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第二章 失恋
第二話 失恋②
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新卒で就職した会社を辞めた。転職先に彼がいたのは、本当に偶然だった。再び先輩後輩の関係になり、都合のいい考えだと思いながらも、運命のようなものを感じずにはいられなかった。
大人になってもまだ、彼は誰のものにもなっていなかった。きっと、未来永劫このままだ。そんな哀れな男を、一番近くで見守りたかった。ただ見ていたかったのだ。
まさか本当に、一度失った恋が戻ってくるなんて。誰が予想しただろう。きっと、彼自身でさえ想像しなかったに違いない。「昔馴染みと偶然会って、一緒に住むことになった」と彼は突然告げたのだ。
「偶然って……ていうか、昔馴染みって?」
あれから、過去の色恋の話はしていない。けれど、千里の脳裏にはどうしたって、あの時の会話が甦ってくる。
「はっきりとは教えらんねぇな。いくら森田相手でも」
そう告げた彼の表情は、かつて目にしたことがないものだった。よく見せる気怠げな笑みとは違う。パフェの一口目を食べた時の表情とも違う。夏空の下で陽光を散りばめたような、いや、それよりももっと眩しく、それでいて締まりのない、幸せそのものといった笑顔だった。
「一緒に、住むんスか……」
「だから、今までみたいに遅くまで飲んだりとかしなくなるかも。悪ぃな」
「いいっスよ、別に。あたしだって、独り身の先輩が寂しいだろうから、付き合ってあげてただけですし」
初めて分かった。過去に囚われて動けなかったのは、自分の方だったのだと。誰のものにもならない男を、そばで見守っていたかった。なんて、とんだ詭弁だ。本当はただ、彼のそばにいたかっただけ。理解者面して、寄り添っていたかっただけだ。
今更気づいて何になる。もう遅いのだ。何もかも。初めから手遅れだった。出会った時にはもう既に、彼の心は奪われていた。もう既に、他の誰かのものになってしまっていたのだから。
同居人は幼馴染で、恋人というわけではない。表向きにはそう説明されている。本当のことを知っているのは千里だけだ。彼が、一度失った恋を十年越しに取り戻したこと。あんな笑顔を見せるほど、同居人の幼馴染を愛していること。知っているのは千里だけ。
一目見ておきたいと思った。彼を選んだ人。彼の選んだ人。どんな顔をしているのか。一度彼を捨てたくせに、どの面下げて隣にいるのか。
だから、今回の飲み会は好機だった。酒は好きだが強くはない彼に、無理を言って飲ませた。案の定彼は酔い潰れ、家へと送っていく口実ができた。
新築のマンションというわけではなさそうだが、外観は十分に綺麗。ここが彼の──彼らの住処か。千鳥足の彼に肩を貸し、引きずるようにして階段を上った。
緊張で手が震える。呼び鈴を鳴らしたが応答はなく、出迎えがある前に彼が鍵を出してきたので、慎重に鍵穴を回してドアを開けた。
そこに立っていたのは、男だった。玄関ホールの温かみのある照明が照らすのは、恐ろしく整った顔立ちをした、男。紛れもない、男だ。
同居人。幼馴染。秘密の恋人。あいつは俺を置いていったし、俺もあいつを捨てた──あの日の彼の言葉を、今になって反芻する。散らばっていた記憶の断片が、一つの真実に結び付く。だから、彼は。きっと、ずっと……
引っ越してきて半年は経つはずだ。真っ新だったはずの部屋は、すっかり二人の色に染まっている。
食器棚には、ペアのグラスやマグカップ。椅子が二つ、クッションも二つ。男二人で使うのに十分なサイズのソファまで。灰皿が目立つところに置かれているのは、彼もまた喫煙者であること、あるいは、水島が煙草を吸うことを容認していることを示しているようで、千里はどんな気持ちになればいいのか分からなくなった。
「あっちが寝室っスか。ドア開けましょうか」
見苦しい欲が出た。二人の関係を決定づける場所。ここまで来たら、全てを見ておきたいと思った。
「ここでいい。ベッドが汚れる」
そう言って彼は断ったが、あえて理由をつけて断る辺り、いかにも見られたくないものを隠していますという風で、千里はますます、心の置きどころを見失った。
幼馴染というからには、水島と同い年くらいだろう。背はすらりと高く、手足なんかもすらりと長く、しかし水島と比べると色々と小ぶりで、バランスよくまとまっている印象を受けた。どちらかといえば彼が女役なのだろうかなんて、行儀のいいことではないと分かっていながら、そんな想像を掻き立てられた。
本当に、彼が水島を幸せにできるのか。そんなこと、確認するまでもない。現にそうなっているのだから。千里にも、過去に付き合った女達にも、会社の同僚にも、誰にもできなかったことを、彼は一人で、あっという間にやってのけた。彼のあの笑顔を引き出すことができるのは、きっとこの人しかいないのだ。
「なぁ、森田。こないだは手間かけて悪かったな」
休憩中、屋外の簡易喫煙所で水島が言った。
「わざわざうちまで送ってくれてさ。遠回りだったろ」
千里は、缶コーヒーに口をつけて答える。
「先輩がどんなとこに住んでるのか、興味あったんで。今度ごはんでも奢ってくださいよ」
「何の変哲もねぇアパートだったろ? んなおもしれぇもんでもねぇって」
「そうっスかね? あたし的には、結構いいもん見れましたけど」
水島は、若干苦い顔をする。それは決して、煙草の味のせいだけではないだろう。
「そりゃまぁ、多少は驚きましたけどね。先輩のいい人が、まさかあんな……」
美しい男だったなんて。端整だとか美丈夫だとか、そんな言葉はこの人のためにあるのだろうと思わせるような、そんな人だったなんて。
「心配しなくても、口外はしませんよ。そこは信用してください。先輩が公表する気になったら、その時は分かりませんけど」
蒼い煙を吐いて、水島は軽く笑う。
「そこんとこは、俺も心配してねぇよ。森田は信用できるやつだって分かってるし」
「おだてても何も出ませんよ」
「実際そうだろ。俺がわざわざ釘刺さなくても、お前誰にも言いふらしたりとかしてねぇじゃん」
「……それはまぁ、そうっスけど」
彼の醸し出す独特の雰囲気。親しみやすく、人懐こいとさえ感じさせる雰囲気は、彼の恋愛対象が極めて狭い範囲に限定されていたからこそだったのだ。言うなれば、女同士の気安さに似ている。それでいて、女を女として尊重するような態度も見せるので、余計に質が悪い。彼にどこまで自覚があったかは不明だが。
かつて、彼に女として見られていないと嘆いていた彼女がいたが、それもそのはずだ。何も嘆くことはない。誰も彼も平等に、恋愛対象として見られてはいなかったのだから。
「……森田さ、あいつに会ったんだよな?」
言いにくそうにしながら、水島が口を開く。千里は頷いた。
「ええ、まぁ。協力してリビングまで運びましたよ」
「いやホント、お手数おかけしまして」
「あたしのこと、なんか言ってました?」
「後輩を名乗る女が送ってきたけど、どこの誰だってなことは聞かれたな」
「それで?」
「フツーに、大学からの後輩で~ってな話をして……って、俺のことはよくてさ。お前、あいつになんか言ったりした?」
「なんかって言われても困るっスよ」
「いや、それはさぁ……」
水島は、またも困ったように口籠る。煙草がどんどん短くなる。
「……大学時代、見境なしに女食ってたヤリチンクソ野郎だった話とか?」
千里が言えば、水島はぶわっと煙を吐き出し、大きく咽せた。
「おまっ、えっ、マジ……??」
「冗談っス」
「だよなぁ、焦ったぁ~。つか、マジで誤解だからね、それ。根も葉もない噂だから。あることないこと吹き込まないでください、ホントに」
「やだなぁ。そんなチャンス、もうなかなかないっスよ」
「チャンスってなんだよ。チャンスがありゃやんのかよ」
水島は、疲れごと吐き出すように溜め息をつき、吸殻を灰皿に投げ入れた。そういえば、彼の愛飲する煙草の銘柄が年明け頃から変わったことを、千里は今になって思い出した。
「まぁいいや。変なこと聞いたわ。忘れてくれ」
「そう言われると余計気になるんスけど」
「いいんだって。マジに大したことじゃねぇから。それより、飯どこ行きたいか考えといてよ。財布と相談にはなっちまうけど」
彼が腕時計を見ながら立ち上がる。その背中を追いかけて、千里もコーヒーを飲み干した。彼の奢りの缶コーヒーは、もうすっかり冷め切っていた。飲み慣れているはずのコーヒーの味が、鼻の奥にツンと来るほど苦かった。
大人になってもまだ、彼は誰のものにもなっていなかった。きっと、未来永劫このままだ。そんな哀れな男を、一番近くで見守りたかった。ただ見ていたかったのだ。
まさか本当に、一度失った恋が戻ってくるなんて。誰が予想しただろう。きっと、彼自身でさえ想像しなかったに違いない。「昔馴染みと偶然会って、一緒に住むことになった」と彼は突然告げたのだ。
「偶然って……ていうか、昔馴染みって?」
あれから、過去の色恋の話はしていない。けれど、千里の脳裏にはどうしたって、あの時の会話が甦ってくる。
「はっきりとは教えらんねぇな。いくら森田相手でも」
そう告げた彼の表情は、かつて目にしたことがないものだった。よく見せる気怠げな笑みとは違う。パフェの一口目を食べた時の表情とも違う。夏空の下で陽光を散りばめたような、いや、それよりももっと眩しく、それでいて締まりのない、幸せそのものといった笑顔だった。
「一緒に、住むんスか……」
「だから、今までみたいに遅くまで飲んだりとかしなくなるかも。悪ぃな」
「いいっスよ、別に。あたしだって、独り身の先輩が寂しいだろうから、付き合ってあげてただけですし」
初めて分かった。過去に囚われて動けなかったのは、自分の方だったのだと。誰のものにもならない男を、そばで見守っていたかった。なんて、とんだ詭弁だ。本当はただ、彼のそばにいたかっただけ。理解者面して、寄り添っていたかっただけだ。
今更気づいて何になる。もう遅いのだ。何もかも。初めから手遅れだった。出会った時にはもう既に、彼の心は奪われていた。もう既に、他の誰かのものになってしまっていたのだから。
同居人は幼馴染で、恋人というわけではない。表向きにはそう説明されている。本当のことを知っているのは千里だけだ。彼が、一度失った恋を十年越しに取り戻したこと。あんな笑顔を見せるほど、同居人の幼馴染を愛していること。知っているのは千里だけ。
一目見ておきたいと思った。彼を選んだ人。彼の選んだ人。どんな顔をしているのか。一度彼を捨てたくせに、どの面下げて隣にいるのか。
だから、今回の飲み会は好機だった。酒は好きだが強くはない彼に、無理を言って飲ませた。案の定彼は酔い潰れ、家へと送っていく口実ができた。
新築のマンションというわけではなさそうだが、外観は十分に綺麗。ここが彼の──彼らの住処か。千鳥足の彼に肩を貸し、引きずるようにして階段を上った。
緊張で手が震える。呼び鈴を鳴らしたが応答はなく、出迎えがある前に彼が鍵を出してきたので、慎重に鍵穴を回してドアを開けた。
そこに立っていたのは、男だった。玄関ホールの温かみのある照明が照らすのは、恐ろしく整った顔立ちをした、男。紛れもない、男だ。
同居人。幼馴染。秘密の恋人。あいつは俺を置いていったし、俺もあいつを捨てた──あの日の彼の言葉を、今になって反芻する。散らばっていた記憶の断片が、一つの真実に結び付く。だから、彼は。きっと、ずっと……
引っ越してきて半年は経つはずだ。真っ新だったはずの部屋は、すっかり二人の色に染まっている。
食器棚には、ペアのグラスやマグカップ。椅子が二つ、クッションも二つ。男二人で使うのに十分なサイズのソファまで。灰皿が目立つところに置かれているのは、彼もまた喫煙者であること、あるいは、水島が煙草を吸うことを容認していることを示しているようで、千里はどんな気持ちになればいいのか分からなくなった。
「あっちが寝室っスか。ドア開けましょうか」
見苦しい欲が出た。二人の関係を決定づける場所。ここまで来たら、全てを見ておきたいと思った。
「ここでいい。ベッドが汚れる」
そう言って彼は断ったが、あえて理由をつけて断る辺り、いかにも見られたくないものを隠していますという風で、千里はますます、心の置きどころを見失った。
幼馴染というからには、水島と同い年くらいだろう。背はすらりと高く、手足なんかもすらりと長く、しかし水島と比べると色々と小ぶりで、バランスよくまとまっている印象を受けた。どちらかといえば彼が女役なのだろうかなんて、行儀のいいことではないと分かっていながら、そんな想像を掻き立てられた。
本当に、彼が水島を幸せにできるのか。そんなこと、確認するまでもない。現にそうなっているのだから。千里にも、過去に付き合った女達にも、会社の同僚にも、誰にもできなかったことを、彼は一人で、あっという間にやってのけた。彼のあの笑顔を引き出すことができるのは、きっとこの人しかいないのだ。
「なぁ、森田。こないだは手間かけて悪かったな」
休憩中、屋外の簡易喫煙所で水島が言った。
「わざわざうちまで送ってくれてさ。遠回りだったろ」
千里は、缶コーヒーに口をつけて答える。
「先輩がどんなとこに住んでるのか、興味あったんで。今度ごはんでも奢ってくださいよ」
「何の変哲もねぇアパートだったろ? んなおもしれぇもんでもねぇって」
「そうっスかね? あたし的には、結構いいもん見れましたけど」
水島は、若干苦い顔をする。それは決して、煙草の味のせいだけではないだろう。
「そりゃまぁ、多少は驚きましたけどね。先輩のいい人が、まさかあんな……」
美しい男だったなんて。端整だとか美丈夫だとか、そんな言葉はこの人のためにあるのだろうと思わせるような、そんな人だったなんて。
「心配しなくても、口外はしませんよ。そこは信用してください。先輩が公表する気になったら、その時は分かりませんけど」
蒼い煙を吐いて、水島は軽く笑う。
「そこんとこは、俺も心配してねぇよ。森田は信用できるやつだって分かってるし」
「おだてても何も出ませんよ」
「実際そうだろ。俺がわざわざ釘刺さなくても、お前誰にも言いふらしたりとかしてねぇじゃん」
「……それはまぁ、そうっスけど」
彼の醸し出す独特の雰囲気。親しみやすく、人懐こいとさえ感じさせる雰囲気は、彼の恋愛対象が極めて狭い範囲に限定されていたからこそだったのだ。言うなれば、女同士の気安さに似ている。それでいて、女を女として尊重するような態度も見せるので、余計に質が悪い。彼にどこまで自覚があったかは不明だが。
かつて、彼に女として見られていないと嘆いていた彼女がいたが、それもそのはずだ。何も嘆くことはない。誰も彼も平等に、恋愛対象として見られてはいなかったのだから。
「……森田さ、あいつに会ったんだよな?」
言いにくそうにしながら、水島が口を開く。千里は頷いた。
「ええ、まぁ。協力してリビングまで運びましたよ」
「いやホント、お手数おかけしまして」
「あたしのこと、なんか言ってました?」
「後輩を名乗る女が送ってきたけど、どこの誰だってなことは聞かれたな」
「それで?」
「フツーに、大学からの後輩で~ってな話をして……って、俺のことはよくてさ。お前、あいつになんか言ったりした?」
「なんかって言われても困るっスよ」
「いや、それはさぁ……」
水島は、またも困ったように口籠る。煙草がどんどん短くなる。
「……大学時代、見境なしに女食ってたヤリチンクソ野郎だった話とか?」
千里が言えば、水島はぶわっと煙を吐き出し、大きく咽せた。
「おまっ、えっ、マジ……??」
「冗談っス」
「だよなぁ、焦ったぁ~。つか、マジで誤解だからね、それ。根も葉もない噂だから。あることないこと吹き込まないでください、ホントに」
「やだなぁ。そんなチャンス、もうなかなかないっスよ」
「チャンスってなんだよ。チャンスがありゃやんのかよ」
水島は、疲れごと吐き出すように溜め息をつき、吸殻を灰皿に投げ入れた。そういえば、彼の愛飲する煙草の銘柄が年明け頃から変わったことを、千里は今になって思い出した。
「まぁいいや。変なこと聞いたわ。忘れてくれ」
「そう言われると余計気になるんスけど」
「いいんだって。マジに大したことじゃねぇから。それより、飯どこ行きたいか考えといてよ。財布と相談にはなっちまうけど」
彼が腕時計を見ながら立ち上がる。その背中を追いかけて、千里もコーヒーを飲み干した。彼の奢りの缶コーヒーは、もうすっかり冷め切っていた。飲み慣れているはずのコーヒーの味が、鼻の奥にツンと来るほど苦かった。
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