夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Prologue Side Samantha

Side Samantha II 毒を知らないサロメ

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 午後の稽古場は、ライトも当たらず曖昧な色合いの静寂に包まれていた。
 黒い床にはテープの印がいくつも走り、天井から吊られた照明は仮組みのまま。その中央に、ネルが立っていた。
 どこまでも美しい金髪と、少女のように繊細なラインを持つ体。サロメの衣装を纏ってなお、彼は「穢れなき聖女」のようだった。
 そのとき、舞台の奥から声が飛んだ。

「――君のサロメ、すごく綺麗なんだが……綺麗すぎるんだよね」

 教授が、古びた演出席の椅子からゆっくりと身を乗り出した。椅子の軋む音が、小さく響く。
 その一言で、稽古場の空気が張り詰めた。まるで誰かが息を止めたようだった。
 教授――エリオット・マルシャン。
かつてベルリン国際映画祭で審査員賞を受賞し、今はLAの大学の演劇学科で気まぐれに教鞭を執っている、と噂される、伝説的な映画監督。
 その口から出た評価には、皆が耳を澄ませずにいられない。

「サロメはね、男を翻弄して破滅させる『ファム・ファタール』だ。美しいだけじゃ足りないんだよ。君のサロメはね、清らかすぎて、赦しを与えそうなんだよ。殺しちゃいけない気にさせる。それじゃダメなんだ。『踊って、欲望させて、破滅させる女』になってくれないと。君のサロメは……『聖女』だ。綺麗すぎて、怖くない」

 教授の目が細くなる。

「君は――清らかすぎるんだよ、ネル」

 ネルは何も言わなかった。その場に張り付いたように、肩を落としたまま、ただ小さく頷いた。
 目を伏せ、唇を噛んで……その顔は、どこか、沈んでいくようだった。
 サマンサは、その様子を舞台袖の暗がりから見つめていた。手には未編集のフッテージが入ったノートPC。編集の合間に、つい目が舞台へ引き寄せられてしまっていた。

――なるほど。確かに、教授の言う通りだ。美しい。完璧に、美しい。でも、それだけじゃファム・ファタールにはならない。ネイサニエル・フィッツロイ……さて、どう出る?

 舞台の上のネルは、まるで何かを思い出すような表情で、目を伏せたままだった。

 静かな部屋に、映像の再生音とキーボードのクリック音だけが響いている。サマンサは一人、編集用のPCと向かい合っていた。画面には、ネルが「サロメ」を演じている姿。

 サロメがヨカナーンに向かって踊る直前――まるで祈るように男に手を伸ばす。
 その手の伸ばし方は、「ゴルゴダの丘で死にゆく者に水を与える聖ヴェロニカ」のようで。
 「欲望」とは真逆の方向にあって、見る者を翻弄するどころか、ただ静かに泣きたくさせるだけだった。その一瞬をコマ送りにして確認する。

――綺麗すぎる。……教授が言ってたの、こういうことか。

 そのとき――背後からふいに声がした。

「なるほど、これはサロメじゃない」

 一瞬、心臓が跳ね上がった。驚いて振り返ると、そこにいたのは――ネイサニエル・フィッツロイ。

 編集室の薄暗い明かりの中で、彼女――いや、彼は画面を覗き込んでいた。近い。美しい。そして……近すぎる。

「……ちょ、ちょっと、心臓止まるかと思ったんだけど」

 サマンサがそう言うと、ネルはほんの少し微笑んだ。

「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど……あんまり真剣な顔で見てるから、つい」

 その笑顔に、再びサマンサの呼吸が止まりそうになる。

「え、あ、いや……その、あなたこそ……さっきの言葉、どういう意味?」

 ネルは視線を画面に戻しながら、静かに言った。

「サロメは、自分の美しさと男の欲望を利用してる。でも僕のサロメはただの哀れな女になってる。……正直に言うと、あの教授の言う『毒』って、僕にはよくわからないんだ」

 サマンサは少しだけ息を飲む。

――ああ、この人……やっぱり『本当にわかってない』んだ

 でも、そのことに少しだけ――親近感すら覚える。

「……『毒』って、最初から持ってる人と、持ってない人がいるんだと思うよ。私も、多分持ってない側。……でも、それでも『持ってるふり』はできる。演技ならね」

 そう返すと、ネルは少しだけ目を細めた。

「君、強いね」

「いや、強がりってやつ」

 サマンサは苦笑して、画面に目を戻す。その隣で、ネルも黙って再生される映像を見つめていた。
 言葉は交わさない。でも、何かが少しずつ、動き出したような気がした。

「ねえ……あなたにとって『毒がある人』って、どんな人?」

「え?」

「私ね、見ての通り日系人なんだけど、子供の時から日本語学校に通ってたの。最初日本語がうまく話せなくて、学校でもちょっと浮いてた。それで、先生に『日本の俳優の話し方を真似してごらんなさい』って言われたの」

 サマンサがお手本として選んだのは山口淑子――李香蘭だった。
 満州生まれの帰国子女でありながら、彼女の美しい日本語の発音、抑揚は国際的にも高い評価を得ていた。
 そして多文化的な背景を持つという意味でもサマンサとは共通点があった。
「だから、『毒』も、真似から始めればいいんじゃない? あなたの中にいる誰か――毒のある誰かを」

 ネルは黙った。サマンサは振り返ってみる。彼は何かを思い出すように、目を伏せていた。

「……いるよ。そういう人。残酷で、魅力的で、逃げられないような」

 サマンサは少し息を呑んだ。その言い方には、「恨み」も「憧れ」も「痛み」も全部、混ざっていた。

「その人を思い出して、真似してみれば? きっとサロメなんかより、よっぽど『毒』があるんじゃないかな」

 ネルは小さく笑った。

「君って時々、怖いくらい鋭いね」

「ありがとう」

 ふざけたように言ったサマンサに、ネルはもう一度笑った。


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