネルは目を伏せ、しばらく沈黙する。そしてぽつりと呟いた。
「お前……僕のメスだろ」
ルシアンが微笑んだ。ほんのわずか、安堵のような色を含んで。
「ネルの、メスだよ。そう思ってくれるなら、それでいい」
静かな沈黙が流れた後――再び二人はむさぼり合った。
互いの「正気」や「過去」や「人間性」すら、引き裂くように。ぐちゃぐちゃに、暴力的に。
ネルは、生まれ持ったものに抗えず両性を生きた。
ルシアンは、生まれ持ったものを拒み、無性を選んだ。
それでも二人は、性という呪いを越えたところで、互いを映し合っていた。
この夜、2人の壊れかけた魂は触れ合いながら崩れていった。
扉の前の廊下には、ただ淡く灯るガス灯の明かりと、奥の部屋から洩れてくるくぐもった音があった。しばらく続いていた不穏なそれが、ようやく収まったころ。エレオノーラは薄暗い壁に背をもたせて、扉のすぐ脇にしゃがみこんだ。
誰にも見られていないことを確かめると、彼女は両手でスカートの裾をたぐり寄せ、無理やり膝を抱え込んだ。赤毛が肩に落ちるたび、扉の向こうのことが気になって仕方がなかった。扉の木の匂い。鉄の取っ手の冷たさ。ネルとルシアンの気配。心がざわついて、じっとしていられない。
扉の向こうから、何かが壊れていくような音がしていた。ベッドのきしみ、叫ぶような喘ぎ声、息を呑むような気配。
うずくまったその姿は、ただの子供に見える。けれど、エレオノーラの緑の瞳はどこまでも醒めていた。
「なあ、よく気が変にならないな」
通りすがりの吸血鬼が、吐き捨てるように言った。
「俺だったら気が狂う。……あんな奴らと並んで寝るとかお前も大分おかしいんじゃないのか?」
「おいおい、それは言ってやるなよ。こいつもあの下品なヴォルフガングの“作品”だろ?」
別の吸血鬼が冷笑を浮かべる。
「下品な師にイカれた添い寝仲間。いい趣味してるよ、ほんと」
彼らの笑い声が遠ざかっても、エレオノーラは顔を上げなかった。
ここにいてもいいものか。だが戻りたくない。あの男のところへは、絶対に戻りたくなかった。
それに――。
(わかってる。ネルは優しい。ルシアンのこと、ちゃんと受け止めてあげたかっただけ。……でも)
赤毛の毛先をいじりながら、誰にも見られないように眉をひそめる。胸の奥が、ずっと変なふうにざわついていた。そのまま数十分、あるいはもっと長く。
ときどき通りすがる吸血鬼たちが、ちらりと彼女を見やっては去っていく。
「……いつからこの部屋は壊れたおもちゃ専用になったんだ?」
通りすがりの男吸血鬼が鼻で笑い、ぼそりと毒を吐いた。さらに通りすがりの女吸血鬼が、面白がるような声で言う。
「そういうサロンか店でも開けばいいのに」
エレオノーラは何も言わずに膝を抱きしめたまま、ぎゅっと目を閉じた。静かになったのは、それからすぐだった。ボソボソ低い声で話す声がして、衣擦れの気配、そして足音。
ふと、気配が近づいてくる。扉の内側で立ち止まる音がして――ゆっくりと、ノブが回された。ネルだった。
シャツの襟元は乱れ、髪はしっとりと濡れて額に貼りついている。けれど、その目だけが妙に静かで、少し紅く潤んで見えた。本人にはまるで自覚がないのだろうが、どう見ても「事後感」がまとわりついていた。だが、そんなことよりエレオノーラの目に映ったのは、その言葉だった。その声音だった。
「……一人にして、悪かった」
その声に、エレオノーラは息を呑んだ。顔をあげ、まっすぐ彼の目を見る。一瞬、胸がぎゅっと締めつけられた。彼が壊れてしまうのを、彼女はたった一人で扉の外で聞いていたのだ。
エレオノーラは立ち上がり、小さく首を横に振った。
「ううん。いいの」
ネルは何も言わずに、そっと手を差し出した。エレオノーラは、その手に指を絡めるようにして応じる。二人は無言のまま、部屋の奥へと歩いていった。
部屋に入ると、ルシアンはベッドでタバコを吸いながら窓の外を眺めていた。何も言わず、二人に背を向けている。
ネルが毛布を広げて座ると、エレオノーラも隣に滑り込むように身を預ける。彼女の小さな手が、ネルの胸元のシャツの布をきゅっと掴んだ。
「私も、ネルみたいな金髪がよかったな」
不意にそんなことを呟いたエレオノーラに、ネルは少し驚いたように目を瞬いた。
「何を言うんだ、君の髪は……朝焼けみたいに綺麗じゃないか」
「ふふ。もう朝焼けなんて、見られないのに。私たち」
エレオノーラの言葉に、ネルは少しだけ笑って、首を横に振った。
「君の髪を見るたびに、遠い日の朝がよみがえるんだ。霧のなかで燃えるみたいに、淡くて、温かくて……」
「ネル……」
「君がここにいる限り、僕は朝を忘れずにいられる」
エレオノーラは、ネルの肩に頭を預けたまま、ぽつぽつと話し始めた。窓の方を向いていたルシアンが煙を吐きながらこちらを向く。
「お母さんと、同じなんだ。この髪の色。褒められたの、初めてだから……お母さん、きっと喜んでると思う」
ネルはしばらく黙って彼女の髪に指を通していた。
(家族か…………)
眠っていたものが、エレオノーラの言葉で目を覚ます。彼の瞳に、久しく見ていなかった邸のシルエットが浮かんでいた。
「……フィッツロイ邸、今はどうなってるのかな」
つぶやくようなその声に、エレオノーラは顔をあげた。ネルはゆっくりと彼女を見つめたあと、穏やかに微笑んだ。
ネルは自分が家を飛び出してからというもの、フィッツロイ邸周辺を避けていた。足を向けるたび、胸の奥に冷たい重さが沈んだ。
母、ヘンリエッタを手にかけたのは自分だ。キャロラインの瞳に焼きついた、自分の血塗れの姿。
それでも、終わったはずの「家」が、今もどこかに存在しているかもしれないと思うだけで、怖かった。
けれど今、腕の中にいるこの少女に、かつての自分を重ねてしまった以上――
目を背け続けることのほうが、よほど臆病なことのように思えた。
「……行ってみようか。久しぶりに」
「ちょっと、またあいつ……部屋で焚いてんの? 広間まで漏れてるじゃん。こないだヴァネッサ様に叱られたばかりだってのに」
若い吸血鬼の一人が顔をしかめ、袖で口元を押さえる。
「ああ、ルシアンだろ。間違いない、こないだよりひどい。臭くて堪らん。殺す気かよ」
広間にいる若手たちは揃って布で鼻を覆っていた。
「俺たち、もう人間じゃないんだからあんなもの吸ったところでキマんねえじゃん? なんで吸ってんの?」
「しらねー。ありゃもう儀式だろ。儀式。……ってか宗教だな。だから不死身になっても吸うのやめらんねえだろ」
「ねえ、聞いた? あいつ、アヘン中毒で死にかけてた時に吸血鬼にされたんだって。前パリから来た奴に聞いたんだけど、あいつがいた男娼館、男娼どもをアヘン漬けにすることで有名だったんだってよ。『煙管が首輪代わり』なんて言われてたらしいよ」
「うわ、それマジ? なんか納得だわ。頭おかしいもん」
「女の格好してるし。どうせ男に媚びたいだけでしょ」
「いや、でも“あの人”が連れてきたんでしょ? ヴァネッサ様が」
「まじかよ……やっぱりあの人趣味悪いよな。あの人のセンスだけは永遠に理解できない」
「てか、ここだけの話、アイツさ……昔好きだった男に言われたんだって。“どれだけ女に寄せても、本物の女には勝てないぞ”って。ヴァネッサとアイツ、2人で話してるの聞いちゃった」
「はは、それは刺さるなあ~! ぐっさり!」
「は? 女になりたかったってこと?」
「ほんとあいつ意味わかんねー」
「まあ、見た目だけならそこら辺の女よりずっと綺麗だけどな! 見た目だけなら!!」
若い吸血鬼たちがあれやこれやと噂話をする中、モーリスは腕を組み、芝居でも観るような表情で佇んでいた。ルパートもパイプを吹かしつつ顔をしかめてはいるが、年長者らしく何も言わず、ただ頭を横に振っていた。
と、そのとき。
廊下の向こうから足音が響いた。ヒールではない。軍靴のような、固い靴音。早足。リズムが乱れていた。
「うわ……帰ってきた」
「げげ、ヤバい奴がまた一人帰ってきた……!」
「部屋あんなにアヘン臭くして、あいつキレんじゃね?」
「……いや、あいつもキチガイだから。多分大丈夫。ルシアンといつもゲロ吐きあって飲みあってるじゃん。うーキモいキモい」
「でも、お嬢様だし……ほら、アレでしょ? 貴族の出なんでしょ?」
「元ね。元・お嬢様。今はただの……ヴァネッサの犬」
「あいつもあいつでルシアンとヤバくね?毎日毎日…………ヤッてんのか、殺し合ってんのかわかんねーよ。アレ聞いたら狼だってビビって退散していくぜ」
「今日はなお、ヤバそうだよな。あー勘弁してくれ。ゲロプレイ、アヘン、次は何だと思う?」
「やめろ、想像したくない」
「ぶっちゃけヴォルフガングの言う通りだよな。Invertってろくでもねえよ」
ネルが無言で通り過ぎる。青い瞳が赤く鈍く光っていた。若い吸血鬼たちは身をすくめ、道を開けるように左右に散る。ネルは彼らに目もくれず、自室の扉を荒々しく開けた。
部屋はアヘンの煙で満たされていた。レースのカーテンが揺れて、甘ったるい匂いが纏いつく。ルシアンは窓際の寝台で仰向けになり、ゆっくりと煙管を口に運んでいた。
「帰ってきたんだ?」
ぼんやりとした声で言う。目だけが、やけに冴えている。
ネルは無言でコートを脱ぎ、壁に叩きつけた。手袋を乱暴に引きちぎるように外す。その指の先は震えていた。
「……どうしたの?」
ルシアンは煙を吐きながら起き上がる。その仕草は、どこか猫のようにしなやかで、誘うようで、投げやりだった。
「……何か、あったの?」
ネルは答えず、ただルシアンの黒い目を見た。紅を塗った彼の赤い唇が微かに歪む。その顔は、どこか嬉しそうだった。
「ふふ、ガチ恋客に粘着されたときのヴァネッサみたいな顔してるね……。ちょうどよかったかも。俺もさ、ぶっ壊れたい気分なんだわ」
ルシアンは再び煙管を咥え、真っ白な煙を吐き出した。そして何かを思い出すように語り始める。
「俺さ、男になりたくなかったんだ。髭が生えるのも骨が太くなるのも全部気持ち悪くて、鏡を見る度に発狂しそうでさ。これ以上男になる前に死のうって思ってたときに『吸血鬼になれば成長を止めれる』って聞いて…………。だから人間捨ててやったのに」
ルシアンにとっては化粧もドレスも女めいた所作も全て「女になる」ためのものではなかった。生まれもった性に敢えて逆らう装い、所作をすることで自分を境界の存在にしていたのだ。
ネルは何も言わなかった。ただ青い瞳を紅く光らせながらルシアンを見つめるだけ。ルシアンは続ける。
「…………人間じゃなくなっても、俺みたいな半端者は存在しちゃいけないんだな」
自嘲するように笑ってみせるルシアン。だが、目が笑ってない。まるで効かないはずのアヘンでキマってるかのように。
「ねえ、めちゃくちゃにして。ねえ、壊してよ。今夜はそのために吸ったんだから」
ルシアンが言い終わるか否か、ネルは無言で彼に飛びかかった。ベッドが軋み、煙管が床に転がった。ルシアンも笑いながら、ネルのシャツを引き裂いた。
唇と唇がぶつかり合う。歯が割れるかと思うほど強く。
ネルの手がルシアンの髪を掴んで、頭をベッドに叩きつける。ルシアンのドレスを乱暴に剥ぎ、強引に脚を開かせる。自身の手の甲に香油を雑にかけるとルシアンのそこに無理やりねじ込む。長年女のそれのように散々慣らされてきたルシアンのそこは、ろくな下準備がなくても容易にネルの"ペニス"を飲み込めてしまう。それをいい事にネルはルシアンの中を自身の"ペニス"で乱暴に突いた。
「それでいいっ……それでいいのっ……もっと……もっと酷くしていいよ……」
ルシアンが喘ぐ。ネルの"ペニス"がルシアンの弱いところを責めると、彼は泣くような声をあげ、自身から透明な液を漏らした。
ネルはむちゃくちゃにルシアンを抱いた。そしてなぜか気がつくと、ルシアンの上に乗り、腰を振っていた。それと同時に、彼の白く細い首を両手で掴み、締め上げる。ルシアンは苦しげに笑った。彼の首を強く絞めるほどに、ネルの中にあるルシアンのそれが硬くなっていった。
「……これじゃっ……どっちが犯してるんだかっ……! ……っ!……わからないなっ……」
「……関係ないよ、ネル。ねえ……気持ちよければ、それでいいんでしょ……?」
ネルが怒りに似た何かで目を光らせた。
「気持ちよくなんかなれるか……こんな……!」
歯を食いしばりながら、ルシアンの首に爪を立てる。血が滲む。赤い液体が白い肌を汚す。それを舐め取るようにキスしながら、ネルも自分の爪で手首を裂いた。――再生する。一瞬で。血が溢れて、止まり、肉が閉じる。痛みは、すぐ消える。だからこそ、繰り返す。意味のない自傷を。
「ねえ、ネル。もっと……もっと俺をめちゃくちゃにして……!」
ネルは震える手で、ルシアンの胸を撫で、首に手を添え、再び絞めた。ルシアンの瞳が虚ろに揺れる。
「……お願い、今だけでも……“自分”でいさせてよ……」
その言葉に、ネルの手が止まった。首に手をかけたまま、ルシアンに顔を近づける。二人の額が触れ合った。
「お前も……そうなんだな」
「ああ。ずっと、そうだよ」
ルシアンはネルの手首を掴み、唇を寄せた。赤い爪でネルの皮膚を割く。再び血が流れ出す。そしてその血を舌で這いながら啜った。
「ん……ネルの味……たまんない……」
蕩けたような瞳でルシアンが呟いた。そして、ルシアンの黒い瞳が、ふと、揺れる。
上から見下ろすネルの顔を、ルシアンは息を呑むように見つめた。苦痛でも快楽でもなく、ただ、崇拝のような表情で。
「……やっぱり綺麗だね。ずるいよ、ネル……」
その声は甘えるようで、どこか苦しげでもあった。
「殴ってても、犯してても、犯されてても……どうしてそんなに、綺麗でいられるの? ねえ、なんで……? お前は、男にも女にもなれる。どっちでもないのに、どっちよりも綺麗……俺がなりたかった、全部を持ってる」
ルシアンは唇に着いたネルの血をぺろりと舐めとった。
「ねえ、病気もうつるなら、ネルの美しさも俺にうつしてよ……」
ネルの眉がぴくりと動いた。
目を細め、ふっと笑って――それはまるで刃を研ぐような笑みだった。
「それ以上綺麗になってどうする気だ?」
声は冷たく、挑発的だった。甘やかさも、優しさも、どこにもない。ただ命令するような、所有する者の声。
ぞくりとルシアンの背筋が震えた。
ネルは目を伏せ、しばらく沈黙する。そしてぽつりと呟いた。
「お前……僕のメスだろ」
ルシアンが微笑んだ。ほんのわずか、安堵のような色を含んで。
「ネルの、メスだよ。そう思ってくれるなら、それでいい」
静かな沈黙が流れた後――再び二人はむさぼり合った。
互いの「正気」や「過去」や「人間性」すら、引き裂くように。ぐちゃぐちゃに、暴力的に。
ネルは、生まれ持ったものに抗えず両性を生きた。
ルシアンは、生まれ持ったものを拒み、無性を選んだ。
それでも二人は、性という呪いを越えたところで、互いを映し合っていた。
この夜、2人の壊れかけた魂は触れ合いながら崩れていった。
扉の前の廊下には、ただ淡く灯るガス灯の明かりと、奥の部屋から洩れてくるくぐもった音があった。しばらく続いていた不穏なそれが、ようやく収まったころ。エレオノーラは薄暗い壁に背をもたせて、扉のすぐ脇にしゃがみこんだ。
誰にも見られていないことを確かめると、彼女は両手でスカートの裾をたぐり寄せ、無理やり膝を抱え込んだ。赤毛が肩に落ちるたび、扉の向こうのことが気になって仕方がなかった。扉の木の匂い。鉄の取っ手の冷たさ。ネルとルシアンの気配。心がざわついて、じっとしていられない。
扉の向こうから、何かが壊れていくような音がしていた。ベッドのきしみ、叫ぶような喘ぎ声、息を呑むような気配。
うずくまったその姿は、ただの子供に見える。けれど、エレオノーラの緑の瞳はどこまでも醒めていた。
「なあ、よく気が変にならないな」
通りすがりの吸血鬼が、吐き捨てるように言った。
「俺だったら気が狂う。……あんな奴らと並んで寝るとかお前も大分おかしいんじゃないのか?」
「おいおい、それは言ってやるなよ。こいつもあの下品なヴォルフガングの“作品”だろ?」
別の吸血鬼が冷笑を浮かべる。
「下品な師にイカれた添い寝仲間。いい趣味してるよ、ほんと」
彼らの笑い声が遠ざかっても、エレオノーラは顔を上げなかった。
ここにいてもいいものか。だが戻りたくない。あの男のところへは、絶対に戻りたくなかった。
それに――。
(わかってる。ネルは優しい。ルシアンのこと、ちゃんと受け止めてあげたかっただけ。……でも)
赤毛の毛先をいじりながら、誰にも見られないように眉をひそめる。胸の奥が、ずっと変なふうにざわついていた。そのまま数十分、あるいはもっと長く。
ときどき通りすがる吸血鬼たちが、ちらりと彼女を見やっては去っていく。
「……いつからこの部屋は壊れたおもちゃ専用になったんだ?」
通りすがりの男吸血鬼が鼻で笑い、ぼそりと毒を吐いた。さらに通りすがりの女吸血鬼が、面白がるような声で言う。
「そういうサロンか店でも開けばいいのに」
エレオノーラは何も言わずに膝を抱きしめたまま、ぎゅっと目を閉じた。静かになったのは、それからすぐだった。ボソボソ低い声で話す声がして、衣擦れの気配、そして足音。
ふと、気配が近づいてくる。扉の内側で立ち止まる音がして――ゆっくりと、ノブが回された。ネルだった。
シャツの襟元は乱れ、髪はしっとりと濡れて額に貼りついている。けれど、その目だけが妙に静かで、少し紅く潤んで見えた。本人にはまるで自覚がないのだろうが、どう見ても「事後感」がまとわりついていた。だが、そんなことよりエレオノーラの目に映ったのは、その言葉だった。その声音だった。
「……一人にして、悪かった」
その声に、エレオノーラは息を呑んだ。顔をあげ、まっすぐ彼の目を見る。一瞬、胸がぎゅっと締めつけられた。彼が壊れてしまうのを、彼女はたった一人で扉の外で聞いていたのだ。
エレオノーラは立ち上がり、小さく首を横に振った。
「ううん。いいの」
ネルは何も言わずに、そっと手を差し出した。エレオノーラは、その手に指を絡めるようにして応じる。二人は無言のまま、部屋の奥へと歩いていった。
部屋に入ると、ルシアンはベッドでタバコを吸いながら窓の外を眺めていた。何も言わず、二人に背を向けている。
ネルが毛布を広げて座ると、エレオノーラも隣に滑り込むように身を預ける。彼女の小さな手が、ネルの胸元のシャツの布をきゅっと掴んだ。
「私も、ネルみたいな金髪がよかったな」
不意にそんなことを呟いたエレオノーラに、ネルは少し驚いたように目を瞬いた。
「何を言うんだ、君の髪は……朝焼けみたいに綺麗じゃないか」
「ふふ。もう朝焼けなんて、見られないのに。私たち」
エレオノーラの言葉に、ネルは少しだけ笑って、首を横に振った。
「君の髪を見るたびに、遠い日の朝がよみがえるんだ。霧のなかで燃えるみたいに、淡くて、温かくて……」
「ネル……」
「君がここにいる限り、僕は朝を忘れずにいられる」
エレオノーラは、ネルの肩に頭を預けたまま、ぽつぽつと話し始めた。窓の方を向いていたルシアンが煙を吐きながらこちらを向く。
「お母さんと、同じなんだ。この髪の色。褒められたの、初めてだから……お母さん、きっと喜んでると思う」
ネルはしばらく黙って彼女の髪に指を通していた。
(家族か…………)
眠っていたものが、エレオノーラの言葉で目を覚ます。彼の瞳に、久しく見ていなかった邸のシルエットが浮かんでいた。
「……フィッツロイ邸、今はどうなってるのかな」
つぶやくようなその声に、エレオノーラは顔をあげた。ネルはゆっくりと彼女を見つめたあと、穏やかに微笑んだ。
ネルは自分が家を飛び出してからというもの、フィッツロイ邸周辺を避けていた。足を向けるたび、胸の奥に冷たい重さが沈んだ。
母、ヘンリエッタを手にかけたのは自分だ。キャロラインの瞳に焼きついた、自分の血塗れの姿。
それでも、終わったはずの「家」が、今もどこかに存在しているかもしれないと思うだけで、怖かった。
けれど今、腕の中にいるこの少女に、かつての自分を重ねてしまった以上――
目を背け続けることのほうが、よほど臆病なことのように思えた。
「……行ってみようか。久しぶりに」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる