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第七話 悪意と憎悪
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三年後。
石楠花は二十八になっていた。
菅原との面談の後、彼女は虎丸が持ち込んだ術書の、一部解読に成功した。
それにより、これまで簡単な天気予報程度であった彼女の占いは、劇的に精度を増し、水無月の基幹産業である農業は、これまでにない興隆を見せている。
勿論この成功は、相談役である虎丸の協力あってこそだったことは、言うまでもない。
その年、とうとう石楠花に縁談の話が持ち上がり、彼女は農富族の青年・最上と結婚した。
当初は、父親である相馬氏が勧めてきた男性と話が進んでいた。しかし、あまりに石楠花と年が離れた中年だったため、総監の菅原が強引に破談にさせた。
これに限らず、これまで農富族の言いなりだった新宮の人事は、菅原が総監に就任して以降、激変した。新宮は、着実に変わりつつあった。
結婚してはや、三年が経とうとしていたが、石楠花に子供は出来なかった。
焦りを見せる官僚や農富族を尻目に、彼女は虎丸と共に、日々術の鍛錬に励んだ。
最上を妬む農富族からは、「最上は種無しではないか」と噂が上がるようになった。
しかし最上は、同い年の若い愛人との間に子供を儲けることで、周囲を黙らせた。そんな非道な行いが許されたのも、彼が上級の農富族だったからである。
◇◇◇◇
「最上さまがいらしています」
御殿の自室で新聞を読んでいた石楠花の元に、侍女が現れた。
傍らでは虎丸が新聞のバックナンバーを整理していた。
彼らは毎日、水無月の新聞を読んでは、実際に起きた天気や現象を確認している。石楠花が発表した占いと現実が、どのぐらいズレがあったのかを調べているのだ。
「今か? 今日は来るとは聞いていないぞ」
「はい。突然いらっしゃったみたいで……」
「今日は面会の準備をしていない。そう説明して帰ってもらえ」
「それが、その……もうそこまでいらして……」
「石楠花! 遊びに来たぞ」
戸惑いを見せる侍女の後ろから、最上が顔を出す。
色白で眼鏡をかけた、少しふくよかな青年だ。豪華な刺繍を施した、唐紅の着物を身に着けている。
石楠花は露骨に嫌な顔をした。
「いらっしゃるときは、前もって仰って頂かないと、困ります」
最上は夫でありながら、新宮では暮らしていない。
巫女は原則、通い婚の形式をとっている。そのため、最上も私邸から新宮に通っているのである。
「ごめんよ、突然。でも大事な話なんだ」
最上は彼女の機嫌などお構いなしに、部屋にあがり込んでくる。虎丸が腰を上げるのを見ると、それを制した。
「虎丸殿、そのままで」
渋々その場に座り込む虎丸。
「今日はちょっと、虎丸殿にも話があってね。こうやって突然顔出さないと、いつも逃げられちゃうから」
最上は戸口に立っている侍女に、「出ていけ」と手で合図した。仏頂面で襖を閉める侍女。
石楠花は虎丸と最上の顔をチラチラと見て、何を言い出すのかと不安そうな顔をしている。
「貴方もご存じでしょうが、僕たちは未だに子供が出来ないんですよ。是非、人生の先輩である、貴方の意見を聞きたいんです」
突然の夫の申し出に、石楠花が錯乱気味に止めに入る。
「最上殿、やめてください。これは私たち夫婦の問題です。虎丸には関係ないでしょう」
「もう僕たち二人だけで解決する時期は、過ぎたと思うよ。お義父様もとても、心配なさっているし」
「でも……」
動揺を隠せない石楠花の代わりに、虎丸が応える。
「最上様。私よりも妻の天音に、相談されたほうが良いのではないですか」
虎丸の『妻』という言葉が、胸に刺さる。石楠花は、きつく目を閉じた。
「いやいや。男の貴方に、ききたいんです」
最上は眼鏡のブリッジを指で押し上げて、意地の悪い声を出した。
「石楠花が、すぐに痛がってね。途中までは良いんだけど、最後までさせてくれないんです」
「最上殿!!」
石楠花が金切り声をあげる。
わなわなと震え、膝に置いた拳を握りしめる。
「やめてください……」
「貴方は男の僕から見ても、かなりの色男だ。今まで女に、苦労したことはないでしょう? なかなか心を開いてくれない女性に、どう対応したら……」
「申し訳ないのですが、私には分かりかねます」
虎丸は最上の言葉を遮るように、ハッキリと断った。
「残念ですよ、虎丸殿。貴方なら石楠花を開かせる方法を、知っていると思ったのですが」
いわくありげな表情で、二人に視線を送る最上。
石楠花はその場の空気に堪えきれず、立ち上がって足早に部屋を出た。
「石楠花様!」
背後から虎丸の声が聞こえるが、無視して襖を閉じる。
「大丈夫、大丈夫。彼女はいつも、気に入らないことがあると、すぐに背中を向けるんですよ……」
部屋の中から、最上のヘラヘラとした声が聞こえてくる。
耳を塞いで奥御殿に走り出す石楠花。
夫婦の営みの問題を、人前で晒すなんて。
私は侮辱された。女として、人間として辱められた。しかも、他の誰でもない、虎丸の前で。
許せない。あの男が許せない。
それ以上に、そんな発言を虎丸の前で許してしまった、自分が情けない。
水無月の巫女として、民を導く巫女として、尊厳を保つべき人間なのに。
もう威厳も何もない。その辺の安い女と同じだ。俗世間の、浮ついた話をする女と。
◆◆◆◆
その日、石楠花は一度も御殿から出てこなかった。
普段は侍女の手伝いを申し出たり、執務棟に顔を出して菅原たちを労ったりするのだが、日が暮れても顔をださなかった。昼食もとらず、虎丸との散歩にも出かけず、自室に延々と籠っていた。
『水無月の民が、丹精込めて作った食物』と、日ごろは米粒一つ残さず平らげる石楠花が、食事を拒否することは非常に珍しかった。心配した侍女頭が夕食に粥を用意したが、それすら手を付けなかった。
季節は夏だった。
今日は近隣の河川敷で、毎年恒例の花火大会が催される。
侍女たちは華やかな浴衣に着替え、官僚や職員たちは家族や友人と連れだって、川沿いの公園に向かっていく。
いつもよりバタバタとした終業時間が過ぎ、新宮は暗闇に包まれ、静寂を取り戻した。行灯が等間隔に灯り、見回りの警護兵が、それらを確認しながら巡回をしている。
御殿に続く渡り廊下の手前で、虎丸が所在なさげに胡坐をかいて座っている。
相談役といえども、許可がなければ御殿には入れない。
御殿から出て来た侍女頭の早川が、彼に気づいて声をかける。
「虎丸殿、こちらにいらしたのですか」
「……石楠花様の様子は、どうですか」
早川の顔を見あげて、切なそうな声で訊ねる。
彼は既に三十四になっていた。端正な顔立ちに少しだけ皺が入り、それがかえって男らしさを際立たせている。水無月に来た時よりも肌の色が薄くなり、まくり上げた袖から見える筋肉は、白く艶やかだった。
「殆ど口を開いてくださりません。私もようやく先程、事情を教えてもらって。最上様も、何故あのようなことを仰ったのか……石楠花様は、誰よりも自尊心の強いお方。酷く傷ついておられます」
「あの時、石楠花様を追いかけなかったことが、本当に悔やまれて……」
「仕方ありません。最上様の手前、追いかけるわけにもいかなかったでしょう」
「でも……」
頭を抱える虎丸に、彼女は小さな鍵をひとつ、手渡した。それは奥御殿の鍵だった。
「……良いのか?」
「今日の夜勤当番は、別の侍女だったんですけどね。『花火が見たい』と言うので、代わってあげたんです。ついてますよ、虎丸殿は」
「すまない。恩に着る」
虎丸は早川に頭を下げ、渡り廊下を走って行く。
「姫様、もう少しだけ辛抱してくださいね。虎丸殿が会いに行ってくださいましたよ……」
早川は唇を噛み締めて、彼の背中を見送った。
石楠花は二十八になっていた。
菅原との面談の後、彼女は虎丸が持ち込んだ術書の、一部解読に成功した。
それにより、これまで簡単な天気予報程度であった彼女の占いは、劇的に精度を増し、水無月の基幹産業である農業は、これまでにない興隆を見せている。
勿論この成功は、相談役である虎丸の協力あってこそだったことは、言うまでもない。
その年、とうとう石楠花に縁談の話が持ち上がり、彼女は農富族の青年・最上と結婚した。
当初は、父親である相馬氏が勧めてきた男性と話が進んでいた。しかし、あまりに石楠花と年が離れた中年だったため、総監の菅原が強引に破談にさせた。
これに限らず、これまで農富族の言いなりだった新宮の人事は、菅原が総監に就任して以降、激変した。新宮は、着実に変わりつつあった。
結婚してはや、三年が経とうとしていたが、石楠花に子供は出来なかった。
焦りを見せる官僚や農富族を尻目に、彼女は虎丸と共に、日々術の鍛錬に励んだ。
最上を妬む農富族からは、「最上は種無しではないか」と噂が上がるようになった。
しかし最上は、同い年の若い愛人との間に子供を儲けることで、周囲を黙らせた。そんな非道な行いが許されたのも、彼が上級の農富族だったからである。
◇◇◇◇
「最上さまがいらしています」
御殿の自室で新聞を読んでいた石楠花の元に、侍女が現れた。
傍らでは虎丸が新聞のバックナンバーを整理していた。
彼らは毎日、水無月の新聞を読んでは、実際に起きた天気や現象を確認している。石楠花が発表した占いと現実が、どのぐらいズレがあったのかを調べているのだ。
「今か? 今日は来るとは聞いていないぞ」
「はい。突然いらっしゃったみたいで……」
「今日は面会の準備をしていない。そう説明して帰ってもらえ」
「それが、その……もうそこまでいらして……」
「石楠花! 遊びに来たぞ」
戸惑いを見せる侍女の後ろから、最上が顔を出す。
色白で眼鏡をかけた、少しふくよかな青年だ。豪華な刺繍を施した、唐紅の着物を身に着けている。
石楠花は露骨に嫌な顔をした。
「いらっしゃるときは、前もって仰って頂かないと、困ります」
最上は夫でありながら、新宮では暮らしていない。
巫女は原則、通い婚の形式をとっている。そのため、最上も私邸から新宮に通っているのである。
「ごめんよ、突然。でも大事な話なんだ」
最上は彼女の機嫌などお構いなしに、部屋にあがり込んでくる。虎丸が腰を上げるのを見ると、それを制した。
「虎丸殿、そのままで」
渋々その場に座り込む虎丸。
「今日はちょっと、虎丸殿にも話があってね。こうやって突然顔出さないと、いつも逃げられちゃうから」
最上は戸口に立っている侍女に、「出ていけ」と手で合図した。仏頂面で襖を閉める侍女。
石楠花は虎丸と最上の顔をチラチラと見て、何を言い出すのかと不安そうな顔をしている。
「貴方もご存じでしょうが、僕たちは未だに子供が出来ないんですよ。是非、人生の先輩である、貴方の意見を聞きたいんです」
突然の夫の申し出に、石楠花が錯乱気味に止めに入る。
「最上殿、やめてください。これは私たち夫婦の問題です。虎丸には関係ないでしょう」
「もう僕たち二人だけで解決する時期は、過ぎたと思うよ。お義父様もとても、心配なさっているし」
「でも……」
動揺を隠せない石楠花の代わりに、虎丸が応える。
「最上様。私よりも妻の天音に、相談されたほうが良いのではないですか」
虎丸の『妻』という言葉が、胸に刺さる。石楠花は、きつく目を閉じた。
「いやいや。男の貴方に、ききたいんです」
最上は眼鏡のブリッジを指で押し上げて、意地の悪い声を出した。
「石楠花が、すぐに痛がってね。途中までは良いんだけど、最後までさせてくれないんです」
「最上殿!!」
石楠花が金切り声をあげる。
わなわなと震え、膝に置いた拳を握りしめる。
「やめてください……」
「貴方は男の僕から見ても、かなりの色男だ。今まで女に、苦労したことはないでしょう? なかなか心を開いてくれない女性に、どう対応したら……」
「申し訳ないのですが、私には分かりかねます」
虎丸は最上の言葉を遮るように、ハッキリと断った。
「残念ですよ、虎丸殿。貴方なら石楠花を開かせる方法を、知っていると思ったのですが」
いわくありげな表情で、二人に視線を送る最上。
石楠花はその場の空気に堪えきれず、立ち上がって足早に部屋を出た。
「石楠花様!」
背後から虎丸の声が聞こえるが、無視して襖を閉じる。
「大丈夫、大丈夫。彼女はいつも、気に入らないことがあると、すぐに背中を向けるんですよ……」
部屋の中から、最上のヘラヘラとした声が聞こえてくる。
耳を塞いで奥御殿に走り出す石楠花。
夫婦の営みの問題を、人前で晒すなんて。
私は侮辱された。女として、人間として辱められた。しかも、他の誰でもない、虎丸の前で。
許せない。あの男が許せない。
それ以上に、そんな発言を虎丸の前で許してしまった、自分が情けない。
水無月の巫女として、民を導く巫女として、尊厳を保つべき人間なのに。
もう威厳も何もない。その辺の安い女と同じだ。俗世間の、浮ついた話をする女と。
◆◆◆◆
その日、石楠花は一度も御殿から出てこなかった。
普段は侍女の手伝いを申し出たり、執務棟に顔を出して菅原たちを労ったりするのだが、日が暮れても顔をださなかった。昼食もとらず、虎丸との散歩にも出かけず、自室に延々と籠っていた。
『水無月の民が、丹精込めて作った食物』と、日ごろは米粒一つ残さず平らげる石楠花が、食事を拒否することは非常に珍しかった。心配した侍女頭が夕食に粥を用意したが、それすら手を付けなかった。
季節は夏だった。
今日は近隣の河川敷で、毎年恒例の花火大会が催される。
侍女たちは華やかな浴衣に着替え、官僚や職員たちは家族や友人と連れだって、川沿いの公園に向かっていく。
いつもよりバタバタとした終業時間が過ぎ、新宮は暗闇に包まれ、静寂を取り戻した。行灯が等間隔に灯り、見回りの警護兵が、それらを確認しながら巡回をしている。
御殿に続く渡り廊下の手前で、虎丸が所在なさげに胡坐をかいて座っている。
相談役といえども、許可がなければ御殿には入れない。
御殿から出て来た侍女頭の早川が、彼に気づいて声をかける。
「虎丸殿、こちらにいらしたのですか」
「……石楠花様の様子は、どうですか」
早川の顔を見あげて、切なそうな声で訊ねる。
彼は既に三十四になっていた。端正な顔立ちに少しだけ皺が入り、それがかえって男らしさを際立たせている。水無月に来た時よりも肌の色が薄くなり、まくり上げた袖から見える筋肉は、白く艶やかだった。
「殆ど口を開いてくださりません。私もようやく先程、事情を教えてもらって。最上様も、何故あのようなことを仰ったのか……石楠花様は、誰よりも自尊心の強いお方。酷く傷ついておられます」
「あの時、石楠花様を追いかけなかったことが、本当に悔やまれて……」
「仕方ありません。最上様の手前、追いかけるわけにもいかなかったでしょう」
「でも……」
頭を抱える虎丸に、彼女は小さな鍵をひとつ、手渡した。それは奥御殿の鍵だった。
「……良いのか?」
「今日の夜勤当番は、別の侍女だったんですけどね。『花火が見たい』と言うので、代わってあげたんです。ついてますよ、虎丸殿は」
「すまない。恩に着る」
虎丸は早川に頭を下げ、渡り廊下を走って行く。
「姫様、もう少しだけ辛抱してくださいね。虎丸殿が会いに行ってくださいましたよ……」
早川は唇を噛み締めて、彼の背中を見送った。
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