断罪回避のため、秘蔵のデザートを差し出します

綾瀬ひまり

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開店初日――

“菓房シュヴァルツ”には、焼きたての甘い香りが満ちていた。

焦がしキャラメルと白桃のタルト、ハーブをきかせたレモンクッキー、しっとりとした紅茶のパウンドケーキ。それらが丁寧に並べられたガラスのショーケースは、どこか舞台装置のように美しかった。

けれど、店内に人影はない。

マルレーネが厨房の壁にもたれながら呟く。

「……宣伝が足りなかったかしら。ま、初日なんてこんなもんよね」

カミルは黙ってドアを見つめ、セレナはカウンター越しに紅茶を静かに口に運ぶ。

心は不安でいっぱいだった。それでも、彼女の表情に曇りはなかった。

「大丈夫ですわ。ここは“赦し”の場所ではなく、“始まり”の場所。焦らず、ひとつずつ、ですね」

その言葉とほぼ同時に――扉の鈴が、小さく鳴った。

全員の視線が扉へと向く。  
その姿を見た瞬間、マルレーネが思わずポットを落としかけた。

「ま、まさか……っ」

現れたのは、制服姿の王太子リュカ=グランフォードだった。

そのまま堂々と、けれどどこか静かに足音を響かせ、カウンター前の椅子に腰を下ろす。

「……政務の合間に少しだけだ」

そう一言だけ告げ、視線も合わせず、メニューを開くこともなく言った。

「例のタルト。あるな?」

セレナは小さく微笑み、深く一礼する。

「もちろん。お好みでなければ、お代はいただきませんわ」

彼女が皿に盛ったのは、開店用に改良した“記憶のタルト”――あの日と同じく、焦がしキャラメルと白桃、そして微かに香る金桂花の香りを重ねた特別な一皿だった。

リュカは無言のまま、それをひと口。  
その瞬間、彼の目元がかすかに揺れる。

「……変わってなど、いないな」

ぽつりと漏らしたその言葉に、セレナはふと動きを止める。

それは“変わったね”ではなく、  
“あのままでいてくれている”という、静かな肯定だった。

「ありがとうございます。変えることも、大切なこともありますけれど――わたくし、この味だけは守りたかったんですの」

「……守れている」

それきり彼は何も言わず、タルトを食べ終えると、銀貨をテーブルに置いて席を立った。

「また来る。政務の合間に」

セレナは深く一礼し、扉の鈴がもう一度鳴るのを見送った。

初めての“お客様”は、予想外の王太子殿下。  
そしてその一皿は、政と断罪を超えた、“記憶の証明”だった。
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