紅き再誕-朝焼けに君を見た-

泉 沙羅

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XXII 神に背き、神に赦され

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 教会の扉が重く閉じられたあと、外の石畳には冷たい夜気が満ちていた。
 ルシアンはその場に立ち尽くしていたが、次の瞬間、怒りにも似た衝動に駆られたようにネルへと飛びかかる。

「……っ、ネル……!」

 その身体にすがりつき、唇をむさぼるように押し当てる。それは愛情というにはあまりに粗暴で、キスというにはあまりに悲痛だった。狂気じみた焦燥と、自棄と、自分でも持て余した感情の全てを、ルシアンはネルにぶつけていた。まるで、自分がここに生きていることを確かめるためだけに。
 ネルは何も言わず、されるがままにその口づけを受け止めていた。目を伏せ、静かに。けれどその瞳には、どこか遠い場所を見ているような色があった。

 少し離れた位置で、それを目撃してしまった2人がいた。

「……うわ」

 メイヴがわずかに眉をひそめ、目を逸らす。

「子供が見るもんじゃないわ」

「16歳……子供じゃない」

 ジェイミーがはっきり言い返した。2人とも夜の街の見回りも兼ね、やつれたルーカスが心配でやってきたのだった。

「……それに、あれは情事じゃない。
 あの吸血鬼……泣けないから、代わりにキスしてる。
 あの金髪の奴も、それを受け止めて、自分が砦みたいになってる。多分、もう全部どうでもいいんだ。死にたいのに死ねない奴の顔してる」

 メイヴはぎょっとしてジェイミーを見た。肉体だけでなく価値観も若いジェイミーの観察眼は母を圧倒することも珍しくなかった。

「……あんたの目、ほんと怖いわ」

 力が抜けたように、彼女はその場にしゃがみ込む。夜の冷たさに肩をすくめながら、呟く。
「あの子たちも、あんたと変わらない歳で吸血鬼になったんだろうなあ……」

 そのとき、キスをしていたはずのネルとルシアンが、いつのまにか2人の近くまで来ていた。
 ルシアンは、見られていたことに気づくと、唇を引きつらせて一気に噛みつくように叫ぶ。

「……何見てやがる!!」

 その目は怒りというよりも、ただ泣きたいのに泣けない子供の目だった。
「スレイヤーのくせに、覗き趣味かよ……! あんたの相棒のせいで……ヴァネッサは死にそうなんだよ!」

 メイヴは完全に状況を把握できず、目を丸くして一言言った。

「は?」

 ルシアンの叫び声が夜気を裂いたあと、ネルが静かに口を開いた。

「……落ち着け、ルシアン。また言ってることがめちゃくちゃだ」

 声は淡々としていたが、微かに冷たさと疲労が滲んでいた。ルシアンは一瞬言葉を失い、息を荒くして俯いた。
 ネルはメイヴに向き直る。彼の表情は、もう人間のそれではなかった。深い哀しみと、乾いた諦念と、何より長い夜を知る者の静けさがあった。

「……吸血鬼は人間に恋をすると、その人間の血しか飲めなくなる。そして、血を飲み尽くしたら……そのまま餓死するしかない」

 メイヴの表情が、見る見るうちに青ざめていく。「そんな……」と呟き、唇がわななく。

「そんなことになったら、あいつのことだから……迷いなく一緒に死ぬって言うわよ……!」

 肩が震えていた。怒りと恐怖と、後悔にも似た感情がないまぜになって、彼女の瞳に溢れていた。
ジェイミーは黙って隣に立ち、ただ小さく息を呑んだ。

「……あいつ、本当に馬鹿だわ」
 メイヴは髪を掻きむしった。
「スレイヤーのくせに、吸血鬼に深入りするから……!」

 その声は罵倒のようでいて、ひどく哀しかった。
 その横で、ジェイミーが母親をじっと見つめた。言葉はない。ただ静かで、どこか咎めるような視線だった。まるで「それは母さんも同じだろ」とでも言うように。

「……何よ、その目」

 ジェイミーは答えない。

「あんたいつも冷静に大人ぶって何なのよ! 父親が死んだときだって弟妹がわんわん泣く中、そうやって底の抜けた井戸みたいな目をして!! 少しは子供らしく泣き叫びなさいよ!!」

 声が響いた。メイヴ自身、何に対して怒っているのかわからないような声だった。

 メイヴがジェイミーに声を荒げているその時、ルシアンも不意にネルの胸倉を掴んで叫んだ。

「お前もだよ! 何さっきから冷静な面してやがるんだよ! 普段人間臭いくせに、ここにきて吸血鬼らしくなる気かよ!! 少しは慌てろよ、叫べよ!!」

 ネルは一瞬、面食らったように目を見開いたが、すぐに息を吐いて視線を逸らした。

「…………」

 ネルもジェイミーと同じく、死んだような目をして、何も答えない。その様子にさらに苛立ったのか、ルシアンが重ねてネルに怒鳴りつける。

「お前なあ!!…………えっ……」

 その瞬間、ネルの背後にふと人影が揺れた。誰かが立っている──そんな錯覚が、ルシアンの視界に焼きつく。
 それは、儚げに微笑む少女だった。淡い色のドレス、赤毛に緑の瞳。そして胸元には、どこかで見覚えのある白い花──あの時、ルーカスが墓に手向けていた花。

(エレオノーラ?)

 気のせいかもしれない。それでもルシアンの心臓は跳ね上がった。目を凝らすも、そこにはもう誰もいない。
 けれど、何かが胸に残った。言葉ではない、まるで彼女の目線だけが問いかけてきたような──「それでいいの?」と。
 ルシアンは力が抜けたように立ち尽くし、やがてゆっくりとネルの肩にもたれかかる。

「ごめん、八つ当たりだった。お前だって平気なわけじゃないのにな」

 まるで熱が引いたように、彼の声は静かだった。
 それを見てメイヴも目を覚ましたようだった。

「私もごめんなさい、ジェイミー。大人げなかったわ」


*****

 礼拝堂の扉が軋む音を立てて開いた。メイヴとジェイミーは静かに足を踏み入れる。教会の中はすっかり静まり返っていた。
 祭壇に向かう通路の脇、会衆席の一角──そこにルーカスが座っていた。
 膝の上にはヴァネッサの細い身体。その顔色は死人のように青白い。もう目を開けているのがやっとのようだった。彼女の頬にそっと手を当て、ルーカスは一心に何かを祈るような顔をしていた。

「……ルーカス」

 メイヴが震える声で呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げる。瞳の奥に浮かぶのは、諦めと決意。どこか晴れやかですらあった。

「メイヴ。俺、決めたんだ。彼女と……運命を共にする」

 その言葉に、ジェイミーが息を呑むのが聞こえた。そして、次の瞬間──

「……誰が死ねって言ったのよ!!」

 メイヴが怒声と共にルーカスに詰め寄る。乾いた音が教会に響く。メイヴがルーカスの頬を平手で打ったのだ。もう一度、そしてもう一度。

「この馬鹿!!馬鹿!!大馬鹿者!!なんで……なんでよ!!」

 泣き叫びながら叩き続ける彼女を、ジェイミーがそっと止めた。

「やめて……そんなことしたって、どうにもならないから」

 メイヴの肩が崩れるように落ちる。彼女はジェイミーの胸に顔を埋め、ようやく堰を切ったように泣き崩れた。
 ジェイミーは母の頭を抱き、何も言わずにそっと抱きとめる。

「……ありがとう、メイヴ。……ジェイミーも」

 背中越しに届いたルーカスの声は、柔らかく、しかしどこまでも遠く感じられた。

***

 教会の外へ出ると、メイヴはジェイミーの腕の中から抜け出し、夜空を仰いだ。涙で濡れた顔に冷たい風が吹きつける。

「……私、引退するわ」

「……え?」

 ジェイミーが驚いたように目を見開く。メイヴは20年以上スレイヤーとして闘ってきたが、実際彼女のように40歳を過ぎても現役でいつづけるスレイヤーはそう多くはなかった。

「もう無理。だって……吸血鬼を目の前にしても、全然狩る気力が湧かないのよ」
 メイヴは自嘲気味に笑ってから、ぽろりとまた涙をこぼす。

「こうなっちゃ……おしまいよ、ほんとに」

 ジェイミーはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……うん」

 それだけを言って、メイヴの手をそっと握った。


 教会の中、静まり返った礼拝堂に、微かに朝の気配が差し込もうとしていた。
 ヴァネッサはルーカスの腕の中に身を預け、儚げに微笑んだ。

「……いい仲間を持ったわね」

 か細い声。ルーカスは彼女の髪を撫でながら、穏やかに笑う。

「ああ。俺には勿体ない仲間たちだった」

 ヴァネッサはまぶたを閉じ、遠くを見るように言う。

「もうすぐ夜明けよ。でも、私はもう逃げる力もない。でも――それでいいの。あんたの腕の中で死ねるなら」

 しばらく静寂が満ち、そして、ふたりは見つめ合った。

「……キスしてもいい?」

 ルーカスがそう問うと、ヴァネッサはふっと息を漏らし、かすかに頷いた。彼らの唇が触れあったその瞬間、教会の空気がふるえるように澄みわたった。長く、静かで、名残惜しい口づけ。
 唇を離すと、ルーカスは彼女の手を握ったまま、絞り出すように言った。

「僕の血を、最後まで吸い尽くしてくれ。君がいなくなるなら……僕も一緒にいきたい」

 ヴァネッサはしばらくルーカスを見つめ――小さく笑う。

「ほんと、あんたって馬鹿……でも、ありがとう」

 やがて、ステンドグラスの外が淡く白みはじめた。ヴァネッサはルーカスの首筋にそっと唇を寄せ、深く、牙を沈めた。彼の体が一瞬びくりと跳ねる。腕に、最後の力を込めて彼女を抱きしめる。血が流れ、命が交わり、そして――すべてが終わった。
 彼の腕の中でヴァネッサは、穏やかに目を閉じる。

「……これで、満たされたわ」

 彼女はルーカスの頬にそっと手を添える。

「もう……思い残すことはない」

 その瞳から、ひとしずくの涙が零れ落ちた。吸血鬼となってから初めて流した、たったひとつの涙。それは神の赦しだった。
 陽光がステンドグラスを抜け、礼拝堂を満たすその瞬間――彼女の体は、やさしい光の中で灰となり、ルーカスの腕の中に崩れ落ちた。
 灰の中には、ひとつだけ、焦げ跡すらないものが残されていた。それは、弟がかつて彼女に贈った、あの小さな木彫りの人形だった。

 後日。ルーカスは「衰弱死」とされ、助任司祭としての葬儀が行われた。静かな葬列には、妹夫婦らしい姿も見えた。
 誰も知らないところで、石造りの墓のそばに立つ二人の影があった。メイヴとジェイミーだ。
 メイヴはハンカチで目元を拭いながら、そっと骨壷を抱えていた。中には、ヴァネッサの灰と、あの人形。

「……ほんとはこんなことしちゃいけないのよ。でも、まあ……いいわよね」

 ルーカスの墓石の前にしゃがみ込み、メイヴはそっと土を掘る。布に包まれた小さな骨壺と、あの人形。

「どうか、安らかに……」

 彼女は静かにそれらを埋め、土を戻した。ジェイミーは何も言わず、その背にそっと手を添えた。
 静かに墓が閉じられ、やがて聖歌が流れ始めた。かつて神に仕えた男のための、最後の祝福だった。
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