夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Prologue Side Samantha

Side Samantha III その毒の名をまだ知らない

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 いつもの午後の稽古場。昨日と同じはずの空間が、何か違って見えた。照明も、床のテープも、同じなのに――緊張が走っている。
 舞台の中央に立つのは、昨日と同じサロメ。だが、その佇まいがまるで違っていた。
 金色の髪が、揺れるたびに何か甘やかな毒気をはらむ。脚線をあらわにした衣装の裾を無造作に指で持ち上げ、片足を前に出す。その仕草だけで、見ている者の呼吸が浅くなる。

「……ヨカナーン……おまえの口……その口を、わたしにくれないの?」

 甘く、低く、舌足らずな声。まるで媚びるような――いや、獲物を舐める蛇のような響きだった。

 舞台上のネルは、目を細めながら、ゆっくりとヨカナーン役の男子学生に歩み寄る。まるで「踏みにじる」ような足取りで。

「あなたの口が欲しいの。……わたし、何をしても許されるのよ。だって、欲しいと思ったのは、あなたじゃなくて……わたしだから」

 その瞬間、見ていた誰もが息を呑んだ。妖艶で、無垢で、狂っている。目が離せない。
 サマンサも、再生中の映像編集を止めて、思わず立ち上がっていた。目がスクリーンに釘付けになる。別人だ。昨日のネルじゃない。
 教授――エリオット・マルシャンは、椅子から立ち上がった。稽古中に立つことなど滅多にない彼が、だ。

「……すごい」

 小さく呟いたその声は、部屋全体に染み渡った。

「これだ。これが、俺の見たかったサロメだ。天使のように美しくありながら、悪魔のように残酷で……愛と欲望に身を焼かれる、業そのものだ」

 ネルの身体がくねる。肩を落とし、笑いながら、泣き出しそうな目をする。その笑みには狂気すら宿っていた。
 ――それはまるで、誰かの真似をしているかのようだった。
 舞台袖のサマンサは、胸の奥がざわつくのを感じた。

――これは、ネルじゃない……ネルの中にいる「誰か」だ。

 彼が誰かの「毒」を借りて、いや、盗んできて演じている。これはサロメじゃない――でも、紛れもなく「本物」だった。
 共演者たちは呆然とし、裏方の学生たちすら動きを止めていた。カメラのレンズすら、ネルから目を逸らせないかのように感じられる。

――誰? 誰の仕草? 誰の笑い方?

 ネルはただサロメを演じているのではない。まるで、誰かになりきっている。
 演技が終わると、場内はしばし沈黙に包まれ――そのあとに、大きな拍手が響き渡った。教授は感嘆を隠そうともせず、思わずネルの肩を抱く。

「信じられないよ。昨日の君と、同じ人間だとは思えない。……一体、何が君を変えた?」

 ネルは、少しだけ笑ってみせた。

「……ちょっとだけ、イメージできる人がいて」

 その声は小さく、苦く、どこか後悔のような響きを含んでいた。

***

 稽古が終わったあと、サマンサはネルに駆け寄った。

「ネル、すごかったよ……本当に、鳥肌が立った。あんなサロメ、初めて見た」

 だが、返事はなかった。ネルは一瞬、微笑みかけようとしたが――次の瞬間、身体の力が抜けて、そのまま崩れ落ちた。

「ネル!?」

 サマンサが慌てて受け止める。額に触れると、ひどく冷たかった。手足は震えていて、顔色も悪い。

「貧血……? ちょ、ちょっと大丈夫……?」

 サマンサは躊躇なくネルのバッグを取り、ネルの腕を肩に回した。

「ねえ、タクシー呼んで。彼、うちまで送ってく。このままにはできない」

 学生たちがざわめくなか、サマンサはネルの腕をしっかりと支えながら、稽古場を後にした。

 その道すがら、サマンサの頭には一つの疑問だけが残っていた。

――「あれ」をネルに与えたのは、誰? あんな残酷で、美しくて、逃げられない「あれ」を持った誰か。……ネルにとって、その人は一体……。

 答えは、わからなかった。でも、サマンサはふと思う。
 もしかして、本当のネルは――「あっち」なんじゃないか、と。サロメを演じるときの、あの目。あの笑い方。あの狂気……元々ネルが持っていたものなのではないかと思い始めていた。

 でも同時に、それを考えることすら、どこか怖かった。

 インターホンのボタンを押したとき、サマンサは少し緊張していた。ネルに教えられた住所は、格式ある屋敷ではなく、ごく普通のタワーマンション。
 あれ、フィッツロイ家って貴族なんじゃなかったっけ……と思いながらも、チャイムを鳴らす。

 ……チン。

 しばらくして、扉が開く。

「――はい?」

 静かに姿を現したのは、妖艶な雰囲気を纏った長身の女性だった。身長160cm弱しかないサマンサはそこそこ見上げるような体勢になる。
 波打つ長い黒髪に闇夜のような黒い瞳。その女性は、露出の少ないニットとロングパンツに身を包んでいたが、それでもその人がただ者でないことは一目でわかる。
 骨格も、顔立ちも、均整が取れすぎていた。モデルのようだ、いや――実際モデルなんじゃないか? 
 だが流行や芸能には極めて疎いサマンサにはわからない。
 その瞬間、サマンサの背筋にひやりと風が吹いた。
 目の前の人物を見つめながら、足元がふわりと浮いたような、夢の中に落ちたような感覚に襲われたのだ。

(……え?)

 見知らぬ顔のはずなのに、まるで記憶の奥で何度も見てきたような――そして、どこか怖いような。

(え、きれいな人……芸能人? どこかで見たような……)

 思い出せない。けれど、確かに「知っている」。黒い瞳が、サマンサをまっすぐ見つめ返した。その一瞬、鼓動が飛ぶ。
 その目に、何かを覗かれたような気がした。自分ですら知らない、深いところを。

「ごめんなさい、ネルを送ってきたんです。ちょっと倒れちゃって……」

 サマンサの肩に、ぐったりともたれかかるネル。彼の顔色はまだ悪い。
 その黒髪の女性は、すぐに表情を曇らせ、無言でネルの腕を引き取った。優しく、それでいて慣れた手つきでネルを抱き寄せる。

「ありがとう。助かったよ。……中へどうぞ」

 その声は低く澄んでいて、どこか人間離れしている、不思議な余韻。鼻にかかるような柔らかい発音はおそらくフランス訛りだ。
 だがそれよりも、音の奥に残る透明な冷気――氷でできた鈴の音のような声。どこかで、聞いたことがある。

――誰? あなた、誰?

 思わずそう問いかけそうになって、サマンサは口を閉じた。
 玄関からリビングへ案内されると、落ち着いた内装の部屋に暖かな灯りがともっていた。テーブルの上には、まだ温かい料理が並べられている。

「ちょうどごはんを作ってたところ。よかったら食べていかない?」

「えっ……でも、急にお邪魔しちゃって」

「いいんだよ。……ね、ネルもそう言ってる」

 振り返ると、ネルがソファで毛布に包まれながら、微笑んでいた。

「遠慮しないで。ルシアンのごはん、おいしいから」



 ルシアン。どこかで聞いたことがある名前な気がした。彼女はネルの恋人なのだろうか――心の中でそんな想像をしながら、サマンサは軽く頭を下げた。

「じゃあ……お言葉に甘えて」


 食卓には、手作りのラザニア、グリーンサラダ、ミネストローネ。香りも見た目もプロ並みで、サマンサは思わず感嘆の声を漏らした。

「ほんとに美味しい……それに、おふたり仲が良くて、うらやましいです」

「ふふ……そう見える?」

 ルシアンが微かに笑う。目元の皺すら艶やかに見えた。
 食事中、サマンサは稽古でのネルの演技について、興奮気味に語った。

「本当にすごかったんです。まるで別人みたいで。なんていうか……演技をしているんじゃなくて、『誰かになってる』感じで。先生も立ち上がって褒めてました」


 ルシアンは、少し黙って、静かに頷いた。


「……そっか。よかった」


 その声音に感情はあまりなかったが、それでもどこか深い満足のようなものが滲んでいた。
 ネルも、少し照れたようにサマンサの話を聞いていたが、時折ルシアンの方を見ては、どこか複雑な眼差しを浮かべていた。



 気づけば、時計はもう23時を回っていた。


「えっ、もうこんな時間……すみません、長居しちゃって」

「遅いし、泊まっていけば?」

 ルシアンが自然な口調で提案する。言葉遣いは柔らかいが、どこか命令にも近い「強さ」があった。

「え、いや、でも……」

「こんな時間に女の子が一人で歩くの、危ないよ」

 ネルが言った。その声音は本気だった。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 サマンサはようやく頷いた。夜の闇に閉ざされた部屋。3人の気配だけが、静かに絡まり合っていた。

――きれいな人……でも、何か変。名前も知らないのに、こんなに印象に残るなんて。

 サマンサは、ぼんやりとルシアンの横顔を見つめながら思っていた。「誰か」に……似てないか、と。


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