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第一章 巡り逢い
第一章 巡り逢い⑤
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あれは中学一年の夏休み。暑い夏だった。とにかく暑くて、日差しが強くて、湿気がじっとりと肌に纏わり付く。そんな夏だった。田舎の山の中では娯楽も少なく、遊べる場所といえば学校のプール程度のものだった。
「海に行こう」
そう言い出したのは、俺だったのかあいつだったのか。今となっては覚えていない。ただ遠くへ行きたかった。きっとあいつも同じだった。
その頃、歩の父親は酷く荒れていた。歩は、青痣やたん瘤をこさえては、よく学校を休んだ。プールの授業は数えるほどしか出席しなかった。
「海ったって、遠いぞ。電車で行くのか?」
「電車賃がもったいないからな。自転車で行こうぜ」
「何時間かかるんだよ」
「国道ずっと行けば着くだろ。あとは地図持ってけばさ」
「お前地図読めないだろ」
「そこはお前担当で」
「人任せにするな」
「一日で行って帰ってくるんじゃ遊ぶ時間なさそうだから、向こうで一泊してこようぜ。一晩くらい野宿でも平気だろ。どうせ夏なんだし」
「……だな。どうせ夏休みだし」
「時間はいくらでもあるんだから」
視界を眩ます強烈な日差しに急かされていた。青春が音もなく腐り落ちていく様を、黙って見送ることなどできなかった。
約束の日。国道へ向かう橋の袂で待ち合わせた。珍しく早起きに成功した俺は、十分も早く着いて歩を待った。
さらさらと流れゆく川の水面に、紺碧の空が落っこちている。乱反射する陽の光が、天の川の瞬きに似ていた。
押し寄せる蝉の声は波の音に似ていた。海なんて行ったことがないのにそう思った。目深に被ったキャップの下は、大量の汗で大洪水を起こしていた。滴る汗をぺろりと舐めて、海の味に思いを馳せた。
約束の時間を三十分近く過ぎた頃。水筒の中身は既に半分近く減っていた。歩はまだ来ない。
寝坊なんてするやつじゃない。約束を違えるやつでもない。それなのに、待てど暮らせど歩は来ない。俺はいよいよ痺れを切らし、歩の家まで迎えに行った。
「おーい。寝てんのかぁ?」
呼び鈴は壊れていた。何度か呼んでも返事がない。不躾なのは承知の上で、俺は縁側に回った。
この時の自分の判断を、俺は今でも悔いている。しかし、歩のためにどうするのが最良の選択だったのか。それは今でも分からないままだ。
まるで潮が引くように、蝉時雨は遥か彼方に遠のいた。押し殺したようなか細い悲鳴が、薄暗い室内に満ちていた。薄汚れた布団に横たわる歩の瞳は鈍く澱んでいた。一筋の涙が頬を伝った。
無我夢中だった。考えるより先に体が動いた。俺は、床に転がっていたビールの空き瓶を拾い上げ、歩を襲う獣の脳天に振り下ろした。
小刻みに痙攣を繰り返す四つ脚の獣の下敷きから、歩はようやく這い出した。痩せこけた白い体は痣だらけだった。
歩は、俺の取り落としたビール瓶を手に取った。赤黒い血と髪の毛が、瓶の底にべったりとこびり付いていた。刹那、歩は静かに息を止め、それを大きく振り上げた。
ぐしゃり。骨のひしゃげる音がする。肉片と血飛沫を浴びながら、歩は再び腕を振り上げた。
どす黒い血の海に沈んだそれは、ぴくりとも動かなくなった。割れて飛び散ったガラスの破片が、血に濡れて鈍く光っていた。
「……おい」
呆然と立ち尽くす俺に、歩が言う。ぞっとするほど冷たく落ち着いた声だった。
「これでおれを殴れ」
歩はガラスの灰皿を俺の前に突き出した。
「な……なに、言ってんだよ」
「お前が来た時には全部終わってた。おれが一人でしたことだ。お前は何も関わってない。いいな?」
「い、意味わかんねぇよ、なんだよそれ……」
「いいから早くしろ。おれを殴れ」
「で、でも……」
「手加減するなよ。本気でやれ」
「む、むりだよ、そんなの」
「早くしろ。頭のてっぺんをしっかり狙えよ」
「歩、」
「お願いだから。准……」
俺は灰皿を握りしめ、高く振り上げた。だけど、歩を殺すことなんてできない。本能が拒んだ。ぶちっ、と眼球の潰れる音がした。
歩は笑っていた。底なし沼のように昏く虚ろな瞳から、血の涙を流していた。歩の左目から光を奪った凶器が、血の海の底に沈んでいく。
「海に行こう」
そう言い出したのは、俺だったのかあいつだったのか。今となっては覚えていない。ただ遠くへ行きたかった。きっとあいつも同じだった。
その頃、歩の父親は酷く荒れていた。歩は、青痣やたん瘤をこさえては、よく学校を休んだ。プールの授業は数えるほどしか出席しなかった。
「海ったって、遠いぞ。電車で行くのか?」
「電車賃がもったいないからな。自転車で行こうぜ」
「何時間かかるんだよ」
「国道ずっと行けば着くだろ。あとは地図持ってけばさ」
「お前地図読めないだろ」
「そこはお前担当で」
「人任せにするな」
「一日で行って帰ってくるんじゃ遊ぶ時間なさそうだから、向こうで一泊してこようぜ。一晩くらい野宿でも平気だろ。どうせ夏なんだし」
「……だな。どうせ夏休みだし」
「時間はいくらでもあるんだから」
視界を眩ます強烈な日差しに急かされていた。青春が音もなく腐り落ちていく様を、黙って見送ることなどできなかった。
約束の日。国道へ向かう橋の袂で待ち合わせた。珍しく早起きに成功した俺は、十分も早く着いて歩を待った。
さらさらと流れゆく川の水面に、紺碧の空が落っこちている。乱反射する陽の光が、天の川の瞬きに似ていた。
押し寄せる蝉の声は波の音に似ていた。海なんて行ったことがないのにそう思った。目深に被ったキャップの下は、大量の汗で大洪水を起こしていた。滴る汗をぺろりと舐めて、海の味に思いを馳せた。
約束の時間を三十分近く過ぎた頃。水筒の中身は既に半分近く減っていた。歩はまだ来ない。
寝坊なんてするやつじゃない。約束を違えるやつでもない。それなのに、待てど暮らせど歩は来ない。俺はいよいよ痺れを切らし、歩の家まで迎えに行った。
「おーい。寝てんのかぁ?」
呼び鈴は壊れていた。何度か呼んでも返事がない。不躾なのは承知の上で、俺は縁側に回った。
この時の自分の判断を、俺は今でも悔いている。しかし、歩のためにどうするのが最良の選択だったのか。それは今でも分からないままだ。
まるで潮が引くように、蝉時雨は遥か彼方に遠のいた。押し殺したようなか細い悲鳴が、薄暗い室内に満ちていた。薄汚れた布団に横たわる歩の瞳は鈍く澱んでいた。一筋の涙が頬を伝った。
無我夢中だった。考えるより先に体が動いた。俺は、床に転がっていたビールの空き瓶を拾い上げ、歩を襲う獣の脳天に振り下ろした。
小刻みに痙攣を繰り返す四つ脚の獣の下敷きから、歩はようやく這い出した。痩せこけた白い体は痣だらけだった。
歩は、俺の取り落としたビール瓶を手に取った。赤黒い血と髪の毛が、瓶の底にべったりとこびり付いていた。刹那、歩は静かに息を止め、それを大きく振り上げた。
ぐしゃり。骨のひしゃげる音がする。肉片と血飛沫を浴びながら、歩は再び腕を振り上げた。
どす黒い血の海に沈んだそれは、ぴくりとも動かなくなった。割れて飛び散ったガラスの破片が、血に濡れて鈍く光っていた。
「……おい」
呆然と立ち尽くす俺に、歩が言う。ぞっとするほど冷たく落ち着いた声だった。
「これでおれを殴れ」
歩はガラスの灰皿を俺の前に突き出した。
「な……なに、言ってんだよ」
「お前が来た時には全部終わってた。おれが一人でしたことだ。お前は何も関わってない。いいな?」
「い、意味わかんねぇよ、なんだよそれ……」
「いいから早くしろ。おれを殴れ」
「で、でも……」
「手加減するなよ。本気でやれ」
「む、むりだよ、そんなの」
「早くしろ。頭のてっぺんをしっかり狙えよ」
「歩、」
「お願いだから。准……」
俺は灰皿を握りしめ、高く振り上げた。だけど、歩を殺すことなんてできない。本能が拒んだ。ぶちっ、と眼球の潰れる音がした。
歩は笑っていた。底なし沼のように昏く虚ろな瞳から、血の涙を流していた。歩の左目から光を奪った凶器が、血の海の底に沈んでいく。
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