碧き世界のサルバトーレ

横浜あおば

文字の大きさ
1 / 46
Ep.1

第1話 浦島に助けられた亀

しおりを挟む
 二〇二〇年八月六日、東京アクアティクスセンター。

『さあ一際大きな歓声が上がりました。続いては日本期待の金メダル候補、亀有かめあり凪沙なぎさ選手の登場です!』

 高さ十メートルの飛び込み台の上。
 軽く腕を伸ばしてから、亀有凪沙は凛とした表情を浮かべ位置についた。

 コンディションは完璧。

 程よい緊張と興奮を感じながら、ふーっと息を吐く。

 何年も前からずっと、今日この時のために調整してきたのだ。フィジカルもメンタルも、調子は良いに決まっている。

『香川県三豊市出身。東京に向かう前に、友人が巫女を務めている高松市の田村神社でお参りをしたそうです。その神社に残る伝説。龍神、水の神様の加護を受け、どんな演技を見せてくれるでしょうか。そして、会場には家族。両親とお姉さんが応援に駆け付けてくれています』

 けして裕福な家庭ではなかったけれど、ここまで何不自由なく生きてこられたのは両親と姉のおかげだ。好きなことをやらせてくれたお父さんとお母さん、そしていつも味方でいてくれたお姉ちゃんに、ここで最高の恩返しをするんだ。

 目指すはただ一つ、光り輝く金メダル。

『感謝の気持ちを胸に。女子10m高飛込決勝、亀有選手一本目、今踏み出した!』

 プールの上に突き出た台の先端に向かって、助走を開始。
 歩幅を合わせ、反動をつけ。そして、いざ踏み切ろうとした、その瞬間。

「っ!」

 目に突然強い光が当たって。高出力のレーザーポインター。

 眩しいっ……!

 目が眩み、身体がよろめく。
 右足を踏み外し、そのまま飛び込み台から空中に放り出された。

 目に映る景色がぐるぐると回る。
 自分の体勢がどうなっているのか、上下の感覚もまるで分からない。

 ただ、観客数千人の悲鳴を聞く限り、よほど酷い落ち方をしているのだなと思った。

 ああ、終わった。
 私の夢も。
 選手生命も。
 人生、そのものも。

 悲鳴が止み、会場が異様なまでの静寂に包まれる。
 それと同時。

 水面に身体を打ったのだろう。
 激しい衝撃と痛みが全身を襲った。
 だけど、それはほんの一瞬で。

 凪沙の意識は、まるで夜の昏い海のような、深い闇の底へと沈んでいった。


 打ち寄せる波の音と、照り付ける日差しの暑さに、凪沙の意識がぼんやりと戻る。
 閉じた瞼と彷徨った冥界の暗さに慣れきってしまった目はまだ見えないが、三途の川の岸辺というわけでも無さそうで。どうやら生きているらしい。

 しかし、ではあの状況でどうして助かったのだろうか。しかも、プールサイドでも救護所でも病院でもない場所、それも外にいるのはなぜだろう。

 やがて光に目が慣れてきて、視界がはっきりとしてくる。

 仰向けに寝ていたから、まず見えたのは澄み渡る青空と、燦々と煌めく太陽。
 少しだけ首を動かすと、続けて真っ白な砂浜と打ち寄せる波。それとどこまでも広がる紺碧の海。
 反対側にも首を振って、こちらは切り立つ崖だった。

「無人島、みたいだけど……。私、なんでこんな所に?」

 くらくらする頭を右手で押さえながら身体を起こし、その場にぺたんと座る。

 オリンピックの会場で打ち所悪く入水して、恐らくは骨や内臓を損傷したはずだ。それなのにどこも痛くなく、腕や脚も問題なく動かせる。
 かといって治療された痕跡もなく、なぜか知らない場所に一人放置されている。
 この状況は、一体何なのか。

「……もしかして、ここが天国、なのかな?」

 生きているという感覚はただの錯覚で、ここはもう死後の世界なのでは。
 そう考えると全てに合点がいく、ような気もする。

 でも別に、今さらそんなことはどうでもいい。

 たとえ奇跡的に助かっていたとしても、きっと二度と競技には戻れなかった。
 私には高飛び込みしかなかったのに。それを奪われてどう生きろというのか。
 だからここが遠い国の無人島だろうが天上の理想郷だろうが、これで良かったのだ。

 病室でお父さんとお母さん、お姉ちゃんに慰められて。地元に帰ったら幼馴染のたまてやクラスメイトに励まされて。ネットには見ず知らずの人からの同情のコメントが溢れて。
 自分で見切りをつけるのはいいけれど、他人に終わったと言われるのは。決めつけられるのは。それだけは絶対に嫌だから。

「このまま放っておかれた方が、よっぽどマシだよ」

 呟いて、遥か遠くの水平線に目を向ける。
 蒼穹と紺碧の曖昧な境界。じっと眺めていると吸い込まれそうになるほどの、そのあおいろ。

 無際限に広がるその色の中に意識が引き寄せられていた凪沙は、だから迫り来るそれに気付いていなかった。

 びたびたっと勢いよく身を震って、水しぶきを撒き散らした銀色の何か。
 気配にはっと振り返って、すぐ背後にいたその存在に全身が総毛立った。

 ぎょろりとした丸い碧い目でこちらを見下ろす、青魚の頭の上半身からすらりと長い人の脚が生えた半魚人。

「生足魅惑の、マーメイド……」

 あまりに異様で不気味な化け物を前にすると、人間の脳は下らないことを考えて現実から逃れようとするらしい。口から漏れたその言葉を首を振って追いやって、眼前の怪物への対処法を思案する。
 でも、パニックになった頭は働かず、恐怖に凍った身体は言うことを聞かない。
 逃げなきゃ。
 分かっているのに、立ち上がることも後ろに退がることも出来なくて。

 そんな凪沙をあざ笑うかのように、異形の魚は手の代わりの黄色い胸ビレを高々と振りかざし。そして、容赦なく叩き潰そうと。

 刹那。半魚人が三枚下ろしの如く斬り刻まれた。

「っ……!」

 とても自然界のそれとは思えない蛍光緑の血が飛び散って、砂浜をおぞましく染め上げる。
 ばたりと倒れた魚の脚の向こう。剣に付いた緑の鮮血を払って鞘に戻して、男が手を差し伸べつつ言う。

「大丈夫かい、お嬢さん?」

 見上げた先、優しく微笑む茶髪赤目の好青年。
 この時彼がわずかに頬を赤らめたのを、戦慄している凪沙は気付かない。

「あ、ありがとう、ございます……」

 心臓のどきどきを抑えられないまま、なんとか彼の手を取って立ち上がる。

「お嬢さんはどうしてこんなところに? しかも一人で」

 質問されて、答え方に戸惑う。
 正直に話したとして、果たして信じてもらえるだろうか。
 もし信じてもらえたとして、どんな反応をされるだろうか。
 事故で選手生命を絶たれた可哀想な人。とんだ期待外れに終わったメダル候補。そういう目で見られるのではないか。

 俯いて口籠もってしまった凪沙に、青年は少し申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめん、怖がらせちゃったかな? 別に僕は海洋民族オセアーノを敵とは思ってないよ。だから安心して」
「オセアーノ?」

 聞き慣れない単語に、首を傾げる。
 すると、彼もまた同じように不思議そうに首を傾げた。

「君みたいな銀髪碧眼の人は自らをオセアーノって普通言うんだけど、違ったかい?」

 私が、銀髪碧眼? そんなはずは。
 否定しようとしてふと思う。
 確かに考えてみれば、今着ているのは飛び込み用の水着じゃなくて古びたフーデッドケープだし、身体にあの事故の痕跡は無い。

 つまり私は、全くの別人に生まれ変わった? もしくは乗り移った?

「あの。すみません、ちょっと記憶が曖昧で」

 正確に状況が把握出来ない以上、とりあえずここは誤魔化すしかない。
 言うと、彼は眉を曇らせて考え込むような仕草をした。

「砂浜に漂着した記憶喪失者の話って、どこかで……。ああそうだ。まさか、攫い波の伝承は実話だったのか」
「えっと、どうかしましたか?」

 何かに思い至った様子の彼に、凪沙は訊く。

「この世界には、攫い波っていう伝承があってね。その波に呑まれると身体だけでなく記憶まで攫われて、見ず知らずの土地に流されてしまうって話なんだけど。本当に攫い波に呑まれた人と会うのは初めてで……」
「攫い波、ですか」
「うん。何か一つでも覚えてることがあれば手助けもしてあげられるんだけど、難しいよね」

 その伝承の通り、攫い波に呑まれたのならきっと何も覚えていないのだろう。
 けれど、自分は本当のことを言うのが怖くて、そもそも伝わるのかも分からなくて誤魔化しただけ。記憶ははっきりと残っている。

 この世界はどうやら私の知っている世界ではない。どうせこの世界に私を知っている人はいない。
 だから、せめて名前くらいは教えてもいいのではないかと思った。

「いえ、少しは覚えてます。私、亀有凪沙って言います。十六歳です」

 勇気を振り絞って、はっきりと彼の目を見て伝える。

 攫い波の被害者だと思っている人物が自らの名前と年齢を覚えていたことに、彼は少し驚いたのかわずかに目を見開いた。
 しかし、すぐにふっと柔らかい笑みを浮かべて。

「ナギサ、か。いい名前だね。僕はアーシム=アタロー。リューグ王国海伐かいばつ騎士軍、遠洋遊撃隊大佐だ」

 まるで血液型とか星座でも言うかのように、名乗った後にさらりと階級を告げた。

 それがあまりに唐突だったから、凪沙は彼から差し伸べられた手を無視してしまう。
 若干の間が空いた後、握手を求められているのだと気付いて慌ててこちらも手を差し出す。

「ナギサのことは僕が絶対に守るから。これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いします。アーシムさん」

 僕が絶対に守るから、なんて。まるでプロポーズの言葉みたいだなと思って、ちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。彼はただ騎士として当然のことを言っただけだろうに。
 そんなおかしなことを考えるから身体が熱くなってしまった。握った手を通して伝わっていないといいけれど。

 幸い、アーシムは目を俯けていた上にすぐに手を離したので、きっと大丈夫だったはず。
 でも、握った手から伝わってきた彼の体温もなぜだか少しだけ高かったように感じたのは、私の気のせいだろうか。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

万物争覇のコンバート 〜回帰後の人生をシステムでやり直す〜

黒城白爵
ファンタジー
 異次元から現れたモンスターが地球に侵攻してくるようになって早数十年。  魔力に目覚めた人類である覚醒者とモンスターの戦いによって、人類の生息圏は年々減少していた。  そんな中、瀕死の重体を負い、今にもモンスターに殺されようとしていた外神クロヤは、これまでの人生を悔いていた。  自らが持つ異能の真価を知るのが遅かったこと、異能を積極的に使おうとしなかったこと……そして、一部の高位覚醒者達の横暴を野放しにしてしまったことを。  後悔を胸に秘めたまま、モンスターの攻撃によってクロヤは死んだ。  そのはずだったが、目を覚ますとクロヤは自分が覚醒者となった日に戻ってきていた。  自らの異能が構築した新たな力〈システム〉と共に……。

氷河期世代のおじさん異世界に降り立つ!

本条蒼依
ファンタジー
 氷河期世代の大野将臣(おおのまさおみ)は昭和から令和の時代を細々と生きていた。しかし、工場でいつも一人残業を頑張っていたがとうとう過労死でこの世を去る。  死んだ大野将臣は、真っ白な空間を彷徨い神様と会い、その神様の世界に誘われ色々なチート能力を貰い異世界に降り立つ。  大野将臣は異世界シンアースで将臣の将の字を取りショウと名乗る。そして、その能力の錬金術を使い今度の人生は組織や権力者の言いなりにならず、ある時は権力者に立ち向かい、又ある時は闇ギルド五竜(ウーロン)に立ち向かい、そして、神様が護衛としてつけてくれたホムンクルスを最強の戦士に成長させ、昭和の堅物オジサンが自分の人生を楽しむ物語。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜

KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞 ディノッゾ、36歳。職業、馬車の御者。 諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。 そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。 捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。 腕には、守るべきメイドの少女。 眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。 ―――それは、ただの不運な落下のはずだった。 崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。 その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。 死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。 だが、その力の代償は、あまりにも大きい。 彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”―― つまり平和で自堕落な生活そのものだった。 これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、 守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、 いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。 ―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

唯一無二のマスタースキルで攻略する異世界譚~17歳に若返った俺が辿るもう一つの人生~

専攻有理
ファンタジー
31歳の事務員、椿井翼はある日信号無視の車に轢かれ、目が覚めると17歳の頃の肉体に戻った状態で異世界にいた。 ただ、導いてくれる女神などは現れず、なぜ自分が異世界にいるのかその理由もわからぬまま椿井はツヴァイという名前で異世界で出会った少女達と共にモンスター退治を始めることになった。

出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜

シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。 起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。 その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。 絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。 役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。

処理中です...