好きです、先生

小貝川リン子

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 無事に前学期の授業が終わった。お盆中は五月の連休ぶりに帰省して、戻ってからは部活とバイトに精を出し、レポート課題を二本提出し、友達とプールに行き、先生とは海に行った。
 
 九月は二週間の免許合宿に参加した。有難いことに学部の二年生が取り仕切ってくれ、希望する一、二年生が参加する形だった。おれも同じクラスの友達と相談して申し込んだ。
 
「間違っても飲酒は駄目だからな」
「分かってるよ。大丈夫だから、心配しないで」
 
 早朝、二週間分の荷物を詰め込んだスーツケースを持ち、いざ出発。待ち合わせ場所まで行けば、そこから教習所まで送迎バスで送り届けてくれる。至れり尽くせりで、ちょっとした旅行気分である。
 
 向こうへ着いたら早速教習が始まる。学科は学校の授業と似たような感じ。もちろん運転もした。ビビりながら、最徐行でのろのろ走った。
 
 教習が終われば、これまたバスで宿泊施設まで送り届けてくれる。合宿所と呼ぶには申し訳ないくらい素敵な旅館だった。食堂のごはんは美味しいし、大浴場と露天風呂が付いている。部屋は六人の相部屋で、別のクラスのよく知らない奴もいたが、同じ学部の一年生同士すぐに打ち解けた。
 
 それからは教習の毎日だ。教室で学科を受け、コース内で自動車を運転し、お昼は教習所の食堂で食べ、空きコマを使って軽く観光をしたり、ご当地ラーメンを食べに行ったりもした。そんなこんなで早くも一週間が過ぎ、無事仮免許を取得することができた。
 
 翌日の午前中は教習が一コマしかなく、隙間時間が長かった。友人達は自転車を借りて出かけるそうだが、おれは気分が乗らず教習所に残った。待合室に置いてある漫画を片っ端から読んでいたが、それにも飽きてしまった。
 
 そういえば今日は日曜日だ。平日も休日もない生活だから、曜日感覚が薄れていた。日曜日の昼間なら、先生は今頃何をしているだろう。いつもならおれが作ったブランチを食べている頃だが……先生のことだから、きっとまたレトルトカレーとか冷凍パスタとかカップラーメンとかで手軽に済ましているのだろう。
 
 何となく、スマートフォンを手に取った。別に寂しいとかじゃなくて、一人ぼっちにされて暇だし、時間が有り余ってるから。と、誰に言うでもなく心の中で言い訳をして、先生のスマホに掛けた。先生はワンコールで電話に出た。
 
「電話なんて珍しいな。何かあったのか?」
「別に、何もないよ。今空きコマで暇だから」
 
 電話越しに聞く先生の声は普段と違う感じがして、まるで知らない男の人の声みたいだった。違和感もあるけど、新鮮で不思議な感じ。
 
 他の人の邪魔にならないよう、待合室から外の喫煙所に移動した。喫煙所といっても赤いバケツがどんと置いてあるだけで、分煙しようという意図はこれっぽっちもない。昼休みになると年配の教官などがやってきて煙草を吸っているが、今は誰もいない。静かだ。遠くに連なる山々が雄大で、気分までのんびりする。
 
「運転はそろそろ慣れたか?」
「うん、まぁね。昨日初めて外に出て走ったよ。夜でね、暗いんだけどライトが眩しくて、大変だった。あと友達がタヌキを轢きかけて危なかったって。おれは見なかったんだけど、結構出るらしいんだ」
「タヌキか。ちょうど今たぬきそばを食べてるぞ」
「あー、どうせインスタントでしょ」
「む。なぜ分かったんだ」
「だってこないだ、スーパーで安売りしてたからっていっぱい買い込んでたじゃん。それに先生、休みの日ってちゃんとごはん食べないし。どうせカップ麺とかで適当に済ましてるんだろうなぁって思ってたんだ。おれがいたらふわふわのスクランブルエッグ作ってあげたのに。残念だったね」
「カリカリベーコンも添えて?」
「うん。あとトマトも切ってあげる」
「……恋しいな」
 
 吐息交じりに先生が呟く。耳たぶがくすぐったい。
 
「……や、やだな、先生。そんなにおれに会いたいの?」
「まぁな。君の方こそ寂しいんじゃないのか。だから急に電話を掛けてきたんだろう」
 
 図星を突かれ、かっと頬が熱くなる。
 
「ち、違うよ! 別に寂しくなんかないし、そんなんじゃなくて……だってすごく暇なんだもん。みんなサイクリングに行っちゃっていないし、漫画も読み終わっちゃったし、それに先生が寂しがってるかと思って気を遣っただけで……」
「そうだな、俺は寂しいぞ」
 
 聞いたことのない切なげな声で言う。
 
「せんせ……」
「不思議なものだ。今までずっと一人で暮らしていたのに、君のいない部屋は酷くがらんとして見えるんだ。クイーンサイズのベッドに寝るのも、一人だと酷く寒々しくてな。何もないと寂しいから、クッションを置いて君の代わりにしているくらいだ。いい歳をして恥ずかしいな。まだ一週間しか経っていないというのに」
「……うそぉ」
「本当さ。しかしまぁ、君が友人達と楽しくやっているのなら良かった。そんなに楽しいなら、何も心配いらないな」
「う、うん。毎日楽しいよ」
「それじゃ、そろそろ」
「えっ、えっ、待ってよ、まだ時間あるよ」
 
 先生が突然電話を切ろうとするので、おれは慌てて止めた。
 
「どうした? 寂しさは大分紛れたから、わざわざ気を遣ってくれなくてもいいぞ」
「ち、違うよ、先生……ごめん、ほんとはおれも寂しいよ。ほんとは先生の声が聞きたくて電話したの。でもそんなの子供みたいで恥ずかしいでしょ? だから……」
「ふふ。ああ、分かってる。暁は嘘が下手だからな」
「あっ……なんだぁ、分かってて揶揄ったの? 先生、意地悪だ」
「最初に意地悪したのは君の方じゃないか」
「……そう? ごめん、傷付いた?」
「ああ。君はもう少し素直になるべきだな」
「素直に……?」
 
 急に言われてもぴんと来ない。とりあえず、今一番したいことを思い浮かべてみる。
 
「……会いたい」
 
 驚くほど素直な言葉が飛び出した。電話の向こうで、先生もびっくりしているようだった。
 
「……やっぱ今のなし」
「なぜだ!?」
「だって、今絶対引いたでしょ。子供みたいなこと言ってるって思った」
「思ってない! 純粋に嬉しかったぞ。俺も会いたい」
「……!」
 
 会いたいなんて、言うのも恥ずかしいけど言われるともっと恥ずかしい。しかも、面と向かって話すのとは違う感触がある。耳元で囁かれているように錯覚して、余計に恥ずかしい。背中がむず痒くなって、何となく口寂しい。
 
「――暁? 聞いてるのか?」
 
 先生の声に聞き惚れてぼんやりしていた。
 
「ごめん、何」
「いや、鐘の音が聞こえるような気がして。そろそろ休憩時間が終わるんじゃないか?」
 
 はっとして周囲を見回した。確かにチャイムが鳴っている。教習を終えた教官や生徒が続々と校舎に集まってくる。サイクリングに行っていた友人達も帰ってきたようだ。
 
「ごめん、先生。おれ行かなくちゃ」
「いってらっしゃい。気を付けてな」
 
 急いで電話を切った。
 
 
 
 それからさらに一週間が過ぎた。おれは無事に卒業検定に合格し、晴れて自動車学校を卒業した。行きと同様貸切バスで送迎してもらい、大学の駐車場で皆と別れた後、おれは脇目も振らずに先生の待つアパートへと帰った。
 
「ただいま!!」
 
 荷物なんか放り投げて、真っ先に先生の胸に飛び込む。先生は少しよろけたが、しっかりとおれを抱き止めてくれた。
 
「おかえり、暁。珍しいな、君から抱きついてくるなんて」
「だって……会いたくて」
 
 素直に言えた。先生も嬉しそう。
 
「そうか。俺も会いたかった」
「おかしいよね。たった二週間なのに」
 
 大人数で寝起きして毎日を忙しく過ごしていたのに、それなのに、ただ先生が傍にいない寂しさだけを拭い去れなかった。
 
「今までずっと、飽きるくらいずっと一緒にいたのに、まだ足りなかったのかな。おれ、自分がこんなに弱虫だったなんて、知らなかった」
「別におかしなことじゃないさ。俺だって同じだよ。さぁ、もっとよく顔を見せてくれ」
 
 顔を上げると目が合った。優しい目でじっと見つめられると、恥ずかしさと喜びが綯い交ぜになり、先生を抱きしめる腕にも自然と力が入る。
 
「せ、せんせ……あの……」
 
 唇が寂しくて、ねだるような形をしてしまう。顔を近付けようとしても、先生が屈んでくれないと届かない。
 
「せんせぇ……」
「どうした? したいことがあるなら、ちゃんと口で言いなさい」
「ぅ……だ、だから……その……」
 
 とても目を見ては言えず、俯いて呟いた。
 
「……ちゅーしたい」
 
 先生の手がおれの頬を優しく包む。そっと上を向かされて、キスされた。触れるだけの、柔らかくて温かくて甘いキス。うっとりして、心が解けていくような。
 
「っ……んっ……!?」
 
 しかし、そんな甘やかな時間も突如終わりを告げる。先生の舌が、唇を抉じ開けるようにして這入ってきた。肉厚の柔らかい舌が滑らかに動いている。口の中を触られて、舌を吸われる。どうしよう。どうしたらいいのか分からない。体が強張る。頭が沸騰しちゃいそう。
 
「ふ……ん、っ……んぅ、っ……」
 
 腰が抜ける。膝が震える。まともに立っていられない。なのに先生は放してくれず、崩れ落ちそうになるおれの体を抱き上げる。おれも一所懸命にしがみつく。先生の服が伸びてしまうのも構わずに縋り付く。
 
「んゃ……ふ、ぁぅ……」
 
 いよいよ本当に足腰が立たなくなった。自然と唇が離れ、唾液が糸を引く。視界が潤み、熱に浮かされたように頭がぼーっとする。自分が今どんな状態なのかも分からない。ただ一つ確かなのは、先生の腕に抱かれているということだけ……
 
 気付けばソファに寝かされていた。しかも先生の膝枕で。驚いて飛び起きる。
 
「おっと、急に起きたら危ないぞ。もう大丈夫そうか?」
「……何、おれ、どうしたの?」
「目を回していたから、こっちまで運んできたんだ」
「うそ……」
 
 まさかキスだけで腰を抜かして、その上目を回したなんて。恥ずかしいを通り越して情けなくすらある。先生も少し気まずそうな顔をする。
 
「ああいうキスは、まだちょっと早かったな」
「そんなこと……」
 
 ないとは言い切れない。実際、おれにはまだ早いのかも。普通のキスもようやく慣れてきたところなのに。
 
「ゆっくりでいいんだ。君のペースで。焦るつもりはないし、無理はさせたくない」
「無理なんてしてないよ。おれ、先生とするの好きだし」
「……そうか? でも、とにかく立ってするのはやめよう。危ないからな」
「じゃあどこでするの?」
 
 おれが訊くと、先生はゆっくりと口を開く。
 
「ここで」
 
 思わず目を瞑った。そっと唇が重なる。また舌が入ってくるのかと身構えたが、唇を軽く舐められただけで終わった。
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