逃避行~15の夏~

小貝川リン子

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第二章

 夜になり、シャワーを借りた。狭苦しいユニットバスだ。蛇口を捻ると、冷水が噴き出した。
 尻の割れ目に、そっと指を這わせる。ぐっと指を押し込めば、どろりと汚濁が溢れた。唇を噛みしめながら、奥に出されたそれを、ゆっくりと掻き出していく。ぐちゅ、ぬちゅ、と嫌な音が浴室に響く。己の体が響かせているなんて、そんな屈辱を直視したくなくて、伊槻は目を瞑った。
 本当は、もっと早く洗い流したかった。あの男の精液を、いつまでも胎内に留めたままにしておくなんて、気が狂いそうになる。シャワーを浴びてから、ホテルを出ればよかった。あの時は、そんな余裕はなかった。一刻も早く逃げ出したくて、解放されたくて、そのことだけを必死に考えていた。
 
「っく、……ん゛っ……」
 
 爪でナカを傷付けた。引っ掻いてしまった。白く濁った粘液に血の赤が混ざり、太腿を伝い流れ落ちる。ごぼごぼと音を立て、排水口に流れ込む。螺旋を描いて落ちていく。汚れてしまったものの全てが、底の見えない深い穴、深淵へ吸い込まれていく。
 
「おい、大丈夫かよ」
 
 浴室のドアが勢いよく開いた。どうしてか、視界が歪み、傾いていた。迅は腕まくりをし、浴槽に倒れていた伊槻を抱き上げた。シャワーの冷水は、いつの間にか温水に変わっていた。
 
「ぁ……おれ……」
「貧血か? しょうがねぇやつだな」
 
 バスタオルを取ってくれようとする迅に、伊槻はびしょ濡れのまま抱きついた。迅は困惑しながらも、あやすように撫でてくれた。その手が温かくて、優しくて、でもなぜか哀しくて、泣きたくなった。
 
 
 
「少しは落ち着いたかよ」
 
 バスルームから引っ張り出され、強制的に布団へ入れられた。迅がシャワーを浴びている間に、体は温まり、頭は冷えた。恥ずかしくなって、伊槻は何も答えずに、寝返りを打った。
 迅はきっと見たはずだ。尻のあわいを濡らす粘液。汚濁にまみれた下半身。傷だらけのこの体を。それでも何も言わず、汚れた体をタオルで拭き、ドライヤーで髪を乾かし、新しい服を着せて、布団へ寝かせた。
 迅がどうしてこうするのか、伊槻には分からなかった。優しくされて、腹が立った。それと同時に、嬉しかった。優しくされて、素直に喜んでいる自分がいることを、今はまだ認めたくなかった。
 目が覚めると、時刻は夜更け過ぎだった。迅はまだ起きていて、炬燵に当たっていた。電気が消え、ストーブも消されている中、ちらちらと燃える煙草の火だけが温かく、切なく感じられた。
 
「……なぁ」
 
 伊槻が言うと、迅は驚いて振り返り、火を消した。ステンレス製の灰皿に煙草を押し当てる。ジュ、と火の消える音がした。
 
「まだ起きてんの。とっとと寝とけ、病人」
「キスして」
 
 伊槻自身、何を言っているのか分からなかったが、迅はもっと驚いただろう。たった今火を消したばかりの煙草を、再び咥えた。
 
「なにバカなこと言ってんの? なんで俺が、んなことしなきゃなんねぇんだよ」
「してよ。キス」
「あのなぁ」
「……迅」
 
 初めて、名前を呼んだ。咥え煙草がぽとりと落ちる。
 
「迅」
 
 もう一度、名前を呼ぶ。不思議と舌に馴染んだ。
 迅が布団を覗き込む。こうして見下ろされるのは、初めてじゃない。けれど、伊槻が思っている以上に、この光景を知っている気がした。
 そっと唇が触れる。ちゅ、と軽いリップ音を鳴らして、すぐに離れた。味も何も分からなかった。
 もう一度、迅の顔が近づいてくる。伊槻は目を瞑る。そっと唇が重なって、今度はすぐには離れていかない。触れては離れ、離れては触れて、何度も角度を変えながら、唇を啄まれる。
 ちゅ、ちゅ、と音が響く。体がじんと熱くなる。薄く口を開くと、それに誘われるようにして、優しい舌が入ってくる。
 しなやかな長い舌が、口腔内を丁寧に辿る。歯列をなぞり、上顎を撫で、舌の付け根をくすぐられる。伊槻も自ら舌を伸ばし、迅の舌に絡ませた。
 ほろ苦い吐息が、唇を濡らす。唾液が甘やかに交錯し、舌がじんわり痺れていく。熱い唾液が喉を通り、胸の奥を疼かせる。
 
「んっ……ぅ……」
 
 伊槻は迅の手を握り、胸元へと導いた。服の上から、薄い胸を弄られる。指先が胸の尖りを掠め、喉が震えた。
 口づけが深くなる。喉の奥まで探られる。唇も、舌も、浅く喘ぐ吐息までをも食べられてしまうような、深い口づけだった。
 
「ぁ……っふ……」
 
 息継ぎしたくて身を捩るが、すぐに呼吸を奪われる。胸の尖りを引っ掻かれ、体が敏感に反応する。
 こんな感覚は初めてだった。舌の動き、指の動き、頬に触れる微かな吐息。彼の一挙手一投足に、敏感に反応してしまう。
 どうしようもなく震える体を、優しく押さえ付けられる。体の奥底から込み上げる未知の感覚に翻弄されながら、男の重みに身を任せ、優しい愛撫に身を委ねて──すると突然、全身を貫く電流が走った。
 
「っ……ん゛んぅ゛────!!」
 
 頭が真っ白になった。抗おうなどと考えることすらできないままに、イかされた。絶頂の波が引かないうちに、痛いほど尖り立った乳首を抓られ、唾液ごと舌を吸われて、再び甘イキさせられた。
 
「ん、ッ……ふぁ、……っ」
 
 たった今まで一つに溶け合っていた唇と舌を繋いで、唾液が濃厚に糸を引く。うっすらと目を開けると、視界は涙にぼやけていた。カーテンの隙間から街灯が差し込んで、部屋全体が底光りしたように、ぼんやりと白んでいた。
 迅の手がそっと目元を覆う。伊槻は自然と目を閉じる。子供をあやすように、優しく頭を撫でられる。何度か繰り返されるうち、いつしか眠りに落ちていた。
 
 
 
 次に目を覚ました時、外は明るくなっていた。迅は炬燵で眠っていた。冬眠中の熊のように、大きな背中をゆっくり上下させている。
 そっと近づいて、顔を覗き込んだ。起きている時よりも、幾分子供っぽく見えた。なんて、一回り以上も年下のガキに言われたくはないだろうが。
 昨日の、あのキス。自分でも恐ろしくなるくらい気持ちよかった。輪郭を失ってしまいそうなほど心地よかった。全て初めて体験するものだったのに、なぜかひどく懐かしかった。
 実際、この男とキスをするのは初めてではない。けれど、伊槻の知るもっとずっと昔から、知っている気がした。唇の甘さ、舌の優しさ、味や匂い、睫毛の羽ばたきに至るまで。これら全てが、かつては伊槻の全てだった。
 ぴくりと瞼が動いた。迅がゆっくりと目を開けた。伊槻をじっと見つめていた。
 
「……あおい?」
 
 そう呟いて、ぎゅっと目元を押さえる。次に伊槻を見た時には、いつも通りの、飄々として捉えどころのない表情に戻っていた。
 
「どう、具合は」
「……だいぶいい」
「そ。よかったな」
「……」
「学校は」
「ん……今日は行く」
「朝飯食うか。一応炊き立てだぜ」
 
 伊槻は、立ち上がろうとした迅の腕を引いた。
 
「……伊槻」
「は?」
「おれの名前」
「……」
 
 それを聞いて、迅は複雑な顔をした。哀しいような、安堵したような、そんな表情だった。
 
「じゃあ逆に、お前はなんで俺の名前知ってたわけ」
「それは……前の時に、免許証見て」
「ああ、そういや財布漁ってたな」
「……ごめん、なさい」
「別にいいけどよ。次はやんなよ」
 
 迅は伊槻の頭を撫で、今度こそ立ち上がった。くしゃくしゃに撫で回されて、髪が乱された。
 頭を撫でてくれる手付き、甘いキス、優しい愛撫。どれもこれも、泣きたいくらい懐かしく感じられるのは、“あおい”のせいなのだろうか。
 迅にあんな顔をさせているのは、それも全て“あおい”なのだろうか。目覚めの瞬間、伊槻の姿を瞳に映したあの瞬間、動揺と喜びが綯い交ぜになったのを、伊槻は見逃さなかった。伊槻の名前を耳にした、あの複雑な表情も、全て“あおい”のせいなのか。
 “あおい”って、何者なのだろう。どこの誰で、男なのか女なのか、歳はいくつなのか、恋人なのか家族なのか。そんな疑問を、伊槻は一つとして口にすることができなかった。
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