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19. 舞踏会

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「私の名代として、この屋敷に行ってください」

 主人から私に渡された紙には、簡単な地図が書いてあった。

「はあ……セザール候のお屋敷ですか」
「お嬢さまの誕生日でね。そんなものにいちいち反応してはいられないんだが」

 そう言って、ため息をつく。どうにも断れなかったということだろう。妥協案として、名代を向かわせるというわけだ。

「何をすればいいでしょう」
「贈り物は用意させました。馬車を使いなさい。途中でそれを取りに寄って、お嬢さまに渡してください。それだけすれば、あとは適当に帰ってきていいですよ」
「分かりました」
「もしその場で口説きたいお嬢さんがいれば、そのまま居座ってもいいですがね」

 そう言って、髭の奥でにやりと笑う。私は苦笑する。

「まさか。それに、招待客の女性といえば良いところのお嬢さまばかりなのでしょう? 一介の書生など相手にされないと思いますが」
「さあ、それはどうですかね。いろいろ誤解もあるようだから」
「……はあ?」
「とにかく、お願いしますね」

 そう言って、主人はまた王城に向かっていった。
 最近、なにやらまた忙しくなってきたようだ。

          ◇

 正装に着替え廊下に出ると、彼女とまた鉢合わせた。いや、待っていた様子だった。

「聞いたわ」
「何を?」
「舞踏会に行かれるのでしょう?」

 なにやら瞳を輝かせている。どんなものを想像しているのだろうか。

「そんな大層なものではありませんよ。ジャンティさまの名代として贈り物を届けてくるだけですし」
「そうなの」

 自分が行くわけでもないのに、なんだかしょんぼりしている。
 しかしふいに顔を上げて言った。

「私、舞踏会って、行ったことがないの」
「ああ」

 それはそうだろう。そんな機会が彼女にあったとは思えない。

「だから、ちょっと羨ましいわ。私も行ってみたい。それで、陰でこっそり見てみたい」
「どうして陰?」

 苦笑しながらそう言うと、彼女は手を組んだり離したりして、もじもじするような様子を見せる。

「私ね、少しだけダンスを習ったことがあるの」
「へえ」

 それは意外だ。どこで習ったのか。王城にいる間に、誰かが戯れに教えたのかもしれない。

「でも、あんまり上手く踊れなくて」
「ふうん」
「だから、参加なんてとても無理だし。でも、どんなのかは見てみたい。だから、陰」

 そう言って、恥ずかしそうに笑った。

「楽しんで来てね? それで、どんなだったか教えて」
「教えて……」

 そう言われると、舞踏会でのマナーなども教えておかなければならなかったな、と思いつく。
 だが残念ながら、私自身もほとんど参加したことがなくて、教えられるほどの知識がない。
 アネットも若い頃はあっただろうが、この屋敷で働き始めてからは、おそらくはない。
 辛うじて主人ならば分かるだろうが、主人が彼女に教える時間はないだろう。
 この屋敷に勤める面々を思い浮かべてみるが、適任者が思いつかない。

 となると、司祭さまにお願いするしかないのだろうか。この屋敷に出入りする者の中で、一番そういった催しに参加していそうな感じがする。
 彼ならば快く引き受けてくれそうな気もするのだが、なんとなく、それは避けたい。

「……練習、してみましょうか」

 思わず、口からついて出た。
 彼女がその声に顔を上げる。

「あ、いや……。私もたしなみ程度にしか踊れないけれど。これから行くわけだし、一応、練習がてら、踊ってみようかなって……」

 言い訳がましく、しどろもどろになりながら言った。
 何を言っているんだ、私は。
 踊る? 名代として贈り物を届けるだけなのに。踊ることなどないだろうに。
 いったい何の練習だ。

「はい!」

 だが彼女は、勢い込んで、頷いた。
 嬉しそうに笑うから、私はもう何も言えなくなる。

 今部屋を出たばかりだったから、私はそのまま身を翻して、自室の扉を開ける。
 全開にしておこう。あらぬ誤解を受けてはいけない。

「ええと、じゃあ、少しだけ」

 椅子や机を動かして、踊る場所を作る。
 彼女は、空で手を上げたりして、その習ったときの記憶を思い起こしているようだった。

「えっと、それでは」

 左手を、差し出す。すると彼女は、ドレスの裾を上げ、一礼した。
 習ったというのは本当のようだ。
 こちらに歩み寄り、右手を私の左手に乗せる。
 肩にもう一方の手を乗せてきたから、背中に手を回して引き寄せた。

 急激に心臓が激しく打ち始めた。
 顔が赤くなっていないだろうか。それを彼女に気付かれないだろうか。

「じゃあ、さんはい」
「一、二、三、一、二、三」

 彼女がそうリズムを取り始める。それに合わせて足を動かす。
 握った手が汗ばんできた気がする。今まで、ここまで近付いたことなどあっただろうか。
 彼女の銀の髪が揺れる。気を抜くと、腰が、足が、触れる。それが怖くて、腰が引ける。
 今、どこまで踊った? さっきターンしたから、次は。
 駄目だ。完全に舞い上がってしまっている。

「あっ……と」

 ついに、彼女のドレスの裾を踏んでしまった。

「すみません」

 それを合図に、彼女は私から離れた。今さっきまでこの手の中にいたのに。
 彼女は笑う。

「練習して良かったわね」

 相手が君でなければ、きっと緊張せずに踊れたけどね、と心の中で思う。

「まあでも、贈り物を届けるだけだから」

 苦笑しながらそう言う。

「贈り物を届けるだけって言っても、もしかして、踊るかもしれないじゃない?」
「そりゃあ、女性に誘われれば断ることはできませんが。でもそれはないと思います」

 断言してもいい。彼女らは、私など相手にしないだろう。

「そうかしら」
「ええ」

 リュシイは何やら釈然としないような表情をしている。
 部屋を出ながら、彼女は言った。

「でも、練習はしておいて良かったわ、きっと」
「そうでしょうか」
「私も忘れないうちに踊っておきたかったし」
「なるほど」
「じゃあ、行ってらっしゃい」

 私に手を振ってくる。

 君でなければ上手く踊れるかもしれないけれど。
 君以外と踊りたいとは思わないよ。

 きっとそれを口にする機会は、ないんだろう。

          ◇

 用意された馬車に乗り込んで、指定された店に贈り物を取りに行く。
 受け取った箱はそう大きなものではなかったけれど、店構えからしてみても、高価で上品な趣味の良いものが入っているんだろう。私では、何が女性を喜ばせるのか想像もつかないが。

 それからまた馬車に乗り込み、目指す屋敷にたどり着く。
 中ではすでに誕生会は始まっていた。

 リュシイには、舞踏会のように大したものではないと言ったが、実際はなかなか大したものだった。
 至るところに花が飾られ、それに負けないくらい華やかに飾られた人たちが集まっている。ここにどれくらいの人間が集まっているのか数え切れない。続き部屋の談話室のテーブルの上には豪華な食事が並び、給仕をする使用人が飲み物を持って歩き、音楽隊が曲を奏でている。広間の中央では、その曲に合わせて、美しい女性たちのドレスが花のように舞う。
 身分の高いお嬢さまというのは、誕生日にここまでするものなのか。

 目指すお嬢さまが人ごみのなかにいるのを見つける。もちろん面識はないのだが、いろんな人からいろんな物を受け取ったりお祝いの言葉を貰っていたりしたので、すぐに分かった。

「お誕生日、おめでとうございます」

 私も何とか近寄り、そう彼女に告げる。
 扇で顔を隠していたので、よく分からないが可憐な少女のようだった。
 しかしその目が私を疑惑の目で見つめている。

「私の主人は大法官をさせていただいているジャンティと申しますが……」
「ああ」

 彼女は扇を閉じて、にっこりと微笑んだ。だが口元だけは隠している。それが貴族のお嬢さまの礼儀というものなのかもしれない。

「本日はせっかくお招きいただいたのに、こちらに来られなかったことを主人はひどく残念に思っておりました。お美しいお嬢さまのお姿を拝見いたしまして、主人が残念に思う気持ち、私にもよく分かりました」
「まあ、嬉しがらせを」

 ほほ、と優雅に笑う。

「ジャンティさまは王城に仕えるお忙しい御身。わたくしなどのためにお時間を割いていただくのは心苦しく思いますもの、お気遣いなく。でもそんな中でお心遣いをいただき感謝いたしますわ」

 私は主人から用意された花と贈り物を差し出す。

「主人より、心ばかりの品です」
「ありがとう。ジャンティさまにもよろしくお伝えくださいな」

 けれども受け取ったのは、横についている従者だった。それはそうだろう。皆からまともに受け取っていたら、すぐに手がいっぱいになってしまう。
 次に彼女に話しかけようと待っている人もいるようだ。この場に長居は不要だろう。

 では、と礼をしようとしたときだ。

「最近、ジャンティさまはご養子を引き取られたという噂」

 お嬢さまの口から、突然にそんな話が飛び出した。

「え? はい」

 まったく予測していなかったから、私は頷くしかできなかった。

「あなたなのかしら?」

 誤解があるようですから、と主人は言っていた。なるほど、それは大いなる誤解だ。

「いえ、私ではありません」
「あらそうなの」

 あからさまにがっかりしたような顔をする。
 少し沈んだ声をして、「よろしければゆっくりしていらして」などと言って、早々に切り上げてきた。
 なんなんだ。養子になったという人を見たかったのだろうか。

 さて、用は済ませた。もう帰ってもいいだろうかと思っていると、その辺りにいた女性たちがわらわらと寄ってきた。
 一体、何が起こったのだ。
 戸惑っていると、一人が口を開く。

「ジャンティさまの名代ですって?」
「え、ええ」
「では養子になられたというのは、あなたですの?」

 別の女性が言う。
 なんとも素晴らしい誤解が広まっているようだ。
 彼女たちはお嬢さまと同じように扇で顔を半分隠しているが、目は興味津々といった風だった。
 期待に応えられなくて申し訳ないが、仕方ない。

「いえ、私のことではありません」
「あら、そうなの。それは失礼」

 お嬢さまと同じような反応を示して、ゆるゆると一人、また一人と私の傍を離れていく。

「ジャンティさまのお屋敷には書生が一人いらっしゃるということだけれど」

 まだ残っていた二、三人のうちの一人が言った。

「ええ、それは私のことですが」

 それだけは間違いない。

「その方が養子になられたのではないかというもっぱらの噂なのだけれど」
「残念ながら私ではありません」
「あら、失礼」

 そう言って、結局その場には誰もいなくなってしまった。
 なんなんだ、本当に。
 周りに誰もいなくなったので、私は心置きなくこの場を辞退することにした。
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