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第一幕 Smile for me―――死神さんとの邂逅
第9話
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「それで、お二人はどうしてここに? お嬢様と一緒にかくれんぼをするのでございましょう?」
いつまでもふざけている亮の代わりにみおが口答する。彼女の説明を一通り聞き終わった後、雅代が納得の頷きをしたが、
「なるほど。確かに、それはいい案かもしれませんが……。何もワタシの趣味を邪魔していい理由にはならないと思いますけどね」
納得いかなくて文句を言う。考案者がそこでバカっぷり全開の亮であることを聞くと、誰もが納得できるわけがないだろう。
「お巡りさ――」と再度電話のフリをしようとする亮に、「やかましい」と雅代が割り込んだ。
「同じネタを二度もやらないで頂きたいものです」
「二度美味しいという言葉があるではないですカ!」
「あ、動き出した!」
みおの声によって、先程まで対立していた二人の視線が一斉に姫の背中に集中。
確かに姫は一歩ずつ前進しているものの、その背中からやる気の欠如が感じられて。わざわざ水を差すような真似をするのも癪なので、亮はじっと見守ることにした。
主人が遠ざかっていくのを確認してから、雅代が人差し指を唇に当ててしっと言う。
「これからは静かにお願いします。あんまり大きいだと、お嬢様に気付かれてしまう恐れがございますので」
「うん! みお、静かにする!」
「フフ、みお様はいい子でございますね」
――こんな風に笑うこともできるのか。
そんな感想がぼんやりと彼の脳裏をかすめて、「亮も静かにしまース!」と調子に乗ったが、
「下郎、うるさいですわよ」
返ってきた睨み付きの叱りに、思わず「ナンデェ?!」と叫んだ。
そんな彼に向かって、二人は同時にシーと口の前に人差し指を立てた。たとえお調子者の亮であっても、反発する気が湧かないだろう。
尾行――もとい、かくれんぼが始まってから15分が経過。
最初はみおもワクワクしながら二人と一緒に姫を尾行していたが、姫の緩慢な動きを見ているうちに、彼女の表情も次第に曇ってきた。
「お姉ちゃん、歩くの遅いね。まるで、みおたちを見つけたくないみたい」
その言を聞いた雅代は肯定も否定もせず、ただ静かに目を瞑った。
実際、進んでいるとはいえ、頭はずっと下を向くままでまともに二人を探そうともしない。消極的な彼女の後ろ姿は、なんだか暇を潰しているようにも見える。
――もしかして、姫はかくれんぼが嫌いなんだろうか。
そんな発想が亮の頭によぎった。しかし、今の彼にとってそんなことはどうでもいい。それよりも、この沈んだ空気をなんとかせねばの方が重要だ。
「――退屈だァ!」
「ちょっと下郎。気持ち悪いから、急に声を荒げないでもらえません? 気持ち悪いから」
「二回言わなくてもいいよネ?! 泣くヨ! 感涙がドパドパと出っちゃうヨ?! 鶴喜だけに、な!」
既に二人に冷めた目で見られている上に、次第に通りすがりの患者やスタッフの視線にまで晒されている事態に発展している。けれど、そんなこともお構いなしに騒ぎ続ける亮。
「私がここで泣いてもいいノ! もう、とことんやっちゃいますけどそれでもいいノ!?」
「下郎、うるさいです」
「おふ! はいすみませんでした。お口チャクします」
「お兄ちゃん、情緒不安定?」
感情の起伏の激しい亮を目の当たりにして、みおは首を傾げながら言った。最後の方はややたどたどしい感じになったが、それもまた可愛らしい。
その様子に触れて、雅代は母性が刺激されたかのようにそっと抱き寄せて、優しい口調で諭すように言う。
「かくれんぼが終わりましたら、必ず下郎から離れてくださいね、みお様」
「うん!」
「ちょっと二人とも、やけに私にだけ厳しくナァ~イ?」
「黙らっしゃい」
「おぅ、如何にも殺れそうな目! まさしく女王様そのもの! 鶴喜亮、今この瞬間、黙りますブヒ!」
「できれば、未来永劫黙っていてください」
「おふ、厳しイィィ!」
一段落ついたところで小さな笑いが起こって、次第に周りの人間がそれぞれの用事に戻っていった。
何の変わりもなかったかのように見えても、先程と比べて場の空気が断然に明るくなった。自分の馬鹿さ加減で周囲の笑いを買った亮に一瞥をして、姫の後ろ姿に視線を戻す雅代。
彼なら、恐らく、きっと――。
そんな淡い期待を胸にしまって、主人の寂しそうな背中を見守り続けた。
三人のストーカーに付けられたことに気付かずに、歩き続ける姫。
なぜこんなことをしているの、私。そう思いながらも、彼女は惰性的に足を踏み出し、廊下を進む。
――まあ、暇潰しには丁度いいかもしれない。
今回のかくれんぼでは、亮という弱点がある。車椅子に頼るぐらい足が不自由のため、隠れる場所は限られているに違いない。
それに、昨日の数独の際に、恐らく頭は相当悪い方だろう。しかも、子供のみおよりもずっと。最初に彼から潰していけばあとは楽勝だ。
けれど、いくら彼女の頭が冴えていてもやる気がなければ、試合終了だ。
実際、姫が一時間を歩いていても未だに彼を見つけていない。長期入院患者の中で最も入院歴が長いとは言え、病院の構造を完全に把握したわけではない。
範囲を決めなかったのは、かなりの痛手だ。
――一番探しやすいと侮った相手が、まさかこんなにも難しいだなんて。
内心でため息をつき、進み続ける。突然、廊下の角から現れた人物とぶつかりそうになって、反射的に後ずさって顔を上げた。
「す、すみません。って、アナタは……」
そこまで言い掛けたところで、木村さんは一瞬だけ後方を見てすぐに戻した。けれど、姫はそれに気付かず、目前の相手から顔を逸らした。
赤の他人に知られるのは気まずくて、その場を去ろうとするも相手に「あ、あの」と呼び止められた。しかしそれ以降、木村さんは黙り込んでしまう。
――やっぱり止めておこう。
呼び止めたことに詫びようと思った次の瞬間、姫が彼女の言葉を待っていることに気付いたのだ。内心で「よし」と自分を鼓舞して話しかける。
「アタシは鶴喜クンの、鶴喜亮の担当看護師、木村綾乃と言います。アナタのことは、噂で知っているわ」
二人の間に短い沈黙が流れた。
しかし、彼女はその気まずさに気負いせず、続ける。
「これからも鶴喜クンのことを、よろしくお願いします」
姫の背中に一礼して、彼女とは逆方向に去って行く。それらを背中で受け止めて、姫はちょっとの間その場に留まってから歩き出した。
一方、ずっと姫の後を追っていた三つの人影が物陰から出て追跡を再開。
車椅子に乗っている患者はそう多くはないはずなのに、その中から一人だけを探し出すのは、どうしてこうも大変なんだろう。
もうすぐ夕日が沈む時間になっているのに、未だに二人を探せていない。このままだと姫が負けるのが自然ではあるが、彼女の内側には微かな焦りすらも湧かなかった。
そもそも、彼女がかくれんぼをやるのが今回が初めてで、だから最初この話が持ち出された時点でやるのに少し抵抗があった。
経験がなかった分、結果がどう転ぶかだなんて予想もつかないという不安は勿論ある。それよりも、今回ので『いつも通りの生活』が変わるのが怖かった。
かと言って、この現状を打破するのに自分一人の力ではどうしようもないというのも事実。いや、例えその力を持っていたとしても、彼女はどうもしないだろう。
それほどまでに、彼女は諦めていたのだ。自分の生活にも人生にも何もかも。
暫く歩いていると、また木村さんと遭遇した。その乱れた髪から察するに、また亮を探しているのだろう。
けれど彼女は後ろの方を見ると、顔にあった焦りがすーっと消えた。よかった、と胸を撫で下ろした次の瞬間、今度は違う焦りが顔に帯び始める。
なんだろう、と思考を巡らせて振り返ると、そこには彼女がずっと探していた二人+雅代の姿があった。
「「「あ」」」
――三人はいつの間にこんな仲良しに……。
みおが談話室に来てから雅代とは多少コミュニケーションを交わしたことがあったにせよ、二人が昨日と知り合ったばかりの亮とこんなに仲良くなった方がよっぽどショックのようだ。
けれど、ただショックを受けただけで、別にこれといった感情が芽生えなかった。元々空っぽだった心に、今更感じることなんて何一つもないのだ。
「知り合いと目が合っただけなのに下郎が手を振ったから気付かれました。全く、一体どうしてくれましょう」
「もう、お兄ちゃんのせいで気付かれちゃった……」
「二人とも、今日はやけに私への当て付けが激しくナイ? でも、そういうの嫌いではないゾ! むしろ、いつでもウェルカム! さあ、どこからでも掛かってきてらっしゃい、お嬢さん方!」
三人の責任の押し付け合いが二人の耳にも届いた。
くすくす、と笑う木村さんとは対照的に姫は無表情のまま。そんな彼女を見て、木村さんは顔を曇らせた。気持ちを切り替えるように、三人の方へと向かう。
「はいはい、もう十分遊んだでしょ? 部屋に戻るわよ~」
「いやだあぁ! 私はまだまだ遊びた――」
「食後のデザート、没収するよ?」
「というわけで、また明日遊ぼうな、みおちゃん!」
「手のひら返しが早いのでございますね」
「うん! バイバイ、お兄ちゃん、マイターお姉ちゃん」
いつの間にか、それぞれが告別を済ましていた。
自分だけが蚊帳の外に置かれたことに気付いた姫は、眩しすぎる集団を視界から外れるように、背中ごと向けて俯いた。
ダメだ。このままでは――『いつもの』日常が乱れてしまう。
そんな戒めの言葉が彼女の心に浮かんだ時、車輪が視界に入ってきて思わず顔を上げると、
「また明日、姫」
別れを告げられて、木村さんと一緒に離れていく亮。
遠ざかっていく二人の背中をぼんやりと見つめて、姫は「また明日、か」とポツリ。
だけど、その言葉を噛み締めることもままならず、彼女の細身に冷気が襲い掛かってきた。今まで硬く引き締まっていた表情が歪んで、細い喉から雅代の名を絞り出すのに精一杯。
「ま、雅代ッ」
雅代がハッと現れ、さっと彼女の元へ駆け寄り、「失礼いたします」と抱き上げ、病室へと運ぶ。
姫の蒼白な頬から滲み出た脂汗は、これが一刻をも争う事態であることを告げている。そして、この症状こそが、姫が長年患ってきた病気の前兆にすぎないのだ。
いつまでもふざけている亮の代わりにみおが口答する。彼女の説明を一通り聞き終わった後、雅代が納得の頷きをしたが、
「なるほど。確かに、それはいい案かもしれませんが……。何もワタシの趣味を邪魔していい理由にはならないと思いますけどね」
納得いかなくて文句を言う。考案者がそこでバカっぷり全開の亮であることを聞くと、誰もが納得できるわけがないだろう。
「お巡りさ――」と再度電話のフリをしようとする亮に、「やかましい」と雅代が割り込んだ。
「同じネタを二度もやらないで頂きたいものです」
「二度美味しいという言葉があるではないですカ!」
「あ、動き出した!」
みおの声によって、先程まで対立していた二人の視線が一斉に姫の背中に集中。
確かに姫は一歩ずつ前進しているものの、その背中からやる気の欠如が感じられて。わざわざ水を差すような真似をするのも癪なので、亮はじっと見守ることにした。
主人が遠ざかっていくのを確認してから、雅代が人差し指を唇に当ててしっと言う。
「これからは静かにお願いします。あんまり大きいだと、お嬢様に気付かれてしまう恐れがございますので」
「うん! みお、静かにする!」
「フフ、みお様はいい子でございますね」
――こんな風に笑うこともできるのか。
そんな感想がぼんやりと彼の脳裏をかすめて、「亮も静かにしまース!」と調子に乗ったが、
「下郎、うるさいですわよ」
返ってきた睨み付きの叱りに、思わず「ナンデェ?!」と叫んだ。
そんな彼に向かって、二人は同時にシーと口の前に人差し指を立てた。たとえお調子者の亮であっても、反発する気が湧かないだろう。
尾行――もとい、かくれんぼが始まってから15分が経過。
最初はみおもワクワクしながら二人と一緒に姫を尾行していたが、姫の緩慢な動きを見ているうちに、彼女の表情も次第に曇ってきた。
「お姉ちゃん、歩くの遅いね。まるで、みおたちを見つけたくないみたい」
その言を聞いた雅代は肯定も否定もせず、ただ静かに目を瞑った。
実際、進んでいるとはいえ、頭はずっと下を向くままでまともに二人を探そうともしない。消極的な彼女の後ろ姿は、なんだか暇を潰しているようにも見える。
――もしかして、姫はかくれんぼが嫌いなんだろうか。
そんな発想が亮の頭によぎった。しかし、今の彼にとってそんなことはどうでもいい。それよりも、この沈んだ空気をなんとかせねばの方が重要だ。
「――退屈だァ!」
「ちょっと下郎。気持ち悪いから、急に声を荒げないでもらえません? 気持ち悪いから」
「二回言わなくてもいいよネ?! 泣くヨ! 感涙がドパドパと出っちゃうヨ?! 鶴喜だけに、な!」
既に二人に冷めた目で見られている上に、次第に通りすがりの患者やスタッフの視線にまで晒されている事態に発展している。けれど、そんなこともお構いなしに騒ぎ続ける亮。
「私がここで泣いてもいいノ! もう、とことんやっちゃいますけどそれでもいいノ!?」
「下郎、うるさいです」
「おふ! はいすみませんでした。お口チャクします」
「お兄ちゃん、情緒不安定?」
感情の起伏の激しい亮を目の当たりにして、みおは首を傾げながら言った。最後の方はややたどたどしい感じになったが、それもまた可愛らしい。
その様子に触れて、雅代は母性が刺激されたかのようにそっと抱き寄せて、優しい口調で諭すように言う。
「かくれんぼが終わりましたら、必ず下郎から離れてくださいね、みお様」
「うん!」
「ちょっと二人とも、やけに私にだけ厳しくナァ~イ?」
「黙らっしゃい」
「おぅ、如何にも殺れそうな目! まさしく女王様そのもの! 鶴喜亮、今この瞬間、黙りますブヒ!」
「できれば、未来永劫黙っていてください」
「おふ、厳しイィィ!」
一段落ついたところで小さな笑いが起こって、次第に周りの人間がそれぞれの用事に戻っていった。
何の変わりもなかったかのように見えても、先程と比べて場の空気が断然に明るくなった。自分の馬鹿さ加減で周囲の笑いを買った亮に一瞥をして、姫の後ろ姿に視線を戻す雅代。
彼なら、恐らく、きっと――。
そんな淡い期待を胸にしまって、主人の寂しそうな背中を見守り続けた。
三人のストーカーに付けられたことに気付かずに、歩き続ける姫。
なぜこんなことをしているの、私。そう思いながらも、彼女は惰性的に足を踏み出し、廊下を進む。
――まあ、暇潰しには丁度いいかもしれない。
今回のかくれんぼでは、亮という弱点がある。車椅子に頼るぐらい足が不自由のため、隠れる場所は限られているに違いない。
それに、昨日の数独の際に、恐らく頭は相当悪い方だろう。しかも、子供のみおよりもずっと。最初に彼から潰していけばあとは楽勝だ。
けれど、いくら彼女の頭が冴えていてもやる気がなければ、試合終了だ。
実際、姫が一時間を歩いていても未だに彼を見つけていない。長期入院患者の中で最も入院歴が長いとは言え、病院の構造を完全に把握したわけではない。
範囲を決めなかったのは、かなりの痛手だ。
――一番探しやすいと侮った相手が、まさかこんなにも難しいだなんて。
内心でため息をつき、進み続ける。突然、廊下の角から現れた人物とぶつかりそうになって、反射的に後ずさって顔を上げた。
「す、すみません。って、アナタは……」
そこまで言い掛けたところで、木村さんは一瞬だけ後方を見てすぐに戻した。けれど、姫はそれに気付かず、目前の相手から顔を逸らした。
赤の他人に知られるのは気まずくて、その場を去ろうとするも相手に「あ、あの」と呼び止められた。しかしそれ以降、木村さんは黙り込んでしまう。
――やっぱり止めておこう。
呼び止めたことに詫びようと思った次の瞬間、姫が彼女の言葉を待っていることに気付いたのだ。内心で「よし」と自分を鼓舞して話しかける。
「アタシは鶴喜クンの、鶴喜亮の担当看護師、木村綾乃と言います。アナタのことは、噂で知っているわ」
二人の間に短い沈黙が流れた。
しかし、彼女はその気まずさに気負いせず、続ける。
「これからも鶴喜クンのことを、よろしくお願いします」
姫の背中に一礼して、彼女とは逆方向に去って行く。それらを背中で受け止めて、姫はちょっとの間その場に留まってから歩き出した。
一方、ずっと姫の後を追っていた三つの人影が物陰から出て追跡を再開。
車椅子に乗っている患者はそう多くはないはずなのに、その中から一人だけを探し出すのは、どうしてこうも大変なんだろう。
もうすぐ夕日が沈む時間になっているのに、未だに二人を探せていない。このままだと姫が負けるのが自然ではあるが、彼女の内側には微かな焦りすらも湧かなかった。
そもそも、彼女がかくれんぼをやるのが今回が初めてで、だから最初この話が持ち出された時点でやるのに少し抵抗があった。
経験がなかった分、結果がどう転ぶかだなんて予想もつかないという不安は勿論ある。それよりも、今回ので『いつも通りの生活』が変わるのが怖かった。
かと言って、この現状を打破するのに自分一人の力ではどうしようもないというのも事実。いや、例えその力を持っていたとしても、彼女はどうもしないだろう。
それほどまでに、彼女は諦めていたのだ。自分の生活にも人生にも何もかも。
暫く歩いていると、また木村さんと遭遇した。その乱れた髪から察するに、また亮を探しているのだろう。
けれど彼女は後ろの方を見ると、顔にあった焦りがすーっと消えた。よかった、と胸を撫で下ろした次の瞬間、今度は違う焦りが顔に帯び始める。
なんだろう、と思考を巡らせて振り返ると、そこには彼女がずっと探していた二人+雅代の姿があった。
「「「あ」」」
――三人はいつの間にこんな仲良しに……。
みおが談話室に来てから雅代とは多少コミュニケーションを交わしたことがあったにせよ、二人が昨日と知り合ったばかりの亮とこんなに仲良くなった方がよっぽどショックのようだ。
けれど、ただショックを受けただけで、別にこれといった感情が芽生えなかった。元々空っぽだった心に、今更感じることなんて何一つもないのだ。
「知り合いと目が合っただけなのに下郎が手を振ったから気付かれました。全く、一体どうしてくれましょう」
「もう、お兄ちゃんのせいで気付かれちゃった……」
「二人とも、今日はやけに私への当て付けが激しくナイ? でも、そういうの嫌いではないゾ! むしろ、いつでもウェルカム! さあ、どこからでも掛かってきてらっしゃい、お嬢さん方!」
三人の責任の押し付け合いが二人の耳にも届いた。
くすくす、と笑う木村さんとは対照的に姫は無表情のまま。そんな彼女を見て、木村さんは顔を曇らせた。気持ちを切り替えるように、三人の方へと向かう。
「はいはい、もう十分遊んだでしょ? 部屋に戻るわよ~」
「いやだあぁ! 私はまだまだ遊びた――」
「食後のデザート、没収するよ?」
「というわけで、また明日遊ぼうな、みおちゃん!」
「手のひら返しが早いのでございますね」
「うん! バイバイ、お兄ちゃん、マイターお姉ちゃん」
いつの間にか、それぞれが告別を済ましていた。
自分だけが蚊帳の外に置かれたことに気付いた姫は、眩しすぎる集団を視界から外れるように、背中ごと向けて俯いた。
ダメだ。このままでは――『いつもの』日常が乱れてしまう。
そんな戒めの言葉が彼女の心に浮かんだ時、車輪が視界に入ってきて思わず顔を上げると、
「また明日、姫」
別れを告げられて、木村さんと一緒に離れていく亮。
遠ざかっていく二人の背中をぼんやりと見つめて、姫は「また明日、か」とポツリ。
だけど、その言葉を噛み締めることもままならず、彼女の細身に冷気が襲い掛かってきた。今まで硬く引き締まっていた表情が歪んで、細い喉から雅代の名を絞り出すのに精一杯。
「ま、雅代ッ」
雅代がハッと現れ、さっと彼女の元へ駆け寄り、「失礼いたします」と抱き上げ、病室へと運ぶ。
姫の蒼白な頬から滲み出た脂汗は、これが一刻をも争う事態であることを告げている。そして、この症状こそが、姫が長年患ってきた病気の前兆にすぎないのだ。
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