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Ep.1
第2話 海に浮かんだ竜宮城
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アーシムが乗ってきたという海伐騎士軍の木製の大型の帆船に乗って、リューグ王国の王都へと向かう道中。
艦長室、つまりは大佐の彼の居室の寝台にちょこんと腰掛けて、凪沙は豪奢な椅子に座ってなぜか落ち着かない様子のこの部屋の主に、気になっていたことを訊ねた。
「そういえば、あの生足魅惑の……じゃなくて、変な魚の怪物。あれって何なんですか?」
「ああ、あれは海異って言ってね。十年前に突如海に現れた、船や沿岸部を襲う魔物だよ。僕たちはその海異から、制海権を取り戻すために戦っているんだ」
「海異……」
銀の鱗と碧い眼を持った、魚の胴から人間の脚が生えた奇妙な化け物。
アーシムはあんな気持ち悪くておぞましい敵と、日々戦っているのか。
「だけど、そう不安がることはないよ。リューグ王国の都市は堤防によって守られているし、近海の海異は長年の攻防戦の末に掃討済みだからね」
「それなら、わざわざ沖に出て戦わなくてもいいんじゃないですか?」
自国の安全が保障されているなら、敵地に乗り込んでまで戦う必要は無いように思える。
けれど、彼は首を横に振って続けた。
「いや、そういう訳にはいかないんだよ。海異によって外国との航路は未だに封じられている。このままではいずれ食料や物資が枯渇してしまうし、そもそも他の国が無事なのかどうかも分からない。だから、僕たちは一刻も早く航路を開通させなきゃいけないんだ」
なるほどそれは、確かに重要だ。
もしも地球の海に怪物が現れて、日本が孤立してしまったら。食料の多くを輸入に頼り、経済を自動車や工業製品の輸出に支えられた小さな島国は、あっという間に崩壊してしまうことだろう。
かつて世界第二位の経済大国であった日本でさえ、そんな悲観的なシナリオしか思い描けないのだ。リューグ王国がどのような国なのかは知らないが、十年に渡る海異との戦いで疲弊しているのは素人の頭で考えても明らかだった。
「あとどれくらいで他の国に辿り着けそうなんですか?」
「そうだね……。早くてもあと二年は掛かるかな」
「長い戦いですね」
ここまで十年戦ってきて、これからまだ最低でも二年。それで取り返せるのは、たった一つの航路だけ。全ての海の奪還など不可能とさえ思える、心が折れてしまいそうなほどの壮絶な長期戦。
「せめてオセアーノの人に協力してもらえると、かなり楽になるんだけど」
「そうだ、そのオセアーノってどんな人達なんですか? 一応私もオセアーノなんですよね?」
アーシムの呟きに、凪沙は首を傾ける。
彼は最初、私のことをオセアーノだと言った。自分がもしその一員であるならば、その人達のことは知っておかなければならない。私自身のためだけでなく、その人達のためにも。
「うん。基本的には銀髪碧眼の人のことをオセアーノって呼ぶんだ。でも海異が現れてからは、ちょっとその意味合いが変わっちゃってね……」
「どう変わったんですか?」
「説明すると長くなるけど。海異は銀色の鱗と碧い眼が特徴でしょ? それがオセアーノの見た目と似てるものだから、僕たちの国では彼らに対する差別が始まってね。『奴らは愚かな海族だ』、『ばけものは出て行け』って、国から追い出そうと追放運動が起こったんだ。そして、逃げるように国を出た彼らは多くが海異にやられ、わずかに生き残った人も海異だらけの沖合の無人島や廃棄フロートで暮らすことになった。で、そんな海で生きている彼らが自らの誇りと矜持をもって名乗るのが海洋民族〈オセアーノ〉。……ああもしかして、差別のことはナギサにとっては知らない方がよかったかな?」
「いえ、そんなことは。教えてくれて、ありがとうございます」
迫害を受けようとも、怪物に仲間を奪われようとも、海で強く生き抜く者の名前。それがオセアーノ。
果たして私は、その名を騙る資格があるだろうか。そんな強さを、持っているだろうか。
「だけど安心して。僕はオセアーノのことを海族と蔑んだりはしないし、国民のそういう偏見を無くして再び共生していきたいって思ってる。まあ、追放した側が言える言葉じゃないけどね……」
言って、アーシムは苦笑いを浮かべた。まるでこの出来事に対する全ての責任を感じているかのように、心の痛みに顔を歪めながら。
その辛そうな笑みに、凪沙は胸を突かれる。彼はどうして、そこまで背負おうとするのか。銀髪碧眼の人種を排除したのは国民で、自分には微塵も非など無いというのに。
「別にこれは、アーシムさんが悪い訳ではないですし。むしろそうやって差別を無くそうと努力してるところ、私はかっこいいなって思いますよ?」
これは嘘偽りのない、本心からの言葉だ。
誰の意見に流されることなく、自分を貫いて正しいことをしようとするその姿勢は、なかなか真似できるものではない。
だから凪沙は、少しでもアーシムの心が軽くなればと思って。
だけど彼には、その気持ちは届かなかった。
「ありがとう。君にそう言ってもらえるだけでも、すごく嬉しいよ」
それはまるで、お世辞に対する返事のような、冗談を受け流すような、そんな上辺の答えだった。
その後は特に会話することもなく、互いに静かな時間を過ごした。
アーシムは机に向かって報告書のようなものを書いたり引き出しの書類の整理をしたりと、少し忙しそうだったけれど。
「そろそろ王都が見えてくるけど、甲板に出てみるかい?」
やがて作業を終えたらしい彼に問いかけられて、凪沙はこくりと頷く。
「はい。王都ってどんな場所なんだろう」
「とても綺麗な街だから、きっとナギサも気に入ると思うよ」
アーシムに連れられて艦長室を出て、甲板へと繋がる扉を抜ける。
すると目に飛び込んできたのは、太陽に照らされて光を乱反射する水面と石を積み上げて造られた長大な白い堤防。
針路の先、堤防の一角にぽっかりと穴が空いていて、どうやら船が出入りする水門らしい。
「これが海異から街を守る堤防ですか?」
「そうそう。もし海に何か異変があった時はあの門が閉められて港と外洋が隔離される。だから王都に海異が侵入するのは不可能なんだ」
化け物から都を守る、今は開かれたその門の両側には警備兵が二人ずつ。一人が監視役で、もう一人が門の開閉役だろうか。
帆船の舳先が水門に差し掛かると同時、アーシムが右側に立つ警備兵に向かって敬礼をした。
そうだ、私もちゃんと挨拶しなきゃ。
でも凪沙は軍人ではないし、そもそもこの世界の人間でもないから正しい敬礼の仕方なんて知らない。だからとりあえず、左側で睨みを利かせる兵士に軽く会釈しておいた。
そしていよいよ船は門を潜り抜けて港湾内へ。
そこで目に映った光景に、凪沙は思わず感嘆の声を上げた。
「うわぁ! すごく綺麗……!」
「ね、言った通りでしょ?」
赤や黄色やオレンジやベージュの、カラフルな煉瓦の建物がずらりと建ち並んだ街並み。
その合間には道路のように水路が何本も伸びていて、小舟や水上オートバイが人や荷物を乗せて行き交っている。
「この街で暮らしてる人達は、みんな水路を使ってどこかへ行くんですか?」
「確かに王都の交通は水運が一般的だけど、あれは正確には水路じゃないんだ。この王都の大部分はフロート、いわゆる人工浮島で出来ていてね。水路に見えるのはその隙間」
「えっ? じゃあ建物が建ってるのは海の上ってことですか?」
あんなにたくさんの建物が全て海に浮いていて、しかもそこで大勢の人間が生活しているなんて。とても信じられない。
「でも何でわざわざ?」
「海が九割を占めるこの世界では農作物を育てられる自然の陸地は貴重なんだ。だから王族や貴族であっても島に土地は持てなくて、みんなフロートの上に住んでいるんだよ」
なるほどそういう理由で。
まもなく、船は港に着岸した。
街の中にこの帆船は入れないので、ここからは小さいものに乗り換えるのだそうだ。
アーシムと共に移動した先、停泊していたのはゴンドラのような小舟ではなく。
「これって、水上バス?」
いかにも現代的な見た目の、エンジン音を響かせるこの乗り物。香川出身の凪沙には高飛込の東京遠征の時に隅田川で何度か見かけたことがある程度だけれど、これは間違いなく水上バスだ。
「うん、水上って付ける必要は無いけど。というよりナギサ、バスは知っているんだね」
あっ、やっちゃった。
慌てて凪沙は、口を手で押さえた。
つい口にしてしまったが、これでは中途半端に記憶が残っているように思われてしまう。
万が一記憶が戻ったのかと問い質された時に、私は別の世界の人間で知識はその世界で得たものだなんて言えないのだから、発言にはもっと慎重にならなければ。
「頭の片隅に、何となくその言葉が浮かんで……」
「うーん、潜在記憶みたいなものかな? 城に着いたら脳の状態と、一応身体の方も医者に診てもらおうか。すぐに手配させるよ」
「すみません、ありがとうございます」
どうにか誤魔化しきれた、らしい。
乗り込んだ水上バス、もといバスは海伐騎士軍の幹部専用だそうで、乗り心地はこれ以上ないほどに快適。だから城に着くまでの間は、ごく短い時間ではあったものの王都の美しい街並みを堪能することが出来た。
「そんなにこの街の風景が気に入ったかい?」
「はい。水の都って感じで、本当に素敵です」
まるでヴェネツィアのよう、とは間違っても口に出さない。
まあそもそも、写真で見ただけで行った事ないのだけれど。
「ははは。そこまで褒めてくれると嬉しいね。じゃあ今度、時間がある時にゆっくり散策しようか。名所とか美味しいお店とか案内してあげるよ」
「わぁ、それは楽しみです!」
アーシムはどんな所に連れて行ってくれるのだろう。彼のことだから、きっとこの街のことは何でも知っているはず。想像するだけで期待に胸が膨らむ。
城の入口でバスを降りると、槍を持った衛兵がやや警戒した様子で歩み寄ってきた。
「アーシム大佐、お疲れ様です。えっと、そちらの女性は?」
「この娘はナギサ。任務から帰還する途中に無人島の浜辺で保護したんだ。記憶が欠落しているみたいだから、医者にも診てもらわないとって思ってね」
「しかし、いくら大佐のご判断とはいえ、海族を城に招き入れるのは如何かと……」
戸惑ったように言って、衛兵は鋭い眼光でこちらを一瞥した。
海族。銀髪碧眼の見た目を持つ人種の蔑称。衛兵にさえそう呼ばれてしまうのか。
そのショックと眼差しの怖さに、凪沙は俯いて視線を逸らす。
大佐であるアーシムが差別に反対していても、軍の中にまでその意識は根付いてしまっている。その事実を突きつけられて、やはり私はこの世界では生きていけない。いや、生きてはいけないのだと、強く痛感する。
一度そう思い至ってしまった凪沙の思考は、光の届かぬ暗闇の海の底に落ちるようにどんどんと深く沈んでいく。
あの時にあのまま死んでいれば良かった。どうしてこんな世界に迷い込んでしまったのか。
いっそその槍で、私を貫いてほしい。
もう何もかも、全部どうでもいい。
投げやりな考えに支配されそうになったと同時、アーシムが不愉快そうに眉間に皺を寄せて声を荒らげた。
「彼女は海族じゃない、オセアーノだ! 二度と僕の前でその差別用語を口にしないでほしい。次は無いよ」
温和で優しい印象からは想像もつかないほどに、怒りの感情を爆発させた彼。
凪沙はそのあまりの豹変ぶりに驚いて、アーシムの顔を呆然と見上げる。
「……」
「ごめん、僕の部下が傷つけるようなこと言って」
しかし彼は、すぐにいつもの穏やかな微笑みをこちらに向けた。
「いえ、大丈夫です」
ついさっきまではとても大丈夫とは言えない精神状態に陥っていたけれど、これ以上罪悪感を抱いてほしくなかったから、気にしないでと軽く首を振って応じる。
やはりアーシムはオセアーノへの差別を異常なほど嫌悪し、また強く責任を感じている。
でもその理由が何なのかは、凪沙には見当もつかない。
本人に直接訊くのは怖いし、どこかで機会があったら彼の部下なり周囲の人に訊いてみよう。理由さえ分かれば、もしかしたら私が力になってあげられるかもしれないから。
「じゃ、引き続き門番頼んだよ。行こう、ナギサ」
衛兵に冷たく告げてアーシムは、観音開きの大扉を開けて凪沙を城の中へと招き入れた。
磨かれた純白の大理石の床と、瀟洒な彫刻の施された柱や壁と、それらを煌々と照らす吹き抜けの天井の宝石のようなシャンデリア。
その途方も無い壮観さに圧倒されながら広間を進んで、立ち止まったのは異なる二本の剣が交わる浮き彫り細工が施された重厚な観音扉の前。
「海伐騎士軍大佐アーシム=アタロー、ただいま戻りました」
命令慣れたよく通る声で、アーシムが扉の向こうの誰かに呼びかける。すると、ガチャンと解錠する音が響いてゆっくりと扉が開かれた。
彼に続いて中へ足を踏み入れると、その部屋の奥。数段高い場所から見下ろすように、立派な椅子に足を組んで座る少女が落ち着いた透き通った声で言った。
「お帰りなさい、アーシム。で、そのオセアーノの子はどうしたの?」
艦長室、つまりは大佐の彼の居室の寝台にちょこんと腰掛けて、凪沙は豪奢な椅子に座ってなぜか落ち着かない様子のこの部屋の主に、気になっていたことを訊ねた。
「そういえば、あの生足魅惑の……じゃなくて、変な魚の怪物。あれって何なんですか?」
「ああ、あれは海異って言ってね。十年前に突如海に現れた、船や沿岸部を襲う魔物だよ。僕たちはその海異から、制海権を取り戻すために戦っているんだ」
「海異……」
銀の鱗と碧い眼を持った、魚の胴から人間の脚が生えた奇妙な化け物。
アーシムはあんな気持ち悪くておぞましい敵と、日々戦っているのか。
「だけど、そう不安がることはないよ。リューグ王国の都市は堤防によって守られているし、近海の海異は長年の攻防戦の末に掃討済みだからね」
「それなら、わざわざ沖に出て戦わなくてもいいんじゃないですか?」
自国の安全が保障されているなら、敵地に乗り込んでまで戦う必要は無いように思える。
けれど、彼は首を横に振って続けた。
「いや、そういう訳にはいかないんだよ。海異によって外国との航路は未だに封じられている。このままではいずれ食料や物資が枯渇してしまうし、そもそも他の国が無事なのかどうかも分からない。だから、僕たちは一刻も早く航路を開通させなきゃいけないんだ」
なるほどそれは、確かに重要だ。
もしも地球の海に怪物が現れて、日本が孤立してしまったら。食料の多くを輸入に頼り、経済を自動車や工業製品の輸出に支えられた小さな島国は、あっという間に崩壊してしまうことだろう。
かつて世界第二位の経済大国であった日本でさえ、そんな悲観的なシナリオしか思い描けないのだ。リューグ王国がどのような国なのかは知らないが、十年に渡る海異との戦いで疲弊しているのは素人の頭で考えても明らかだった。
「あとどれくらいで他の国に辿り着けそうなんですか?」
「そうだね……。早くてもあと二年は掛かるかな」
「長い戦いですね」
ここまで十年戦ってきて、これからまだ最低でも二年。それで取り返せるのは、たった一つの航路だけ。全ての海の奪還など不可能とさえ思える、心が折れてしまいそうなほどの壮絶な長期戦。
「せめてオセアーノの人に協力してもらえると、かなり楽になるんだけど」
「そうだ、そのオセアーノってどんな人達なんですか? 一応私もオセアーノなんですよね?」
アーシムの呟きに、凪沙は首を傾ける。
彼は最初、私のことをオセアーノだと言った。自分がもしその一員であるならば、その人達のことは知っておかなければならない。私自身のためだけでなく、その人達のためにも。
「うん。基本的には銀髪碧眼の人のことをオセアーノって呼ぶんだ。でも海異が現れてからは、ちょっとその意味合いが変わっちゃってね……」
「どう変わったんですか?」
「説明すると長くなるけど。海異は銀色の鱗と碧い眼が特徴でしょ? それがオセアーノの見た目と似てるものだから、僕たちの国では彼らに対する差別が始まってね。『奴らは愚かな海族だ』、『ばけものは出て行け』って、国から追い出そうと追放運動が起こったんだ。そして、逃げるように国を出た彼らは多くが海異にやられ、わずかに生き残った人も海異だらけの沖合の無人島や廃棄フロートで暮らすことになった。で、そんな海で生きている彼らが自らの誇りと矜持をもって名乗るのが海洋民族〈オセアーノ〉。……ああもしかして、差別のことはナギサにとっては知らない方がよかったかな?」
「いえ、そんなことは。教えてくれて、ありがとうございます」
迫害を受けようとも、怪物に仲間を奪われようとも、海で強く生き抜く者の名前。それがオセアーノ。
果たして私は、その名を騙る資格があるだろうか。そんな強さを、持っているだろうか。
「だけど安心して。僕はオセアーノのことを海族と蔑んだりはしないし、国民のそういう偏見を無くして再び共生していきたいって思ってる。まあ、追放した側が言える言葉じゃないけどね……」
言って、アーシムは苦笑いを浮かべた。まるでこの出来事に対する全ての責任を感じているかのように、心の痛みに顔を歪めながら。
その辛そうな笑みに、凪沙は胸を突かれる。彼はどうして、そこまで背負おうとするのか。銀髪碧眼の人種を排除したのは国民で、自分には微塵も非など無いというのに。
「別にこれは、アーシムさんが悪い訳ではないですし。むしろそうやって差別を無くそうと努力してるところ、私はかっこいいなって思いますよ?」
これは嘘偽りのない、本心からの言葉だ。
誰の意見に流されることなく、自分を貫いて正しいことをしようとするその姿勢は、なかなか真似できるものではない。
だから凪沙は、少しでもアーシムの心が軽くなればと思って。
だけど彼には、その気持ちは届かなかった。
「ありがとう。君にそう言ってもらえるだけでも、すごく嬉しいよ」
それはまるで、お世辞に対する返事のような、冗談を受け流すような、そんな上辺の答えだった。
その後は特に会話することもなく、互いに静かな時間を過ごした。
アーシムは机に向かって報告書のようなものを書いたり引き出しの書類の整理をしたりと、少し忙しそうだったけれど。
「そろそろ王都が見えてくるけど、甲板に出てみるかい?」
やがて作業を終えたらしい彼に問いかけられて、凪沙はこくりと頷く。
「はい。王都ってどんな場所なんだろう」
「とても綺麗な街だから、きっとナギサも気に入ると思うよ」
アーシムに連れられて艦長室を出て、甲板へと繋がる扉を抜ける。
すると目に飛び込んできたのは、太陽に照らされて光を乱反射する水面と石を積み上げて造られた長大な白い堤防。
針路の先、堤防の一角にぽっかりと穴が空いていて、どうやら船が出入りする水門らしい。
「これが海異から街を守る堤防ですか?」
「そうそう。もし海に何か異変があった時はあの門が閉められて港と外洋が隔離される。だから王都に海異が侵入するのは不可能なんだ」
化け物から都を守る、今は開かれたその門の両側には警備兵が二人ずつ。一人が監視役で、もう一人が門の開閉役だろうか。
帆船の舳先が水門に差し掛かると同時、アーシムが右側に立つ警備兵に向かって敬礼をした。
そうだ、私もちゃんと挨拶しなきゃ。
でも凪沙は軍人ではないし、そもそもこの世界の人間でもないから正しい敬礼の仕方なんて知らない。だからとりあえず、左側で睨みを利かせる兵士に軽く会釈しておいた。
そしていよいよ船は門を潜り抜けて港湾内へ。
そこで目に映った光景に、凪沙は思わず感嘆の声を上げた。
「うわぁ! すごく綺麗……!」
「ね、言った通りでしょ?」
赤や黄色やオレンジやベージュの、カラフルな煉瓦の建物がずらりと建ち並んだ街並み。
その合間には道路のように水路が何本も伸びていて、小舟や水上オートバイが人や荷物を乗せて行き交っている。
「この街で暮らしてる人達は、みんな水路を使ってどこかへ行くんですか?」
「確かに王都の交通は水運が一般的だけど、あれは正確には水路じゃないんだ。この王都の大部分はフロート、いわゆる人工浮島で出来ていてね。水路に見えるのはその隙間」
「えっ? じゃあ建物が建ってるのは海の上ってことですか?」
あんなにたくさんの建物が全て海に浮いていて、しかもそこで大勢の人間が生活しているなんて。とても信じられない。
「でも何でわざわざ?」
「海が九割を占めるこの世界では農作物を育てられる自然の陸地は貴重なんだ。だから王族や貴族であっても島に土地は持てなくて、みんなフロートの上に住んでいるんだよ」
なるほどそういう理由で。
まもなく、船は港に着岸した。
街の中にこの帆船は入れないので、ここからは小さいものに乗り換えるのだそうだ。
アーシムと共に移動した先、停泊していたのはゴンドラのような小舟ではなく。
「これって、水上バス?」
いかにも現代的な見た目の、エンジン音を響かせるこの乗り物。香川出身の凪沙には高飛込の東京遠征の時に隅田川で何度か見かけたことがある程度だけれど、これは間違いなく水上バスだ。
「うん、水上って付ける必要は無いけど。というよりナギサ、バスは知っているんだね」
あっ、やっちゃった。
慌てて凪沙は、口を手で押さえた。
つい口にしてしまったが、これでは中途半端に記憶が残っているように思われてしまう。
万が一記憶が戻ったのかと問い質された時に、私は別の世界の人間で知識はその世界で得たものだなんて言えないのだから、発言にはもっと慎重にならなければ。
「頭の片隅に、何となくその言葉が浮かんで……」
「うーん、潜在記憶みたいなものかな? 城に着いたら脳の状態と、一応身体の方も医者に診てもらおうか。すぐに手配させるよ」
「すみません、ありがとうございます」
どうにか誤魔化しきれた、らしい。
乗り込んだ水上バス、もといバスは海伐騎士軍の幹部専用だそうで、乗り心地はこれ以上ないほどに快適。だから城に着くまでの間は、ごく短い時間ではあったものの王都の美しい街並みを堪能することが出来た。
「そんなにこの街の風景が気に入ったかい?」
「はい。水の都って感じで、本当に素敵です」
まるでヴェネツィアのよう、とは間違っても口に出さない。
まあそもそも、写真で見ただけで行った事ないのだけれど。
「ははは。そこまで褒めてくれると嬉しいね。じゃあ今度、時間がある時にゆっくり散策しようか。名所とか美味しいお店とか案内してあげるよ」
「わぁ、それは楽しみです!」
アーシムはどんな所に連れて行ってくれるのだろう。彼のことだから、きっとこの街のことは何でも知っているはず。想像するだけで期待に胸が膨らむ。
城の入口でバスを降りると、槍を持った衛兵がやや警戒した様子で歩み寄ってきた。
「アーシム大佐、お疲れ様です。えっと、そちらの女性は?」
「この娘はナギサ。任務から帰還する途中に無人島の浜辺で保護したんだ。記憶が欠落しているみたいだから、医者にも診てもらわないとって思ってね」
「しかし、いくら大佐のご判断とはいえ、海族を城に招き入れるのは如何かと……」
戸惑ったように言って、衛兵は鋭い眼光でこちらを一瞥した。
海族。銀髪碧眼の見た目を持つ人種の蔑称。衛兵にさえそう呼ばれてしまうのか。
そのショックと眼差しの怖さに、凪沙は俯いて視線を逸らす。
大佐であるアーシムが差別に反対していても、軍の中にまでその意識は根付いてしまっている。その事実を突きつけられて、やはり私はこの世界では生きていけない。いや、生きてはいけないのだと、強く痛感する。
一度そう思い至ってしまった凪沙の思考は、光の届かぬ暗闇の海の底に落ちるようにどんどんと深く沈んでいく。
あの時にあのまま死んでいれば良かった。どうしてこんな世界に迷い込んでしまったのか。
いっそその槍で、私を貫いてほしい。
もう何もかも、全部どうでもいい。
投げやりな考えに支配されそうになったと同時、アーシムが不愉快そうに眉間に皺を寄せて声を荒らげた。
「彼女は海族じゃない、オセアーノだ! 二度と僕の前でその差別用語を口にしないでほしい。次は無いよ」
温和で優しい印象からは想像もつかないほどに、怒りの感情を爆発させた彼。
凪沙はそのあまりの豹変ぶりに驚いて、アーシムの顔を呆然と見上げる。
「……」
「ごめん、僕の部下が傷つけるようなこと言って」
しかし彼は、すぐにいつもの穏やかな微笑みをこちらに向けた。
「いえ、大丈夫です」
ついさっきまではとても大丈夫とは言えない精神状態に陥っていたけれど、これ以上罪悪感を抱いてほしくなかったから、気にしないでと軽く首を振って応じる。
やはりアーシムはオセアーノへの差別を異常なほど嫌悪し、また強く責任を感じている。
でもその理由が何なのかは、凪沙には見当もつかない。
本人に直接訊くのは怖いし、どこかで機会があったら彼の部下なり周囲の人に訊いてみよう。理由さえ分かれば、もしかしたら私が力になってあげられるかもしれないから。
「じゃ、引き続き門番頼んだよ。行こう、ナギサ」
衛兵に冷たく告げてアーシムは、観音開きの大扉を開けて凪沙を城の中へと招き入れた。
磨かれた純白の大理石の床と、瀟洒な彫刻の施された柱や壁と、それらを煌々と照らす吹き抜けの天井の宝石のようなシャンデリア。
その途方も無い壮観さに圧倒されながら広間を進んで、立ち止まったのは異なる二本の剣が交わる浮き彫り細工が施された重厚な観音扉の前。
「海伐騎士軍大佐アーシム=アタロー、ただいま戻りました」
命令慣れたよく通る声で、アーシムが扉の向こうの誰かに呼びかける。すると、ガチャンと解錠する音が響いてゆっくりと扉が開かれた。
彼に続いて中へ足を踏み入れると、その部屋の奥。数段高い場所から見下ろすように、立派な椅子に足を組んで座る少女が落ち着いた透き通った声で言った。
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