ゴキブリ戦役

清水そら

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表出と思案

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 予想に反して「なんらかの生物」は大きな動きを見せなかったため、次の手を考えながら周囲を漫然と見渡しているときだった。黒い物体が猛烈な勢いで足下をすり抜け、弧を描くような軌跡をたどって、向かって右に配置されているテレビ台の下に姿を消した。


 一瞬の出来事に頭が真っ白になり思考が停止していたが、次第に冷静さを取り戻し、目の前で起こった事象を頭のなかで整理できるようになった。ことここに至って最悪の事態が現実味を帯びてきていた。たったいま視認した黒い物体は私がイメージする「かの生物」よりも幾分か大きかったが、不気味な触角の反復運動や移動する速さは「かの生物」そのものであった。


 箒での軽い挑発に対して慌てて飛び出るというような愚は犯さず、奥に移動して攻撃に備えるという非常に冷静かつ慎重な行動を選択していた。今にして思えば、これらの判断は他の同系統の昆虫類とは一線を画しており、幾星霜の年月をしぶとく生き抜いてきた「かの生物」に相応しい振る舞いであった。


 数多の激動の時代を潜り抜けてきた歴戦の士に対抗するにはそれ相応の覚悟が必要となる。テレビ台の前で状況を観察しながらしばらく思案していたが、「かの生物」相手に、間合いの短く、本来の用途ではない近接武器一つでは心もとないという結論に達した。机の端には黒を基調としたシックな雰囲気の電波時計が置かれており、机と色合いが非常にマッチしている。その時計は十九時を幾分か過ぎた時間を指し示していた。


 南西の方角に設置されたガラス張りの窓から外を確認すると既に太陽の面影はなく、辺りはわずかに街灯が光を放っているだけで暗闇に染まっていた。素早く財布や鍵を身につけ、躊躇することなく外へ出て、大通りを隔てて家の南側にある駅前の商店街へと足を向けた。


 履いている量産型のスニーカーは底が平べったく、薄い。地面を踏みしめるたびに違和感を覚え、心の隅がチクリと痛む。とうの昔に心の奥底に封印して、最近は思い出すことすらなくなっていた感情に戸惑った。蓄積されていく心の痛みに耐えていると、声すら聞いたことのない彼の泣き笑いの表情が頭に浮かんだ。
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