夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Prologue Side Samantha

Side Samantha I 夢の中の姫

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 ――それは夢だった。けれど、あまりに鮮やかで、まるで昔の記憶のようだった。
 微かに、埃の匂いのする廊下。ワックスのかけられた木の床。磨き上げられた真鍮の取っ手。時代に合わないほど格式ばった、けれどどこか懐かしい邸宅の一室。

 「この子が、新しく入った小間使いの子です」

 そう紹介されて、私は震える足を隠すのに必死だった、
まだ12か13の、痩せっぽちで、真っ直ぐに目を見ることができない――それが「わたし」。
 わたしの前にいたのは、まるで光でできているような人だった。
 長いアッシュブロンド、雪のように白い肌、見下ろす目は湖のように青く、けれど冷たくはなかった。むしろその瞳は、ずっと誰かを待っていたような――そんな寂しさを湛えていた。ドレスは絹で、裾が床を滑るように動いた。
 背筋の伸びた立ち姿。まるで物語の中のお姫さま。でも、ただの「お姫さま」じゃなかった。孤独を纏っていた。寂しさと悲しみを纏っていた。
 その人はわたしに一歩近づいて、少しだけ顔を傾けた。

 「あなた、名前は?」

 優しい声だった。わたしはとっさに名乗ろうとして――声が出なかった。
 ただその人の顔を見つめるしかなかった。ああ、知ってる、この人を――ずっと、ずっと前から。その瞬間、胸がちくりと痛んだ。


****


――目を開けると、そこはベッドの上だった。
 目覚ましの音は、夢の余韻を無情に削り取っていく。サマンサ・アツコ・タカハシは、荒く息をついた。
 夢の中の彼女の名前は思い出せない。でも、目の奥に焼き付いて離れない。
 ――金髪。青い瞳。凛とした立ち姿。サマンサはそっと自分の胸元を押さえる。まるで誰かに呼ばれているような気がした。
 モヤモヤとした気持ちのまま体を起こす。もう大学へ行かなければいけない時間だ。
 カーテンを引いて外を見るとロサンゼルスのからりとした青空が広がっていた。
 モントリオールの空はいつも雲ばかりだった、とサマンサは思う。

 ここロサンゼルスに来てから3年になるが、サマンサが生まれたのはモントリオールだった。

 凍った匂いがする街、モントリオール。
 真っ白な雪の上を歩いても、彼女の足跡はすぐに消えた。
 21世紀に入りもう20年以上が経過し、カナダの社会もだいぶ寛容になった。それでもカナダの白人たちは彼女を「アジア系」と呼び、通りすがりに侮蔑的な言葉を投げかけて来ることも度々あった。
 サマンサがプライマリースクールを卒業する頃、両親が離婚した。原因は父親の浮気だった。母親はそれを「最善の選択だった」と言ったが、サマンサにとってはただ「自分が選ばれなかった」記憶だけが残った。
 中学3年間は、母親の仕事の都合で日本で暮らすことになった。日系三世である母も、四世である自分も幼少から日本語学校に通っていたので、言葉の問題はほぼなかった。母の日本への転勤が決まったのも語学力を買われたからだ。
 しかし、日本の常識や礼儀作法もわからない少女に、同年代の日本人たちは容赦なかった。

「欧米被れのくせに見た目は日本人って、いちばん痛いやつじゃん」
「ぷっ。『サマンサ』って何? そういう名前って金髪で青い目の美少女に付けられる名前でしょ? 地味ブスのあんたには『サダコ』とかの方があってるでしょ。みなさーん、『名前負け』のお手本がここにいますよー!」

 給食のパンが、顔に投げつけられた。さほど痛くはない。熱くも冷たくもない。乾いた、ただのパンだった。

「あっはっは!誰が上手いこと言えと!」
 ただ、クラスメイトたちの笑い声が刺さった。サマンサの父親はフランス系だったが、母方の血が濃く出ていたサマンサは日本人とほぼ変わらない容姿をしていた。
 一方で、隣のクラスには日英ミックスの少女がいたのだが、彼女は彫りの深い顔立ちをしていて手足がスラリと長く、髪や瞳の色素が薄かった。サマンサが「痛々しい日本人」呼ばわりされる一方で、彼女は「かっこいいハーフ」と崇拝されていた。
 ショックだった。サマンサは自分の先祖たちが愛した古き良き日本を愛していたから。日本人を自分の同胞と思っていたから。だが、日本人はサマンサを同胞とは認めなかった。
 それでも、生きるしかなかった。
 サマンサの母親は強かった。名門マギル大学を首席で卒業し、企業でのし上がり、白人の中でも引けを取らない「成功した日系人女性」として扱われていた。それゆえに娘であるサマンサには一切の甘えを許さなかった。

「自分の人生に責任を持ちなさい。私はそうやってきたの」

 そう言いながらも、母はサマンサが外でうまくやれないことに苛立ち、時に涙を浮かべて叫んだ。

「なんであんたは、私のようになれないの?」

 サマンサは答えられなかった。答えを持っていなかった。
 高校3年の冬、忘れかけていた父方の祖母から連絡があった。そして、サマンサは初めて知ることになる。父が20代の頃、アメリカ国籍を取得していた二重国籍者であることを。つまり、サマンサもカナダとアメリカの二重国籍者ということになる。母は、娘が自由になる可能性を恐れてその事実を隠していた。日々サマンサを「出来の悪い娘」とは言っていたが、「出来の悪い娘の面倒を見てあげている自分」に酔っていたから。
——けれど、サマンサは逃げ出した。
 母の支配から。モントリオールの雪の記憶から。過去の自分から。
 逃げるように選んだ進学先が、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)だった。
 奨学金を三つ掛け持ち、キャンパスのカフェでバリスタのバイトをしながら、サマンサは何とか「自由な世界」で生きていた。少なくともそう思っていた。
 大学3年生の夏、USC(南カリフォルニア大学)との共同映画制作プロジェクトに参加が決まったとき、真っ先に耳に入ってきた「その名前」。

「USCに、フィッツロイっていう美形がいる」

「男?女?」「たぶん男だけど、あれはもう異次元の存在」「絵画みたい」「バーバリーの広告にいそうな顔」と、とにかく話題に事欠かなかった。

「しかも、演出も衣装も演技もできる。成績もピカイチ。完璧主義でクールで、でもすっごく礼儀正しいってさ。なんかイングランド出身の『貴族』らしいよ」

 貴族? まさか、と思いつつ、編集担当のサマンサはキャスティング表にその名前を見つける。

Fitzroy, Nathaniel(ネイサニエル・フィッツロイ)

——名前からして、異世界。
 初めて対面したのは、UCLA&USC共同プロジェクト映画「サロメ」制作のキックオフミーティングだった。

「はじめまして。USCのネイサニエル・フィッツロイです。ネルと呼んでください。お目にかかれて光栄です」

 低く、穏やかな声。仕草のひとつひとつに研ぎ澄まされた所作が宿る。
 髪は顎より少し長いアッシュブロンド。彫刻のように整った顔立ち。顔だけでなく頭のてっぺんからつま先まで黄金比のごとく整った骨格。サマンサは一瞬、言葉を失った。
――理想だった。サマンサが「なれなかった」全部を、彼は持っていた。透けるような白い肌、金髪、宝石みたいな青い目。言葉遣い、仕草、微笑みの一つ一つが、まるで映画の中の「正しい白人の美しさ」そのものだった。それが、生まれついてのもので努力では手に入らないと、すぐにわかってしまった。
 サマンサは思った。
 ずるい。綺麗すぎて、ずるい、と。
――でも、なぜだろう。あの目の奥には、どうしようもない孤独みたいなものが見えた気がして。
 ……知ってる、と思った。どこかで、あの目を。昔、夢で見た気がする。……なんで、知ってるんだろう、と。

 ただ、見た目だけでは性別がわからなかった。だが、誰よりも礼儀正しく、控えめで、時折見せる微笑が、どこまでも紳士的だった。
——男、だよね。そうだよね。名前 "Nathaniel(ネイサニエル)"だし。……でも、どこかで会ったことがある気がした。いや、会ったはずはない。だけど、胸の奥が妙にざわつく。
――この人、知ってる……?
 名前も、声も、何ひとつ知らないはずなのに。

 配役が発表された日、サマンサは編集用のスクリプトを手にしながら、担当教員の話に耳を傾けていた。

「USC側からの推薦で、サロメ役はフィッツロイ君に決まりました。異論がなければこれで進めます」

 ざわめきが、会場を包んだ。

「え、フィッツロイって……あの美形の?」
「サロメって女の役じゃん? 彼、男でしょ?」
「でも、なんか……納得しちゃうな」

 サマンサも、思わずスクリプトから顔を上げた。ネイサニエル・フィッツロイ。あの「絵画の中から出てきたような顔」の子。
 それまで一度も大きな声で話すことがなく、目立つことも避けていた彼が、サロメ? しかも、本人の立候補ではなく、推薦?なぜ。
 その答えは、翌週の演技練習で明らかになる。
 舞台の中央に立ったネルは、衣装に着替えたあと、まるで「女神」のような存在に変貌していた。
 彼のアッシュブロンドに合わせた長いウィッグ、白い肌に、薄く塗られたルージュ。ゆっくりと流れるような身のこなし。身にまとった絹のヴェールは、舞台照明に透け、胸の膨らみがないはずの身体に、確かな色気と曲線を与えていた。
――サロメがいた。
 ここはロサンゼルスのスタジオではなかった。ヘロデ王の宮殿だった。
 ネルは「女性」ではなかった。だが、確かに「女」だった。
 サマンサは、まばたきすら忘れて、その姿を見つめていた。
 彼がこの役に立候補したわけではない。誰かが「彼にしかできない」と判断して、あてがったのだ。そして彼は、それに応えた。完璧以上に。

「この人は……いったい、何者なんだろう?」

 その疑問が、この物語のすべてのはじまりだった。




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